少年がその少女に気づいたのはいつだったか。
川で水練していた時だったろうか。
それとも馬で遠乗りした時だったかも知れない。
彼女に心を奪われたのがいつだったのか、それはもう忘却の彼方だが、その存在が少年の中で
徐々に大きくなってきているのは事実だった。

少年はこの日も小川の川岸に来ていた。
その少女が、何日かに一度の割でそこで洗濯することを知っていたからだ。
やはり今日もいてくれた。

いつものように、もうひとりの少女と連れだって楽しそうに洗い物をしている。
少し吊り気味の目はやや厳しそうではあるが、美しい顔を損なうものではない。
一緒にいる少女と笑い合うと、とたんにあどけなくなる笑顔が少年は好きだった。
頭を動かすと、その豊かで艶やかな長い髪が揺れる。
その辺の村娘のような質素な着物姿だが、年齢相応に張った腰や胸を押さえ込んでいるに違いない。

少年が、特にこの洗濯風景が好きだったのは、彼女の処女雪のような白い肌を垣間見ることが
できるからだった。
普段は手っ甲をはめ、足首も褐色の肌着で隠されているのだが、水仕事をする時だけはそれらを
外しているようだ。
形の良い手のひらから生える細くしなやかな指や、着物が濡れないように小さく捲り上げた裾
から覗く白いふくらはぎは、少年の鼓動を高まらせるのに充分であった。

少年は彼女らに見つからぬよう、葦の陰に隠れて見つめている。
少年の想い人は、そこらの町娘とは明らかに異なった優雅さがあるように思えた。
そして大名や公家の姫君などにはない純粋さや鮮烈さも兼ね備えている。

ふたりの少女がはしゃぐ様を、少年は息を殺して観察していた。
拒絶されることを恐れ、とても声を掛けることなど出来なかった。
じっと動かずに見つめるだけだった。

「かごめちゃん、もう終わった?」

彼女が連れの少女に呼びかけた。
かごめと呼ばれた、変わった着物を着た少女は洗濯物を絞りながら答える。

「うん、もうこれでおしまい。珊瑚ちゃんは?」
「あたしも終わり。……ん?」

少年はドキッとした。
彼女がこっちを不審そうに見つめているではないか。
まずい。
動けない。
そんなことをすればすぐに見つかる。

物音を立てず息を潜めて、少年は少女から視線を逸らせた。
見えていないとは思うが、見つめていると気配で気づかれることもある。
彼女は顔を動かしながらこちらを窺っていたが、やがて少し首を傾げてもうひとりの少女の方
へ向いた。

「どしたの?」
「あ、うん、なんでもない」

珊瑚と呼ばれたその少女は、今いちど少年の方を見てから足早に去っていった。

* - * - * - * - * - * - * - * - * - * - *

「なんだか村が騒がしいね」

かごめが楓の家から顔を覗かせて言った。
見ると、村内がどことなく慌ただしく、村人たちが村道のあちこちを往来している。
秣を満載した牛車がよたよたと通り過ぎて行き、水桶をふたつ天秤棒で吊し持った男が慌てて
道の脇に避けた。
男たちだけでなく、女どもも忙しなく動き回っている。
遊びに出ようと道を飛び出す子供を叱り飛ばす母親もいた。
珊瑚が隣に来てささやく。

「どうしたんだろ」
「……戦があるのさ」
「あ、お婆ちゃん……」

囲炉裏の前で灰を掬っていた楓がぽつりと言った。

「戦?」
「ああ。そう大きなものじゃないらしいが、近々、松田の殿様が一戦やらかすらしい」

松田家は、関東に大きな地盤を持つ大大名北条家の有力家臣だ。
かごめが楓を振り返って訊いた。

「へえ。それで、なんでこの村ががやがやしてるの?」
「なんでって……。そりゃ、この村の男どもも戦に駆り出されるからさ」
「え、そうなの?」
「ああ。……まったく迷惑な話さ」

