美幸の心配をよそに、割と軽く考えていた夏実が、己の考えの甘さに気づいたのは
それからすぐのことである。
あの警告で諦める──かどうかはともかく、いくら牛尾でも少しは遠慮すると思って
いたのだ。
そうではなかった。
牛尾は偏執者であり、変質者だった。
そのことが痛いほどに判らされた。

同居しているふたりは、家事は当番制である。
一応、順番は決まっているが、夏実は朝がまるでダメなこともあって、同居人に
迷惑を掛けていることが多い。
だからというわけではないが、ゴミ出しは夏実が引き受けていた。
重量物もある不燃ゴミはもちろん、燃えないゴミも出している。
非番の日、買い物から帰ってきた夏実は、マンションのゴミ集積所が荒らされて
いるのに気づいた。
道路が渋滞しているのかそれとも忙しいのか、まだゴミ収集車は来ていないようだ。

「……ったくもう、またカラス? それとも猫かな」

ぶつぶつ言いながら、片手にレジ袋を持ちつつ、剥がされたネットをかけ直そうと
した。
ゴミ袋を見ると、別に突かれたり破られたりした後はなかった。
ただ、ひとつの袋だけ口が開けられている。
見覚えのあるそれは、今朝方彼女が出したものだった。

「あれ、ちゃんと縛らなかったっけ」

夏実はそう独りごちながら、縛り直そうと手を伸ばした。
だが、縛らなかったなどということはない。若い独身女性であるし、ゴミの中身を
見られたくはない。
そもそも口を縛らなければ運びにくいだろう。
どことなくおかしい。

「……!」

おかしいと思った理由がわかった。
夏実も美幸も郵便物──主にDMの類だが──を処分する時は、宛名や差出人が内側
に来るようにして、雑巾を絞るようにして捻り捨てている。
それをゴミ袋の真ん中奥の方へ入れるようにしていた。
無論、半透明の袋の外から見えてしまうことを恐れてである。
見られて困るものはみなそうしていた。
なのにDM封筒が外側に来ていたのだ。

運ぶときにそっちへ流れてしまったのかとも思ったが、どうも違う。
確かに捻り潰したはずの封筒が、なんと開かれていたのである。
封筒には、ちゃんと捻った皺が寄っている。
ということは、夏実たちが捨てた後に、これを開いたやつがいるということだ。

強気の婦警も、さすがに青ざめた。
怖い、気持ち悪いというよりは「まさか」という気持ちである。
周囲を軽く見回して、誰もいないことを確認する。
これをマンションに持ち帰ってゆっくり調べればいいのだが、そんなことをしたら
美幸に怪訝に思われる。
そうでなくとも今回の件で神経質になっている彼女に、要らぬ心配はかけたくなか
った。

意を決して夏実はゴミ袋を漁った。
全部ひっくり返して中身を出すわけにはいかなかったが、それでも「あれ」がない
ことだけは確認できた。

「まさか……、マジで?」

使用済みの生理用品がない。

これのゴミ出しは女性なら誰でも悩むところだが、結局、古新聞や散チラシなどの
要らない紙で包んで捨てるしかない。
そこで夏実たちは頼子がやっているアイディアを採用していた。
トイレの汚物入れの中に牛乳パックを切ったものを入れておき、そこに捨てるので
ある。
処分する時は口をガムテープでしっかりと留めて、そのままゴミ袋へポン。
これなら外からはバレず手も汚れずに処分することができる。
そのはずだったのに、それが見あたらなかった。

「あっ……」

あった。
あったのだが、ガムテープが引きはがされ、中身は当然のように空っぽだった。
こうなると、この袋が何者かに荒らされたと判断せざるを得なくなる。
しかも荒らされたのはふたりの個人情報と恥部だ。
ホームレスなどではなく、邪な考えの持ち主がやったとしか思えない。
犯人は間違いなく牛尾だろう。

ここまでするかと思うと、さすがに夏実も薄気味悪くなってくる。
そこでひとつ思い当たった。
牛尾が彼女の携帯に電話してきた時、やつはまるで夏実の生活を見ていたかのような
話題を振ってきていた。
望遠鏡か何かで覗かれているのかとも思ったが、それでは会話の内容を知っている
理由にはならない。
夏実は早々にゴミをまとめ、整理してからマンションへ急いだ。

