「ここは……!」
香織は、研一に連れてこられた場所を見て仰天した。
「飛行場!?」
「……ああ、そうだ」
「あ、あなた操縦出来るの!?」
「……資格はある。が……」
「……」
「さすがにモルヒネが効いてきたよ。意識が朦朧としてきた」
「じゃあダメじゃないの!」
正気の沙汰とは思えなかった。
いくら研一が飛行機を操縦出来るとはいえ、もうすっかり暗くなっている。
おまけに腹に銃創を受けているのだ。
そのためモルヒネを使ったから、研一が言った通り、もうだいぶ眠くなっているだろう。
操縦している最中に気を失ったらおしまいではないか。
「ふん、思った通り警備はないな」
追いすがる香織を置いて、研一は傷口を押さえたまま滑走路に歩き出した。
滑走路といっても、ただの原っぱをならして臨時にこしらえたようなものだ。
ここにあるのは軽飛行機とヘリだけだから、そう長い滑走路は必要としないのだろう。
建物も、管制塔とは名ばかりの小さな小屋があるだけだ。
おまけに真っ暗である。
照明灯はあるのだが点灯していなかった。
台風の余波で、どこか配線が切れているかしているらしく、それをまだ修理しきれていない
ようだ。
研一は滑走路に青空駐機してある一機に向かった。
「ちょうどいいのがあるぞ。こいつなら操縦は簡単だ。シートも掛けてないし都合がいい」
「ちょっと待ってよ、私の言ってること聞いてる!?」
「ああ聞いてるよ」
「ウソ、聞いてないわ。あなたモルヒネ打ってるのよ、操縦の途中で失神したら……」
「だからあんたが操縦するのさ」
「な……」
突拍子もない言葉に、香織は文字通り目を見開いた。
免許を取るのが趣味の、資格マニアであるけい子は、大型二輪にカー・レーシングのB級ライ
センスや大型特殊、さらに船舶免許の4級まで持っているらしい。
もしかすると軽飛行機くらいは免許を持っているかも知れないが、香織には縁のない話である。
「何を言ってるのよ! 私はそんな……」
「あんた、クルマの免許持ってるかい? 運転できるか?」
「え……、ま、まあクルマは好きよ。もちろん免許もあるわ。けど……」
「ならOKだ」
研一はそう返事して、セスナのドアを開けた。
キーはかかってないようだ。
香織は慌てたように言った。
「待ってってば! クルマの運転と飛行機の操縦じゃあ……」
「似たようなものさ」
若い警備員は「どうということはない」とでも言いたげに、主脚の車輪止めを蹴飛ばした。
「こいつの操縦は、あんたが思ってるよりはずっと簡単なんだ。クルマの操縦が出来りゃ問題
はない」
「で、でも……」
「むしろクルマの運転よりずっと楽だぜ。何しろ、歩行者はいないし対向車も来ないんだからな。
……うん、燃料も半分くらいあるな」
研一は操縦席のメーターを覗き込みながら言った。
それでも香織は不安そうだった。
当然だろう。
「でも、経験ないし……。第一、私、旅客機以外乗ったことないのよ。ヘリだってこないだ
初めてだったし……」
「ヘリか、あれは難しいんだ。俺も今習ってるところだがな。だからここにヘリしかなかったら、
この策はダメだったんだ。しかしラッキーなことに使える機がある。こいつを使わない手はない。
他に脱出手段があるなら教えてくれ」
「……でも操縦なんて出来ないわ」
「大丈夫だ、俺が横でナヴィゲートする」
「……」
口ごもる香織に研一はわざと顔をしかめて言った。
「どうでもいいが、早く決めてくれ。頭が朦朧としてきた」
「そんな……」
「大丈夫だと言ったら大丈夫だ。あんたはクルマの運転が出来るんだから操縦できる。あと必要
なのは度胸だけだ」
「度胸……」
「ああ、そうだ。舞い上がる時と、着陸する時は勇気が要る。だが、いったん空に上がっちまえば
どうってことはないんだ」
「……」
迷う香織に研一が言った。
「……こんな敵だらけの地獄のような島にたったひとりで乗り込んできたあんただ。度胸がねえ
とは言わせねえぜ」
研一はそう言ってニヤッと笑った。
男臭い笑みだった。
* - * - * - * - * - * - * - * - *
学園長は司令室にいた。
「阿久沢、聞こえるか!」
−なんだ! 聞こえる。
マイクにかじりつかん勢いで学園長が怒鳴った。
「けっこうはどうした! 捕まえたか!」
−騒ぐな、今、追っているところだ。やつは森に逃げ込んだ。今、包囲しているところだ。
「いいか、無傷で捕まえるのじゃぞ! 決して殺すでない」
−……。
「わかっとるのか!?」
−わかっているさ、心配するな。
そう言って阿久沢は携帯を切った。
学園長に言われるまでもなく、殺すつもりはない。
ないが、抵抗が激しかったらその限りではない。
手駒の警備員を殺されるくらいなら、けっこう仮面を殺す。
それに、ここまで舐めたマネをされた以上、タダで済ませる気はなかった。
* - * - * - * - * - * - * - * - *
「ん?」
香織と研一は何か音を聞いたような気がして、周辺を見回した。
滑走路はちょっとした高台にあるから、見下ろすような感じになる。
さっき逃げてきた北側の森の方を見ていた香織が「あっ」と声を出した。
「あれは……!」
怒号が遠くに聞こえ、細いライトの線があちこちに走っている。
SSSの捜索隊だろう。
あの様子だと、何かを発見して追いかけているようだ。
しかし、自分たちはここにいる。
あの連中は香織たちを探しているはずなのに、あの騒ぎは何だ?