この時代、兵農分離が為されていない。
つまり、戦争の際には農民たちが駆り出されるのである。
いわゆる職業軍人とは武士であり、彼らは圧倒的な力を持ってはいたが、マイノリティなのだ。
彼らは基本的に将校であり、下士官である。
士官、下士官だけで戦争は出来ない。
そこで、一般兵を地元の農民に求めているのである。
ほぼ史上初めて兵農分離をやったのは織田信長であるが、彼はこの時点でまだ尾張一国すら統治
しきれていない。

要するに、合戦に於ける足軽、雑兵の類は、一旗揚げるのを夢見て集まってきた浪人者を除けば、
近隣の百姓衆なのである。
槍や陣笠、軽装備の腹当や陣笠などは城が手配する官給品だ。
戦に参戦すれば、手柄をあげて褒賞を得ることも可能であるが、同時に大怪我をして付随になった
り、ヘタをすれば戦死することもある。
負け戦にでもなれば、その可能性はぐんと高まってしまう。
といって、戦に出るのはイヤだと拒否することは出来ない。
その土地を支配している武士に逆らえば、当然追い出されるか殺されることになるからだ。

だから渋々参戦するのであるが、逆に隣国に攻め込まれた時に護ってくれるのもその武将なのだ。
楓は「迷惑」と言ったが、持ちつ持たれつの関係にあるのも事実だろう。
支配階級の武士たちも、農民たちのことをまったく考慮しないわけではなく、合戦に及ぶのは
農繁期である春秋は避けるのが普通である。

民のことを考えているのと同時に、農作業の忙しい時に戦争などしたら、農作物収穫に多大な
影響が出て、年貢で生きている武士にとっても困ることになるからである。
農民の方も、不安定な地域環境で、支配者が入れ替わり立ち替わりするような状況では戦も絶え
ないので、強力な支配者を望んでいる面がある。
強大な大名が治めてくれれば戦も減るし、治水灌漑などの農地改革を図ってくれる機会も多くなる。
だからこそ、土地を護るのと同様、自分たちのお殿様のために、彼らは合戦でも粉骨の働きをする
のだ。
それ故、敵に攻め込まれれば必死に戦うが、敵地に攻め込むのは嫌がるのも無理はないだろう。

外の方で誰かが大声を出したかと思うと、ざわめきが一層大きくなった。
荷車に米俵を積んで走る若者や、城から支給された槍の束を抱えてくる男が慌てたように道を
空けている。

「?」
「誰か来るのかな」

かごめと珊瑚が家を出て様子を窺うと、道々で村人たちが頭を下げている。
その先を見ると、コツコツという馬の蹄の音が響き、鎧直垂姿の男たちが進んできた。
騎馬武者らしい。
馬上の武士たちは、お辞儀している村人たちを気にするでもなく馬を歩ませていた。

「……かごめちゃん」

かごめは、初めてみる武将たちの行列に見入っていたが、珊瑚がその頭を押して下げさせた。
珊瑚は権威主義ではないから、別に侍に対して無闇と頭を下げるような趣味はなかったが、
ヘンに意地を張っても面倒ごとになるから、こういう時は黙って従っている。

「あ……」
「?」

騎乗した若者が小さく声を上げたので、珊瑚もつい顔を上げて彼の方を見た。
若者というよりも、まだ少年に近いのかも知れない。
少なくとも珊瑚よりは年下だろう。
その場で馬を止めた彼は、びっくりしたような顔で珊瑚を見ていた。
珊瑚の方は、なぜ少年が自分を見ているのかわからないからきょとんとしている。
少年の様子に気づいた周囲の武者たちが彼に声を掛けた。

「若、いかがなされました?」
「……」

それでも少年は珊瑚を凝視していた。
その雰囲気を察したかごめも、珊瑚の手から逃れて顔を上げた。
そして、珊瑚が無遠慮に少年を見ているのに気づき、今度は反対に彼女の頭を下げさせた。
少年のお付きらしい武士たちは、珊瑚とかごめを胡散臭そうに眺めていたが、また彼に
呼びかけた。

