その日、2年B組の森村亜美は元気がなかった。
親しい友人たちが気づかったが、彼女は自室に閉じこもってしまった。
もう夕方で薄暗くなっていた室内だが、亜美は照明もつけずベッドの上に腰掛けていた。
もう泣き疲れたのか、流す涙も涸れていた。

「ごめんなさい、お父さん、お母さん……」

少女は力なくつぶやくと、手にした手紙を軽く握った。
それからおもむろに立ち上がり、机の上にあった二枚の便箋を指でなぞる。
そして聞き取りにくいほどの小さな声を出した。

「……ごめん、真弓……」

彼女は、友人への謝罪の言葉を口にすると、ゆっくりと踏み台の上に上がった。

* - * - * - * - * - * - * - * - *

阿乃世島。
東京から南南東へ358.4Km離れたところに伊豆諸島八丈島がある。
そこからさらに110Kmの南に位置しているのが、かの島である。
伊豆諸島最南端にある小さな島で、もっとも近い青ヶ島でさえ40Km近く離れている。

10年ほど前、伊豆火山帯の海底火山の噴火によりいきなり海中から出現した新島であった。
調査の結果、この島は火山島ではあるが、実際にはもう数万年前から活動していない休火山と
いうことが判明した。
縦5.1Km、横3.2Kmほどの島で、面積だけなら青ヶ島より一回り大きいが、島のほぼ
中央部に双子山と呼ばれる標高200mほどの山がそびえ立ち、人が住める平野部はほとんど
なかった。
しかし、理由は不明だが清水の湧き出る泉がふたつほどあり、それが充分に飲料用として使える
ことがわかった。

そこで国土交通省が、漁船等の退避港や観測所として使おうとしてコンクリートの基礎打ちして
港を作りかけたところで、折からの予算不足の煽りを受けて計画が頓挫してしまう。
そこを、ある民間法人が買い取ったのである。
学校法人であった。

スパルタ学園高等学校。
一部教育関係者にその名を知られた日本随一の進学校である。
世間的に知られた国公立、私立の有名進学校よりも遙かに高レベルの教育を施し、100%の
進学率はもちろん、70%以上を東大や京大など旧帝大系へ合格させている。
残りも、いわゆる有名私大や医大へ送り込む。
当然、全員が現役合格である。
例え卒業単位をすべて獲得していても、大学受験を失敗すると留年になってしまうのである。
基本的に滑り止めでレベルを落とした大学を受けるということも認められていない。
すべて一発勝負で志望校をゲットしなければならないのだ。

そのスパルタ学園が本拠として選んだのが、この島であった。
外部から完全に遮断され、しかも豊かな自然に恵まれた最高の環境というわけだ。
島の真ん中にある双子山のひとつを削って平野を作り、そこに各施設を建設したのである。

学園は、入学試験に合格しさえすれば、どんな生徒も引き受けた。
その上で確実に有名大学に合格させるというので、成績は悪くないが素行に問題がある子供を
抱えた親たちは歓迎した。
もちろん私立学校であるし、入学金や授業料はかなり高額だが、文句のつけようもない実績を
残しているのでどこからも批判はない。
ここへ入学させさえすれば子供の将来は安泰と親は安心したが、「理想的な学習環境」である
として送り込まれた子供は「見ると聞くでは大違い」を実感させられることとなる。
阿乃世島は「あのせじま」と呼ぶのが正式だが、学園の生徒たちは誰もそう呼ばない。
一度入ったら娑婆に戻れない「あのよじま」と呼び慣わしていた。

* - * - * - * - * - * - * - * - *

学園校舎一階にある保健室。
そこで若いふたりの女性が談笑していた。
ひとりはこの学園に配属されたばかりの保健医・若月香織、24歳。
もうひとりは体育教師の夏綿けい子、25歳。
ふたりには共通した秘密がある。
彼女らは「けっこう仮面」であった。

けっこう仮面−スパルタ学園内に出没する謎の美女である。
学園サイドの不正を暴き、その悪行を絶つべく奮闘する正義の味方といったところだ。
学園にとっては天敵だが、生徒たちにとっては窮地を救われることが多いため、絶大な人気と
支持を得ている。
生徒だけでなく、一部の教師や職員たちにも密かなファンがいた。
学園長の横暴を快く思わない連中はもちろんだが、そうでない男性でも関心を寄せる者が多い。
なぜなら、彼女「けっこう仮面」は、顔を真っ赤なマスクで覆っただけのオールヌードだった
からだ。
全裸でヌンチャクを武器に戦い、悪漢を叩きのめす。
その姿が何ともエロティックであり、邪な思いを抱く者も少なくないのだ。