と、ライトの光とは異なる、パッ、パッとした強い光源がある。
研一が目を凝らして言った。
「おいおい、やつらまた撃ってるぞ」
そう言われてみると銃声のようなものも聞こえてきた。
追いかける警備員の数が徐々に増えているようだ。
何を、誰を見つけたのだろうと不審に思っていた香織が思いついた。
「あ、もしかして……」
あれはけっこう仮面の誰かではなかろうか。
自分が阿乃世島にいつまでも戻らないので、応援を出したということか。
それも、恐らくけっこう仮面のスタイルで登場したに違いない。
でなければ、あのような大捕り物になるはずがないのだ。
ということは、ほとんどの警備員はそっちに動員されるはずで、他の地点は手薄になる。
今がチャンスだ。
「何だか知らないが……」
研一は乗り込みながら言った。
「今ならエンジン掛けても向こうは気づかんだろう。さ、早く」
「わかったわ」
せっかく仲間が囮になってくれているのだ。
これを活かさない手はない。
香織は覚悟を決めた。
研一は、銃撃戦になっている森の方を気にしながら説明を始めた。
「目の前にある操縦桿。わかるな?」
操縦席に座った香織に、隣のシートの研一がレクチャーする。
「こいつはクルマのハンドルと同じだ。右に旋回したきゃ右に回す。左なら左だ」
香織は言われるままに操作してみる。
思ったより軽かった。
「飛行機はシャフトで方向を変えるわけじゃない。そいつは主翼……翼のエルロンと連動して
るんだ」
専門用語はよくわからないが、なんとなく感覚でわかる。
香織はうなずいた。
「もうひとつ、これはクルマとは違うが、足元にフットペダルがふたつあるだろう」
脚を伸ばすと、ブーツの先にペダルの感触があった。
香織はうなずく。
「そいつも方向変換の時に使うんだ。そいつを踏むと、尾翼のラダーが動いて左右に動ける」
「どう使い分けるの?」
「臨機応変だ。飛行機は上下に方向を変えることもある。その時は操縦桿を引けば上昇し、
押せば下降する。注意することはひとつだけだ。操縦桿にしろラダーにしろ、なるべく軽く扱う
んだ。クルマの急ハンドルや急ブレーキと同じだからな、あまり乱暴に操縦するなよ」
「……」
「基本的な操作はそれだけなんだ、簡単だろう? あとは機を水平に保つことだ。フロントを
見ろ、中心線がわかるか」
「ええ」
「空に上がったら、そいつを水平線に合わせるように飛ぶのがコツだ。エンジンをかけろ」
言われて香織は差し込んであるキーを捻った。
生唾を飲み込み、喉が鳴る。
あっさりとエンジンは始動を始めた。
プロペラが回り始め、軽快なエンジン音を響かせている。
「スロットルを開け。ゆっくりとだぞ、この機は軽いからすぐに離陸できる。ちょうど具合が
いい向かい風が吹いている」
「ど、どう判断すればいいの!」
「心配するな、その時は俺が言う。ライトを点けろ!」
香織がヘッドライトを点灯させると、狭い滑走路がフロントガラスに映し出される。
前照灯で闇を切り裂くように、簡易滑走路が浮かび上がった。
ブレーキから力を抜いていくと、ガクンと機が傾いて走り出した。
研一の叱責が飛ぶ。
「バカ、落ち着け! ゆっくりと、だ!」
「は、はい!」
徐々にブレーキペダルを緩めていくと、ぐんぐんと速度が上がっていく。
研一はちらりと森の方を見たが、まだこっちに気づいている様子はない。
相変わらず発砲しているようだ。
時折、セスナがバウンドする。
滑走路の整備が悪いというよりは、先だっての台風でゴミだの木の枝だの小石だのが進路上に転が
っているのだろう。
あまりガクガク振動するようだとパイロットが脅えることもある。
研一はちらと隣のけっこう仮面を見た。
緊張しているのか、幾分、青白くなって正面を凝視し、懸命に操縦桿を握っている。
揺れる機体を気にする余裕もないようだ。
あとは激しいバウンドで主脚を折らないよう祈るだけだ。
研一は速度計を確認し、香織に吠えた。
「ようし、離陸だ! スロットル全開!」
「!!」
「操縦桿を引け! 離陸するんだ!」
落ち着け、落ち着けと心に呼びかけながら、香織は操縦桿を引いた。
グウッと機首が持ち上がるのがわかる。
車輪が地を引いている感覚がなくなった。
浮き上がったのだ。
研一の声が飛ぶ。
「主脚を……車輪を引き上げろ!」
言われて香織はレバーをぐっと引いた。
機の下では、さっきまで地を蹴っていた車輪が機内に引き込まれていく。
香織の耳には、エンジンの轟音も銃撃戦の音も聞こえなかった。
自分の鼓動ばかりが耳の奥で鳴っていた。
研一はなるべく落ち着いた表情を浮かべる努力をしていた。
ここで自分が焦ったら、間違いなく香織は操縦を誤る。
どうということはない、という顔をしていなければならない。
ボンヤリとした光に浮かぶ高度計を見ると、高度1300フィート付近だった。