「若」
「あ、うん……い、いや、なんでもない」
「……左様ですか。ではまいりましょう」

鎧に烏帽子の少年は、すっと珊瑚から目を外すと、何でもないかのようにまた馬を進めて
いった。
彼らが行ってしまうとかごめは頭を上げて、去った少年の方と珊瑚を交互に見て言った。

「誰、あの子? 珊瑚ちゃん、知り合い?」
「いや、知らないんだけど……」
「ふうん。でも、なんだか珊瑚ちゃんの方をずっと見てたよね……」
「やっぱ、そうだよね……。でも知らない子なんだけどなあ」

家の中からのっそりと楓が出てきた。
楓も武士どもにいちいち辞儀するのが面倒なので、こういう場合は大抵引っ込んでいる。

「……行ったか」
「あ、お婆ちゃん、あの子だれだか知ってる?」

かごめが訊くと、楓は後ろ手に組んだまま答えた。

「知っとるとも。ありゃ原嶋の若様じゃよ」
「原嶋?」

原嶋氏は、松田氏配下の豪族である。
もともとこの辺りを支配していた独立国人だったが、北条氏が力を伸ばしてきて以降、進出
してきた北条家臣の松田氏に降ってその配下となったのである。
北条氏のような大大名に逆らっては身の破滅だから、この判断はやむを得ない。
早くから帰順しておけば立場は良くなるし、北条家の庇護の中で自勢力を伸ばすことも出来る
だろう。
だいいち、無闇に抵抗したところで勝ち目はないし、戦乱の渦が地域住民にも及ぶことにも
なるのだ。

「もうそろそろ元服になるじゃろう。こたびの合戦が初陣になるのではないかな」
「へえ」

原嶋家はその忠誠ぶりで、松田氏のみならず主家の北条氏にも受けがよかった。
三〇〇人を動員出来る原嶋氏は、松田家内でも有力家臣にのし上がっていた。
地元民の信任も厚く、合戦でも無類の槍働きをした。
ただ、残念なことに当主・氏定が病弱で、その行く末が心配されている。
その原嶋家の嫡男・定康が、件の少年なのであった。

珊瑚が頭の後ろに手を組んで言った。

「武家の若様かー。そんな知り合い、いなかったけどなあ」

* - * - * - * - * - * - * - * - * - * - *

「……」

原嶋定康は沼地に出ていた。
その水辺に三尺ほどの高さの盛り土があり、そこに腰を下ろしていた。
細い棒切れを持ち、意味もなく土塊をほじくっている。
その行為に熱中していたというよりも、ぼうっとしていたからなのだろう、周囲に人の影が
差すまでまるで気づかなかった。

「!」
「へっへっへ……」

不揃いの鎧を着た男が三人、少年を囲んでにやついていた。
男どもの防具はみすぼらしかった。
胴巻きに弾痕と思われる孔が空いているものや草摺が引き千切れているもの、手っ甲や肩当てが
片方しかなかったりしている。
恐らくこれらは合戦の終わった戦場を漁り、戦死者から剥ぎ取ったものなのだろう。
つまり彼らは野盗や野伏ということだ。
リーダー格らしい大男が言った。

「坊主、こんなとこへひとりで何しに来た?」
「……」
「黙ってちゃわかんねえなあ」

野盗たちはじりじりと少年に近づいていく。
少年は小山の上に立ち上がっていた。
その様を見たひとりが、「うん?」と何か気づいたような声を出した。

「どうした」
「ああ、こいつは……」
「なに? 原嶋の?」

大男は細い目で定康を見上げて訊いた。

「おまえ、原嶋んとこの嫡男てのは本当か」
「……いかにも。俺は……、いや、わしは原嶋定康じゃ」

少年はそう言い捨てると、腰に差していた脇差しを抜いた。
それを見た大男は「ほう」という顔で言う。

「さすがに『鬼の氏定』の跡取りってとこか。だがなあ若様よ、お命は大事にするべきだぜ」
「!」

男たちはそれぞれ刀を抜いた。
抜きはしたが殺す気はなかった。
相手はまだ十二、三歳のガキだ。
最初は、身なりの良い少年だったから、身ぐるみ剥いで解放しようと思った。
しかし相手が原嶋の総領だとわかったのだから、人質にして身代金を奪った方が賢い。
あるいは敵方の今川家や長尾家に売り飛ばすという手もある。
こんないい金蔓はなかった。

