学校法人スパルタ学園が伊豆諸島で持っている島はふたつある。
ひとつは、言うまでもなく「本島」と呼ばれている阿乃世島だ。
学園本部のある島である。
そこから東へ23キロほど離れた地点に、もうひとつ小さな島がある。
そこもスパルタ学園の持ち物だが、学校施設はなく、従って生徒、職員もいない。
しかし、人がいないわけではない。
若月香織は、ヘリでその島−咎島(とがじま)へ向かっていた。

「……」

彼女はスパルタ学園に赴任した保健室の医師であり、臨床心理士である。
そして、けっこう仮面でもあった。
香織は、学園を通してSSSに依頼され、この島に行くこととなった。

株式会社スパルタ・セキュリティ・サービス。
通称、SSS。
その名の通り、スパルタ学園の関連企業である。
名前からわかるように警備会社であった。
主に阿乃世島の学園施設の警備を受け持っている。

スパルタ学園は、その特殊性と秘められた内実とにより、迂闊に第三者を介入させたがらない。
そのため、こうした警備会社まで自前で持っているのである。
また、学園の知名度や学園長のコネなどにより、最近では本土での仕事も増えてきているようだ。

もちろんSSS内にも医務室はあるし、某医大付属病院から派遣された専属医もいるのだが、
今日はたまたま本院へ帰っているらしい。
医務室はその医師ひとりでこなしており、あとは事務員がいるだけなのだそうだ。
そんな中、折り悪くケガ人が出たらしい。

SSSは訓練の厳しいことで知られているから少々の怪我は付き物で、社員たちも応急処置
くらいは出来るらしいが、それでは対応しきれない負傷者が出たという。
そこでSSSから学園へ要請があり、香織が派遣されることになったのだ。
ヘリのパイロットから声が掛かった。

「先生、見えますか? あれが咎島です」

パイロットもSSSの制服を着用しているところを見ると警備員らしい。
言われて、香織が風防ガラスに顔を押しつけるように外を見ると、ぽつんと小さな島が見え
てきた。
島は本島の阿乃世島より一回り小さく、しかも西半分は森で覆われていた。
東方面に平野部があり、建物がいくつか建っている。
香織の視線に気づいたのか、パイロットが説明した。

「あの真ん中にある三階建ての建物が本社ビルです。地下にも一階あります。その東に見える
のが武道館兼屋内運動場ですね」
「あれは?」

建物の敷地から少し離れて、森の中を切り開いたスペースがあるのに気づき、香織が尋ねた。
パイロットはちらとそちらを見て答えた。

「ああ、あれは射撃場です」
「射撃場?」
「クレー射撃です。ご覧の通り、娯楽のない島ですからね。その代わり、周囲に気兼ねしない
で射撃が出来ます。まあ、海で泳ぐか、クレーでもやる以外、遊べることもないんで」
「そうですね」
「でも、遊びとはいえ、うちのクレー射撃部はけっこう有名なんですよ。国体でも常連ですから」
「そうなんですか」

学園内にはSSSの警備員があちこちにいる。
けっこう仮面活動でプラスになるかも知れぬと、香織はいろいろ尋ねた。

「どれくらい社員はいるんですか?」
「そうですね、警備員で120名くらいかな。そのうち80名はこの島で居住してます。お偉い
さんや事務員を除けば、みんな学園警備ですね」
「あら、残りの人たちは?」
「あとは本土です。こないだ東京支社と名古屋支社、大阪支社ができたばかりで、そっちの立ち
上げに行ってますよ」
「商売繁盛ですね。じゃあ、また社員が増えるのかしら」
「多分ね。社長も帰ってきたし……」
「あ、社長さん、今までいらっしゃらなかったんですか」
「ええ、海外研修で。あ、そろそろです。シートベルト締めてくださいね」