「高度計が1500になったら水平飛行だ、操縦桿を戻せ。緊張するな、うまくいっている」
手汗が滲み、手袋の中が気持ち悪かった。
しかし手袋をしていたよかったと香織は思った。
素手だったら、この汗で操縦桿が滑ってしまっただろう。
1500フィート直前で、香織は言われた通り、操縦桿をゆっくり操作し、水平飛行に移った。
隣で研一が拍手していた。
「なかなか大したもんだ。素人がやると、うっかり操縦桿を戻しすぎて頭を突っ込んじまうこと
がよくある。すると慌ててまた操縦桿を引く。今度は急上昇しちまう。バランスを失うんだ。
初心者は大抵それでパニックになるんだ。あんた、なかなかやるな」
「冗談やめて。もう必死だし、クタクタよ」
「まだまだ」
研一は笑って言った。
「水平飛行は問題ないし、離陸はまだ簡単なんだ。問題は着陸の方だ」
「……その時は代わってくれるの?」
「俺が起きてればな」
「脅かさないで」
「心配するな、いったん飛び上がっちまえばこっちのもんだ。さっきも言ったが、普通に飛ん
でる分にゃクルマの運転より楽なんだ。この辺は気流も落ち着いてるしな。あとはフットペダル
や操縦桿を乱暴に扱わないことだけだ。飛んでる最中、急旋回なんかやったら、たちまち失速
するからな」
「……注文多いわ。それより、ちゃんと起きててよ。居眠りなんかしたら宙返りしてやるから」
「そういう軽口叩けるくらい落ち着いてれば、まず問題ないさ。おっと、スロットルは巡航に
入れといてくれよ」
* - * - * - * - * - * - * - * - *
「まったく、これがホントに日本の警備会社なのかしら」
けい子は、恐怖や怒りよりも、まず呆れた。
けっこう仮面のコスチュームを着け、警備員たちの前に身を晒すと、彼らはいきなり発砲して
きた。
まさか飛び道具を持っているとは思わなかったので、けい子も驚いて森へ逃げ込んだが、これは
予定の行動である。
香織がまともなら森へは来ないはずだ。
建物から森へ入って逃げていけば、そこを抜けることは出来ない。
森を突っ切ったら、待つのは断崖絶壁なのだ。
逃げるつもりなら港や浜辺へ向かうだろうし、反撃するなら、様子を窺ってまた建物へ戻るはず
である。
ならば、陽動としてけい子が採る行動は、正反対の森へ入り込み、徹底的に混乱させることだ。
いきなり撃たれた時は驚いたが、さすがに警備員たちも日常的に銃を持っているわけではない
らしい。
訓練はしていようが、人を撃つのは初めてなのだろう。
動作にぎこちなかった。
けい子はいったん彼らをやり過ごし、後ろから襲撃して最後尾のひとりを叩きのめした。
* - * - * - * - * - * - * - * - *
現場へ駆け付け、報告を受けた阿久沢は激怒した。
「この大馬鹿野郎!」
「申し訳ありません!」
「やられたやつはどうした!」
「気を失っていただけで大したことはありません。しかし拳銃を奪われました」
「なんだと!?」
けっこう仮面が銃を使うなど初めて聞いた。
追っているのは本当にけっこう仮面なのか。
だが現実にけっこう仮面は逃走している。
追うしかなかった。
「社長、いました!」
「投光器!」
指示が飛ぶと、小型のサーチライトが持ち出された。
カッと光線が走り、けっこう仮面が逃げたと思しき辺りを照らす。
がさがさと木枝が揺れ、そこに警備員たちが銃弾を叩き込んだ。
と同時に、別の銃声が響き、投光器のレンズを割った。
「くそっ、けっこう仮面も発砲してきます!」
見当はずれの場所に着弾音を聞きながら、けい子はトリガーを絞った。
「やれやれ、ピストルどころかショットガンまで持ち出してるってのに、腕は全然なってない
わね」
けい子はそうつぶやくと狙いを定め、また引き金を引いた。
銃弾は正確にサーチライトを射抜き、破壊した。
けい子は射撃もかなりの腕なのである。
A級ライセンスの体育教師は、ほとんどの種目を高レベルで競技し、かつ指導できる能力を持っ
ていることが要求されるが、その中には当然、射撃も入っているのだ。
けい子としてはライフルの方が得手ではあったが、エアピストルでも国体選手並みの実力を持っ
ている。
もちろん炸薬銃を撃つのは初めてだったが、すぐにコツは飲み込んだ。
発射時の衝撃がかなり大きいことを除けば、基本は同じだと覚った。
その点、SSSの警備員たちは、クレー射撃場で射撃訓練は行なっていたものの、予算の関係や
実包の入手難により、充実した訓練とは言い難かった。
散弾銃やクレーライフルの弾はともかく、日本で拳銃の弾丸を手に入れるのは非合法しかない。
「回り込め! 三班は西から、五班は海沿いだ、急げ!」
阿久沢は指示を飛ばしながら、けっこう仮面の動きを追って弾を撃ち込んだ。
彼だけは射撃は一流だし、実際に人を撃ったこともある。
