ふたりの婦人警察官が違法駐車の取り締まりを執行している。
住宅地で、近くに小学校もあるスクールゾーンである。
その標識に加え、ご丁寧に駐車禁止の標識まで立っている。
対象になっているのは大きな外車だ。
民家の壁際に駐車しているのだが、片道一車線しかないこの道では、ここに駐めら
れたら対向車同士がすれ違うことは出来ない。
通学中の子供たちが危険だと、住民からも苦情の多い場所である。

東京都墨東署の交通課に所属している小早川美幸巡査が、デジタルペンでタブレット
にさらさらと車両情報と場所を書き込んでいる。
相棒の辻本夏実巡査はその側で、周辺を見回していた。
美幸は、書き終えると夏実の様子を一度確認してから携帯プリンタを操作し、そこ
から確認証を印刷した。
小さな電動音が響き、すぐにそれが出力される。
ミシン目でそれを切り離し、署名欄に「墨東署交通課 小早川美幸」と印字されて
いるのを確認した。
そしてペンとタブレットを制服のポケットに収めると、夏実と一緒に周りを視認
した。
誰もいない。
仕方がないので呼んでみた。

「すいませーん、こちらは墨東警察署でーす。品川な 37−◯◯のキャデラック
の運転手の方ーっ、ここは駐車禁止区域ですよーっ」

しばらく待ってみるが、何の応答もない。
美幸はやや足を開き、踏ん張るようにして腹に力を込めて発声する。

「ここに駐車するのは放置駐車違反になりまーす。早く戻ってこないと違反ステッ
カー貼っちゃいますよーっ」

周囲からは雀の声しかしない。
夏実はおもむろに腕時計を確認する。

「ねえ、もういいんじゃない?」
「……仕方ないわね」

美幸はまだ剥離紙を剥がさず、それをフロントガラスに載せた。

「でもやっぱ、気持ち良くはないわよねー」
「だよね」

夏実が両手を頭の後ろで組みながら歩み寄ってくる。
ふたりとも警察業務は好きである。
特に夏実は単細胞なところもあるから、勧善懲悪が大好きだ。
もっとも、警察官になってから、犯罪者には完全無欠の極悪人など滅多にいないこと
を知った。
端で見るのとは大違いで、人間は単純に善悪と分けられるものではなかったのだ。
つい被疑者に同情してしまったり、逆に被害者に腹を立てたりすることもある。

だが、そうした人間的な面と除いても、速度違反取り締まり──いわゆる「ねずみ取
り」と、放置駐車違反取り締まり──駐禁だけは気が進まなかった。
自分たちだってやりかねないからである。
無論、容疑者追跡時の速度違反、法執行状態での駐停車はここに含まれない。
プライベートの時だ。
「最強婦警コンビ」から素の美幸、素の夏実に戻った時、「絶対に違反はしない」と
言い切る自信など毛頭なかった。

結局のところ、この手の違反は運なのだ。
ほとんどのドライバーはやっている。
見つかってキップを切られたかどうか、だけの問題なのである。
実際、速度制限が時速40キロの公道を大まじめに40キロで走っていたら、まず
間違いなく後続車の渋滞が出来る。
煽られるかも知れない。

そう思うから、この仕事だけはちっとも楽しくなかった。
美幸が言う。

「中嶋くんも言ってたわ。どうもあのねずみ取りだけは嫌だって」
「ま、バイク乗りやドライバーなら誰でもそう思うわね」
「前にね、警視総監だった人が……、就任前だったのかな、たまたまねずみ取りで
捕まったらしいのよ」
「へえ」
「それで頭に来たって。場所がね、高速を降りて一般道へ入る坂だったらしいわ」
「そりゃ悪質だわ」

夏実の表情が歪む。

「あんなとこ、どうしたってスピード出ちゃうじゃない。無理に速度を落とせば
追突されるかも知れないし」
「その人もそう思ったらしいのね。それで、こんな交通取り締まりは無意味だって
ことで、警視総監に就任した時に全国の署長を集めて「覆面取り締まりなんかもう
やめろ」って指示したんだって。で、実際、警視庁ではその人が総監の間はやめた
らしいわ」
「そりゃ英断だわ」
「ね。でもその人も、自分がそうならなきゃ気がつかなかったんでしょうね」
「それにしても気がつくだけ偉いわ。だってその人が辞めた今じゃあ、また覆面
取り締まり復活してるんだから」