けい子は2年前にこの学園に派遣されてきている。
けっこう仮面たちのリーダー的存在であり、こうして新人へフォローするのも彼女の役割で
ある。

「若月先生はどうしてここへ?」

ベリーショートの髪型で、体育教師という職業柄か、ジャージ姿でいることが多い。
本来なら野暮ったいスタイルであるのに、バストもヒップも充分以上に盛り上がっている素晴
らしいプロポーションがそうと感じさせなかった。
キリッとした美人だがいたって気さくで、学園内の教師の中では生徒の人気はダントツだ。

香織は、地毛がブラウンで、ロングの髪をポニー・テールでまとめている。
近視のため地味めのメガネを愛用しているが、愛くるしい表情を隠すものではなかった。
服装はブラウスにタイトスカート、白衣の上着というのが定番スタイルである。
これも職業柄やむを得ないが、白衣姿というのはけっこうそそるものだ。
しかも、けい子と同様、抜群の肢体を持っているため、白衣の胸を盛り上がらせている膨らみ
や、スカートの上からもはっきりわかるヒップの形で、これも校内の男を刺激して止まない。

「お金です」
「お金?」
「はい」

香織は笑って答えた。

「早くお金を貯めて小さな医院を建てたいんです」

なんでも彼女の生まれが山村で、いわゆる無医村らしい。
そこに早く医院を作って、自分が赴任するという夢のために学園の、そして文科省の依頼を
受けたのだ。

「夏綿先生もずいぶん貰ってるんでしょう?」
「まあね」

けい子は苦笑して言った。
夏綿けい子はA級ライセンスを持つ教師である。

文部科学省は、一向に収まらない学校内暴力、いじめ問題、学級崩壊、そして学力低下に対抗
する手段のひとつとして教師の能力向上を目指した。
その対策が教師のライセンス制度である。

このライセンスは、下からD、C、B、Aがある。
四年制大学の教育学部を卒業したばかりの新人教師は無条件でDである。
そして最低1年以上専門科目の授業を担当し、クラス担任を経験した上で文科省の試験に合格
すればCになれる。
さらにCライセンスを持ち、担当学級の生徒が規定以上の学力をクリアしており、自分の専門
科目以外でも授業を持てる力があればBに上がれる。
無論、ここにも試験はある。
クラスBは一般校の、学年主任、教頭レベルだとされている。
通常の教師はほとんどC止まりであり、よくてもBだ。

しかしこの上にAライセンスというものがある。
これは専門科目の指導レベルが抜群であり、かつそれ以外の科目についてもすべてBランクの
資格を持つ教師にのみ与えられる称号だ。
しかも教育委員会の推薦も必要で、これらの条件をすべて満たさねばならない。
よってA級ライセンスを持っている教師などというのは日本全国で20名いるかいないかなの
である。
スパルタ学園のウリは、そのA級ライセンス教師を8名も抱えているところにあり、けい子も
そのひとりなのだ。
月給は通常校の教師の3倍は優に超え、賞与も合わせれば、年収は普通の教員の4倍近くにも
なる。

「来てみてどうだった、ここは? びっくりした?」
「はい、ちょっと」
「どんなところ?」
「ええ、名前が「スパルタ学園」だったでしょう? おっかなびっくりでした」

スパルタ学園という名前から受けるイメージは、めちゃくちゃに厳しい指導、教育という印象
がある。
香織もそう思っていたのだが、まったく違っていた。
確かに厳しい教育ではあるが、厳しいという意味合いが異なっていた。

そもそも、スパルタ教育のスパルタというのは、古代ギリシャのスパルタのことだ。
スパルタは圧倒的少数派のドーリア人が、先住民を支配した都市国家である。
普通なら数で潰されてしまうところだろうが、彼らはそれを未然に防ぐことに成功する。
それは、徹底的に身体を鍛え上げ、強靱な肉体を作ることであった。

7歳になったら家庭から引き離されて30歳まで共同生活を送り、ありとあらゆる手段で身体を
鍛えて強くさせられる。
これは男女の区別はない。
無論、格闘技も強いだろうし、武器の使いこなしも卓越している。
そして何より、原住民が逆らう気力を失うほどの圧倒的な筋肉を身につけた。
これによって、「スパルタ人に逆らうとひどい目に遭う」と思わせたわけだ。
平均的なおとなしい日本人が、怒り心頭のシュワルツェネッガーを目の前にして彼に逆らえるか、
ということである。

つまり、スパルタ教育とはただ闇雲に厳しいだけの教育という意味ではない。
本来は、周囲に文句を言わせないほどのレベルを目指して行なう教育のことなのである。
スパルタ学園のパンフレットにもこうある。
「いかに厳しく指導しようとも結果が出なければスパルタの称号はふさわしくありません。
当学園は、日本で初めて「スパルタ」の名前に値する学校と自負しております」。
確かにこの学園は、厳しいだけでなく結果も出しているのは事実である。