しかし投光器がけっこう仮面を探すのに手こずり、さらに向こうも撃ってくるため、狙いが定ま
らない。
次第に焦りが募ってきた。
「急げ! 何をぐずぐずしているっ!」
* - * - * - * - * - * - * - * - *
「……」
数分飛んで、香織はどこに降りるのか聞いていなかったことに気づいた。
暗い中、海の上を飛んでいるのかと思うと不安になる。
「長峰くん、どこまで飛ぶの?」
「……」
「ちょっと……あっ!」
返事がない。
研一はガクリと首を垂れ、意識がないようだ。
香織は慌てた。
「な、長峰くんっ、大丈夫!?」
操縦桿を右手で持ち、左手で研一を揺すってみたが、やはり返事はなかった。
死んではいないようだが、完全に気を失っている。
モルヒネのせいだろう。
香織は青くなった。
研一に励まされ、というよりはそそのかされて、おだてられ、何とかここまで飛行機を引っ張
ってきたが、それもこれも研一の指示通りにやっただけなのだ。
何しろ初めて操縦桿を握ったのだからひとりで機を操れるわけがない。
「長峰くん、起きて! どこで降りればいいの! っていうか、どうやって着陸するのよ!?」
「……」
だめだ、まったく起きない。
どうすればいいのだろう。
いや、考えるまでもない。
このまま飛び続けるわけにはいかないのだから降りるしかないのだ。
問題はその場所だ。
燃料は半分くらいあると研一は言っていたが、それでどのくらい飛べるのか香織にわかるはず
もなかった。
第一、本土まで飛べたとしてどこに飛行場があるのかわからないのだ。
よしんばわかったとして、どう着陸すればいいのだ。
他の機も滑走路にはいるだろうし、管制塔の指示はどう入るのかも知らない。
そもそも、香織は今けっこう仮面の格好である。
こんな姿で本土に行けるはずがないではないか。
となると本島−阿乃世島しかないが、あそこにはヘリポートはあるが滑走路などなかった。
それに、ヘリポートといっても臨時のようなもので、ヘリが一機降りる円形のスペースに白線が
描かれているだけだ。
そんな狭いところにセスナが着陸出来るわけはないではないか。
香織はパニックになりそうな自分を必死に落ち着かせた。
(落ち着け! 落ち着きなさい、若月香織! さっきの長峰くんの説明を思い出すのよ!)
機が飛び上がってから、研一は教えられるだけのことは教えていた。
実際には、その場になってからナヴィゲートするつもりだったが、その時まで意識があるかわか
らなかったからだ。
事実、こうなっている。
香織は本島の灯りを確認すべく、前方を凝視しながら研一の言葉を反芻していた。
−滑走路がやばそうだったら海に降りればいい。着水ってやつだ。不時着みたいなものだが気に
するな。
「海……」
阿乃世島に降りるならそれしかなかった。
迷うまでもなく、うっすらと島の灯りが見えてきた。
やるなら今しかなさそうだ。
−着陸がいちばんの難関だ。滑走路に入って降りるとなったら、スロットルを思い切り絞れ。
速度計に注意するんだ。速度が100キロを割って、90くらいになったら降り時だからな。
機を下に傾けて、「ヤバイ、もうぶつかる」ってくらいになったら操縦桿を引け。それで水平に
なってるはずだ。
だが、今は滑走路はない。
着水するしかないのだ。
−万が一、着水となったら、エンジンを絞って低空に下がれ。そしてグライダーのように滑空
するんだ。その時も、機首はやや下のままだぞ。怖がらず海面へ向かうんだ。
香織は操縦桿を押した。
機首を下げた。
ググッとフロントガラスいっぱいに海面が迫った来た。
恐ろしい光景だった。
このまま海に叩きつけられそうな気がした。
それでも香織は何とか我慢した。
脳裏に研一の声が響く。
−いいか、海面が迫ってきた時が勝負だ。フロントいっぱいに海面が映ってきたら、かまわない
からもうスロットルは切っちまえ。そのまま降下してぶつかる手前まで我慢して、そこで操縦桿
を引き上げるんだ。
香織はスロットルを閉じた。
プロペラは回っているがエンジンは動力を伝えていない。
海面は真っ暗で、香織たちをセスナごと飲み込もうと口を開けているように見えた。
−着水のコツはな、機体が水に着く直前に機首を上げることだ。少々上げすぎたってかまわない。
むしろ、前より尾輪が先に着水するくらいがいいんだ。
研一の言葉を思い出してはいたが、恐怖が先に立つ。
うまくいくはずがない。
叫び出したかった。
研一の声が心に響く。
−一にも二にも操縦桿を上げる瞬間を間違わないことだ。海にぶつかりそうになって、恐怖の
あまり操縦桿を早く引きすぎると必ず失敗する。もうだめだ、ぶつかったと思うまで我慢する
んだ。大丈夫、その時でもまだ海面から5〜6メートルはあるんだ。
いいか、初めてクルマを運転した時を思い出せ。車幅がわからなくて焦っただろう?