ヘリは降下に入っていた。
あっと言う間のフライトであった。

* - * - * - * - * - * - * - * - *

「学園長、阿久沢さんが見えました」
「うむ、通してくれ」

学園長がインターフォンにそう応えると、すぐにドアが開いた。
入ってきたのは、大柄な壮年の男だった。
学園長は立ち上がり、その男に近づくと右手を差し出した。

「よく帰った、阿久沢」
「ひさしぶりだな、学園長」

阿久沢鋭介、36歳。
SSS社長。
180センチの学園長より、さらに少し背が高い。
185くらいだろうか。
学園長も比較的がっしりした体つきだが、それを遙かに凌駕するものをこの男は持っていた。
ダーク・スーツに身を包んではいるものの、全身に力を込めたらスーツを引き裂いてしまい
そうな筋力を有していた。
首も太く、既製品のワイシャツでは収まらないに違いない。
首筋の筋肉もたくましかった。
髪はオールバックでまとめており、眉は太く、目つきが鋭かった。
薄めの唇が酷薄そうなイメージを与えている。

握手を交わすと、阿久沢は学園長に勧められソファに腰を下ろした。

「どうだった、FBIは」
「FBIはどうってことはなかったな。SASやGSG−9はまずまずだったがね。それで……」

阿久沢はおもむろに内ポケットからシガレット・ケースを取り出して、そこから一本抜き取って
口にくわえた。
学園長もそれにつられるように、ガラス・テーブルの上にある煙草入れからハバナを取り出した。

「……けっこう仮面の件と聞いたが」
「そうじゃ」

阿久沢はジッポで、学園長はダンヒルのライターでそれぞれの葉巻に火をつけた。
阿久沢のは細巻きのシガリロである。

「今まで雇った探偵や傭兵崩れどもはことごとく失敗しておる」
「だから言ったろう。なぜ最初から俺に依頼せん」
「ムリを言うな。おまえは昨日帰国したばかりだろうが。おまえ以外のSSSの連中じゃ頼りに
ならんわ」
「ふふ、よっぽど例の事件が堪えたようだな」
「その通りじゃ」

学園長は憤懣やるかたないといった口調で言った。
仮面を脱げば恐らく、苦虫を噛み潰したような顔をしていることだろう。
それほどに前回の事件、つまり医学部による自殺体解剖−遺体損壊事件は痛かったのである。

あれが明るみに出たことにより、学園のドル箱だった医療関係大学進学コースは取りつぶされ
てしまった。
表面的には自主的な無期限休校だが、実情は文科省の指導による閉鎖である。
コースがなくなったため、事件関係者以外の生徒たちは転校を余儀なくされ、彼らの保護者たち
に違約金を支払わなければならないハメに陥った。
入学金、授業料、教材費、そして多額の寄付金。
莫大な収入源だったはずの医学部が廃止となり、逆に大きな出費となってしまったのだ。

さらに大きかったのは、学園の名声に傷がついたことである。
学園がばらまいたカネと、手なずけておいた各省庁の官僚たちにより、事件が公になることだけ
は防げたが、スパルタ学園の名は地に落ちた。
今までの、援助金不正だの、生徒や教員の不祥事とはレベルが違った。
学園長も、文科省事務次官から「これ以上の隠蔽は不可能だ」とはっきり言われてしまった
くらいだ。

「ええいくそ、思い出すだに腹の立つ……」

学園長はそう言うと、火の着いたままの葉巻を握りつぶした。

「今度こそ! 今度こそやつを、けっこう仮面を引っ捕らえるのじゃ!」
「わかっているさ。で、けっこう仮面に関する資料は?」
「いくらでもあるわ」

学園長は立ち上がると、書架から数冊のファイルを持ち出し、デスクの引き出しからカタログ
封筒を3つほど取り出すと、無造作にテーブルへ投げ出した。
阿久沢はそれらの資料を端から目を通していった。
それを見ながら学園長が言う。

「学園としても、何度か調査はしたのじゃ」
「……調査とは?」
「うむ。この島には学園施設にしか人の住めるところはない。それでいて、何か事件があると
すぐにけっこう仮面はやって来おる。ということは、やつはこの島にいるとしか考えられん」
「それで?」
「やつが女だということはハッキリしておる。ならば、けっこう仮面はウチの女生徒か職員しか
あり得ないということになる」

