「君」
「……は?」

校舎の裏庭で突然呼び止められた男子生徒が振り向いた。
彼が声の方を向くと、そこにはひとりの女性が立っていた。
若い女性だが、高校生の彼よりは年上に見える。
髪は黒く、ショートである。
やや無造作に切ったシャギーになっているのは、もともとは長かった髪をばっさり落としたのかも知れない。
大きめの目の中にある黒い瞳が美しかった。
メリハリのついたボディで、実に女性らしい。
全体としてスリムだが、出るべきところは出ている。
少し大人びたイメージとルックスを持った美人だ。

この高校──尚敬高校の生徒ではないらしい。
制服が違うのだ。
尚敬高校の制服は臙脂色である。
目の前の美人が来ているのは、白を基調に肩から黒いイミテーション・レザーのラインが降りているスーツスタイルのものだ。
肘から下がグレーのツートンカラーになっている。
胸元の大きな赤いリボンが特徴的だ。
そして、上着もキュロットも、裾が大きく開いている。
機能的なんだか、そうでないんだかよくわからないユニフォームである。
その半ズボンからスラリと伸びている脚が美しかった。
男子生徒がぼんやりしていると、美人が言った。

「そう、君」
「……」
「悪いけど、設営委員長のところに連れていってくれないかしら?」

設営委員長に用があるということは、うちの戦車学校の生徒らしい。
よく見れば、舞と同じ制服なのだ。
しかし、こんな女は見たことがなかった。
生徒数の少ない学校のはずなのだが。
取り敢えず返事をした。

「はい」
「よかった。ありがとう。助かるわ」

女はニッコリ笑って礼を述べた。
そして、前に立って案内しようとする男子生徒に追いつき、肩を並べて言った。

「そう言えば、自己紹介してなかったっけ。はじめまして。原 素子(はら もとこ)です。よろしく」
「あ……」

男子生徒は、幾分慌てたように原の方を見、少し顔を赤らめて答えた。

「は、速水厚志です。学兵です」
「学兵なのはわかってるわ。尚敬高校は女子校だし、ここに男子がいるとしたら、ここに間借りしている戦車学校の学兵か、あとは女生徒狙いのヘンタイさんくらいだしね」

原はそう言って笑った。

「君……、速水くんだっけ、君の制服、戦車学校学兵のものだものね」

だからこそ原は、速水に声を掛けたわけである。

「そんなに緊張しなくてもいいわよ、取って食やしないから。ご覧の通り、私もこの小隊に配属になったの。確かに君よりお姉さんだと思うけど、
せいぜい1,2歳くらいだしね。でもここじゃ君の方が先輩よ。よろしくね、センパイ」

原はそう言って速水を見た。
中肉中背より、やや痩せ型だろうか。
167センチある原より、少し小さい。
165センチはないだろう。
童顔に近いが、16,7歳といったところか。
原自身は、もう学校は卒業しており、年齢は19歳だ。
綺麗なお姉さんに親しく話し掛けられて恥ずかしいのか、速水は顔を染めて足を速めている。

校舎裏から5分もしないうちにその場所が見えてきた。
尚敬高校の裏庭に間借りしている戦車学校のプレハブ2階建て校舎。
その西手にある、これもプレハブ作りの平屋の小隊長執務室へふたりは向かった。

「失礼します」

速水は少し緊張した風に、小隊長室のドアをノックした。
小隊長──部隊設営委員長も、先日ここへ着任したばかりである。

「あの、お客さんをお連れしました。……あ、速水です」
「……どうぞ」

速水の、およそ軍人──まだ候補生ではあるが──らしからぬ物言いに呆れたのか、中の小隊長はやや遅れて来室を許可した。
声に促されて速水がドアを開けると、原が先に立って入室する。
そして、ほんの僅か、デスクに座る男を見つめ、すぐに表情を消して申告した。

「遅れました。第11整備学校34班主席、原 素子であります」
「善行です。後は書類に書いてありますから、見ておいてください」

背筋を伸ばし、非の打ち所のない姿勢でピシッと敬礼した原に対し、善行忠孝設営委員長も立ち上がり、鷹揚に答礼した。

「……はっ」
「装備のほうですが、何時くらいになりそうですか」
「すぐです」
「分かりました。では、整備主任の顔見せがてら、みんなを集めることにしますか」

そこまで言って、善行は気づいた。
原の肩越しに、まだ速水の顔が見えるではないか。

「……速水くん」
「あ、はい」
「ご苦労でした。もう戻ってよろしい」
「はっ」

原も振り返り、頼りなさげな学兵を見送った。
そして彼が出ていったのを確認すると、少し表情を変えて、彼女の小隊長に言った。

「……おひさしぶりね」
「そうですね」
「相変わらず、女をとっかえひっかえして遊んでいるんでしょ」
「……」
「私は変わったわ。髪も切ったし、眼鏡もやめたから、分からなかったんじゃない?」
「……」
「あなたはもう忘れたかも知れないし、忘れたいかも知れないけど、踏みつけられた人間は、そのことをよく覚えているのよ。せいぜいお悩みあそばせ」

善行はくるりと背を向けると、事務的な口調で言った。

「……部隊に招集をかけます。あなたの方も準備してください」

原は黙ったまま、これも手本になるような敬礼をして部屋を後にした。

────────────────

1939年9月1日、当時のドイツがポーランドに突如攻め込んだことにより始まった第二次欧州戦争。
直ちにフランス、イギリスがドイツの暴挙に対し宣戦を布告した。

ヨーロッパを代表する海軍国と陸軍国を同時に相手することとなったドイツに勝ち目は薄いと思われたが、驚くべきことに彼らは僅か4週間で
ポーランドを屈服させてしまった。
そして精強を誇った大陸軍国のフランスをも一ヶ月で降伏に追い込んでしまう。
加えてイギリスまでヨーロッパ大陸から追い払われ、本国に押し戻されてしまう有り様だった。