「どうしたの、夏実」

血相を変えて玄関から入ってきた同僚に、美幸はきょとんした目を向けた。
夏実は美幸に買い物してきた食材を預けると

「ごめん、作ってくれる?」

と言ってあたりを見回した。

「いいけど……。どうしたのよ?」
「あ、うん。そ、掃除。たまには掃除しようかなって」
「あら珍しい。どういう風の吹き回し?」
「いいじゃないの、たまには。美幸がお昼作ってる間に、あたしは部屋を片付ける
から」
「そう。でも私の部屋はいいわよ」
「わかってるって。あたしの部屋と居間よ」

夏実はそう言ってウィンクして見せると、美幸に背を向けて居間を這い回った。
ふと思いついてCDラジカセを持ってくる。
FMにして、適当にチューニングした。
美幸に覚られないよう、あまり大きな音声は出せない。

「……」

ヘッドフォンをつけながら掃除というのもおかしいと思い、スピーカーに耳を当て
ながら慎重にチューニングする。
賑やかな番組、耳障りなノイズ、そして無音。
それを繰り返しながら夏実は探った。
キッチンからは調理する音が聞こえる。
何かフライパンで炒めているのか、弾けるような油の音がした。

「……!」

ダイヤルを回す夏実の手が止まった。
一瞬だが、美幸の鼻歌と料理の音がハモったように聞こえた。

もう一度ダイヤルを戻し、少しボリュームを上げる。
聞こえた。
確かに、直に聞こえる美幸の鼻歌とは別に、FMラジオもその声を拾っていた。
間違いなさそうだ。
盗聴されている。

夏実は絨毯に這いつくばったり、壁掛け時計の裏などをチェックした。
だが、それだけはない。
ああしたものは電卓の形状をしていたり、小さな家電に化けていることもあるらしい。
ざっと見回したが、見たことのないものはなかった。

「あとは……」

部屋の壁の下の方にあるコンセントに目を向ける。
案の定だった。ふたり暮らしだからコンセントはどうしてもたこ足になり気味では
あるが、見たことのない二股のコンセントがあった。
それがパソコンの電源につながっている。
だが、確かパソコンの電源はなるべく壁から直にとった方がいいと言われ、そうして
いたはずだ。
なのに、いつのまにか二股ソケットからコンセントがつながっている。
夏実はそれに近づくと、ピンと指で軽く弾いてみた。
びん!と大きなノイズがスピーカーから零れた。
今度は指の爪で軽くひっかいてみる。
やはり、がりがりと耳障りがノイズがした。

「これか……」

夏実はそいつを引き抜き、睨みつけた。
ちらりとキッチンを見ると、もう出来上がったのか、美幸が料理を皿に盛っていた。
言うべきかどうか迷ったが、結局、夏実の胸の内に仕舞っておくことにした。
盗聴器は取り去ったのだから教えてあげたい気もしたが、知らずに済めばそれに
超したことはないのだ。
なかったことにすればいい。
牛尾のストーキングが発覚して以来、美幸は少しナーバスになっていたから、この
ままの方がいいだろう。

夏実はぎりっと奥歯を噛みしめた。
このままにしておくわけにはいかない。
ケリをつけねばどこまでも続いてしまう。
だが行動は慎重にするべきだった。
あくまで夏実の単独行動だ。
美幸は勘はいいから、夏実が不審な行動をとればバレてしまうかも知れない。
彼女が気づく前に、牛尾と話をつけるしかなかった。

「夏実、出来たよ」
キッチンから美幸の明るい声が聞こえた。

───────────────────

「夏実、さっきの荷物何だった?」

美幸の部屋から声が聞こえる。
一日の勤務を終えて、途中で軽く食事を摂ってからマンションに帰ってきた夏実と
美幸は、部屋の前に薄い箱が立てかけられているのに気づいた。
軽かったが、きちんと包装してあり、空箱ということでもないようだ。
二箱あって、それぞれ夏実宛と美幸宛になっている。
何の気なしに、ドアに立てかけられたそれを手に取り、室内に入ったのだった。

美幸は自分の部屋へ行って部屋着に着替えている。
夏実はその荷をテーブルに置いて眺めていた。

「今、開けるとこだけど……。あれ? 差出人の名前がない」

箱は薄いピンク地で花柄の模様が入った綺麗な包装紙で覆われている。
表には、それぞれ「辻本夏実様」「小早川美幸様」と名前が入っている。
それはいいのだが、どこを見ても差出人名がないのだ。