香織が言いにくそうに口を開けた。

「あと、昨日の事件も……」
「ああ……。自殺ね」

答えるけい子の顔も暗い。
この学園は生徒を親元から引き離し(離島にあるのだから当然だが)、学生寮に住まわせて
いる。
これだけなら他の学校でもあることだが、スパルタ学園が徹底しているのは、ここに入学したら
最後、卒業するまでは決してこの島を離れることができないという点にある。
生徒たちが「一回来たら娑婆へ帰れぬあの世島」と言っているのもこのことだ。

ちなみにこの学園には長期の休みはない。
いわゆる夏休みや冬休みはないのだ。
3学期制ではあるが、学期が変わる時の休みというのはない。
代わりに各中間試験、学期末試験の前にそれぞれ一週間の休みがある。
しかし、試験前なのであるから試験勉強するしかなく、しないとしても島から離れられないの
だからどうしようもない。
学園側の言い分としては、校内も寮も完全冷暖房なのだから、寒暑を理由に勉学が捗らないと
いうことはない。
だから夏期休暇や冬期休暇の必要はないとしているのだ。

これは教師も同様だが、教師や職員の場合、自分の担当教科やクラス運営の支障にならなけ
れば、有給休暇をやりくりして最大一週間の休みは認められている。
それでも島から離れるのは年に一度だけとされているし、試験休みの時は生徒のために補習
したり、逃げ出す生徒の監視をするのが普通だから、こちらも滅多なことでは帰郷できないのだ。

そんな中だから、生徒が思い悩み、絶望し、行き詰まって自らの命を絶つことも少なくなかった。
教師は厳しく、生徒同士もライバルである。
身近に相談する相手がいない者は、思い詰めて自殺する場合も多い。
公表されてはいないが、スパルタ学園では、年間自殺者が実に10名を超える。生徒数は、学年
2クラスで1クラス30名が原則だから、全校でも180名前後である。
その中で10名以上も自殺者が出るのだから異常と言わねばならないが、問題視されることは
なかった。

生徒の親は、入学させる際に、学園に対する委任状と誓約書を書かされるのだ。
その中の項目で、仮に在学中に事故、自傷行為、あるいは自殺等で生徒が死亡することがあって
も告訴はしない、というものがある。
つまり親は、子供が自殺するかも知れないのを承知で入学させているということを認めてしまっ
ているのだ。
もちろん文部科学省も、あまり不自然に自殺者が多いのは困るという抗議をしてはいるが、厳しい
指導に耐えきれない生徒が自殺するのはやむを得ないと諦めているフシもあった。
それを覚悟で生徒も入学してくるのだから、という学園の主張も認めないわけにはいかなかっ
たのだ。
だいいち、スパルタ学園以外の学校でも、多かれ少なかれ自殺者は出るのだ。

「そう言うときの相談役って、ここにはいなかったからね」
「でも、夏綿先生なんかは割と相談されてたんじゃなかったですか?」
「そうなんだけど、数が多いしね……。私にも授業はあるし、あまり時間が取れなかったのよね」

生徒にとって「話せる先生」というのは、この学園にはほとんどいない。
けい子はその数少ないひとりなのだ。

「でも若月先生が来てくれて助かったわ。保健医だけでなくカウンセラーの資格もあるって聞い
たし」

香織が急遽保健医として呼ばれたのも、実はそれが大きかった。
一向に減らない自殺者に、さすがに文科省も無視できなくなったらしい。
暗にスパルタ学園へ「自殺者減少の対策」をとるように示唆したのである。
数々の特権を省から得ているだけに、学園側もこの要請は断り切れなかった。
よって、それまでの保健医を解任し、臨床心理士の資格もあり、保健医というより医師としても
優秀な香織を引き抜いたのだ。

「昨日の……2−Bの森村亜美さんだったかな、彼女のことはわからなかったわ」
「そうですか……」
「同じクラスの真弓くんとは仲が良かったみたいで、彼女には話していたみたいなんだけどね
……。まさか飛び降りちゃうとはね……」
「……え?」

黙ってけい子の言葉を聞いていた香織は耳を疑った。

「あの、飛び降りちゃうって……」
「え? ああ、この島は自殺の名所みたいなところがあるのよ。島の西側に切り立った岸壁が
あってね、そこから海へ飛び込んじゃう子が多くて」
「そ、それで森村さんもそうだと?」
「ええ、そう聞いてるわ。もちろん見たわけじゃないけど」
「……」