道ばたの電柱や自転車にぶつかると思ったろう? だが、慣れてくると、それでもまだ障害物
まで距離があっただろう。こいつも同じだ。思ったより距離はあるんだ、心配するな。あとは
度胸だ。あんたならやれるさ。
高度が低い。
言われた通り、90キロ前後の速度で海へ突っ込んでいった。
操縦桿を握る手が汗でぬめる。
見る見る迫ってくる海面に、思わず操縦桿を上げたくなる。
香織は「まだまだ」と懸命に我慢し、下降した。
しかし、恐怖の方が上回ってくる。
このままじゃ絶対に海にぶつかる。
水泳の飛び込みで腹打ちをやった時を思い出す。
これでそれをやれば凄まじい衝撃を受け、機体は破壊され、香織も研一も粉砕されてしまうだ
ろう。
そう考えると、香織の気持ちから度胸も勇気もどこかへ逃げ去り、恐怖と脅えが代わって侵入
してきた。
研一の言う通り、早すぎては失敗するのだろう。
しかし、遅すぎたら木っ端微塵なのだ。
香織の額に冷たい冷や汗が浮かぶ。
もうだめだと思った。
フロントガラスを圧するかように冷たい海面が迫っていた。
* - * - * - * - * - * - * - * - *
「……」
逃げ回るけっこう仮面を追いながら、阿久沢は不審に思っていた。
どうもおかしい。
けっこう仮面が銃撃戦をするというのも変なら、逃げるだけで反撃してこないのも妙だ。
いくらこちらが武装しているからとはいえ、けっこう仮面なら隙を突いて反撃し、警備員ども
を薙ぎ倒すはずだ。
逃げるにしても定見がない。
いくらこっちが人数を投入しているとはいえ、20名ほどである。
やたら射撃せずにやり過ごし、裏をかいて森から逃げることは不可能ではないだろう。
なのに、まるで遊んでいるかのようにこちらを挑発したような射撃をし、森をぐるぐる回って
いる。
「まさか……」
阿久沢がつぶやいた時、携帯が鳴った。
「阿久沢だ、どうした!」
−社長、司令室です。滑走路から一機飛び立ちました!
「飛んだ? ヘリか? 誰が飛ばせと行った! 誰が乗ってるんだ!?」
−わかりません! うちの警備員ではありません。誰かが飛行機を乗っ取ったと思われます。
「なんだと!? 馬鹿野郎、滑走路には誰もいなかったのか!」
−そ、それが、港と浜に数名残した他は、けっこう仮面捕獲に全勢力をつぎ込んでまして……。
「しまった、そいつだ!」
セスナか何かで飛び立ったやつが、さっきまで阿久沢がいたぶっていたけっこう仮面に違いない。
もしかすると、やつも軽飛行機の操縦が出来たのかも知れないが、けっこう仮面脱走を助けたと
いう警備員も乗っているのだろう。
警備員たちには、ヘリや軽飛行機、船舶の免許を出来るだけ取得するよう言ってある。
セスナに乗れるやつは何人もいるのだ。
「社長、どうしました!?」
森に逃げたけっこう仮面を捜索している警備班の指揮官が寄ってきた。
「社長?」
「……なんでもない。おまえらは追跡を続けろ!」
そう言い捨てると阿久沢は身を翻してへ走っていった。
* - * - * - * - * - * - * - * - *
「あれは……」
けい子もセスナに気づいた。
前照灯を照らしたまま、爆音を立てて小さな飛行機が飛び立っていったのだ。
香織に飛行機が操縦できたとは知らなかったが、あれが香織に間違いあるまい。
その証拠に、警備員たちがセスナを指差して大騒ぎしている。
ならばけい子の役目もここまでである。
けい子にしてみれば、この程度の警備員たちを出し抜き、ビルに戻って着替えることくらい、
造作もないことだった。
* - * - * - * - * - * - * - * - *
「……!!」
無能な警備員どもをまき、こっそりとSSSビルに戻ったけい子は息を飲んだ。
体育教師・夏綿けい子に戻ろうと、着替えに入った控え室に先客がいたのである。
阿久沢鋭一であった。
「待ってたぜ、けっこう仮面」
「……」
「言い直そうか? 着替えるつもりだったのかね、夏綿先生」
「……何のことかしら」
「さっきまで森で無意味に逃げ回っていたのは陽動というわけか、仲間を助けるための」
「……」
「そしてお仲間がセスナで逃げたのを確認し、ここへ戻って仮の姿に戻ろうと、こういう寸法か」
「なんのことだか」
けい子はそう言いながら、じりじりと移動した。
拳銃は持っているが、残弾が何発あるかわからない。
けい子にその手の知識はなかった。
阿久沢も拳銃を擬しているから、こちらも武器がないことには始まらない。
ヌンチャクが欲しかった。