「これ……、誰が届けたのかな?」
「宅配便じゃないの? それともゆうパックとか」
「あたしもそう思ったんだけど……」

夏実は箱をひっくり返して確認する。

「差出人の名前がさ、ないんだよね」

普通、宅配便であれゆうパックであれ、荷札は貼ってあるものだ。
それを見れば業者も差出人もわかる。
しかしそれがないのである。

「何それ」

美幸も気になったのか、着替えの途中で戻ってきた。
ボタンを外したブラウス姿で、ビスチェとショーツが丸見えだ。
美幸もマンションに戻ってくれば油断するのか、案外とだらしない格好でいること
もある。
夏実が箱をひっくり返したり、透かして見るように眺めている。

「何か、思い当たることある?」
「さあ……。急に荷物送ってくる人なんかいるかなあ……」
「取り敢えず開けてみるか」

自分たち宛に届いたことは間違いないのである。
開けたところで文句を言うやつはいないだろう。
包み紙を止めているセロテープを剥がし、包装紙をがさがさと取り払うと白い箱が
見えてきた。
パッケージの蓋をとってみて、ふたりは驚いた。

「下着……?」

夏実には黒いもの、美幸宛には白いものが入っている。
ふたりはきょとんとしてそれを眺めていた。

「下着を送ってくるような知人はいないなあ」
「もしかして中嶋くんが……」
「そんなことしないよ、中嶋くんは」

そもそも彼には、ひとりでランジェリーショップへ行けるような度胸はないであろう。

「それもそうか。なら……」
「夏実の方こそ、それ東海林くんのじゃないの?」

そうだとしても、美幸宛にまで届くのはおかしな話である。
そう指摘すると美幸も「ああ、そうか」と納得した。
ふたりは顔を見合わせる。

「じゃあ……誰?」

ふたり共通の知人で、下着を送るほど親しい者。
あるいはユーモア、ギャグでやっているのかも知れない。
なら頼子あたりか?
しかしいくら彼女がお茶目でも、こんな手の込んだカネのかかりそうなマネはしない
と思う。
別に誕生日でもエイプリルフールでも何かの記念日でもないのだ。
夏実は首をかしげながらパッケージを破き、中を取りだして驚いた。

「うわ……」

見事なくらいにアダルティだったのである。
入っていたのはブラとショーツ、そしてガーターとストッキングのセットだった。

レースになっているのはいいとしても、どれもが肌が透けるほどに目が粗い。
フリルもついているが、愛らしさよりもセクシーさを強調するようなデザインだった。
レース模様のガーターベルトに、ストラップでつなぐストッキングもレース模様で、
しかもメッシュである。
同じ柄のショーツもまた大胆で、フロント部はVカット、サイドやバックはほとんど
ひもに近い。
Gストリングというやつだ。
そしてブラに至っては、大胆などという言葉では済まされない。
黒のレースというのは同じだが、カップの中心で割れている。
つまりオープンブラであり、これを着ければブラがぱっくりと口を開けて中の乳房が
丸見えになる寸法だ。

「ひゃー」

美幸も自分に贈られたものを見て仰天していた。
色は純白で美幸らしいといえばらしかったのだが、ほとんどシースルーなのである。

夏実と同じく、ショーツとブラ、ガーター&ストッキングのセットになっている。
フリルがブラのカップ周辺やショーツ、ストッキングの付け根あたりを飾っているの
はいいとしても、生地そのものが非常に薄く、ストッキングに使われるようなナイ
ロン製に見えた。
ストッキングは一見ノーマルで、薄いシースルーの白いガーターストッキングだ。
これはこれで清楚な美幸っぽいデザインだと言えないこともない。

問題はショーツとブラで、ブラなどはカップ周辺以外はほとんど透け透けなのだ。
ショーツはタンガで、ひもパンというほどではないから夏実ものよりはマシだったが、
肝心の股間にはまったくレースやフリルはついておらず、完全にシースルーである。
これでは何のための下着かわからない。

「これさ、アダルトショップか何かで売ってるセクシーランジェリーってやつじゃ
ないの?」

夏実は半ば呆れたように言った。
黒いショーツを弄んでいる。
美幸のものと違って透けてはいないが、呆れたことにブラと同じく中心がぱっくりと
割れていて、股間が丸出しになるようになっている。
一方の美幸は気持ち悪そうな顔だ。