香織が、形の綺麗な眉を寄せて何か考えていた。
左手を口に当てて、少し首を傾げた。
不思議に思ったけい子が聞く。

「……どうかした?」
「ええ……」

香織は両手を膝に置いて話し始めた。

「実は私、昨日、森村さんの遺体を見てるんです」
「え、そうなの?」
「はい。夕べの、というより今朝方の3時頃なんですが……」

職員寮で眠っていたところを叩き起こされ、寝ぼけ眼で駆けつけると、横たわった少女がそこ
にいた。

「それ、どこ?」
「学生寮です。森村さんの自室だと思いましたけど」

香織が調べてみると、すでに心肺機能が停止して死亡しており、もうどうにもならなかった。
死後硬直の具合から判断するに、死亡して3〜4時間というところらしい。
遺体発見が午前2時40分だそうだから、前日深夜の11時前後に死んだということになる。
けい子は息を飲んで聞いた。

「そ、それで死因はわかった?」
「え、ええ……。縊死です」
「そんなバカな……」
「バカなって、なんです? だって私が部屋に行った時にも、首をつるのに使ったらしいロープ
もありましたし、森村さんの頸にはロープで絞まった跡もありましたよ」

けい子は組んだ脚を解き、口を押さえて小さく震えている。
香織は顔を近づけ、声を潜めて聞いた。

「どうしたんですか先生? 何がおかしいんですか?」

美貌の体育教師も保健医に顔を寄せ、小声で言った。

「全身打撲じゃなかったのね?」
「全身打撲? いいえ違いますよ、間違いなくロープ状のもので頸を絞められたものです」
「……今朝の職員会議で学園長から森村さんの自殺が報告されたんだけど、死因は全身打撲って
言ってたわ」
「ええ?」
「例の岸壁で飛び込み自殺だって。正確には頭蓋骨骨折による脳挫傷と多臓器破裂だって聞いた
のよ」

今度は香織が驚く番である。
保健医は少し慌てたように言った。

「そ、そんなことありませんよ! さっきも言ったけど、私、森村さんの遺体を見てます。
だけど、そんな外傷はありませんでしたよ。頸に絞まった青痣があるだけで、あとは綺麗だった
と思います。もちろん服を脱がせて全身くまなく見たわけじゃないですけど、飛び降り自殺の遺体
じゃなかったですよ」
「傷ついた身体を縫い合わせたりした跡もなかったわよね?」
「あるわけないですよ。だって警備員の人が私を呼びに来た時「たった今発見されたところだ」
って言ってましたもの。だいいち、脳挫傷起こすほどの傷が頭にあれば、気が付かないわけない
じゃないですか」
「……」

その通りである。
そんなことはプロの香織じゃなく、けい子が見たって判断がつくだろう。
頭蓋骨陥没骨折にしろ、内臓破裂にしろ、飛び込みの際に岩などで傷ついたもののはずである。
ならば身体中傷だらけだろうし、頭にしろ身体にしろ、全身血まみれだったに違いない。
なのに香織が見た遺体は綺麗なもので、着ていた制服すら破れも汚れもしていなかったのである。

「何かあるわね……」

顎に手をやったけい子の目が光った。

* - * - * - * - * - * - * - * - *

高橋真弓が医学部の校舎に侵入したのは、森村亜美自殺の翌日夜のことだった。
スパルタ学園は高等学校のみだから、大学医学部などもちろんない。
あるのは医療系大学進学コースである。
医大や大学医学部を目指す生徒のみを集めた特別クラスであり、スパルタ学園内でもエリート
の集団である。
一般生徒たちは、彼らのことを「医学部」と称していた。
授業内容も、通常の生徒たちが3年間で学ぶ事柄は2学年の2学期ですべて修了し、あとは卒業
まで医学部入学のための受験勉強および入学後の「予習」を行なうとされている。

医学部は、学生寮こそ一般生徒たちと同じだが、校舎は別棟である。
わずか20名しかいないにも関わらず、その施設は残り180名の生徒たちが学ぶ校舎とほぼ
同じ規模であった。
これは医大と見まがうような医療設備を完備しているせいである。
放射線医療室や手術室、ダミーの病室まであるのだ。
もちろん彼らが手術などをするわけはないが、動物の解剖などは行なっているようだ。

「ようだ」というのは不明だからであり、医学部のやっていることが他の生徒に知らされること
はない。
だからこそ様々な憶測があり、噂の中には「人間の生体解剖をやっているのではないか」などと
いう不謹慎なものまであった。

そんな感じだから、一般生徒が医学部の校舎に入ることはまずなかった。
近づくことすら恐々という印象がある。
この日の真弓も、震える脚を必死に支えてここまでやってきたのだ。
すべて、親友の森村亜美のことを調べるためである。