1941年12月8日の日本による真珠湾奇襲で、ようやくアメリカも重い腰を上げて日本並びにドイツに対し、宣戦布告する。
これによって、ほとんどの国を巻き込んだ世界大戦の様相を呈することとなったのだ。

緒戦こそ、奇襲効果もあって戦争を優位に進めた枢軸軍だったが、イギリス攻略に失敗したドイツは大国ソ連に手を出し、無謀とも思える二正面作戦を
展開して自らの首を絞め、日本も油断と過信に溺れ、アメリカの底力に圧倒され始める。
そしてドイツはスターリングラードでの大敗、1944年の連合軍によるノルマンディ上陸を許して、一挙に戦局を覆された。

日本も、海軍が1942年のミッドウェイ海戦での空母機動部隊の全滅という惨敗で躓き、陸軍はガダルカナル戦で大敗し撤退、サイパンを
喪失して絶対国防圏が崩れた。
なおも海軍はマリアナ、フィリピン、そして台湾沖で連合艦隊がほぼ壊滅し、陸軍はニューギニア、インパールで愚行を繰り返し、貴重な戦力を失い続けた。

血で血を洗う激戦を繰り返し、枢軸側であるドイツと日本の敗勢が色濃くなってきた1945年に、それは起こった。

黒い月の出現。
そして人類の天敵の出現である。
人類の天敵は「幻獣」と呼ばれた。
神話時代の、伝説の獣達の名を与えられた生物である。
それまでの生物の常識を覆したそいつは、生殖もせず、口もない。
従って、体内に蓄えられたエネルギーが尽きるまで活動し、死滅する。
幻のように現れ、死んで幻に帰る。
幻獣と呼ばれる所以である。

彼らに目的はなく、ただ、人を狩る。
それのみの存在であった。
他生物や人類の使っていた一切のものには関心がなく、ただ人間を殺すためだけに現れた人類の天敵。
人類は、それが何であるかを理解する前に、そして人類同士の戦いの決着を見る前に、まず自身の生存のため、天敵と戦うことを余儀なくされた。
こうして、連合国側も枢軸国側も、休戦協定や停戦協定を結ぶ余裕もないままに、連携した対応を迫られたのである。

それから半世紀。
まだ両者の決着はつかず、戦争は継続されていた。
幻獣たちの力──というより、その数は圧倒的で、じりじりと人類はその生存圏を削り取られていった。

1997年4月、朝鮮半島での撤退戦を最後に、人類は約4000万人の犠牲者を残してユーラシア大陸から駆逐された。
人類同士で使うはずだった核ミサイルをぶち込み、焦土作戦を展開し、群れていた幻獣をところどころで葬り去ってきてはいたが、万単位どころか
億単位で攻めてくる相手には焼け石に水であった。
人類に残されたエリアは、南北アメリカとアフリカ南端部、そして日本列島のみとなっていた。

幻獣唯一の弱点とされる酷暑。
それによって発生する自然休戦期が終わった同年9月、彼らはいよいよ日本に侵攻を開始する。
九州西岸に上陸した幻獣群を迎え撃った日本は善戦し、粘り、1998年冬まで戦場を九州地区のみに収めていた。
しかし九州地方南部での大規模な戦闘──八代平原会戦に於いて、日本軍は壊滅的なダメージを受ける。
攻め寄せる1400万の幻獣群に対し、日本自衛軍は陸上自衛軍ほぼ全軍である48万の兵力を投入した。
自衛軍は同地区の80%以上を焦土とするほどの生物・化学兵器を使用、幻獣を追い払って一時的な戦術的勝利をものにする。
だが、この戦闘で失った戦力はあまりにも大きく、48万のうち実に30万を永久に失うこととなったのである。

回復不能と思われる戦力喪失に対し、日本の首脳はふたつのことを政府決定した。
ひとつは、熊本を要塞化することである。
仮に他の九州全域が陥落したとしても、熊本で頑強に粘っている限り、幻獣は本州、四国に攻め込むわけにはいかなくなる。
その後ろから熊本に食いつかれるからである。
同時に、本州決戦までの時間稼ぎ、兵力温存と新戦力の育成まで保たせようというわけだ。

もうひとつは、若年層の強制徴兵である。
それまで18歳以上の男女に課せられていた兵役年齢を、一気に14歳〜17歳までに引き下げたのだ。
学籍にあるまま集められた少年少女の数、およそ10万人。
これを促成訓練のみで熊本要塞へ送り込み、本土決戦のための正規兵と兵器を新造するための時を稼がせる。
少年兵たちの犠牲は折り込み済みで、彼らが生還することは期待していなかった。

戦死を義務づけられた、いや、押しつけられた彼らを養成する学校のひとつが、ここ第62高等戦車学校であった。

────────────────

大型のトレーラーが何台も裏門から入場し、まだ学校に残っていた尚敬高校の女生徒たちを驚かせている。
その荷台には、シートを掛けられた「戦車」が載っていた。
その様子を見守っていた原整備班長は、後ろにいた善行に振り向きもせず聞いた。