「ね、夏実。これさ、もしかしてあのストーカーが……」
「あっ……」

その可能性はある。
差出人もないものは、どんな業者でも配達しないだろう。
恐らくこれは、差出人本人が直接ここへ届けたのだろう。

「夏実……」

美幸がおどおどとしながら、ブラウスの前を合わせた。
怖いというより寒気がするのだろう。
そして急に思いついたように、サッシのカーテンを慌てて引いた。

「捨てよう!」
「え……?」
「捨てるのよ。こんなもの貰う謂われはないし、どこの誰か贈ったものかもわから
ない。気持ち悪いもの」
「でも……」
「でも、って何よ。まさかあんた、これをありがたく受け取って着るとでも……」
「ち、違うよ。捨てるのはいいけど……」

美幸はそう呟いてぶるっと震えた。

「私、何だか怖いよ、夏実……」

───────────────────

もう全員帰宅した薄暗い交通課の室内で、一台のパソコンのみがぼんやりと光を放っ
ている。
夏実は廊下を気にしながら、マウスを操っていた。

今日も何事もなく、課員たちは午後8時までにはいなくなった。
明日は非番の美幸と夏実も、勤務明け後、早々と署を後にした。
一緒に帰る美幸には「呼ばれているので実家へ戻る。明日帰る」と言って別行動を
取った。
美幸に、要らぬ心配をさせないためである。
幸か不幸か、相手が狙っているのは、どうも夏実らしい。
無言電話は美幸の方にはかかってこないらしいし、部屋に侵入されららしいことも、
美幸には告げていない。
これ以上、事態が深刻になる前に片をつけてやる。
夏実はそう決心していた。

もし夏実の「説得」を無視するようであれば、その時こそ課長を通じて生安に動いて
もらう。
被害届も出そう。
だが、その前にやることがあった。
告訴すれば、夏実も美幸も事情聴取を受けることになるし、その際に、牛尾がいかに
卑劣なことをしたのかまで知らされることになる。
写真を撮影し、無言電話をかけ、下着を送りつけ、ゴミを漁って夏実たちの生活を
暴こうとし、挙げ句に部屋にまで侵入し、盗聴装置まで設置するような卑劣漢だ。
夏実たちの知らないうちに、何をしているかわかったものではなかった。
そんなことは知りたくもなかった。
美幸も同様だろう。
忘れるに限るのだ。

クリックを重ね、目的のフォルダまで下り、ファイルを探す。やつの住所はわかって
いる。
あの時、課長のデスクにあった資料には、顔写真だけでなく住所や電話番号などの
個人情報も記入してあった。
その書類がどこにあるのかはわからないが、資料のファイル名がプリントされていた。
夏実はそれを憶えるともなく憶えていた。
まさかそれが役に立つとは思わなかった。
課長の許可を得ず、民間人──今はまだ一般市民だ──の個人情報を探るという罪悪
感と、課長に相談すべきではないのかという背徳感はあったが、それよりも心配かけ
たくないという思いと犯人に対する怒りの方が勝っていた。
ようやく見つけたファイルを睨みつけるように見てから、それを印刷した。
プリントされた用紙をひったくるようにして手に取ると、マシンをシャットダウン
させて夏実は部屋をしのび出た。

裏口からそっと抜け出すと駐車場まで一気に走り、ヘルメットを被って愛車に跨ると
アクセルを全開にして飛び出した。
ウィリーになったバイクがかっ飛んで行く。
目的地付近まで来ると軽くブレーキをかけ、ヤマハRZ250は速度を落とした。
アクセルを緩め、エンジン音を落として徐行していく。
目的地のアパートはすぐに見えた。
アパートとはなっていたが、マンションと呼んでも差し支えない建物だ。
あまり住人はいないのか、ところどころにしか灯りがついていない。
7階建てで、そこそこ家賃も高そうな住居である。
ケチな詐欺で儲けたカネでこんなところに住んでいるのかと思うと、また腹が立って
くる。