そこで学園は、女生徒全員を講堂に集めて、一斉身体検査を始めると宣言したのである。
けっこう仮面の顔を確認した者はいない。
しかしその身体だけは誰でも知っているのだ。
ならば、容疑者−つまり女子生徒たちを裸に剥いてその肢体を確認すればよい。
無茶苦茶な理屈であり、そんなことがまかり通るはずもないのだが、ここはスパルタ学園で
ある。

それに、こんなことでけっこう仮面を見抜けるとは思っていない。
しかし、こういうことをやるとなれば、まず間違いなくけっこう仮面がしゃしゃり出てくる
であろう。
つまりは罠である。

「それでどうだった?」

阿久沢は書類から目を離さずに聞いた。

「案の定、けっこうのやつが現れよったわ。身体検査はすぐに中止し、我々はその場から逃げ
た。だが、それでいいのだ。これで、女生徒の中にはけっこう仮面はいないとわかったのだ
からな」

集められた女生徒の中に、けっこう仮面グループである紅恵、結花、千草の三人はいたが、
教師である夏綿けい子は入っていない。
つまりけい子がけっこう仮面になって乱入したのだ。

そうとは知らない学園側は、あとの容疑者は教職員であると判断した。
念のため、女生徒と女性教職員を全員集めて同じ事をやろうとしたのだ。
この中に確実にけっこう仮面はいるはずだし、そうならこの場にけっこう仮面は現れようが
ないはずだ。

「なのにやつは出てきたのじゃ!」

学園長は忌々しげにテーブルを拳で殴った。
阿久沢はちらと学園長の方を見て聞いた。

「間違いなく女は全員集めたのか?」
「ぬかりはない。女生徒は病欠していた者もムリヤリ連れてきたし、集めてから全員の点呼も
したわい。教職員についても同じじゃ。抗議はあったが、全員講堂に入れた。教師から事務員、
調理師見習いまで全員じゃ。なのに、けっこう仮面が出てきたのだ! こりゃいったいどういう
ことだ?」

こうなると学園サイドにはわけがわからなくなる。
島中の女を全部集めたのに、明らかに女性の肢体を持ったけっこう仮面が現れたのだ。

言うまでもなく、男装していた面光一がけっこう仮面として登場したのである。
さすがに女生徒が男装して学園に入っていたとは気づいていない。
阿久沢は念のために聞いた。

「島に人が暮らしている痕跡はないのか?」
「ない」

学園長はきっぱりと言った。

「山狩りもやったわい。もし野宿や野営でもしていれば、必ずその痕跡が残るはずじゃ。
それも一泊や二泊ではない。文字通り暮らしておるのなら、絶対にわかるはずなのだ」

人が暮らせば、食住の形跡は残る。
ゴミは出るし、排泄物の問題もある。
チェックしてわからないものではないのだ。
しかし阿乃世島には、学園施設以外に生活痕はなかった。

「どう考えても学園関係者としか思えんのだ。しかし容疑者がいない」
「そう言えば学園長」

阿久沢が言った。

「かつて、けっこう仮面を捕らえたことがあると聞いたが」
「うむ、ある。しかし、どれもすぐに逃げられてしまったわい。どのケースでも、グルグルに
縛り上げたり、厳重に警備しておったのに、見事に逃げられておる。……実はこないだの医学部
事件でも、けっこう仮面を捕まえておったらしい」
「ほう」
「……それも、三日間も監禁しておったらしい。まったく瀬戸口のやつめが、さっさと連絡して
おればよかったものを」
「待て」

警備会社の社長は目を剥いた。

「三日も捕らえていたのか? いったいどうやって?」
「わからんのじゃ、それが」

主犯の瀬戸口教授はけっこう仮面に頭を割られて重傷、意識を回復しないまま、乗り込んで
きた警察と救急隊員に収容されてしまった。
共犯の五人の生徒たちも、学園がろくに訊問しないうちに補導されてしまったのである。
その時点では、まだ学園は当局に通報していない。
真相を確認し、口裏を合わせてから連絡しようとしたのである。
これこそ離島の利点だったはずなのに、事件発覚から2時間もしないうちに近隣の青ヶ島駐在所
から警官が派遣されてきた。
さらに、警視庁のヘリが3時間かからずに本土から飛来してきている。
これでは学園も手の打ちようがなかった。