真弓には、亜美が死んだことが信じられなかった。
いや、確かに悩んでいて「死にたい」とまで言ってはいた。
だから彼女もかなり心配はしていたのだ。
だから今朝、ホームルームで担任教師から亜美の自殺を伝えられると、大きなショックとともに
「やっぱり」という思いと、止められなかったという悔いが襲ってきた。
が、その死因を聞いて納得がいかなかった。
あの崖から飛び込み自殺なんてあり得ない。
百歩譲って亜美が本当に自殺したとしても、飛び降りだけはないはずだ。

「……」

ショートボブの髪がかかる額に、緊張のための冷や汗が少し浮いている。
その髪はダークブラウンというよりはほぼ完全な茶色である。
といって染めているわけではない。
学園は毛染めもピアスも禁止されている。
全体的に小作りではあるが、17歳という年齢にふさわしいだけの女らしい体つきをしていた。
おとなしく控えめなこともあって、あまり表に出る娘ではないが、その清楚な美貌から隠れ
ファンが多いらしい。

その美少女は、何度も入り口を覗き見、辺りを警戒し、10分ほどもうろうろしてからようやく
ドアに手を掛けた。

「!」

開いた。
もう午後9時過ぎだし、鍵がかかっているかと思ったのだ。
もしそうだったら諦めようと思っていたが、こうなると中に入るしかない。
どうしたわけか警備員もいないようだった。

足音を忍ばせて廊下を進んでいく。
音を立てないようにと、革靴ではなくスニーカーを履いてきていた。
内部はもう暗く、ほとんど照明は点いていなかった。
足元の常備灯が頼りである。
もっとも、明るい部屋は人がいるということだから入れるわけもない。

初めて入った医学部の校舎で、どこへ行けばいいかわからなかったが、ぼんやりとグリーンの
灯りが目に入った。
その下に白く大きなプレートがあった。
凝視して見ると、棟内の案内図であった。
しめたと思って近づき、非常階段を示すグリーンの室内灯にかざして確認する。

「ここ……」

真弓はある部屋表示を指差した。
遺体安置室。
ここに違いない。
自殺者の遺体は、本土の親元へ届けられるまでの間、医学部校舎に安置されると聞いている。
だとすれば、亜美の遺体があるのもここであろう。

「地下1階……」

少女は目指す場所をつぶやくと、まっすぐ階段に向かった。
一般校舎と違ってここにはエレベータもあるが、それを使えば見つかってしまうだろう。
真弓は「ここまで来たのだから」とはやる心を落ち着かせ、慎重に階下へ降っていく。
遺体安置室はすぐに見つかった。
扉に鍵はなく、軽く押せば観音開きになる。

「ひ……」

真弓は出来るだけそっと開けたつもりだったが、それでもギィィッという蝶番が軋む小さな音
がした。
思わずビクッとなり、慌てて周囲を見回したが、室内には当然だれもおらず、誰かやってくる
気配もなかった。
少女はホッとして親友を捜しにかかった。

「……」

どこにもいない。
というより、どこにあるのかわからない。
室内は殺風景で、なんだか冷凍庫のような感じだ。
冷房が入っているのだろうが、それにしても寒かった。

調べていくと、部屋の奥にそれこそ冷凍庫の扉のようなものがいくつもあった。
悪い予感がしたが、真弓は思い切ってそこを開けてみた。
レバーをぐいと引くとロックが外れ、中からガラガラッと担架のようなものが引きずり出されて
きた。

「きゃあああああっっ!!」

それを見た真弓は魂がひしゃげるような悲鳴を上げた。
遺体が出てきたのだ。
半透明のビニールシートに覆われた冷たい遺体だった。
腰を抜かした真弓が、リノリウムの冷たい床にぺたりと座り込んだのと同時に、後ろの扉が開
いた。

「ひっ……」

続けざまの衝撃で、少女は喉から掠れるような悲鳴を洩らした。
バタン、バタンと開閉を繰り返す扉の前に、長身の男が立っていた。
真弓はその男を知っていた。

「せ、瀬戸口教授……」

医学部担任教師の瀬戸口章介。
まだ31歳と若いが、国立医大の教授を務めていた。
だからなのか、それとも他の教師たちとの差別化なのか、生徒も職員も彼のことは「瀬戸口先生」
とは呼ばず、「瀬戸口教授」とか、単に「教授」と呼んでいた。
両親ともに医師で、父は衆議院議員というサラブレッドであり、本人も極めて有能だった。
しかし能力があるというだけでは、若干30歳での教授昇進はあり得ないだろう。
彼は親のコネも自分の実力も存分に使って出世を重ねてきたのである。
そこを、医療進学クラス発足にあたり、スパルタ学園に引っこ抜かれたのだ。