「……」

少年はそっと辺りを見回した。
男たちは三方から取り囲んでいる。
こうなると高いところにいたのが命取りだ。
どうにも逃げようがない。

と言って、荒くれ男を三人も相手にして勝てるとも思えなかった。
刀こそ帯びていたが、まだ定康は人を斬ったことなどなかったのである。
柄を握った手に汗が滲んでくる。

このまま囚われたら敵に引き渡されるかも知れぬ。
それくらいは定康にもわかった。
それならいっそ……と、少年が思い始めた時、鋭い声がかかった。

「待ちな!」
「!」

男どもは背後からかかった声に慌てて振り返った。
きょろきょろしていると、葦の間から若い女が姿を現した。
少年が驚いて目を見開いてつぶやいた。

「さ、珊瑚……」

珊瑚は大男の視線を跳ね返し、野盗たちに近づいていった。

「まったく、真っ昼間っからでかいなりしたおとなが子供相手に何してんだい」
「ねえちゃん、余計な差し出口は挟まねえこった。それともこのガキの知り合いか?」
「関係ないよ。いいからその子を放して消えな」
「それこそ関係ねえならねえちゃんの方こそ、余計なお節介焼かない方がいいぜ」
「……どうやら口で言ってもわからないようだね」

珊瑚の目つきが変わった。
今日の珊瑚は戦闘服ではなく、普段着の着物である。
もちろん武器も持っていない。
戦いに出ているわけではないのだから当然だ。

しかし彼女は少しも臆せず、野盗たちに向かって行った。
少年を取り囲んでいた男たちは、迫ってくる珊瑚に戦意を向けた。
リーダーの大男が言った。

「おい、殺すなよ。この女、あとでたっぷり可愛がってやるんだからよ」
「合点で」

珊瑚は口を歪めて鼻を鳴らした。

「まったく、下衆ってのは言うことがみんな同じだね」
「なんだと、このアマっ!」

男たちは簡単に逆上した。
駆け引きひとつない。
これなら武器も要るまい。

大男の右から子分のひとりが襲いかかってきた。
戦法も技もない。
右腕を振りかざしていきなり殴りかかってくる。

向かって来られても珊瑚はピクリとも動かない。
男の拳が珊瑚の顔を捉えたと思った瞬間、そいつは珊瑚の真後ろに放り投げられていた。
男は、いつ自分がこの女に腕を掴まれたのかもわからないまま、地べたに激しく叩きつ
けられた。

「てめえ……。構わねえ、ぶっ殺せ!」

仲間が苦もなく失神させられたのを目の当たりにして、残りのふたりはいきり立った。
激怒する前に、己の前に立ちふさがった女の力量を知るべきだったが、彼らにその冷静さは
なかった。

もうひとりの子分が、抜いた刀で珊瑚に突っかかっていく。
所々に錆が浮き、刃こぼれだらけのなまくら刀ではあったが、それでも殺傷力はある。
男は大刀を顔の高さに構え、珊瑚に剣先を向けて走っていった。
遠慮なく珊瑚を串刺しにしようと、訳の分からない掛け声を上げて突っ込んできた。

珊瑚はひとつも慌てず剣先を鼻先寸前で避けると、男の手首を掴み、肘を右手で下から押し
上げ、そのまま円を描くように上空へ放り投げた。
一瞬、時間が止まったかのように男の身体が宙に浮き、そのまま湿地に墜落した。
泥混じりの濁った水が弾け飛ぶ。

少年は息を飲んでこの光景を見つめていた。
野盗たちは必死の形相なのに、珊瑚ときたら薄い笑みすら浮かべている。
余裕で相手をしているという感じだ。

「ぐあっ」

背中から着地した男は一声呻き、これも気絶した。
あっというまに手下どもをのされた大男は、顔を真っ赤にしながらも、ここに至ってようやく
珊瑚はただの女ではないと知った。