「委員長、展開の許可をください」
「お願いします」

背中で善行の言葉を確認し、テキパキと指示を出す。

「みんな、テントを展開して。すぐ士魂号のセットアップを開始するわ」
「了解しました」
「予備部品の確認急いで。生体部品はすぐ冷凍を開始!」

トレーラーとともに、今到着したばかりの整備員たちが、乗ってきたトラックから飛び降りると慌ただしく駆け出していく。
原は、そこにぼんやりと突っ立っていた連中にも遠慮なく命令した。

「パイロットさんたちも、暇ならテントの設営を手伝ってくれる?」

原の、凛とした指揮っぷりに見とれていた学兵たちも、それを聞いてシャンとする。
部隊の先任下士官である若宮軍曹が、すかさず候補生たちに指示を飛ばす。

「了解しました!  瀬戸口、速水、滝川、駆け足!」

校舎の裏庭、そのほぼ中央に、巨大な整備場が仮設されていく。
整備場と言えば聞こえは良いが、これもプレハブとビニールテントによる急造建造物である。
あっと言う間に形になっていく整備棟に呆気にとられながら滝川が善行に言った。

「裏庭の真ん中に作ったら、また人気が下がりそうですね」
「場所をくれなかった方が悪いんですよ」

善行司令は、すでに数日前から整備棟の設営場所を申請していたのだが、尚敬高校側が返答しなかったのである。
軍命令だから従わざるを得ないが、余計な客には違いない部隊である。
陰に日向に嫌がらせはあるわけで、いちいちそれにつき合ってはいられない。
場所の指定がなかった以上、どこに建設しようがこっちの勝手というわけである。
善行は、相変わらずこちらを向かない原の背中に聞いた。

「使えるようになるにはどれくらいかかりますか」
「最短で5日は。可能な限り急がせますが」
「お願いします」

部隊設営副委員長として善行を補佐することになるであろう整備班長は、もう彼とは口も利きたくないのか、振り返りもせずに言った。

「……ヨーコさん、それは右に。……分かりました。指揮があるので、失礼します」
「……」

足早に歩み去る原を、軽くため息をついて見送っていた善行に、また滝川が言う。

「きつい人ですね」

正直な感想に、善行は思わずうなずきそうになりながら答えた。

「私が悪いのかも知れませんよ。まあいい、テントの設営が終ったら、パイロットを休ませます。パイロットは十分な休養をとらなくては」

善行は滝川を作業に戻らせ、若宮にいくつか指示を与えると小隊長室へ帰っていった。


整備場がとにもかくにも使用可能になったのは、原整備主任の宣言通り、5日後だった。
各パイロットは早速、自機となる人型戦車と対面し、ある者は感激し、ある者はうんざりする。
そして、整備員に指導されながら、危なっかしい手つきで調整を始めるのだった。

────────────────

その日の深夜。
整備棟二階の一角で小さく明かりが灯っているのが、原の目に入った。
整備員が消し忘れたかと思い、一階から見上げると、誰かが士魂号をいじっているようである。
まだ残っているのがいるのかと思い、美貌の整備班長は足音を忍ばせて昇っていった。

薄暗い中、速水は士魂号を舐めるように観察していた。
手にはパイロット用の操作系ハンドブックを持ち、台車の上には工具箱と分厚い整備マニュアルが2冊載っていた。

士魂号は日本で初めて──というより、世界初の人型の汎用戦車である。
日本以外の国でも、試験的かつ実験的に開発されたことはあるが、実用兵器として運用されたのはこれが最初だ。

体長9メートル。
乾燥時重量7.5トンで、
戦闘重量は8.8トンにもなる。

速水が乗り込むことになるのは複座型と呼ばれるもので、乗員は2名だ。
単座型の通常型士魂号と異なり、背中に大きな後部ユニットを搭載している。
複座型はそこにマイクロミサイル・ポッドを装備し、電子戦用装備を背負うことになる。
単座型に比べ、10倍以上の電子・情報機器を積んでいるため、パイロット以外にそのオペレータが必要となるのだ。
少年は手にしたマニュアルを繰りながら、直接「士魂号」に触れてぶつぶつ言っている。

「……ふぅん、確かにこりゃ華奢だな……。基本的に装甲は一切なし、か」

装甲なしで戦車とはおこがましいが、士魂号の基本コンセプトは「人を積んだ電子機材に歩行器とマニピュレータをつけたもの」だから、これは致し方ない。
そうでなくとも重量がありすぎて、余計な装甲を(余計でないものまで)つける余裕がないのである。

そもそも士魂号は、幻獣の攻撃を受け止めるようには出来ていない。
攻撃されたら「逃げる」「避ける」が基本だ。
そこそこの装甲を着けたところで、結局はミサイル一発喰らったら、そこで致命的なダメージを受けるのは変わりないのだ。
故に、装甲は後付するタイプばかりで、装着すればしたで重くて動きにくいのである。
特に、肩に載せて上半身を守る増加装甲などは、著しく戦闘行動を制限してしまう。
戦車兵たちも、戦闘に慣れてくると装甲は徐々に外してしまうらしい。

とはいえ、ベテランはそれでいいだろうが、速水のようなインスタント兵ではそうもいかない。
重くて無駄でも、装甲を着けているだけで安心感が出てくる。
その心理的効果は無視できなかった。
士魂号の膝蓋骨にあたる鋼板をぐっと押すと、そこが浮いた。
それをずらすと、中に小さなボタンがある。
速水がそれを押すと、腿とふくらはぎを覆っていた炭素カーボンが外れ、中から白っぽいものが覗いている。
あまり金属的なイメージのないそれは「人工筋肉」と呼ばれるものだ。