「俺がいたぶったけっこう仮面が、うちの警備員に導かれて脱走したのはわかってる。その時、
おまえは森で暴れていた。ということはけっこう仮面は複数いる」
「……」
「この島には女はいない。けっこう仮面以外はな。ひとりは飛行機で逃げた。もうひとりはおまえ
だ。この島に来た女は夏綿けい子ひとり。つまり、おまえの正体は夏綿けい子だ」
「そんなことはどうでもいいわ。それで私をどうするの?」
「どうして欲しい? 俺としては生かしておくわけにはいかん」
「あら、そう。……?」
阿久沢は手にした拳銃を投げ捨てた。
そうしてシャツを脱ぎ、上半身裸になった。
「これをご所望かね?」
そう言うと、何かをけい子に投げ渡した。
ヌンチャクだった。
ラバー・グリップということは、香織のものだ。
「……」
阿久沢がモップを持ち、根元を無造作に折り取って長い棒にした。
そしてそれを両手に持って構える。
棒術か杖術を使うようだ。
阿久沢の意図を汲み取ったけい子もピストルを捨て、ヌンチャクを構えた。
それを合図に、阿久沢が向かってきた。
「はああっ!」
上段に構えた位置からモップを振り下ろしてきた。
けい子は反射的に両棍を持ち、阿久沢の打ち込みを受けた。
阿久沢はその受け身に感心した。
スピード、タイミング、どれを取っても文句のない一撃だったはずだ。
素人なら受ける間もなく、頭をかち割っていたはずである。
受けたとしても腕にかなりの衝撃があったはずだ。
ところがけっこう仮面は平気な顔をしている。
一方、見事に受けたけい子も手応えを感じていた。
受けた両手が痺れていたのである。
ヌンチャクの持ち方は意外と難しい。
力を込めてはいけないのである。
もし思い切り握っていたら、今の一撃で両手が痺れ切ってしまっていただろう。
といって、軽く握っていたら弾き飛ばされていただずである。
コツとしては、小指の根元あるいは親指と人差し指の付け根あたりの力点を置き、握ることだ。
こうすることで力が抜け、かつしっかりと握れる。
刀でも槍でも、というより剣道も含めた武道一般で言うと、慣れてくればくるほど、余計な力は
いらなくなる。
必要以上の筋力は使わないのだ。
だからこそ、けっこう仮面たちはヌンチャクを使用している。
不可欠なのは握り、つまりグリップだけである。
「……」
阿久沢も、そしてけい子も動きが止まった。
相手に隙がないことをお互いに理解しているのだ。
ヘタに動けば付け入る余地を与えてしまう。
付かず離れず、ジリジリと円形に回りながら、相手の攻め手を警戒する。
けい子は、改めて阿久沢の肉体を見、息を飲んだ。
鍛え上げられたそれは、全身筋肉の塊だ。
人間の弱点とは、柔らかい部分にある。
つまり、腋の下や膝の裏、股間などである。
腹部も元々は柔らかいが、鍛えようによっては硬い筋肉で装甲できる。
しかし、腋や膝の裏などは筋肉のつきようがないからだ。
だが、それらの箇所は、相手に接近しなければ攻撃は難しい。
残る急所は、逆に硬い場所だ。筋肉に覆われていない箇所である。
アキレス腱付近もそうだが、特に骨が剥き出しになっているところが効く。
向こう臑や肘などがそうだ。
もちろん頭もである。
緊張感はさらに高まった。
敵が一級品の武闘家の場合、勝負は一瞬で決まる。
映画のように、何度も打ち合ったり、かわし合ったりというようなことはほとんどない。
まともに技が決まれば、それが致命傷になるからである。
軽くジャブを打ち合うようなことはまずないのだ。
そんな隙があれば、さっさと必殺の一撃を叩き込んで勝負をつけているだろう。
ヌンチャクにも「早打ち」と言って、柄の底を相手に叩きつける技があるが、阿久沢の胸板に
そんなものを入れても無意味だろう。
また、けい子の身体の軽さ、身のこなしを見て、阿久沢も、突き込みは不利と見ていた。
かわされたら頭上か顔の横に棍棒が襲ってくるだろう。
それがわかっているだけに、阿久沢もけい子も慎重にならざるを得なかった。
先に動いたのはけい子だった。
「はあっ!!」
「むっ!」
渾身の力を込めた側面打ち−棍棒を真横から打ち込む−を、阿久沢の首筋に向けて放った。
阿久沢は棒を立ててそれを受けた。
そこに棍棒が当たれば、虚しく跳ね返るだけだ。
しかし、けい子は柄の棍棒部分ではなく、両棍棒をつなぐ紐の部分を棒に向けたのだ。
阿久沢はニヤリとした。
あらかじめ読んでいた。
けっこう仮面はその紐で阿久沢の得物を巻き取ってしまおうというのだろう。
「っ!!」