「……ねえちゃん、あんた何もんだ?」
「さあね。そこらの村娘じゃないの?」
「面白え」

大男はボキボキと指を鳴らして近寄ってきた。
腰に巻いた荒縄に刀を二本も差してあるが、素手でやりたいようだ。
なりに似合わず俊敏な動きで、大男が珊瑚の懐に入り込んでくる。
そして彼女の着物の襟首を掴み、締め上げてきた。
男は馬鹿力でそのまま珊瑚を持ち上げて顔を近づけた。

「へへ、ねえちゃん、やっぱなかなかいい女じゃねえか……う!?」

大男の不敵な笑いは長続きしなかった。
珊瑚は片手で持ち上げられたまま、その腕を両手で掴んだ。
左手で肘を掴み上げ、右手で男の手首を捻った。
外側でなく内側に。
人間の手首も肘も、外側への行動範囲は広いが内側は狭い。
珊瑚が思い切り内側に捻ると、男は顔を歪めて苦痛に耐える。
珊瑚への圧力はかなり軽減した。
すかさず彼女は男の手のひらを掴むと、親指を思い切り逆に曲げてやった。

「うっ、ぐああっ」

逆関節をやられてはたまらない。
関節を逆に捻られる苦痛はどこでも同じだ。
膝でも肘でも、そして指でも。
そして末端部や細い部分の方が力がいらない。
この手の力自慢をねじ伏せるには指を逆に折り曲げてやるのがいちばんである。

親指の付け根から手首に走る激痛に耐えかねて、男は珊瑚を解放した。
とん、と、地に降りた珊瑚は、左脚一本で立ったまま、右脚を大きく回して相手の腰の
すぐ上を蹴り込んだ。

「うっ……」

体重の入った回し蹴りを肝臓に喰らった大男は、さすがに呻いて身体を「く」の字に曲げた。
男の顔が下がったところで、珊瑚はそこへ渾身の左ストレートを打ち込んだ。

「うがっ!」

珊瑚の拳が顎をまともに捉え、大男は切れた唇から血を飛ばしながらよろめいた。
それでもまだ立っている大男を感心したような顔で見た珊瑚は、今度は腰を落として回し
蹴りをした。
何とか中腰で立っていたところに、膝の真後ろに凄まじい蹴りを食らったからたまらない。
もんどり打って倒れ込み、腰を強打して、悲鳴も出せずに失神した。

「ふん」

珊瑚は、手もなくのされた破落戸どもに一瞥もくれず、着物の埃を軽くはたき落とした。
そして、呆気にとられて珊瑚を見つめている少年に声を掛ける。

「大丈夫だった?」
「……」

年上の少女は、少年に近づき微笑した。
少年は彼女を凝視する。
珊瑚をこんなに近くで見たのは初めてだ。

先ほどの野伏との格闘など、どれほどのこともなかったのか、息ひとつ切らせていない。
それでも目一杯身体を動かしたからか、ほんの僅か頬が上気している。
美しかった。
おなごとは、これほど綺麗なものなのかと少年はうっとりする。

「どうしたの? どこかケガでもした?」

美しい少女はさらに少年に近づき、優しくその手で頬を撫でてくれた。
得も言われぬ少女の甘い香りが鼻をくすぐり、少年はくらくらしてくる。
頬に触れるその手は、この世のものとは思われぬほどに柔らかく、心地よかった。
遠くから眺めるだけだった憧れの女性が、優しい声で話し掛けてくれ、微笑んでくれている。
もうそれだけで少年は天にも昇る気持ちだった。

「あら、熱でもあるの?」

珊瑚が少し心配そうに少年に額に手を当てた。
無理もない。
少年の顔色は、上気した珊瑚どころではなく真っ赤だったのである。

さすがに恥ずかしくて、少年は珊瑚の手を払って少し避けた。
その顔を覗き込んだ珊瑚は、どこかで見た子だなと思い、小首を傾げる。
そこでふと思い当たり、それを口にした。