「瀬戸口は、けっこう仮面を捕まえて凌辱しておったらしい。それで手放すのが惜しくなって
こっちへ知らせなかったようじゃ。まったく、そんなことは俺に連絡を寄こしてからでもいくら
でもできたろう。第一、俺だってけっこうの身体を嬲ってやりたいと……」
「……」
「あ、いやいや、その、なんだ、そ、その時の写真が残っておったが、見るか?」
「写真?」

うっかり本音を言い出しそうになった学園長は慌ててその場を取り繕い、医学部事件のファイル
から数枚の写真を抜き出した。

「これじゃ。けっこう仮面の写真だな。だが、あのバカ、けっこうのマスクを着けさせたまま
犯しておったらしい。これじゃ何の手がかりにもならんわい」

阿久沢が手にとって見ると、けっこう仮面を凌辱しているシーンを撮影したものらしい。
学園長が言うところよると、現場にあったパソコンのHDDから取り出したのだそうだ。
デジカメか何かで撮影したものをセーブしたのだろうが、けっこう仮面が瀬戸口を叩きのめして
脱出した際、何台かあったパソコンもすべてぶち壊して行ったらしい。
そこから苦労してデータ復旧したものの中にこの画像が残っていたのである。

「……」

しかし、どの写真もけっこう仮面を特定する証拠とはなりそうもなかった。
すべての画像が、マスクをしたままのけっこう仮面だったからだ。
わかるのはその肢体だけである。
しかし、そもそもけっこう仮面の活躍する写真自体は、学園側がけっこう撮影していたので
ある。
今さらそんなものは何の足しにもならないであろう。
学園長が、改めてそれらの写真を眺めながら言った。

「まったくこんなもの、ただのエロ写真じゃわい。けっこう仮面が犯されてる場面なんぞ見ても
本人の特定ができん。うらやましいだけじゃ……」
「……」
「あ、いや、そうでなくてだな、これじゃしようがないと言うのじゃ。まったく、これなんぞ尻
のアップじゃぞ。あの変態、何を考えておったのか」

学園長は呆れたようにその写真を阿久沢に渡した。

「……」

写真いっぱいに、見事な肉付きのヒップが映っていた。
その尻たぶに手をかけて、ぐいと割り開いたところを撮影したようだ。
尻の谷間が剥き出しにされ、その奥の肛門がはっきりと見えた。
悪趣味きわまる写真だが、阿久沢はそれを両手で持って食い入るように見つめていた。
学園長は訝しげに言った。

「何じゃ? その尻の写真が気になるか?」
「……これは預かっていいか?」
「構わんが……おまえもそういう趣味なのか?」
「……」

阿久沢が何か言おうとした時、彼の携帯が鳴った。
短い会話を交わすと、阿久沢はタバコを押し消してスッと立ち上がった。
学園長もつられてたちあがって言った。

「もう行くのか? 電話はどこからじゃ?」
「熱低が来ているらしい。だんだん風が強くなってるらしいから、もうそろそろヘリを出した
いそうだ」
「なに、またか」

学園長は眉を八の字にした。
ここは南国で、気候は大変に良いが、唯一の欠点がこれなのだ。
台風が頻繁に来るのである。
これが来ると、海上、航空交通の一切が途絶されてしまう。
もっとも、滅多に学園を出ることはないから、あまり関係ないのではあるが。
そんな学園長を見て阿久沢が言った。

「どうも台風になりそうだ。俺はこのまま島へ戻る」
「そうか。阿久沢、くれぐれもよろしく頼む」
「わかっている」

* - * - * - * - * - * - * - * - *

「見ない方がいいですよ」

香織は治療しながらその警備員に言った。
ケガ自体はどうということはなかった。
裂傷であり、手術だ入院だと騒ぐものではない。
ただ縫合が必要で、当然それは素人では出来ない。
香織が呼ばれた所以であった。