案の定、けっこう仮面のヌンチャクは、その中央のつなぎの部分で阿久沢の棒をぐるっと巻いた。
阿久沢は、それを取られまいとグッと力を込めて引き寄せる。
逆にヌンチャクを奪い取ってやろうとした。
「んっ!?」
ガクンと阿久沢は後ろにつんのめった。
けっこう仮面は、ヌンチャクを取られまいと力を入れて柄を握ると思いきや、逆に手を離したの
である。
けい子はその隙を逃さなかった。
思い切って阿久沢に突っ込み、その膝を抱え込んだのである。
「きっ、きさま!」
モロにタックルを受けて、さすがのSAS帰りものけぞってひっくり返った。
いくら仰向けに転んでも、いつまでも押さえ込んではおけない。
ここでも一発勝負だ。
「ぐっ……!」
阿久沢の強烈な肘打ちが背中に決まり、一瞬呼吸が止まったけい子だが、眩む目を堪えて、
ブーツの踵で阿久沢の向こう臑を強打した。
「ぐあっ……!」
さすがにこれには阿久沢も悲鳴を上げた。
攻撃に移るどころか、弁慶の泣き所を抱えて転げ回っている。
その男をけい子は押さえ、抵抗しようと振り上げる腕をかわしてから、その喉笛に遠慮会釈の
ない手刀を叩き込んだ。
* - * - * - * - * - * - * - * - *
「夏綿先生は?」
「ああ、事情聴取だってさ」
阿乃世島、スパルタ学園校庭。
先日の台風の爪痕がまだ残っていたが、概ね片づいているようだ。
強風で、保健室前のベンチが吹き飛ばされてしまったため、香織と恵は花壇の煉瓦の上に腰掛
けていた。
「ま、事情聴取ったって、けい子先生を聴取してんのは、こっちの事情が分かってるデカらしい
から、面倒なことは聞かれないだろうさ」
「そう。あ、高橋さんは……」
「真弓か? けい子先生が阿久沢を張り倒した後、救出したよ」
そこで恵は少しつらそうな顔をしていったん言葉を切った。
「……例によって、散々虐められたようだな。けい子先生が助けた時は、裸でぐったりしてた
そうだ」
「……」
「ケガしたわけでもないから、おいおい回復するだろうさ。それに、真弓が自白させられた
供述書は、その場で破り捨てたそうだ。他にも数人分の供述書があったらしいけど、それも
処分したって」
そう言って、恵は香織を見た。
色白で、どちらかというとおとなしそうで、気弱な感じすらするこの保健医が、活劇を演じて
大脱走とは思わなかった。
少し見直した。
「それにしても香織先生よ、あんたなかなかやるじゃないか。真っ暗闇ん中、飛行機を奪って
敵中脱出なんてさ。ハリウッド映画みたいだ」
「やめてよ、今思い出してもゾッとするんだから」
香織は身体の奥から重い息をついた。
彼女は今でも、どうやって着水したのか憶えていない。
研一に言われた通り、尻尾を先に海に着けたと思った時、操縦桿を押しただけだ。
つんのめるような衝撃を受け、香織はそのまま意識を失ってしまった。
気が付いた時は、恵と面光一が漕いできたボートに、研一とともに横たわっていたのである。
「それで、長峰くんは?」
「ああ、弾は急所は外れてたんで命に別状はないってさ。先生の応急処置がよかったんだろうよ、
出血も止まってたらしいぜ。本土の病院に入院して治療してるって話だ」
恵は話しながら、とっとっとっと寄ってくる鳩に手を伸ばした。
鳩の方も慣れているのか、恐れ気もなく恵に近づく。
喉で鳴く鳩たちを見つめる恵の瞳が優しかった。
「ああ、そうだ。SSSは結局どうなるの?」
「どうもこうもないさ。すぐにつぶれるってこともないだろうけど、これだけの不祥事を起こ
したわけだからな、再建は難しいんじゃないの?」
生徒たちに対する暴行、傷害。
脅迫に恐喝。
監禁。
銃刀法違反。
それだけ肩書きがあれば、胸を張って刑務所に行けるだろう。
SSSの全社員が警察の捜査対象となり、警備員はほとんど検挙されることになるらしい。
何しろ、けい子を追いかけて派手に銃撃戦をやったのが堪えたらしい。
いくらなんでも、あれでは学園側もフォローしきれないだろう。
他にも、隠匿していた武器類の多さに捜査陣は仰天したらしい。
コンバットナイフやサバイバルナイフ、競技用のクレーライフルともかく、ショットガンや
ライフル銃が13挺。
短銃が27挺。
おまけにサブマシンガンまで2挺あったらしい。
さらにその弾薬が、実に3000発以上あったというからものすごい。
捜査官たちも、暴力団の手入れでも、ここまで銃器が押収できたことはなかったと呆れていた。
「で、社長の阿久沢は?」
香織がそう言ったのを聞いて、恵は心地よさそうに言った。