「随分、熱心なのね」
「!!」

集中している時に後ろから声を掛けられ、速水は心臓が止まるかと思った。
ハッとして振り向くと、今日、知り合った顔がある。

「原さん……」
「もう23時過ぎよ。整備員たちもみんな帰ってるのに……」

少年兵は少し慌てた風に言った。

「は、原さんもまだ残ってるんですね」
「あら、私はこれでも班長だもの。整備班のみんなが帰ったのを確認して、整備棟を最後に一回りしてから帰るのが当たり前でしょ」
「偉いんですね」
「士官だものね、それくらいは最低限やらないと」

そう言いながら、原は速水が持っていたハンドブックを覗き込んだ。

「どう? 少しはわかる?」
「いや、まだ初日ですから、とてもとても……」
「そりゃそうね」

恥ずかしそうに頭を掻く少年を好ましそうに見ながら原も笑った。

「でも、パイロットさんたちがやらなきゃいけないのは、整備よりもむしろ調整の方よ」「調整?」
「そう。神経系統の接続とか照準システムとかね。もちろんそういうのも、各機体ごとに標準値が入ってはいるんだけど、量産機といえども機体
ごとにクセっていうのが、どうしてもあるのよ。乗車するパイロットのクセや好みもあるから」
「……」
「だから、その標準値のまま一度乗ってみて、フィーリングが合わないところなんかを、細々いじるのよ」
「案外、アナクロなんですね」
「まあね。いくら多目的結晶があるとはいってもね、いざという時は結局自分のカンとかが頼りになるらしいわ。それを士魂号に憶えてもらうって感じね」
「なるほど……」
「ま、整備の方は私たちに任せてちょうだい。餅は餅屋ってね。あなたたちも、傷んだ部品交換とか、簡単な修理くらい出来た方が、戦場で役には
立つでしょうけどね」

一緒にかがみ込んでいた原は、速水の肩をポンと叩くと立ち上がった。
その時、すっと伸びていく綺麗な太腿とふくらはぎが少年の目に入った。
褐色のストッキングに包まれた脚が美しい。
見とれていた速水に整備班長が言う。

「さあ、もうあなたもお帰りなさい。いくらなんでも、もう遅いわよ」
「はい。失礼します、副委員長」
「気を付けて帰ってね」

────────────────

翌日、授業が終わると、速水はコンビを組む芝村舞とともに整備棟へ向かっていた。

「芝村」とは、1970年代から急速に勢力を強めてきた一族である。
国内の政財官内部に、圧倒的かつ隠然たる力を持ち、日本を思うままにしてきている。
短期間にここまでのし上がったのだから、通常人の感覚から見て汚いやり口も多数あった。
もっとも、彼らはそんなことは毛の先ほどにも気にしてはおらず、いかなる手段を使おうとも自分らの目的を果たしてきたのだ。
ムリに成り上がってきただけに、芝村一族に対する世間の目は冷たいし、憎悪もある。
芝村たちが一向にそんなことに頓着しないことも、余人の白眼を強める一因でもあった。

舞は、本人曰く、その芝村一族の末姫である。
極めて博識で抜群の判断力を持った少女で、強引とも言えるほどの行動力が特徴だ。
本人は容姿などには頓着していないが、かなりの美形ではある。
年齢は速水と同級で17歳。
これは芝村一族の特徴なのであるが、非常に高飛車なのが玉に瑕だ。

いや、高飛車というわけではないのだろう。
自分は他の人間たちとは違うという、明確な認識があるだけだ。
本人はちっとも威張っているというつもりはないし、相手を蔑ろにしているつもりもないのだ。
言ってみれば、城内で育てられた世間知らずのお姫様といったところだろう。
事実、彼女の隊内での通称は「姫」である。

実際、舞の知識は学問に留まらず、様々な分野に及ぶ。
しかしその反面、育て方に問題があったのか、一般的な常識についてポッカリ抜けているところがある。
天然ボケなどというものではなく、本当に知らないらしいのだ。
舞はそのことを速水に指摘されるごとに、顔を赤らめて父親を非難する。
「あの男はウソばかり私に教えて、私が恥をかくのを見て喜んでいる」と。
「あの男」とは、どうも父親のことらしかった。

舞が原整備班長のところへ行っている間に、速水は二階のハンガーへ行った。
すると、小柄な少年が少し厳しい顔をして近づいてきた。

「速水、あんまりあの女に関わるなよ」

二号機パイロットの滝川陽平だ。
まだ戦車学校が出来たてで学兵数が少なかった頃、唯一の同年同性だった少年だ。
速水はどうでもいいと思っている存在だったが、滝川の方は積極的に彼へ近づき、親交を深めたがった。
自称「速水の親友」というわけである。

「そうです、芝村さんて少しヘンですよ」

同意したのは、その隣で機体を見ていた壬生屋未央である。
単座の一号機の乗員だ。
なぜか彼女だけは制服を着用せず、赤い袴と白い上っ張りだ。
巫女の装束かと思って訊いたらそうではなく、古武道の胴着なのだそうだ。
速水などにはよくわからないが、薙刀や真剣の居合をやるらしい。
漆黒の髪を腰まで垂らし、穏やかそうな表情をしているが、これでなかなかきついところもある。

「いくらコンビを組まにゃならんつっても、あんまり一緒にいるとうつるぜ」
「ええ。あんな人と一緒に士魂号に乗るというのは命令なんでしょうけど、それ以外は構わないはずでしょ?」
「絶対おかしいって、あいつ。当たり前のような顔して、世界を征服する、なんて言ってんだぞ」