「……」

警備員の長峰研一はそっと目を開けた。
見るなと言われると見たくなるものだ。
しかし、すぐ後悔した。
香織は研一の手を押さえ、何やらブラシのようなもので傷口を擦っていたのだ。
血だらけでグロかった。
すぐに目と閉じ、顔を逸らせた。
それに気づいた香織はクスリと笑った。

治療としては基本的なものだった。
局所麻酔をかけた上で、傷口を消毒する。
そしてブラシで傷口を洗浄した。
グラウンドで訓練中、転倒しての怪我だったらしい。
運悪く、そこにガラス片が落ちていたのである。
こういう場合、傷口に細かいガラス屑や砂、そして雑菌の入ることがいちばん怖い。
消毒液とブラシで徹底的に傷口を洗浄してから縫い合わせるのである。

「……」

いかに麻酔がかかっているとはいえ、傷口を擦られるのから痛い。
つい、手を引っ込めようとするのを、香織がギュッと握りしめていた。

ようやく洗浄が終わりホッとしていると、今度はチクリとする。
そして皮膚が引っ張られているような感覚がある。
恐らく出血しているだろうから見る気はないが、多分、縫合しているのであろう。
こちらはブラシに比べればだいぶ痛みはない。

香織は縫合を終えると傷口を丁寧に消毒、洗浄し、脱脂綿で拭き取った。
そして包帯で仕上げると、固く目をつむっている研一に声を掛けた。

「はい、おしまいです」
「あ、ありがとうございました」

緊張していたのか、肩から力が抜ける様子が微笑ましかった。
研一は包帯巻きされた右手を見ながら香織に聞いた。

「あの、これどのくらいで抜糸できますか?」
「そうね、一週間……いや10日くらいですね」
「そんなにかかるんですか」

驚く研一に香織が説明する。

「四針縫っただけですけど、場所が悪かったんですよ。これが腕だとか腿だとか、そういう
箇所なら3〜4日くらいでいいですけど、切ったのが関節部でしょう? よく動くところだし
肉がないから、どうしてもくっつくのに時間がかかっちゃうんです」

研一が傷を負ったのは、右手人差し指に付け根あたりである。
確かに、常に動いているようなところだし、肉も薄い。
くっつくまで時間がかかるというのは仕方がないのだろう。
ガッカリしたような顔をしている若い警備員に香織が言った。

「焦ってもしようがないですよ。ムリして傷が開いちゃったら、よけいに時間かかりますし」
「そうですね」
「ところで長峰さん、お若いですよね。もしかして……」
「はい、去年入ったばっかりの新米です」
「実は私もなんです。私の方が年くってますけどね」

そう言って香織は笑った。
聞いてみると20歳だそうである。
香織は24歳だ。

「ここって、まだあんまり知名度はないと思うんですけど、なんでSSSに入ろうと思った
んです?」
「ええ……」

研一が答えようとしたところでドアがガチャリと開いた。

「終わりましたか」

顔を覗かせたのはSSSの教育主任だった。
その顔を見た途端、研一はすっくと立ち上がり、敬礼した。

「ただいま終わりました!」
「よし。まだ傷口が腫れているだろうから、今日はもう訓練は中止してよし。寮へ戻れ」
「はっ」
「若月先生、ご苦労さまでした。ヘリの用意が出来てますので、どうぞ」
「あ、はい」

香織はそそくさと片づけを済ませ、部屋を出ようとすると、研一の元気のいいお礼の言葉が
響いた。

「ありがとうございました!」

* - * - * - * - * - * - * - * - *

香織は、まだまだ学園内のことをよく知らない。
仲間からレクチャーを受けるのが日課のようになっていた。
今日は紅恵が講師である。
保健室前にある大きな楡の木の木陰で話を聞いていた。
校庭で戯れていた数羽の鳩が、いつの間にか恵の足元に寄ってきている。
慣れているのか、人間を恐れるでもなく近寄り、とっとこ歩いていた。
恵が手にしてパン屑を投げてやると、大騒ぎしてついばみ合っている。