夏実は美幸の言葉を聞きながら、駐禁違反のクルマのタイヤを爪先で軽く蹴った。

「気が進まないのは駐禁取り締まりも一緒だけどね」
「まあね。でもこれも、民間の人に委託してから、私たちずいぶん楽になったけど」

平成18年6月の交通法改正により、駐車違反取り締まりは、公安委員会に登録した
法人に委託して、そこの従業員でも可能となっている。
これによって交通警察官の負担軽減と取り締まりの増加を目指したものだ。
そうは言っても民間人である。
速度違反や駐禁などは、相手が警官でも応じなかったり、文句を垂れる輩は多い。
況してやそれが民間人であれば、一層に素直に応じないことも多いだろう。
凄んだり脅したりするケースも多い。
美幸がシールをなぞりながら言った。

「キャデラックのDTSかあ。いくらするんだろ、これ」
「このクルマじゃあ、駐車監視員の人には荷が重いわな」

監視員たちも、大型外車など高級車両はやりにくいようだ。
当然と言えば当然で、この手のクルマは会社の上級管理職だのその筋の方だの、あら
ゆる意味で「怖い人」が乗っていることが多い。
自然と遠のくのは当たり前だろう。
そうした漏れをカバーする意味でも、まだまだ交通警察官が取り締まることも多い。
夏実が、まだシールを貼っていないことに気づき、美幸に告げようとすると、彼女は
腕時計を見て何度か頷いた。

「……よし、時間切れ、と」

ようやく剥離紙を剥がすと放置車両確認標章をフロントガラスにぺたりと貼り付けた。
呆れたように夏実が言う。

「あんたも人がいいわね」
「うん……」

以前、駐車禁止取り締まりは、白いチョークでタイヤと道路にマーキングしたものだ。
そうやってから10分なり15分なり待ってから、ミラーに駐禁標章を取り付けていた。
チョークの意味は、言ってみれば警告であり、まだ標章がついてないうちに運転者が
戻ってくれば「未遂」で終わる。
つまり猶予時間だったのである。

今回の法改正で、それは表向き完全に廃止されている。
駐禁放置車両は、発見され次第、直ちに執行される。
例えその時、エンジンがかかっていても、誰かが乗車していても、はたまた荷の積み
卸し中であっても関係ない。
これではあまりにひどいので、現場では多少「融通」を利かせることも多い。
新法では、シールを貼られたら違反ということになっているので、貼るまでに多少
待ってやることもある、ということだ。

もちろんこれは監視員や警官の個々の違い、現場の状況などにもよるが、要するに
シールを貼られる前にドライバーが「すみません、すみません」とクルマに戻って
くればセーフで、注意だけで済むということなのだ。
夏実がしきりに周囲でドライバーを捜し、美幸が声を張り上げ、挙げ句、シールを
貼るのを最後までためらっていたのはこのためである。
時間稼ぎだ。
彼女たちも警察官ではあるが、ドライバーの気持ちも痛いほどにわかるから、どう
してもこうした手加減はある。
夏実がおどけたように言った。

「いっちょあがり、ってか」
「うん、行こうか」

そろそろパトロール時間も終わる。
ふたりは側に駐めたミニパトのトゥデイに歩み寄った。
そこに携帯が鳴る。
夏実のようだ。

「……あれ?」
「なに?」
「うん……。番号非通知なんだけど」
「やだ気持ち悪い。切っちゃえば?」
「まあいいや」

夏実は取り敢えず携帯を耳に当てた。

「はい、辻本です」

無言である。

「もしもし? 辻本ですけど」

返答はない。切れているのかと思って液晶を見てみると、ちゃんと通話中となって
おり、通話時間もカウントされている。
夏実は眉を寄せてもう一度こっちから話しかけた。

「辻本ですけど! 誰なんですか!? あ……」
「切れたの?」
「切れた。まったく何なのよ、しっつれいねー」
「無言のイタ電? 誰の恨み買ったのよ、夏実」
「知らないわよ」

警察活動で逆恨みを受けることもないことはない。
駐車違反にしても「なぜ俺だけ」と不満に思う者は多い。
だが、それにしたって夏実の携帯番号を知る手段はないはずである。
番号を教えているのは同僚や友人、親族に限られる。
誰彼構わず携帯番号やメールアドレスを教えまくるような趣味は彼女にはない。

「ま、いいや。帰ろ」

さして気にした様子もなく、夏実はミニパトに乗り込んだ。

「ん?」

ドアを開けた美幸が何かに気づいたらしく、怪訝そうな顔で後ろの方を見ている。
既に助手席に座っていた夏実が聞いた。

「なに?」
「しっ」

美幸が唇に指を当てて車内に潜り込んだ。
ドアを閉めずに、そのまま首を後ろに捻った。

「なによ?」
「ほら、あれ」
「? あっ……」

美幸の指差す方向を見て、夏実も少し驚いたような声を上げた。

「あいつ、また……」
「やっぱ、あの人?」
「間違いないわよ。……ったく。一発文句言ってきてやろうかしら」
「やめときなさいよ、夏実ってば」

トゥデイのバックガラスの向こうに、ひとりの男性が見えている。
民家のコンクリート壁と電柱の隙間に隠れているようだが、太っているから身体は
全然隠蔽されていない。
小柄で小太りの若そうな男だ。
いわゆるオタクに見えないこともない。
それだけならどうということもないが、この男、最近、美幸たちの行く場所行く場所
で見かけるのである。