事ほど左様に、舞の評判はすこぶる悪い。
別にパイロット仲間に限ったことではなく、整備員たちにも陰口を叩かれているのだ。
士官である善行や原、教官の本田や坂上などは話すが、それ以外の連中は、まともに舞と口も利かない状態だ。
舞の方だって、そんな状況が居心地悪いと思っているようではあるが、どうしていいのかわからないらしい。
速水はそんな中、友人たちに「要らぬお節介」と言われながらも、舞と接しているのであった。
もちろん憐憫など感じているわけではない。
彼には彼の考えがあるということだ。
それは滝川や壬生屋とは次元が違うレベルなのであった。

「……」

カンカンと階段を昇る音がし、それが舞だとわかると、未央も滝川も、何事もなかったかのように、その場を離れた。
舞はそれをちらと一瞥したが、すぐに視線を逸らした。

「どうだ、速水」
「うん。順調かな」
「そうか」

舞は、膝を着いて士魂号のアクチュエータをいじっている速水の隣で屈んだ。
そして顔を近づけるようにして、あれこれ話している。

「前回の訓練の際はどうだった。何か問題はあったか?」
「そう言えば、加速した時、少しGがきつかったかな。そっちは?」
「そうか。いや、私の方は特に問題はなかった」

滝川と未央は、そんなやりとりを面白くなさそうに覗き見ている。
文句を言いたいのだが言えない。
そんなやるせなさを感じていた。
そのうち、目配せをし合うと、その場から離れてしまった。
舞は自分が嫌われていることは承知しているし、表向き、そのことを何とも思ってはいない。

しかし、まだ17歳の少女である。
常にそんな雰囲気に晒されていれば、さすがに息が詰まる。
だから彼女がハンガーに来るのは、やむを得ぬ事情がない限りは、こうして速水がいる時か、あるいは誰もいない夜中か早朝だった。
未央も滝川も去ったというのに、舞はどことなく居心地悪そうだった。
整備員たちも白い目で見ているからである。
舞は、自分を睨め回す視線の元を軽く見返してやる。
すると、それまで遠見に彼女を見ていた森や狩谷といった連中は、慌てて目線を逸らすのだった。

「……ふん」

少女は鼻を鳴らすと立ち上がった。

「速水、三号機の調整はそなたに任せる」
「君は?」
「従兄弟どのに陳情してくる。予備のアビオニクスと人工筋肉を寄こせとな。三号機は、もう少し機体性能を上げる必要があろう」

芝村の少女はそう言うと、タラップを足早に駆け下りていった。
その後ろ姿を見送るように、美貌の整備主任が速水機に近づいてきた。

「あ、原さん……」
「相変わらず熱心ね。感心、感心」

原はスラリとした肢体を屈ませ、ニッコリして言った。
そしてすぐにその表情を消すと、少し厳しい顔になる。

「……そう言えば、この機で君は芝村さんとチームを組むのね」
「はあ」

少年戦車兵は、曖昧に答えながら腰を伸ばした。
速水が、頬についたオイルを制服の袖でこそぎ取る様子を見ながら、原は言う。

「こんなこと言うのは何だけど」

少し顔を逸らして言葉を続けた。

「……あまり関わり合いにならないほうがいいわよ。あの人の実家、悪い噂しか聞かないわ」
「……」
「もちろん、君は一緒に士魂号に乗らなきゃならないんだから、話をしないわけにはいかないでしょうけど」
「はあ……」
「でも、それだけにすることね。授業中や休み時間、プライベートな時にまでつき合う必要ないわよ」

速水は原の顔を覗き込むように訊いた。

「あの、原さんは舞のこと……芝村さんのことをご存じだったんですか?」

原は第62戦車学校──第5121独立駆逐戦車小隊へやってきてから、まだ日が浅い。
ここに来る以前の舞を知っているのだろうか、と思ったのだ。

「知らないわ。知るわけがない」

原は強い口調でそう言った。
芝村一族のことを詳細に知る人はいないだろうが、同時に芝村一族を知らない人もいないだろう。
誰でも知っているが、誰も知らない。
それだけ芝村とは世界に影響を与えているということだろう。
原は、額に垂れた髪を軽く梳くようにして言った。

「……芝村のお姫様のね……目が、嫌いなのよ。吐き気がするわ。世界は自分の物と、信じて疑わない目」
「……」
「私たちはあの一族のために存在しているわけではないというのに」

そこまで言うと、原は表情を緩めた。

「あらあら、君がそんな顔しなくていいのよ。君を非難したわけじゃないんだから」
「はあ……」
「ただ。わかるでしょ? 芝村さんとはつき合わない方がいい。わかった?」

整備主任は速水の肩をポンと叩くと、そう言い捨てた。

原は、何となく少年が気になっていた。
何しろ熱心である。
ことあるごとにハンガーに訪れ、士魂号をいじっているのだ。

もちろんパイロットが自機に拘り、調整するのは当たり前である。
だが、一号機の壬生屋にしろ、二号機の滝川にしろ、ここまで機体に気を使うことはしない。
そもそも、そうしたくも時間がなくて出来ない面もあるのだ。
パイロットの仕事からすれば、機体の調整や整備は、どちらかと言えば脇だ。
彼らは機体をいじるよりは、戦術を学び、武器の使い方を修得し、肉体を鍛え、士魂号に乗って実戦に出るのが本分である。
整備するために整備員がいるのだ、ということもある。
そんな中、彼、速水厚志だけは、とりわけ熱心に士魂号を見ているのである。
整備員たる原素子が好感を抱くのは当然だったと言えるだろう。