将来の医局長および医大総長、そして国会議員を目指している彼にとって、本来ならそんな
寄り道は無視したいところだが、ここの学園長がどういうコネを使ったのか、彼の両親を説得
したのである。
瀬戸口は渋ったが、文部科学省や厚生労働省からもそれとなく打診があり、挙げ句、彼の在籍
する医大の方も、復帰した暁には相応のポストを用意しておくという内諾までしてきた。
こうなると彼も邪険には出来ない。
それに、親はともかく省庁や医大まで動かしていると見られるこの学園および学園長に興味も
持った。
そこで、第一期生卒業までの3年間という期間限定でこの話を受けたのである。

「きみは?」
「2、2年B組の高橋真弓です……」
「一般生徒か……」

医学部にも女子学生はいる。
彼女らかと思っていたのだが違ったようだ。

「2年B組?」

瀬戸口は「うん?」という顔になる。

「2−Bと言えば、今朝方の……」
「そ、そうです。亜美ちゃんの……森村亜美と同じクラスです!」

ようやく立ち上がった少女は、青年医学博士と対峙した。
すらりとした長身で、ほとんど贅肉がないように見える。
ルックスも、鼻筋がきりっと通っていて目元も涼しげ、喋る時に時折覗く歯も真っ白で、いか
にもというハンサムだ。
しかも、人当たりは極めて良く、物腰が柔らかい。
但し、これは一般生徒や職員たちの評価で、医学部内ではまた見方が異なっている。
女生徒にも人気の若手教授が言った。

「なるほど。で、彼女に会いに来たというわけだね?」
「そうです」
「それにしても、黙ってこっそりというのは感心しないね。これじゃ不法侵入だ」
「……」
「だいいち、何も今夜でなくとも明後日には学園葬があるじゃないか。その時にご遺体と対面
できるはずだよ」
「だけど!」

真弓は詰問するように瀬戸口に迫った。

「だけど、いつも火葬してしまうじゃないですか! 遺体と対面と言ったって、あれじゃお骨
です!」
「そりゃあ仕方がないだろう」

瀬戸口は肩をすくめて言った。

「きみも彼女の死因は聞いているだろう。崖下に飛び込み自殺だったんだよ。友人のきみの前で
こんなことは言いたくないが、彼女の遺体はそりゃもうひどい有り様で……」
「やめてっ」

真弓は顔をぶるぶる震わせて彼の言葉を遮った。

「そんなのウソです!」
「ウソ?」
「亜美にそんなこと出来るはずがありません!」
「……ほう。なぜそう言えるんだね?」
「だって……、だって亜美は高いところがダメだったんです」

森村亜美はひどい高所恐怖症だったのである。
それは極端なほどで、2年になって校舎の2階に教室が移った時でも、絶対に窓際の席には行か
なかったくらいなのだ。
学生寮も2階の部屋があてがわれると、真っ青になって真弓に相談した。
事情を知った真弓とふたりで寮の舎監や担任教師を半ば拝み倒し、1階に移してもらった経緯が
あるくらいだ。

真弓には信じられなかったが、何でも亜美は高いところから下を見下ろすと目眩がし、ひどい時は
失神してしまうのだそうだ。
そのくらい病的な高所恐怖症だった彼女が、飛び降り自殺するとはとても思えないのだ。首をつる
とか睡眠薬を使うとか手首を切ったとかならわからないでもないが、飛び降り自殺だけはないはずだ。
そう言うと、瀬戸口は口をすぼませてつぶやいた。

「なるほど、そうだったんですか……」

瀬戸口は少し意表を突かれたような表情をしたが、すぐに真弓に柔らかい笑みを向けた。

「しかし、それがどうしたというんです?」
「ど、どうしたって……」
「首をつろうが飛び降りしようが、はたまた睡眠薬で自殺しようが、死んでしまったことに変わりは
ないじゃないですか」
「……」
「いいですか」

若い教授は目の前の女子高生に、噛んで含めるように諭し始めた。

「人は死んでしまえばみな同じです」
「でも……」

抗議しようとした少女を手で制し、話を続ける。

「確かに、自殺だと思っていたのが他殺だったとか事故死だったとか言うのなら話は別ですよ。
これはきちんと調べなければならない」
「……」
「病死にしてもそうです。原因を探る必要はありますよね。しかしですね、今回の森村くんの
場合は間違いなく自殺なんです。他殺や事故死の疑いはまずない。だったら、その死因が縊死
だろうが中毒死だろうが、何でもいいではありませんか」
「そんなことありません!」
「なぜです? 人は死ねばそれっきりです。死んだ者は決して生き返りません。であるならば、
自殺とはっきりわかっているなら、その死因はさして重要でないと思うのですが」
「違う……違いますっ」
「……」

瀬戸口は「やれやれ」と思っている。
彼には真弓のような考え方が理解できないのだ。
感情に走りすぎ、余計なことや知らないでいいこと、いや、知ってはいけないことに顔を突っ
込む。
理知的、合理主義を標榜するエリート教授は、彼女がなんでそんなことに拘るのかさっぱり
わからなかった。