「あ、あんた、確か原嶋の若さま……?」

少年は、自分のことを珊瑚が知っていたことに驚いた様子で小さくうなずいた。

「い、いかにも……、俺……いや、儂は原嶋氏定が嫡男、原嶋源八郎定康だ。そ、そなたは
……、珊瑚……と申すのであろう」

珊瑚は「あら」という顔をした。
どうして原嶋定康が自分のことなど知っているのだろう。
珊瑚がそれを訊く前に、少年がぺこりと頭を下げた。

「危ないところを助けてもらった礼を言う。感謝する」
「あ、ううん……、そんなのはいいんだけど」

いきなり頭を下げられたので、珊瑚は慌てて手を振った。

「それより若さま、ひとりでこんなとこ来ちゃ危ないわよ」
「……」
「今日はお付きの人はどうしたの?」
「いない。ひとりだ」
「ひとり?」

原嶋家は侍の家としてはそれなりの規模だが、武将としてはそこそこだ。
北条家の家臣である松田家のさらに家臣である。
陪々臣であり、ずらずらと行列を為すほどの家臣団を持っているわけではない。
それでも家来は少なからずおり、彼らからしてみれば立派に若殿さまなのである。

従って、どこへ行くにも必ずお付きや小姓、馬廻り衆といった連中はおり、それこそ金魚の糞の
如く付いて回るのが普通だ。
殿様はその家の象徴なのだから、それくらいの警護は当然だろうが、それでは思うように息も
抜けない。
プライベートは無きに等しいのである。
というよりも、プライベートなことも堂々と家臣たちの目の前で行えるようになって、初めて
殿様だとも言えるのだろう。
理屈ではそうだとわかるのだが、それを割り切れるようになるには、まだ少年は幼すぎた。

「……なるほど、そっか。そうだよね、そういつもいつもお目付役が一緒じゃ気が休まら
ないよね」
「うん。家来どもが儂を大事に思うてくれるのはわかるのだが、儂にも人目を気にしない時が
欲しいこともある」

珊瑚と定康は、さっきまで定康が座っていた盛り土の上に並んで腰掛けていた。
少年はちらちらと珊瑚に視線を走らせている。
白い襟足や健康的な色の唇を見ているだけでぽーっとなってしまう。
ふいに珊瑚がこちらを向くとき、慌てて目を逸らすのに苦労した。

「それで、たまにひとりになりたい時、こうしてここに来るのだ」
「そうなんだ。でもね、このあたりはちょっと物騒だからね。さっきの連中みたいなのが
けっこういるんだ」

ちょうど村はずれにあり、近くには燃え落ちた砦跡や洞窟もある。
その辺の平地では幾多の戦も行われた。
合戦逃れの落ち武者や野武士、野盗に野伏と、破落戸どもの隠れ家には事欠かない。

また、近隣の村人たちも油断がならない。
不作だったり年貢が厳しかったりすると、善良な農民が盗賊団に変身することも珍しくない。
合戦後の戦場跡に、取り残された負傷者や死体から武具や金目のものを奪い取ることもあった。

「だから今度こっちに来る時は、やっぱり家来の人に来てもらった方がいいよ」
「……」
「ひとりになりたい時は、もっと別の安全な場所じゃないとね」

珊瑚はそう言うと立ち上がり、お尻のあたりをぽんぽんと叩いて砂埃を払った。

「行こ。途中まで送ってってあげるから」
「さ、珊瑚……」
「なに?」

急に思い詰めたような顔になった若殿様を見て、珊瑚はきょとんとした。

「そっ、その……、た、頼みがあるのだが……」
「頼み?」

少年はごくりと唾を飲み込んだ。
萎えかける心を叱咤して言う。

「珊瑚に体術を指南して欲しい」
「は……?」

体術とは、格闘技のことである。
つまりは、さっき珊瑚が披露した技を教えて欲しいということだろう。

「え、でも……」
「先ほどのおぬしの技のキレ、感服いたした。何とぞ」
「そんなこと言ったって……」

珊瑚が戸惑うのは当然である。
定康ほどの家なら、指南役の侍はいくらでもいるだろう。
何も部外者の珊瑚が教えるべきものではないはずだ。
珊瑚がそう言うと、少年は激しく首を振った。