一度二度なら偶然だろうし、夏実たちも気にとめることもなく、それどころか記憶
にも残らなかっただろう。
しかし、署への行き帰り、パトロール中や現場でも何度も目にするに至り、さすがに
これはおかしいのではないかと思い始めた。
尾けられているのだ。
美幸が気持ち悪そうに表情を歪めて言った。

「ねえ、これってやっぱ……、ストーカーってやつかな?」
「少なくとも、つきまとわれてるとは思うよ」
「もしかして、さっきの無言電話もあの人だったりして」
「かもね。でも、あたしあんなのに番号教えてないわよ」

夏実の方は敵意剥き出しで眉間に皺を寄せている。
性格的に、ああした女々しい行動を取る男は大嫌いだし、はっきりしないのも嫌いだ。
言いたいことがあればはっきり言えばいいのだ。
長い髪をおさげにした婦警は、少し不安そうに言う。

「どうしようか……。気持ち悪いよ、私」
「あたしだってそうよ。虫酸が走るのよ、ああいうタイプ」
「誰かに相談してみようよ、中嶋くんとか……。課長でもいいかな?」

ショートボブの婦警は、少し考えてから首を振った。

「まだ早いよ。つきまとわれてるとは思うけども、まだ実害はないしね。あたしたち
警官なのよ、びくつくことはないわ」
「でも……」
「安心しなさいよ。あたしがついてるんだから、おかしな真似はさせないわ。それに
……」
「それに?」
「もし、あいつが何かしてきたら、その時こそ反撃よ。課長でも……、いいえ、捜査
課の徳さんにでも相談すればいいわ」
「そうか……」

美幸はまだ不安そうだったが、夏実に促されてミニパトを発進させた。
ちらりとルームミラーで後ろを見ると、男が望遠つきのデジタルカメラをこちらに向
けているところだった。

───────────────────

ふたりが交通課の部屋に戻ってくると、入れ替わりに金子留理子巡査と田代夏代
巡査がパトロールに行くところだった。
ふたりに軽く手を振って見送ると、室内では課長席の周りに人だかりが出来ている。
中嶋剣巡査に葵双葉巡査、そして二階堂頼子巡査の三人だ。
佐賀沙織巡査と鮫島巡査は席を外しているようだ。

「何です? 何かあったんですか?」
「どうかしたの、中嶋くん」

夏実が課長に、美幸が中嶋に声を掛けると、みんな一斉に振り向いた。

「おう、ご苦労さん。どうだった?」

課長の言葉に、美幸は一瞬、夏実を見たが、すぐに向き直って答えた。

「……特に異常ありません。駐車放置車両が一件です。キップ切りました」
「そうか」
「で、何か?」

夏実が聞くと、課長は手にした資料をひらりとデスクに置いた。
クリップで顔写真がついている。

「何です、これ? 何かの容疑者ですか?」
「実はですねえ、以前、私と頼子さんが担当した事故なんですけど……」

葵が困ったような顔で言った。
ウェーブのかかったロングで、しっとり美貌の婦警である。
いや、婦警に見える。

実際は男性警官だが、痴漢の囮捜査で女装することになり、それが彼の隠れた性癖
を暴き出してしまったようである。
賞歴も豊富で優秀な警察官だったのだが、仕草や言葉遣いが本物の女性より女性ら
しい。
そのせいかどうか、ここでは半ば婦警として扱われている。
今でも婦警の制服を着用しているし、誰もそれを不自然だとは思わなくなっていた。

「人身?」

今度は美幸が聞くと、頼子が答えた。

「人身は人身だけど、軽い接触事故だったのよ。外傷はなかったし。でも、むち
打ちとかの後遺症の危険性もあるから、一応、加害者の方も警察に届けて、保険
会社にも連絡したのよ」
「何も問題ないじゃない」
「それだけならね。で、病院に行った被害者がさ、診断書持ってきたわけよ。
加害者と保険会社に」
「うん」
「むち打ち症ってことで。でもそれがさ、一向に治らないわけ」
「治らないって……」