それともうひとつ、彼女は感じていた。
それは、もしかすると速水が自分に関心を持っているのではないか、という思いだ。
そう、原は速水の視線を感じていたのだ。

原がデスクで事務を執っている時、ロッカーの片隅からじっと見つめていたことがあった。
原が整備員たちを集めて訓令している時、その後ろから目立たぬように見つめていたこともあった。
原が士魂号を日常分解し、パーツをチェックしている時、機体の陰から覗き見ていることもあった。
その視線に熱いものを感じ、原はその考えに至ったのである。

彼女は美人であったし、気も良く、面倒見もよかったから、男はもちろん女性にも人気があった。
辛辣で手厳しいことを口にすることも多かったが、すぐに気の利いたジョークで周囲を和ませることも忘れなかった。
部下や後輩に対する面倒見もすこぶる良い。
人望があるのは当然だった。
モテたのである。
それも、同年から年下の少年少女に慕われることが多かった。
だから、速水のような存在は、過去にもいくらでもいたのである。
ただ違ったのは、原自身、速水に興味を持ち始めていたということだ。

彼女の好みというわけではない。
年下の男の子よりは、けっこう年の離れた年上の男性にリードされる方が、原の好みだ。
速水が、今までの原ファンと異なっていたのは、彼は彼女の容姿に惚れているようには見えなかったからだ。
少なくとも原はそう感じていた。
彼女は、自分が美人であるという自覚はある。
だからモテて当然だ、とは言わぬが、異性に人気があるということは的確に把握している。
だから、綺麗だと言われても、あまり感動することはないのだ。
心のどこかで、そんなことは当たり前だと思っている面がある。

その点、速水は、原の能力や勤勉さに憧れ、惚れているように見えたのだ。
そういう見方をしてくれる男性は少なく、また、彼女も自分の能力にある程度の自信は持っていたから、そう思ってくれる速水が嬉しかったのである。

だから気になった。
気になってくると、ますます彼の行動が好ましいものに思えてくる。
相乗効果になった。
原は、いつしか年下の可愛いパイロットに惹かれていく自分に気づいていた。

────────────────

速水が学兵として第62高等戦車学校に入校して2ヶ月。
原が配属されてから1ヶ月が経過した。
その間も、戦況は刻一刻と変化──というより、悪化していた。
幻獣軍は、熊本周辺に跳梁跋扈し、まだ経験のない若い候補生たちの心胆を寒からしめた。
大本営参謀部も、九州地区を統括する第4軍や西部方面軍も、もはや悠長なことは言っていられなくなっていた。

ここで、さらに速水たちへ過酷な決定がなされる。
教育期間の繰上げである。
そもそもこの機動歩兵とも言うべき戦車は精密機械であり、それに搭乗する戦車兵も、整備する整備兵も、通常より長い育成期間を必要とする。
だが、こう戦況が悪くなってくると、のんびり育てている暇がない。
それでも軍部は、この戦車が幻獣固体に対する切り札と見ていたため、一年間の教育を義務付けていた。

それが6ヶ月に短縮され、さらに3ヶ月になった。
速水たちが入学したのは、ちょうどその頃である。
だが、その後まもなく2ヶ月にまで減らされたのである。
本田や坂上ら、教官たちは悲憤し、苦悩した。
戦車の扱いがどうにかできるようになるのでさえ、半年は必要と見ていた。
残りの半年で徹底した実戦演習と戦術理論を叩き込み、半人前の兵士を作り出すのが彼らの職務だったからだ。

それが僅か2ヶ月。
これでは戦車を動かすことを覚えるだけで精一杯だろう。
だが、軍令部の命令には逆らえない。
彼らは心を鬼にして学兵たちをしごきあげた。
もう何度目になるのか数も覚えられない演習が終わり、速水たちは疲労した身体を引き摺って帰校した。

疲れているのはパイロットたちだけではない。
不慣れな彼らがこき使い、無理をさせた士魂号を修理、整備しなければならない整備兵たちも同様である。
機体の扱いに慣れていない素人連中が無理をさせるわけだから、通常より故障も異常も多くなるのは当然だ。

訓練と演習が予定を押して午後8時過ぎに終了し、ハンガーへ戻ってきた時には9時を回っていた。
各員の疲労が著しいと見た善行は、パイロットはそのまま帰宅を命じ、整備兵たちにも機体セットアップの準備だけして今日は帰宅するよう指示した。

午後11時近くになって、原もようやく帰る気になった。
すぐに帰るように言われていたが、その日の整備日誌だけはつけないと後が困る。
一晩過ぎると、さて昨日どうだったかという細かいところは忘れているものだ。
トラックの整備はそれでもいいかも知れないが、士魂号だけはそうはいかない。
ちょっとしたミスや思い違いが致命的な故障を招くこともあるのだ。
原の勤勉さは、その几帳面な性格にもよるが、それ以上に習慣になっていたというところもある。
こうして一日の作業の終わりに日誌をつけ、整備棟を一回りして行かないと落ち着かないのである。
寝る前の歯磨きみたいなものだと原は思っていた。

日誌を閉じると、座ったまま「うん」と軽く伸びをした。
さすがに少し疲れている。今日はこのまま帰って、シャワーを浴びたらすぐに寝よう。
少しお腹は空いてるけれど、あとは寝るだけだから夕食は抜いてしまおう。
ダイエットになってちょうどいい。
そんなことを考えながら、有能な整備班長はデスクの灯りを消した。