「亜美に……、亜美に会わせてください」

とうとう真弓は泣き出した。

「どんな……、どんな姿でもいいです。遺体を焼く前に会わせてくださいっ。じゃないと、私、
帰りません!」
「き、きみ……」

瀬戸口は慌てて真弓を宥めだした。
このまま大声で泣かれていたら、誰か聞きつけるかも知れない。
学部内の生徒ならともかく、警備員にバレたら言い訳が面倒である。
それに、彼と医学部の秘密を知っているのはごく一部だけなのだ。

「わかった、わかった」
「え……?」
「負けたよ、彼女の遺体を見せてあげるから泣きやんでくれ」
「ほ、本当ですか!?」

瀬戸口は渋々うなずいた。
こうでも言うしか黙らせる方法がない。
不安の中にも、友人に会えるという希望を抱いた瞳の真弓を、瀬戸口は冷たい目で見ていた。

* - * - * - * - * - * - * - * - *

3分後、瀬戸口教授と高橋真弓は1階の隅にある部屋にいた。
「処置室」と書かれたプレートのドアを開けると、ここもひんやりとしていた。
二十畳ほどの広い部屋で、真弓などにはわからない様々な医療器具や機械が所狭しと並んでいた。

その部屋の中央に金属製のベッドらしきものがある。
きちんと4本の手足が乗る台が別れており、それが自在に動くようだった。
その隣に、これも金属製の移動寝台があった。
そこには白シーツを被せられた何かがある。
そこへ歩いていく瀬戸口の後ろを、恐る恐る真弓がついていく。
青年はシーツを少し剥がして、その下に横たわるものを見せた。

「亜美……!!」

まさしく自殺した森村亜美がそこにいた。
着衣は脱がされているらしく、剥き出しの肩が青白く冷たそうで、確かに亡くなっていることに
間違いはなさそうだった。
思わず駆け寄ろうとした少女の肩を掴んで瀬戸口が言った。

「ほら、森村亜美に間違いないだろう。亡くなっていることもわかるはずだ」
「は、離して! 離してくださいっ!」
「いかん。遺体に触れてはだめだ」
「どうして!?」

言われて真弓は気づいた。
亜美の顔は綺麗なままではないか。
頭蓋骨骨折とか言っていたが、頭の形もそのままだ。

「教授! やっぱり飛び込み自殺なんてウソなんですね!?」
「……」
「どうして……どうしてそんなウソをっ!」
「きみには関係ない」
「そんな……。……あ」

少女は自分を睨む冷酷そうな視線にたじろいだ。

「やむを得なかったとはいえ、きみは知ってはならないことを知ってしまった」
「……」
「さて、どうしてくれようかね。このまま帰すわけには行かなくなったね」
「……」
「ここで見たことを黙っていてくれれば……いや、今晩ここへ来たことを黙っていてくれる
かね?」

真弓はキッとして瀬戸口を睨みつけた。

「そっ、そんなこと出来るはずありません!」
「……」
「な、何があったのか知りませんけど、亜美のご両親には本当のことを伝えてあげるべきです!
学園や教授が本当のことを言わないのなら、私がお話しますっ」
「では仕方がない」

瀬戸口は軽くため息をついて言った。

「きみが考え方を変えない限りここから出すわけにはいかん。ひどい目に遭いたくなければ……」
「おやめなさい」
「だっ、誰だ!?」

突然、背後からかかった声に、瀬戸口は腰が抜けるほど驚いた。
真弓はその声の主がわかるのか、喜色に溢れた声を上げた。

「おねえさま! けっこうのおねえさまっ」
「なに!? け、けっこう仮面か!」
「その通り」

振り向いた瀬戸口の正面に彼女は立っていた。

噂通りだった。
すらりとしたしなやかな体つき。
顔は真っ赤なマスクで隠されており、目以外はわからない。
そしてその顔の下はオールヌードであった。

目にも鮮やかなほどのスタイルの良さ。
神の造形物としか思えぬ、見事な形状のバスト。
かなりのサイズがあるようだが、ちっとも型くずれしていない。
若々しく張りのある乳房がツンと上を向いている。
くびれた腹部の肌がなんともなめらかそうである。
そしてグッと張り出した豊満なヒップは妖艶なほどだ。
脂の乗ったむちむちした太腿もたまらない。

脚に履いている、これも真っ赤なブーツが全裸でいるよりも過剰に色気を発していた。
首に巻いたマフラースカーフもいいアクセントになっている。
けぶるようなフェロモンを醸し出しているが、卑猥なそれではなく、むしろ健康的な色気に
昇華している。