言葉尻を受けて、今度は中嶋が説明した。

「というかな、治ってるか治ってないかなんて、誰にもわかんないんだよ」
「そうなの?」
「そうだよ。むち打ちなんて完全に自己申告だからな。レントゲンやMRIでわかる
わけでもない。腫れてもいないし、もちろん出血もしてない。な? だから正直な
ところ、医者にだってわからないんだそうだ」

サングラスをかけた中嶋が腕組みをしている。

「なのにガイシャは、いつまで経っても通院治療している。その間、損害保険は
払い続けられる。つまりな……」
「ははあ、詐欺ってこと?」
「その通り」

夏実がそう言うと課長は重々しく頷いた。

「まあ、今、中嶋が言った通り、本当に痛いのかどうかは本人しかわからんからな。
警察官である我々が軽々に論じることは出来ん。出来んが、どうもこいつはな……」
「常習らしいんですってよ」

葵がそう付け加えると、美幸が驚いたように言った。

「常習? 保険金詐欺の?」
「うむ。調べてみると、こいつは過去にも5,6回同じことをやってるらしい」
「「らしい」? 「らしい」ってどういうことです?」
「検挙はしてないってことだ。被害届が出ていない」

ふたりがびっくりしていると、頼子が解説してくれた。

「あたしも驚いたけど、こういうことはよくあるみたいよ」

普通、保険金詐欺というと巨額の生命保険料を騙し取る手口が知られている。
額も大きいし、何しろ「生命」保険なわけだから命に関わる。つまり殺人か、それに
近いことが行われるから、事件として大きいわけだ。
マスコミも大きく報道する。

「でもねえ、損保詐欺、それも軽い交通事故の詐欺なんて、金額も小さいし、事件性
も低いから、あまり表面に出てこないらしいわ」
「それでも詐欺は詐欺じゃない。どうして表に出てこないのよ」
「実質的な被害がないから……」

加害者サイドも事故を起こしてしまったわけだから罰則はつく。
だが、慰謝料や治療費は強制保険と任意保険で支払われるから、懐は痛まない。
事故の瞬間だけはショックを受けるが、延々と保険から治療費が支払われても気が
つかないし、困りもしない。

医者も診療費が入るから、患者が「具合が悪い」と言えば治療や投薬は続ける。
これも困らない。

では支払う保険会社はどうか。
当然、払う必要のない出費だから損には違いないが、何しろ額はさほど大きくない。
入院加療でも日に1万や2万程度だ。
況して通院ならそれ以下である。
そして実際に保険を取ってくる代理店の存在もある。
手数料が入るのだから、これも悪いわけがない。

もちろん騙している方は不労所得だ。
夏実が憤懣やるかたないという顔で憤った。

「つまり、誰も損をしないから見過ごされてるってことですか!?」
「夏実、課長に怒ったって仕方がないよ」
「いや、辻本の言う通りだ」

課長は頷いた。

「この男……、牛尾というそうだが、牛尾は複数の損害保険に加入している。一社
あたりの保険金は3000円から7000円だそうだ。これが6社ほどあるから、
一日あたりおおむね15,000円ほどの収入になる。加えて加害者の保険からも
通院一回あたりに2万くらいおりてくるらしい」
「……」
「数社でこの額だから大したことはない。ないが、これだけでも充分に生活できる
くらいの金額ではあるな」

課長がそう言うと、中嶋は「やりきれない」という顔で天井を向いた。
葵が資料を手にして眺めながら聞いた。

「それにしても、どうしてバレないんです? 複数の損害保険に加入するってこと
自体、おかしな気もするんですけれど」
「そうなんだがな、そんなこと本人から申告されなきゃわからないだろう?」
「……」
「あるいは、代理店が契約者を訪ねた時、偶然に他社の営業マンと出くわした、
とかいう偶然でもない限りはわからんよ。よしんばそういう偶然があったとして
も、営業マン同士は素知らぬフリをするだろうな。見なかった、会わなかったこと
にすれば、その保険は有効だ。ということは保険料手数料が得られるってことだ。
そこを律儀に調べて契約者を問い質しても得はない。怒らせて契約解除されたら
目も当てられないしな。何かあって保険金を支払うことになるのは、代理店じゃ
なくて保険会社だ。代理店は困らない」

いかにも納得いかないという顔をして夏実が聞いた。

「じゃあ、何で今回は表沙汰になったんです? それともまだそうはなっていない
んですか?」
「さすがに今回は保険会社が動いたんだよ。軽度のむち打ちなのに、1年以上も
通院加療はおかしいだろうと」