「内申書ですって?」
「ああ」

ベンチの上で、香織は少し驚いたような顔で言った。
表向き、内申書というのはすべての学校で無くなっているはずである。

「そうなんだけどな、裏ではあるんだよ。もっとも、これはウチに限ったこっちゃねえって、
けい子先生は言ってたぜ」

そう言って、恵は長い髪をうるさそうに払った。
紅恵、17歳。
スパルタ学園、2年A組の生徒である。
女生徒の中にけっこう仮面は三人いるが、そのうちのひとりであった。

「内申書って、いわゆる内申なの?」
「いや。内申書ってのは、テスト成績以外の「普段点」てやつだろ? 授業態度だとか素行
とかさ。まあそれに近いのもあるんだけど、実際は違うのさ」

香織はじっと恵を見つめた。
もともとは綺麗な質の良さそうな髪なのに、わざとバサッとさせて手入れをせず、伸ばすがまま
にしている。
ウルフカットと言えば言えるが、それにしては長い髪だ。
おまけに真っ赤に染めていた。
学園では染髪、ピアスは御法度だが、どうしたわけか、学園でただひとり、この紅恵だけは
うるさく言われないのである。
生徒同士という点では、恵のグループが怖いから口出し出来ないということはあるが、教員が
注意しないのは、学園七不思議のひとつとされている。

「ここのはね、授業態度だの出欠だのってのは二の次なのさ。素行の方に重点が置かれてる。
万引きだとか窃盗だとか、あるいは暴力行為とかな。他にも飲酒に喫煙、不純異性交遊って
のもあったな、なんでもありさ」
「へえ」
「それも教師どもだけじゃねえ。やつらもだいぶ貢献してるぜ」

そう言って恵は顎をしゃくった。
その先には、北門の守衛所とそこの警備員がいた。

「SSSの連中だよ。ふん、どうせ生徒の非行をでっち上げれば報奨金でも出るんじゃねえのか」
「……」

そのSSSの長峰研一を治療してきたばかりの香織は、少しだけつらそうな表情をした。
それには気づかず、恵は続けた。

「あたしは嫌いだな、やつら。あたしだけじゃないだろうけど。愛想のねえツラしてやがって、
だいたいあの制服もイヤなんだよな、兵隊みたいでさ」

SSSの制服はモスグリーンを基調にしている。
紺や黒などダーク系の色では生徒たちに威圧感を与えるというので柔らかい色調にしたらしい。
しかしデザインの方は、どう見ても軍服に近く、制帽も警官タイプのものではなくベレー帽に
しているため、余計に兵隊に見えた。
南の島の強い紫外線防止のためらしいが、全員がサングラスを着用しているのも異様な迫力が
ある。
これなら普通の警備員の格好の方がなんぼかマシというものだ。
香織は話題の矛先を元に戻して聞いた。

「でも、それなら普通の内申書だって、そういうのあるわよね」
「まあな。けど、他と決定的に違うのは、この内申書の素行不良の欄は、ほとんど全員の生徒が
何か書かれてるんだよ」
「え?」

それでは、生徒のほとんどが何かそういった軽犯罪行為をしているということなのだろうか。
香織がそういうと、恵は顔をしかめて首を振った。

「んなわけねえだろ」

恵がタバコをポケットから取り出してくわえると、香織はさっとそれを奪った。
普段の恵なら喧嘩腰になるところだが、なぜか香織に対してはそういう気になれなかった。
軽くため息をつくと、長い脚を伸ばして交互に組み合わせている。

恵はけい子よりも身長が高いが、スラリとした肢体で、大柄だという印象を与えない。
もっとも、本人は背が高いということを少し気にしているらしい。
普段は長いスカートを引きずっているため見えないが、多分、その脚も綺麗な形状を保って
いるに違いない。
出るところは出、締まるところは締まった女らしいプロポーションだが、特に胸が発達して
いた。
セーラー服の胸の部分が窮屈そうなくらいに盛り上がったバストであった。