「あら、あなた……」

ハンガーを見回っていた原は、二階でまた彼を見つけて驚いた。
速水がまた居残りで士魂号をいじくっていたのである。
ゆっくりと歩み寄ると、少年兵に優しく言った。

「設営委員長から命令されてたでしょ? パイロットさんはすぐに帰宅せよって」
「はあ」

疲れているのか、それともぼうっとしているのか判別のつかぬ顔で速水は答えた。
みんなが言うように、ぽやっとした表情だ。
原は少しからかってやろうと、きつい声で言う。

「いいこと? 隊長が休めと言ったら、それは命令なのよ。パイロットさんは身体を休めるのも仕事なんだから」
「すみません……」

あまりにも速水らしい返事ばかりなので、とうとう原は吹き出した。
ぽややんの学兵が不思議そうな顔をしているので、笑いながら手を振った。

「ごめんなさいね、笑ったりして。でも、あなたっていつまで経っても軍人らしくならないのね」
「はあ、そうですか」
「軍人調っていうの、あるでしょう? 軍人だったら「了解しました!」とか「申し訳ありません!」とか、語尾に「……であります」とか、
そういうものなのよ。上官の若宮くんを見てればわかるでしょ?」
「はあ」
「確かにあなたたちはまだ学兵だけど、それでも一ヶ月も軍事教練を受けたら、普通は軍隊に染まってきて、口調くらいは一人前になるものなんだけど。
あなたは全然それがないのね」

速水は照れたのか、少し顔を赤らめて言った。

「はい、自分でも兵隊らしくないなって思ってますけど」

そんな少年を好ましそうな目で眺めて、先輩の女性士官が言う。

「でもね、あなたはパイロットなんだから兵隊にはならないわ」
「……どういうことでしょう?」
「士魂号パイロットは、基本的に士官だから。あなたもこの学校を……卒業だか追い出されるかしてパイロットになったら少尉に任官するはずよ。
いきなり将校さんね」
「はあ。普通は……」
「スカウト……歩兵とか、工兵とか、通常戦車兵とか、その辺は兵隊さんよ、最初はね。戦闘機なんかのパイロットも下士官以上が普通だけど、この戦況
だからどんどん一般兵でも乗せてるみたい」

士魂号の生産は増えているものの、まだまだ希少である。
よって、乗せるパイロットたちは選ばれたエリートであるのだ……建前は。

実際の戦場に於いては、士魂号が戦闘のメインとなることが多いため、小部隊を一時的に指揮しなければならない場合も多い。
つまり、士魂号の攻撃がしやすいように随伴歩兵たちに援護を指示したりするわけだ。
その場合、相手よりも階級が低ければもちろん、同じでもやりにくい。
部隊が別である上に、若いやつの命令など受けられるか、というわけである。
そこで軍令部は、年齢に関わらず、また育成期間や出身、方法にも無関係に、士魂号パイロットになったものは将校の階級を与えることにしたのである。
また、戦場に於いて指揮権を優先的に保有できるものとした。

速水は少し戸惑ったように聞いた。

「で、でも、将校と言われても……僕は部下を持つことになるんですか?」
「いいえ、それはないわ。まあこれから経験を積んで、どんどん出世すれば部隊指揮官くらいにはなれるかも知れないけど」
「でも士官て、うちで言えば設営委員長とか原さんとかですよね? 部下がいるじゃないですか」

それを聞いて、原はまたにっこりした。
善行のことは「設営委員長」と呼んでいるのに、自分に対しては名前で呼んでくれている。
本来なら「設営副委員長」あるいは「整備班長」と呼ぶべきなのに。
速水が自分に好意を寄せてくれていることを実感する。
原は軽く首を振って答えた。

「ううん。士官といってもね、2種類あるのよ」
「はあ」
「ひとつは、今あなたも言ったけど、私や委員長のことよね。これは兵員を管理して、部隊を運営し、作戦を立案して実行するのが仕事なの。
今のあなたたちのような普通の兵隊さんは、その命令に従うのが仕事ね。命令する仕事と、戦場で鉄砲撃つのが仕事。全然違うでしょ。だから将校
というのは士官学校っていう特別の、ていうか専門の学校に通わなくちゃいけないのね」
「それは、この戦車学校とか工兵学校とか、そういうのとは違うんですか」
「全然。兵員教育と士官教育は非なるものよ。それに、基本的に将校っていうのは職業軍人ね。商売でやってるわけ。ところがあなたたちのような
徴兵されてきた人とか、まあ志願の場合でも大差ないけれど、娑婆で別の職業持ってるけど兵隊にとられたって人はそうじゃないもの。ムリヤリ
引っ張ってこられたんだから」
「はあ」
「だから、あなたたちには任期というのがあるでしょ? 兵役よ。普通は2年よね。まあ今みたいな状況だと、兵役が明けてもすぐにまた徴集され
ちゃうんだけど。ところが私たちは仕事として軍人を選んでるわけ。だから、極端なことを言えば、戦争終わっても軍人さんなわけね。あなたたちは
戦いが終われば解放されるけど」