葵から資料を受け取って中嶋がそう答えた。

「保険会社にもな、こういうトラブルを対処するための担当ってのがあるみたいで
な。相手がヤクザ絡みのこともあるから、そういう強面相手でも動じないような
社員で交渉するんだそうだ」
「交渉?」
「ああ。医者とも話をつけて「あんたもう治ってるだろう。これ以上こんなことを
続けるなら訴えますよ」ってことさ」
「じゃあ……、起訴するの?」
「いいや。そう言ったら牛尾ってやつ、あっさり認めて引き下がったんだそうだ。
で、保険会社側もそこまではしなかったらしい。でも、過去の事故についても洗い
直しをして、場合によっては……、ってことのようだ」
「まあ被害額も小さいし、何しろ告訴もないでな、捜査課が動くってことは今の
ところないらしい。ただ、こいつはそういうやつだから、今後もし、こいつ絡みの
事件、事故が発生した場合は、そのことを考慮しておいてくれ、と、そういう話だ」

そこまで聞いて、ようやく美幸も夏実も納得した。

「なるほどね、チンケでケチな詐欺野郎ってことか」
「ま、そういうことだ。この手のやつは、味を占めると何度も繰り返すからな、
辻本も小早川も気をつけておいてくれ」

課長がそう言って締めようとすると、中嶋の持った資料を覗き見ていた美幸が「あっ」
と小さく叫んで夏実の腕を掴んだ。

「なによ、どうしたの」
「夏実、これ! この男……!」
「え……? あ、こいつ!」

中嶋の持っていた資料のクリップから写真を引き抜いて、美幸が夏実に示す。
それを見て夏実も仰天した。
美幸から奪った写真を両手で持って凝視している。

手入れをしていないぼさぼさの長髪。
度の強そうなシルバーフレームの眼鏡。
脂っぽそうな痘痕が浮き出た頬。
忘れたいが、一度見たら忘れられないようなオタク顔。
間違いなかった。
この牛尾展也こそ、かのストーカーだ。
頼子が夏実を見上げて言った。

「どしたの? 知り合いだった?」
「冗談でもそういうこと言わないでよ! こいつ、こないだっから、あたしと美幸に
つきまとってるやつなのよ」
「何?」
「何だと!?」

課長の目が鋭く光り、中嶋も大声を出した。
葵も頼子もびっくりして、目を見開いている。

「つ、つつつつきまといっておまえ……」
「興奮しないでよ、中嶋くん」

美幸が中嶋を宥めて言った。

「いつからだったか憶えてる、夏実?」
「……わからない。わからないけど、ここんとこずうっとあたしたちの近辺でこいつ
の顔を見るのよ」
「それって、ストーカーってことですか?」

葵の表情が曇る。
女性以上に繊細なこの男は、美幸たちを案じているのだろう。
夏実は胸が悪いような顔で頷いた。

「多分……ね。美幸もあたしもあんな男、見たこともなかったし」
「何者なの?」

美幸がそう言って資料を覗いた。
まだ20歳の医大生のようだ。

「四六時中つきまとっているのか?」

気がつくと、課長は手にペンを持っている。
事件性があるかどうかわからないが、記録しておくに超したことはないと思っている
ようだ。
それを見た夏実は、少し大げさに騒ぎすぎたと反省し、いささかトーンを落として
答えた。

「あ、いいえ……。マンションまで押しかけられたとか、常に尾けられているとか、
そういうことはないんです。ないと思います……」
「でも」

美幸の方はやはり不安げだ。
知られてしまった以上、話しておく方がいいと思ったようである。
彼女は機械的な勘もいいが、予感も気配にも敏感だ。
悪い予感がよく当たるのである。
美幸は今回の件で、それを感じていた。

「さっきもいたんです。私たちが取り締まりを終えて帰ろうとしたら、そこに……」
「いたのか」

中嶋が憤ったように、左手の平に右手の拳を叩きつけた。

「それはどこだ、小早川」
「え……、どうするの?」
「婦警につきまとうなんてふざけてる。俺が一言いっておいてやる。場合によって
は……」

叩きのめすと言いたいのだろう。
中嶋の、美幸を思う気持ちを思えば当然だが、課長がいることを考慮して最後まで
は言わなかった。
そんな彼の気持ちを嬉しく感じた美幸だったが、いきり立つ彼を抑えた。

「落ち着いてよ、中嶋くん。いくら何でも、もうそこにはいないわよ」
「そ、そりゃそうかも知れないが……。そうだ、もしかしたらこの近くにいるかも
知れんぞ」
「まさか、警察署にまでは来ないわよ」
「いいや、わからんぞ。そうした輩は常識が通じんからな」

そんな白バイ警官を課長が止めた。

「まあ待て、中嶋。小早川の言う通りだ。おい小早川、辻本。まだ……、何かされた
わけじゃないんだな?」
「あ、はい、それはもちろん……」
「ならばよし」
「よくはありませんよ、課長。それじゃあ小早川たちが……」
「焦るな、中嶋。まだ現状じゃ何もできんよ」