「確かに、儂にはさまざまな指南役がついておる。剣術、槍術、馬術、弓術、鉄砲術も。
もちろん体術にも指南はおる。役不足だとは思っておらん。だが、今のそなたの技を見て思った。
儂はそなたにこそ教授してもらいたい、と」
「いや、あのね……」
「そなたの技は極めて実戦的だ。指南役の術もなかなかのものだと思うが、敵を前にしての真剣
勝負、命をやりとりする場面では、そなたの技こそ有効だと儂は思う」
「でもね、若さま……」
「若さまはやめてくれ。名で呼んで欲しい。みな源八郎と呼ぶ」
「じゃあ源八郎さま」
「その『さま』もだ。珊瑚、そなたの方が年上であろう。それに儂の家来でもない。儂は年上の
者に『さま』と呼ばれるほど、経験を積んではおらん」
「……」

何を考えての申し出かはわからないが、生半可なものではないらしい。
それに、殿様の息子ということでちやほやされているだろうに、しっかりと自分を見つめても
いるようだ。
そんな時間もないだろうし、当然断るつもりだった珊瑚だが、少々迷ってきた。

「頼む、珊瑚。これ、この通り」
「わかったから、頭下げるのやめてよ」

再びぺこりと頭を下げた源八郎の肩を叩いて珊瑚が言った。
小なりとは言え、武家殿様の子にお辞儀されるのも居心地が悪い。
源八郎の目がパッと輝いた。

「では、引き受けてくれるのか!?」
「あ、いや、そうじゃなくって……」
「……ダメなのか?」

源八郎の真摯な、そして困ったような目を見て珊瑚も困った。
どうやったらこの純真そうな少年の心を傷つけずに断れるだろうか。

珊瑚は、退治屋の里で、それこそ血の滲むような鍛錬を積んで技を身につけた。
彼女はそれを当然のように受け入れ、修練を重ねた。
長の娘であることは、誇りであると同時にその力量を常に示さねばならないのである。
長の一族が軟弱ではお話にならないのだ。

そして珊瑚が十六の年、里は滅んだ。
つまり彼女は、鍛えられたことはあるが、人に教えたことはないのである。
だから、いきなり「教えろ」と言われても戸惑うばかりだし、半端な教え方では教わった方
に悪い。

少年は必死に縋った。

「頼む、珊瑚。どうしてもそなたに教わりたいのだ」
「いや、だから……。困ったなあ……」
「儂に教えるのはそんなにイヤか?」
「あ、そうじゃないのよ。そうじゃないんだけど……」

源八郎の瞳の色に珊瑚は動揺する。
武士としての真剣さと少年の純真さを併せ持った目だった。
真面目そうなこの少年が、ここまで頼んでいるものを断るというのも、何だか意地悪している
ような気にすらなってくる。

源八郎が少し言いづらそうに言った。

「失礼だとは思うが……。もし……、もし礼金を払うと言ったら受けてくれるか?」
「礼金?」

少年は、言ってしまってから後悔した。
珊瑚はそんな女ではないと思う。
カネで何とかならないか、なんて言ったら逆効果ではないのか。
しかし源八郎はなり振り構っていられなかった。
珊瑚を指南に口説き落とすためならどんな手でも使いたい。
邪だと自分でもわかっている。
本音を言えば、体術を教わりたいというより、珊瑚と一緒にいたいだけなのだ。

「礼金か……」

一方、珊瑚は別のことを考えていた。
彼女が躊躇していたのは、彼女に指南役としての経験がないことと、その時間がとれるか
わからないということだった。
いい加減な気持ちで安請け合いして、結局中途半端になるというのは少年にも悪いし、珊瑚も
自分が許せない。
しかしそこにカネが絡むなら話は別である。
この辺はかごめとの大きな違いだろう。

かごめは二十一世紀の世界で、扶養家族として養われる立場である。
まだ子供の範疇であり、社会や親から護られるのが普通なのだ。
仮にかごめなら、この時の源八郎の願いは快く引き受けるだろう。
ましてカネを払うと言われても謝絶するはずだ。