「でっち上げなんだよ」
「え?」

恵の話によると、学園側が教師や職員、あるいは子飼いの生徒を使って、対象の生徒の軽犯罪
をでっち上げるというのである。

「じゃ、じゃあ冤罪? なんでそんな……」
「恐喝だよ、恐喝」

要するに、生徒の弱みを掴んでおく、ということらしいのだ。
実際に、学園内で窃盗したり、あるいはカンニングした現場を発見されればもちろんだが、
そうでない真面目な生徒に対しては、架空の素行不良を作り上げるらしい。

「いざという時に、生徒たちを自分たちの言いなりにしておくってことさ。例えば、年に何度か
PTA代表だの文部科学省の役人だのが、ここを視察しに来るだろ? その時、生徒が連中に
何か聞かれても、学園に不利なことを言ったりしないようにするんだろ」
「そんな……」
「こないだの医学部事件だってそうさ。補導された五人以外だって、他に気づいていたやつは
絶対いるぜ。けい子先生があんなひどい目に遭ってたんだからな。なのに、省や警察の捜査
でもダンマリや知らぬ存ぜぬだっただろ? そういうことさ」

信じられない。
ここは曲がりなりにも教育機関である。
そんな暴力団まがいのことがまかり通るのだろうか。
香織はすがるように恵に言った。

「でも……、でも、そんなの学園にいる間だけでしょ? 卒業してこの島を離れちゃったら、
そんなものに効力は……」
「ない、と思いたいだろうな、みんな」
「……」
「でもな、実は本当に効力を発揮するのは卒業したあとなんだよ」

恵の説明によるとこうである。
在学中はこの島から離れられないのだから、ほぼ学園が生徒の行動を掌握している。
しかしそれでは不十分だ。
違法行為、あるいは社会常識から見て看過できぬ行為を頻繁している自覚はあるから、学園と
しては生徒が卒業した後こそ不安なのだ。
学園の呪縛を離れ、鬱憤晴らしのようにべらべらやられては敵わない。
そこで効果があるのがこの内申書なのだ。

無論、卒業を前に学園から大学へ内申を知らされたら、ペーパーは合格していても面接以降で
蹴られてしまう。
天下のスパルタ学園から「素行不良」と言われたら、大学の方も二の足を踏む。
まず、そこでブレーキになる。
何とかそこをくぐり抜けても、大学を卒業し、企業へ勤める場合も、大学入試時とまったく
同じバイアスが学園からかかるわけだ。

「ひどい……。でも、大学四年間を無事に過ごして、会社や役所の採用試験に合格して勤めて
しまえば、もう大丈夫じゃないの?」

恵は、「甘い、甘い」と言いたげに、香織を見て言った。

「ダメなんだよ。確かに、いったん入社しちまえば、会社や役所の方じゃ、滅多なことじゃ
クビには出来ないんだろうよ。仮に学園が、でっち上げた冤罪を勤め先に洩らしても、別に
どうということはないんじゃないか? よく知らねえけど。他にも、中学や高校ん時に万引き
しただのカンニングしただのなんてのはゴロゴロいるだろうしよ」
「なら……」
「それがダメなのさ。あのな、学園の息がかかったやつらってのは、多分あたしたちが想像
してるよりずっと多いぜ」
「……」
「文科省はもちろんだけどな、それ以外の役所や大企業でも学園OBはいる。卒業したあとも
学園とつながって甘い汁を吸いたいと思ってるやつらもいるしな。そういう連中が学園の指示
を受けて、秘密を漏らしたやつを左遷したり降格したりする」
「……」
「よく知らないけど、3年くらい前に学園にねつ造された冤罪のことを口にしたOBがいた
らしい。そいつは、秘密を漏らした直後に左遷されて、ちっぽけな子会社に流されたってことだ。
ま、噂だけどね」