「頸部の捻挫と、右脚の脛を亀裂骨折だってさ。ざまあねえや。うちらを捕まえようなんて思う
からさ」
「へえ」
「もちろん逮捕されたよ。まあ実刑は免れないんじゃないの?」
「SSSは学園の100%出資の子会社でしょ? なら、学園にも捜査が……」
香織はそれを期待したが、恵は渋い顔を振った。
「それがだめ」
「だめって……」
「だめなんだってさ。何しろ、警備員たちも阿久沢も、今回の件で学園が……というより学園長
が一枚噛んでたとは絶対に言わないんだそうだ。いくら訊問しても、それだけはガンとして否定
してるそうだぜ。なんなんだろうね、まったく、この連帯感の強さは」
「……」
「だいいち、当日に学園長が咎島へ渡っていたことすら認めてないってんだ。学園側はもちろん、
SSSのやつらも異口同音にそう言ってるらしい。これじゃどうにもならないさ。またムショを
出てきたら、学園長が拾ってくれるっていう密約でもとってるのかもな」
「でも、けい子先生の証言があれば……」
「まあな。でも、けい子先生がそんなことを言えば、けっこう仮面のことも追求されるし、言及
しなきゃならない。けい子先生としても、知らぬ存ぜぬを貫くしかないんだろ」
「……」
「けっこう仮面のことは警察の調書に残すわけにはいかないしな。ま、学園長の件はこれと痛み
分けってとこだ。いつものことさ」
地面をうろうろしていた鳩の一羽が、ひょいと恵の腕にとまった。
飼い鳩なのかも知れない。
それを見ながら、香織はけい子の言葉を思い出す。
結局、私たちの仕事は徹底した対症療法なのだ、と。
根本的に絶てないのは歯がゆいが、矢面に立っている生徒たちを守る方が先だ。
いずれ動かぬ証拠を押さえれば、何も香織が騒がずとも本省から通達が来るはずだ。
学園を潰し、学園長を逮捕せよ、と。
それまでは地道な活動をするしかないのだ。
そこまで考えて、ふと香織は思い出した。
「ねえ恵さん、けい子先生って、どうやって外部と連絡とってるの?」
阿久沢にも聞かれ、答えられぬと責められたが、香織は答えようがなかったのだ。
本当に知らなかったのである。
けっこう仮面同士は携帯のスパム偽装メールで連絡をとっているが、警察とどうやって直接連絡
をしているのかわからなかった。
恵はきょとんとして言った。
「あれ、知らなかったっけ」
「ええ……」
「そっか。いや、こいつなんだよ」
恵はそう言って、右腕にとまった鳩を香織に見せた。
「は?」
「わかんないかい? 伝書鳩だよ」
鳩の帰巣本能を利用した通信手段である。
少し前までは有効な通信手段として、新聞社や軍、警察でも長い間使われていた。
訓練し、飼い慣らした鳩の脚に通信管をつけ、そこに文書を入れて情報をやりとりするわけだ。
さすがに今では衰退しているが、趣味で続けている人はまだおり、レースも開催されている。
「伝書鳩……」
「そう。これなら、盗聴も無線傍受もしようがないからな」
恵は面白そうに笑った。
なるほど、と香織は思った。
そうじゃなくても、この学園にも多数の鳩が住み着いている。
どれが伝書鳩かなどとは、その気になって見なければわからないだろう。
そもそも、そんな手段で連絡を取っているとは誰も思わないに違いない。
確かに飛行機や電波に比べれば速度は遅いが、隣の青ヶ島に届けばそれでいいのだ。
青ヶ島駐在所の警官は「こちら側」の男で、すべて事情を飲み込んでいる。
阿乃世島から伝書鳩が届けば、その内容をすぐさま本土に連絡する手はずになっているのだ。
学園側が、けっこう仮面と警察、あるいは文科省との連絡が早すぎると不思議に思っていたのは、
これが原因である。
実際には、大事を見て、同一文書を仕込んだ複数の鳩を放つらしい。
不測の事故があっても、それで連絡がつくという算段だ。
「鳩とは思わなかったわ」
「だろうな。ま、香織先生が思いつかないんだから、学園長あたりに気が付くわけもないさ」
恵と香織はそう言って笑い合った。
* - * - * - * - * - * - * - * - *
学園校舎の中では、小型の暴風雨が吹き荒れていた。
その中心は学園長室だ。
「ええい、またしてもけっこう仮面めが! 医学部に続いてSSSまで手玉にとりおって!
この怨み、必ず晴らしてくれるぞ、覚悟して待っておれ!!」
とんでもない逆恨みを抱き、学園長は怨み節を咆吼していた。
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