瀬戸口はゴクリと生唾を飲んだ。
なるほど、これはたまらない。
なぜ全裸で登場するのかと思ったが、これなら男はけっこう仮面に見とれてしまい、一瞬以上
の隙が出来るのはやむを得まい。
恐らく彼女はそれを狙っているのだろう。

「自分たちの秘密を守るため、いたいけな少女に非道な振る舞いをしようとするなど、この
けっこう仮面が許しませんよ!」
「おねえさま!」
「真弓くん、ケガはない? もう大丈夫よ」

真弓は、またもけっこう仮面が助けに来てくれたという喜びで涙ぐみながら言った。

「けっこうのおねえさま、亜美の遺体が……」
「わかってるわ」

けっこう仮面は微笑んでうなずくと、一転、冷ややかな視線で瀬戸口を見た。

「それについては私も知りたいわね。瀬戸口教授、これは一体どういうことなの? 森村亜美
さんは飛び降り自殺と聞いているわ。でも、この遺体はどう見てもそうは見えないわね」
「……」
「まだあるわ。森村さんの首もとの傷はいったい何なの?」

言われて真弓は亜美の喉下を確認した。
なるほど、確かに傷がある。
絞まったような青黒い痕跡の他に、鎖骨の真ん中あたりからざっくりと切り開いたような傷跡が
見えた。
傷跡というよりは縫合した跡に見える。

「答えなさい!」

瀬戸口はさっと動き、真弓の後ろに回った。

「あっ!」
「真弓くん!」
「動くなっ」

若い教授は、手にした大型メスを少女の首筋に当てていた。
けっこう仮面は歯をぎりっと鳴らして言った。

「おやめなさい、教授。あなたも教育者なら生徒を人質に……」
「うるさいっ」

瀬戸口は大声で言った。

「動くなよ、けっこう仮面。ヘタに動けば高橋真弓の喉笛が鳴ることになるぞ」
「卑怯者……」

けっこう仮面は呻いたが、これでは手出しが出来ない。
悔しそうなけっこう仮面を見て、満足げに笑った瀬戸口は言った。

「そう、それでいい。おまえがおとなしくしてくれればこの娘に手は出さん」
「……」
「まずは武器を捨てろ。そしてその処置寝台に乗ってもらおうか。そう、そこだ」

けっこう仮面は言われた通り、ヌンチャクを床に落とした。
硬い樫製の両棍棒がカチャンと高い音を立てて転がった。
そしてゆっくりと亜美の遺体が乗っている寝台の隣にある変わったベッドに乗った。
分娩台に似ているが、手足が乗ると思われる箇所に拘束具らしいものがあるのが禍々しい。
ここに固定されたら反撃の手段がないと思ったが、真弓の首にメスが突きつけられている以上、
乗るよりほかに仕方がなかった。

「そうだ。そのまま乗れ。いや違う、うつぶせになるんだ」
「……」

けっこう仮面にとってもその方がよかった。
仰向けにさせられたら、秘園を晒すことになるからだ。

「あっ」

予想通り瀬戸口は、うつぶせになった美女の手足を皮製の手錠のような拘束具で固定した。
幅10センチほどのそれは、けっこう仮面の手首、足首をすっかり覆い隠し、しっかりと寝台に
固定された。
ここで瀬戸口はようやくホッとして、真弓を解放した。
少女はすぐさま自由を奪われた正義の美女に駆け寄り、涙ながらに謝罪した。

「ごめんなさい、おねえさま! 私のせいで……」
「いいのよ真弓くん、気にしないで。それより、あなたはもう戻りなさい」
「そう、もうきみは寮へ帰りたまえ」

けっこう仮面だけでなく瀬戸口もそう言った。
それを見て、拘束された美女が皮肉そうに言った。

「へえ、ちゃんと約束は守ってくれるわけね」
「当然だ」

瀬戸口が興味のあるのはけっこう仮面の方であり、真弓はどうでもよかった。
このまま真弓を拘禁した方がいいような気もしたが、生徒が何日も行方不明というのはまずい。
それならむしろ脅しをかけて帰してしまった方がいいだろうと判断した。
一方のけっこう仮面は、学園に於いてはもともと員数外なのだから、どうしようと思いのままだ。

瀬戸口は出来るだけドスを利かせ、酷薄そうな口調で真弓に言った。

「いいか。ここで見たこと、起こったことは他言無用だ。一切しゃべるな。おまえは今夜、ここ
には来なかったのだ、いいな?」
「……」
「おまえの名前もクラスもわかっている。もし一言でもしゃべったらタダでは済まさんぞ。それ
に、この哀れなけっこう仮面の命も保証できない」
「けっこうのおねえさま……」
「そうだ」

青年教授は大きくうなずいた。

「この女の……けっこう仮面の命はおまえにかかっているのだ。もしおまえが誰かにこのことを
しゃべれば、けっこう仮面の命はないものと思え」



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