原は、小さな脚立の上にちょんと腰掛けた。
ほんの少しお尻が台の上に乗り、組んだ脚がすらっと見える。

「話を元に戻すとね、そういう士官学校を出て、さらにその上の陸軍大学とか空軍大学とか、そういうところまで行くような人たちは、もうたくさん
部下がつくのね。でも、中にはそうではない将校もいるわけ」
「というと?」
「それがパイロット……つまり、あなたたちね。元々は戦闘機パイロットなんかがそうだったんだけど、空戦でいくつも敵機を落として活躍する
じゃない? すると報奨はふたつあるの。ひとつは勲章で、もうひとつは昇進ね。勲章も、もらえば嬉しいけども、たくさん勲章もらったって昇進
できなきゃお給料も上がらない。だからどっちかっていうと昇進の方がいいわけよ。軍部もそれはわかってるから、目覚しい活躍をした人には
それなりに階級を上げなきゃならない。でも、その人は上に立つ者として教育を受けたわけじゃないから、いきなり部隊指揮官になれと言われた
って無理なのよ。だいたい、パイロットなんていうのは、自分の技量に自信を持った一匹狼が多くて、変わり者ばっかだもの。自分中心のお山の大将だから、部下を指揮するなんて出来っこないわ。だから将校は将校だけど、あんまり実権は
ないの。言ってみれば名誉職みたいなものかしらね」

無論、実戦叩き上げの士官もいるし、幾多の戦闘をこなしているうちに指揮能力を発揮してくる者もいる。
そういう人材は、もちろん軍でも指揮官としての職を与えるのである。

「そうですね……」

くたびれたのか、速水も座った。
床に直接、腰を下ろす。

「だから、ある意味、将校さんが威張るのは当たり前なのね。そうじゃなきゃ指揮が執れないから。階級や権威を使って、下っ端の兵隊に「死地へ
飛び込め」って命令しなくちゃならない。まあ、無意味に威張り散らすだけのおバカさんも多いから、士官は嫌われちゃうんだけど」
「原さんはそんなことないです」
「あら、ありがとう。お世辞でも嬉しいわ」
「お世辞なんかじゃないですけど……」

原は作業服の裾を捲り上げた。
整備員の作業服はツナギで、肌の露出はほとんどない。
全身を覆っているもののダブダブで、身体の線などちっともわからない。
ユニセックスの極みであるが、それでいて、この手の服装でも映える女がたまにいる。
それが原素子という士官だった。

捲くった裾から伸びた腕のラインが美しい。
肌もすべすべしていそうだ。
その原を、速水が喉を鳴らして凝視している。
原はクスリと笑った。
彼女は、女のどういう仕草が男に対して効果的なのかを知っている。
知っていて、速水に見せつけているのだ。

「そういえば、君はどうして戦車兵なんかに志願したの? 大変な兵科なのに」
「はあ、願書を出した時は、こんなところだとは思いもしなかったので」

それを聞いて、原はおかしそうに笑った。
本当にバカ正直な男の子のようである。

「でも、歩兵とか工兵とか、航空軍パイロットとか、そういうのに比べて、士魂号パイロットって、戦死率が少し低かったんですよ」
「……」
「だから、ですね。軍医だの整備科だのっていう専門職は、僕には無理ですし」

死にたくない、ということだろう。
無理もない。
まだ17歳の少年が、いきなり、そしてムリヤリ戦争に巻き込まれ、好むと好まざるとに関わらず、戦場に追い立てられるのだ。
何もわからずに。むざむざ死にたくないと思うのは、意気地がないということではないだろう。
それが生物としての、当たり前の本能に違いない。
原は、目の前の頼りない少年に、そこはかとない愛情を感じている。

原はちらと腕時計を見た。
もう深夜0時近い。
そろそろ速水を帰らせないとまずいだろう。

でも。
その前に確認だけしておきたかった。

原は立ち上がり、お尻の埃をポンポンと叩いて落としながら聞いた。

「ね、速水くん」
「はい」
「あなた、私のこと好きでしょ?」
「え」

速水もびっくりしたが、原の方は堂々としている。
彼女は、腹の探りあいのような言葉遊びは嫌いである。
言うことはストレートに言うタイプなのだ。
きっぱりとしている。
それで失敗したらどうしようと思い悩む人ではない。
むしろ積極的に出ないで結論を先延ばしにすることを嫌うのだ。
やるだけやってダメなら仕方がない。そういう女性だ。

「……」

思わぬ物言いに驚いたのか、年下のパイロットは口ごもっている。
原をその様子を見ながら、彼の顔を覗き込む。
なおも言いよどむ速水に彼女は言った。

「正直におっしゃい。わかるのよ、そういうのって」
「……」
「じゃあ、私から言おうかな」

腰に手をあて、すらりと肢体を屈ませて少年の顔を見つめながら、美女は言った。

「私も、あなたに興味あるのよ」
「え?」
「好きかどうかまでは、まだわからない。けど、その寸前までは行ってるかな」

かかった、と、少年はほくそ笑んだ。
彼は、こうした一見優柔不断な態度が牝(速水は女をそう表現する)の母性本能とやらを刺激することを体得していた。
もちろん、それが通用しない女もいるが、その時は別の手段を執る。
最終段階で速水の魂胆を知り、騙されたことを覚った女たちが口にした「悪魔の微笑」を浮かべ、ぽややんらしい返答をした。

「ほ、本当に?」
「だからあなたもちゃんと言いなさい。これは命令よ」
「……」
「ほら、男の子でしょ?」

首から上が真っ赤になった少年は、よろよろと立ち上がり、どうにか言えた。

「す、好きです……」
「……よろしい」

年上の後輩は、にっこり笑って手を差し出した。

「つき合いましょ。……この先、いつまで生きられるかわからないんだから」



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