学園側が生徒たちへ意図的に流したデマ情報という可能性はあるが、実情が実情だけに真実味が
あった。
在校生たちへの無言の圧力には充分になるはずである。
最初は呆れたように聞いていた香織だが、段々と怖くなってきた。
ヤクザ顔負けというより、明らかにそれ以上の執念深さであろう。
香織は言った。

「でも、それじゃ……。それを摘発できないの?」
「出来ない。仮に……というより、ほとんどの生徒が冤罪だとは思うけど、みんな学園を怖がっ
て喋ろうとしないんだ。まさか、あたしはけっこう仮面だから何でも言いなさい、とは言えな
いしな」
「……」
「それに、けっこう仮面だと知ってもどうかな……。あたしらは六人しかいない。全部の生徒
をカバーすんのは不可能なんだよ」
「そうね……」

香織はそこで「あ」と何かに気づいた顔をした。

「私たちの仲間はどうなの? 千草さんとか結花さん、面さんにあなたは生徒じゃない。
あなたたちが仕掛けられたら……」
「ああ、いけると思うがね。けど、どういうわけか知らないけど、あいつらにはそういう
インネンをつけてくることはないんだそうだ」
「なぜ?」
「わからない。偶然だとは思うけどな。さっきも言ったが、ほとんどの生徒はやられてるが、
全員されてるわけでもないんだ。その区分けは何なのか、よくわからない」
「そう……。あの、恵さんは?」
「あたし?」

恵はきょとんとした顔で香織を見、そして笑い出した。

「あたしはムリさ。だって、何もそんなものでっち上げなくたって、マジでケンカしたり
カツアゲしたりしてんだから。内申なんか真っ赤だよ、どうせ。ねつ造するまでもないだろ」

恵が屈託なくおかしそうに笑うので、香織もつられて笑った。

けい子に聞いた話だが、紅恵は、さる会社の社長令嬢らしい。
教えてはくれなかったが、名前を言えば香織でも知っている大企業のようだ。
中学時代から素行不良で、暴走族グループに属し、学校でも暴れて、荒みきっていた娘に
ほとほと困った両親が送り込んだ先がここだったのだ。

ここで夏綿けい子に出会ったことで、恵は大きく変わっていった。
もともと金満家の親に反発してグレていただけで、根は素直で真面目な娘だった。
身体機能も抜群で運動能力はずば抜けていた。
スパルタ学園に入学したことを見ても、学業成績も極めて良かったのだ。

入学して、けい子に正され、思うところあって自省している時、彼女に学園の秘密とけっこう
仮面について知らされた。
そして勧誘されたのである。
初めて自分が必要とされていることを知り、恵はふたつ返事でけっこう仮面になることを
引き受けたのだ。

それでも恵は、学園でも不良グループを作り、そのヘッドに収まっていた。
何となくその方が落ち着くし、実は恵はかなりシャイなため、急に真面目な格好をすること
が照れくさかったのである。
そしてけい子はそれを「よし」とした。
もう恵は無茶なことはしないだろうという信頼もあったし、恵じゃないと出来ないことも
あったからだ。

普通の、真面目な生徒の様子は、千草や結花が調べられる。
男子生徒の動向は面光一が調査する。
だが学園の裏社会、籠もった裏面は、アンダーグラウンドの恵たちのような存在の方がやり
やすいのだ。

笑いを収めた恵が、真面目な顔で言った。

「……誰か、そういう目に遭うやつがいて、そいつが告発してくれないとあたしたちゃ動き
ようがないんだよ」
「……」

沈黙したふたりを驚かすように飛び込んできたのはけい子だった。

「ちょっと!!」
「わっ!」
「きゃっ」

夏綿けい子がベンチの後ろから顔を出すと、恵と香織は本当に心臓が飛び出すかと思う
くらいに驚いた。

「び、びっくりするじゃねえか、先生!」
「どうしたんですか?」

ふたりは棒立ちになって振り返った。
けい子は謝りもせず、矢継ぎ早に言った。

「真弓くんが!」
「真弓? 真弓がどうしたんだ!?」




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