課長は若い中嶋を諫めてから、夏実と美幸に言った。

「それで、どっちがつきまとわれているかわかるか?」
「え?」

美幸と夏実は顔を見合わせた。考えたこともなかったのである。
一心同体というのは大げさだが、ストーキングされているのは夏実であり、美幸だと
思っていた。
どちらか一方だとは思いもしなかったのだ。

「わかり……ません」

考えてみれば、確かに課長の言う通り、どちらかひとりのはずだ。
ふたりまとめてつきまとうなんて話は聞いたことがない。

だが夏実と美幸はコンビを組んで仕事をしているから、勤務中はほとんど一緒である。
署内では、美幸がガレージへ籠もっていることもあるが、外勤パトロールでは常に
ふたりだ。
おまけに、美幸のマンションに夏実が転がり込んでいるのだから、出勤や退勤の道中
も一緒のことが多いし、非番の時だって食事に出たり、買い物する時もともに行動
することも珍しくない。
思い起こせば、夏実がひとりの時、牛尾の視線に感づいたことはなかったのだ。

美幸を見ると、彼女も同じようだった。どちらがターゲットになっているかわから
ない。
そのことがかえって夏実を不安にさせていた。
自分であれば問題はない。
もし何かあったらそいつをとっつかまえて、のど頸を締め上げて警告してやるのだ。
それでもわからないようだったら、一発ぶちのめしてやる。
婦人警官をなめるとどういうことになるか、わからせてやればいい。

だが、標的が美幸となると話は別だ。
いつも一緒にいるが、別行動のこともある。
その時に何かあったらと考えると、夏実は不安に押しつぶされそうになる。
美幸はあたしが守るのだ、という自負があるのだ。
彼女が中嶋と添い遂げたならば、もうその役は中嶋のものとなる。
それまでは自分が美幸を守護する。
美幸とて、普段は冷静で柔和、温厚な娘ではあるが、一方でキレると夏実がおののく
ほどの思考、行動をすることがある。
それだけに無茶をしかねない。

一方で、課長や同僚たちはまた別の見方をしていた。
「両方が狙われている」という可能性である。
美幸や夏実たちは自分で意識しているかどうかはわからないが、かなりの美人である。
スタイルもいい。
普段、彼女たちと一緒に仕事をしていると慣れてしまって意外と気づかないが、世間的
には十二分な美貌を持っているのだ。
邪な連中に付け狙われても不思議はない。
加えて、勤務であれだけ目立つ行動を執っているのだから、今までそうした虫がつかな
かった方が、むしろ不思議なのだ。
一抹の不安を感じつつ、上司は告げた。

「だが、おまえたちも充分に身辺には気をつけるんだ。何かおかしなことがあったら
すぐに知らせろ。生安や捜査課が動けるようにはしておく」

───────────────────

「また!」

夏実がうんざりしたような顔をして携帯を取り出した。
隣のシートでは、美幸が心配そうな表情でミニパトを運転している。

「しつこいね。でも夏実、ナンバー非通知は拒否するようしたんでしょ?」

それでも牛尾(らしい)からの電話はなおもかかってきた。
今度は堂々と番号を通知してきたのである。
夏実も、それが牛尾だと知ると、その番号を閉め出してかからないようにする処置は
してきた。
ところが相手はプリペイドの携帯電話なのか、何度夏実が着信拒否登録をしても、
次々と新たな番号で電話してきたのである。
いい加減夏実もキレて、とうとう自分の携帯番号を変えてしまったのが、つい3日
前のことだ。
美幸や墨東署の同僚たち、友人や家族への連絡も終えた頃、また牛尾から新しい
携帯電話にかかってくるようになったのである。

「……どうやって番号を調べるんだろ」

美幸はハンドルの上に置いた両手に顎を当ててどうつぶやいた。

「……友達の中にあいつの知り合いがいるとか……」
「ないと思うけどね。第一、もしあたしの番号を聞いてくるやつがいたら教えてって
言っといたし」

それを裏切ってまで牛尾に番号を伝える知人はいないだろうと夏実は思う。
そもそも番号を変える連絡をした際に「イタ電で困っているから」と言ったのだ。
それを知っている人なら、夏実の番号を聞いてくる人がいればすぐにピンと来て、
彼女に教えるはずだ。
美幸が気を利かせて、トゥデイを路肩に駐めた。
夏実は美幸の顔を見てひとつ頷き、電話を取った。

「もしもし!」
─ああ……、辻本さん?
「いい加減にしなさいよ、あんた! これは犯罪行為なのよ、わかってんの!?」
─犯罪?