一方、珊瑚はこの十六世紀の時代の中、自分の身ひとつで生きている。
年齢こそかごめと変わらないが、社会的な年齢では遙かに上なのである。
扶養されているのではなく、自分は自分で食わせなければならない。
里がなくなって以降は余計にそうである。

従って、カネになるということには珊瑚は敏感なのだ。
世の中、結局カネがなければ生きていけない。
それは昔も今も同じだ。
どんなに綺麗事を言っていても、生きていなければどうにもならない。
それにはカネが不可欠なのだ。
といって、誤解しないで欲しいのは、珊瑚はカネのためなら何でもするというわけではない。
受ける受けないには、彼女なりの倫理観や好みもあるのである。

もうひとつ、これは珊瑚自身も気づいていない可能性もあるが、カネで納得する、という
効用もある。
少々気が進まない仕事でも、気に入らない相手の依頼でも、カネを貰ってしまえばそれは
仕事であり、プロなら仕事はきちんとこなす、ということだ。
カネを貰うことによって、いい加減な気持ちで仕事をしないという規制にもなる。

それ故、珊瑚は考えた。
ここで源八郎の申し出を受けて指導料を取ることにすれば、自分も「適当にこなせばいい」と
いう甘い気持ちはなくなる。
カネを貰ったのだから仕事だということになる。
仕事として受けた以上、いい加減なことは出来ない。
そうすれば、きちんと少年を指導出来るのではないだろうか。
珊瑚はそう考えることにした。
彼女はどうやって断ろうかという気持ちとは裏腹に、この子の願いを聞かざるを得ない理屈を
探していたのだろう。

「うーん……」
「……」

珊瑚は源八郎の澄んだ瞳を見る。
少年が必死になるのもわかる気がした。
源八郎が原嶋の跡取りだとすれば、恐らく彼は騎馬武者となろう。
ならば騎馬や剣術を習った方が身のためだと思いがちだが、実のところ格闘術をマスターする
のも必須なのだ。

いかに騎馬武者とは言え、敵中に突撃していけば乱戦になる。
「将を射んと欲すれば、まず馬から射よ」という言葉もあるように、騎馬兵を討ち取るには
馬を狙うのが上策である。
言うまでもなく、人より馬の方が大きく狙いやすいからだ。

いきなり殺す必要はない。
馬の尻でも腹でも、槍を打ち込んだり刀で刺せば、その苦痛と衝撃で馬は後ろ足で立ち上がる。
そうすれば当然、乗っている武士は落馬する。
そこを狙うのだ。

結局、白兵戦となれば、おのおのが格闘してケリをつけるしかないのだ。
肉弾戦に於いて槍は無力だ。
長すぎるのである。
だから刀で渡り合うわけだが、これは斬り合いなどというものではない。
自分も相手も鎧兜で装甲している。
その上から闇雲に斬りつけても、刀は曲がり、折れるだけだ。
この場合、刀を使っても、ひたすら相手と殴り合うしかないのだ。
ほとんど棒っ切れと同じである。
相手が殴られて気を失うまでやる。
だから、この時代の刀は、切れ味の鋭いものよりは丈夫で折れないものの方が重宝された。

その刀すら失ったら、あとは素手での格闘戦だ。
これに勝った者が最終的な勝者たり得るのである。
取っ組み合いの末、相手を地面に押さえつけて鎧通しなどの短刀で首を掻き切るのだ。
そのための必須修得事項が体術というわけだ。

珊瑚は考える。
まだ発育途上の少年だから、大力にものをいわせた力戦には向かないだろう。
となれば、珊瑚の得意とする敏捷さを活かした体術がいいのかも知れない。

「よし」
「えっ?」
「わかったわよ、源八郎。あたしでよかったら教えてあげるわ」
「本当か!?」

少年の目が輝く。
それを見て珊瑚も何となく嬉しくなった。
だが念を押すことは忘れない。

「その代わり」
「……」
「代金を受け取って教えるからにはあたしも妥協はしないわよ。簡単にへこたれないでね」
「わかっておる」

源八郎は力強くうなずいて了承した。




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