牛尾は、いかにも心外だという声で言った。

─犯罪って何です? 恋人同士が会話をするのが犯罪なんですか?
「誰があんたの恋人なのよ!」

隣で美幸がはらはらしながら夏実の様子を見ている。
激怒のあまり、自分の携帯電話を握りつぶすのではないかと心配なのだ。
電話の向こうでは、夏実の剣幕にもまったく堪えず、牛尾がへらへら笑いながら喋っ
ていた。

─照れなくてもいいですよ。僕はあなたを愛しているんだ。
「あたしはお断りよ! あんたみたいなタイプは大っ嫌いなんだから!」
─そんなに怒鳴らなくても聞こえますよ。あまり大声を出すもんだから、隣で小早川
さんがびっくりした顔してますよ。
「!」

それを聞いて夏実はバッと辺りを見回す。
そして送話口を抑えて美幸に小声で素早く言った。

「美幸、あのバカその辺にいるらしいわ。ちょっと調べてくれる?」
「わかった」

美幸はお下げを揺らしながら外に飛び出ると、身を低く構えて辺りを警戒した。
別に牛尾が武器を持っているとは思えないが、自然とそうした姿勢になるのは、
よほど相手に恐怖と嫌悪を感じているのだろう。
夏実はそんな美幸を見ながら話を続けた。

「いったい何なのよ、あんたは! 何が目的なの!?」
─何度も言ったじゃないですか。今つき合っているくだらない男とはさっさと別れ
て、僕と一緒になりましょうって。

牛尾が盗聴しているのではないかと気づいたのは、東海林の話を持ち出されてから
である。
署内でも希に電話することはあるが、基本的にプライベートの時だけだ。
美幸とも東海林の話をすることもあるから、マンションに盗聴器があるのではないか
と疑ったわけだ。
事実、部屋で東海林と電話した内容まで牛尾は知っていたから、もうそれしかない
だろう。

─その男と遠距離恋愛なのでしょう? 不誠実じゃないですか。
「どこが不誠実なのよ」
─だって、僕なら愛する女性を遠くに放っておいたりしませんよ。
「仕方ないでしょう、仕事で転勤なんだから!」
─だからそこですよ。僕だったら、辻本さんと引き離すような仕打ちをする仕事なんか
すぐに辞めますよ。そしてずっと一緒にいてあげる。
「そんな根性なしとなんてお断りよ!」

その時、美幸が小走りで戻ってきた。
窓をコンコンと叩いて夏実を呼んだ。

「夏実、いたよ」
「どこ!」
「こっち。来て!」

それを聞くや、血の気の多い婦警はすぐさまミニパトから飛び出した。
美幸が指差した先に、今では珍しい電話ボックスがある。
大きめでISDN用の公衆電話のようだ。
中が広くて小さなテーブルまであるのは、それとパソコンをつないでデータ通信が
出来るようになっているのだろう。
その陰に隠れるように、牛尾がバイクに跨ったまま携帯電話を手にしている。
美幸たちの視線に気づくと慌てて携帯を切り、アクセルをふかした。

「夏実!」
「美幸、早く乗って! 出して!」
「OK!」

優秀なメカニック兼ドライバーの婦警は、流れるようにシートへ滑り込むと、目にも
留まらぬスピードでクラッチをつないでギアをセカンドにぶち込んだ。
一気にアクセルを踏み込むと、改造トゥデイはガクンと車体に衝撃を響かせ、同時に
エンジンを唸らせて急発進していく。
普通の人がナヴィにいたら、フロントガラスに額をぶつけて悲鳴を上げるか、身体に
食い込むシートベルトに絶叫するかだが、そこは慣れている&怪力女の夏実である。
何ともないどころか、睨み殺すような視線で逃げる牛尾を追っている。

美幸は、回転灯は回さずサイレンも鳴らさなかった。
そんな余裕はなかったのか、それともプライベートな嫌がらせのへ対処だったからか
も知れない。
逃げるバイクは125クラスだが、けっこう軽快に速度を上げて逃走している。
乗り慣れているのか、狭い路地に入ったり障害物を避けたりするテクニックも悪く
ない。

それでも、この程度の追っかけ劇であれば、このふたりには通用しないだろう。
この付近には、ミニパトが入れないような狭隘な小道はなかったはずだし、幸い人気
もない。
事故を気にせずに追跡できた。牛尾が焦って運転を誤り、勝手に自損する可能性は
あったが、そうだとしても、美幸たちは同情したり反省したりするつもりはなかった。

「曲がった! 右!」
「りょーかいっ!」

バイクはウィンカーなど出さず、曲がる寸前になってほぼ直角で右折した。
美幸のトゥデイもブレーキを軋ませて急カーブ、それを追いかけて行く。
夏実がちらりと美幸に目を向けると、さっきまでの心配そうな表情が一転している。
目元には不適な笑みが浮かび、存分にテクニックを発揮できる喜びと犯罪者を追い
詰める快感に浸っているかのようだ。
それを見て安心した夏実は再び目を牛尾に戻す。

「あそこ!」

追い詰められつつあったバイクは、一層にエンジンを響かせて速度を上げた。
歩道に乗り上げ、そのまま歩道橋の階段を上っていく。

「やったわね、道交法違反! 逮捕しちゃうぞ!」
「先回りするよ!」
「任せた!」

美幸はそう叫ぶとそこで初めて回転灯を回し、サイレンを響かせた。
そのまま直進してやや速度を落とす。
信号のない交差点であり、いかにサイレンを鳴らしているとはいえ、通行人や民間
車両に配慮しないわけにはいかない。
素早く人通りもクルマもないことを確認すると、そこでまたギアをトップに放り込
んだ。
助手席の夏実にもGがかかり、左手で取っ手を掴んで身体を固定する。

「いた! その先!」

まいたと思って安心していたのか、やや速度を落としていた牛尾がびっくりした
ようにこちらを向いた。
そして慌ててエンジンをふかし、逃げに掛かる。
だが、猛禽のようになった美幸のミニパトの敵ではない。
たちまち距離が詰められてきた。
牛尾が「あっ」と言う間もなく、ミニパトが追い越していく。

「よし!」

美幸はアクセルを踏んだままハンドルの真上に右手をかけ、左手でサイドブレーキを
掴んだ。
そこでアクセルから足を離し、クラッチを切る。
そしてハンドルを一気に90度切った。
同時にサイドブレーキを思い切り引く。
さらに右足がフットブレーキをコツンと踏んだ。
ものすごい音をさせてブレーキが軋み、ミニパトはGが前方にかかる。
ハンドルはそのままで、車体は大きく回転していった。
サイドターンである。
美幸はここまでの動作をごく自然に、ほぼ一瞬でこなしていた。

「夏実!」
「任せて!」

美幸がフットブレーキを思い切り踏みながら夏実に声を掛けた。
トゥデイが悲鳴を上げながら路面に対してほぼ直角になったところでブレーキが
かかり、夏実は助手席のドアを全開にした。
そしてそのまますらりと長い両脚を出して、ローファーの踵を道路に押しつけた。
ガガガッとこれまたすごい音がして白い煙を上げ、急速に車体が停車する。
同時に、あっという間に官給品の革靴の踵がすり減っていく。

ミニパトはバイクの真正面で止まり、路面を完全に塞いでいた。
夏実ならでは──というより、彼女にしか出来ない足ブレーキに圧倒され、牛尾は
逃げることもせずに呆然としていた。
踵の減った靴を構いもせず、怪力婦警は男に駆け寄っていた。
夏実の勢いを見て恐れおののいて逃げ出すのではないかと思ったが、牛尾は逃げず
にそこにいた。
そして夏実が走ってくるのを見ると、にやにやしながらバイクから降りた。
首に双眼鏡を掛け、シャツの胸ポケットに携帯電話を入れていた。

「……辻本さん。やっぱりナマの方がずっといいなあ」
「立派な道交法違反、公務執行妨害、危険運転義務違反の現行犯だけど、正直言って
あんたなんかをあたしたちのクルマに乗せるのも嫌よ。だから逮捕はしないで、これ
で済ませてあげる」

じろじろと夏実の身体を舐め回すように見ている牛尾を無視して、夏実はそれだけ
一気に言うと、右腕を上げて大きくしならせた。
バシン!と派手な音がしてストーカーの頬を叩いていた。
メタルフレームの眼鏡が顔から吹っ飛んだ。
驚いたような顔で左頬を押さえる牛尾に夏実が言った。

「つ、辻本さん……」
「バカも休み休みしなさいよ! いくらあたしだってもう我慢できないわ! いい
こと、これは最後の警告よ。これ以上、あたしや美幸につきまとわないで。今度電話
してきたり、あんたを見かけたら、正式に訴えるわよ。婦警にストーキングなんか
したら、どうなるか教えてやるわ! 今日の道交法違反も付け加えてね!」

夏実の肩がわなわなと震えている。
怒り心頭なのだ。
本来なら拳でぶん殴ってやりたいところだが、平手にしたのは夏実の理性だ。

「わかったわね!!」

夏実はそう宣言すると、おもむろに牛尾の携帯電話を奪い、それを両手で絞るように
して破壊した。



      戻る   作品トップへ  第二話へ