夏実はバイクを正面に駐め、アパートの屋内に入って個人ポストを確認する。
あった。
6階の601号室が「牛尾展也」となっている。
夏実は、エレベータには目もくれず、脇にあった階段を駆け上った。
じっとしていられなかったし、動いてこの怒りを発散させねば内側から爆発して
しまいそうだったからだ。
一気に6階まで駆け上ると、つんと「新築の匂い」が夏実の鼻をついた。
まだ建てて間がないらしい。
そのせいかどうか、6階には8部屋あったが、電気がついているのはいちばん端っこ
の601号室だけだ。
まだ帰宅していない部屋もあるのだろうが、もう夜の8時を回っているのだから、
全部いないということもないだろう。
この不況下で、買う人も借りる人もいないのかも知れない。
だが、誰もいないというのも夏実には好都合だ。
場合によっては暴れるつもりなのだ。

大股でずんずんと牛尾の部屋まで行き、ドアの前で大きく深呼吸した。
「ふんっ」と牛のように荒く息を吐き出すと、腹を据えた。
インターフォンを押す。
何も反応はなかった。
室内は灯りが点っている。
いないわけはない。
続けて何度もやけくそのようにボタンを押したが、やはり返事はなかった。
ますます頭に来たが、今度はドアを叩くことにした。

コンコン。

返事はない。

コンコン、コンコン。

無言。
今度は少し強く叩いた。

ドンドンドン。

「牛尾さん。牛尾さん、いますか?」

やはり無言である。
だんだんむかっ腹が立ってきた夏実は、とうとう切れた。

ドンドンドンッ。

ドアを突き破るかのように激しく拳をぶつける。
本気で夏実が殴ったら、本当にドアが壊れそうである。

「こら、出てきなさいよっ。警察よ!」
「……」

夏実がそう叫ぶと、何かが室内で動いたような気がした。
確かに人の気配がしたのだ。
夏実はさらにドアを殴りつける。

「開けなさい、いるんでしょ!? 墨東署の辻本よ!」

その言葉を聞くとさすがに動揺したのか、はっきりとした物音が中から聞こえた。
少しそのまま待っているとドアのロックとチェーンが外される音がした。
ようやくドアが開くと、陰気そうな牛尾の顔が出てきた。

「辻本さん……」
「そうよ。あんたにとっては先刻ご承知のはずでしょ。墨東署の辻本夏実よ!」

夏実の勢いに気圧されたのか、牛尾はたじたじと後ずさった。
すかさず夏実は靴の爪先をドアの隙間に挟んだ。
ドアを閉められないようにするためだ。
だが牛尾はもう観念したのかドアを閉めるどころか、なおも後ずさっていく。
夏実は追いかけるようにして中に入り、ドアを後ろ手で閉めた。
オートロックらしく、カチリと錠の掛かる音がする。
たじろぐ青年を追うようにして、妙齢の美人婦警は詰め寄っていく。

「あんた、いったいどういう気なの!」
「……」
「あたしたちが婦人警官だと知っててそういうことをしてたわけ!?」
「……」
「あんたがやってたことは犯罪なのよ! わかってんの!?」
「な、何のこと……」
「ふざけないで! ここまで来てとぼけるの!?」

いつの間にか夏実は中に上がり込んでいる。
靴を投げ飛ばすようにして玄関に放り出し、ずかずかと部屋へ乗り込んだ。
怒りに燃える瞳で男の卑劣な罪状を並べ立てた。

「つきまといや悪戯電話だけじゃないわ。本人に断りのない写真撮影! あのいやら
しい下着を送りつけてきたのもあんだでしょ!? それにゴミ袋を野良猫かカラス
みたいに漁って! 勝手に部屋まで来て忍び込んだ挙げ句、盗聴器まで! 全部わか
ってんのよ!」
「……」
「黙ってないで何とか言いなさいよ! 婦人警官の部屋に不法侵入するとはいい
度胸ね!」
「そうか……」

牛尾はがっくりと肩を落とした。
その肩が少し震えている。
少しは反省し、自分の罪の大きさにおののいているのだろうか。
そう思った夏実は、肩から少し怒気を逃してやる。
見れば体力もなさそうな若造だ。
これで無抵抗であれば、いかに夏実でも張り倒す気にはなれない。
だが、それが勘違いだということはすぐにわかった。

「くっくっくっくっくっ……」

彼は笑っていたのだった。

「さすがに辻本巡査。優秀ですよね。まさかここまで来るとは思わなかったですよ。
その行動力には敬服します」
「……何が可笑しいのよ」
「いや、あんまり僕の思った通りの人だったもんで嬉しくて」
「何を……言ってんのよ……」
「それに、わざわざここまで来てくれるなんて。そんなに僕に会いたかったんです
か?」
「な……」

このバカ野郎は何を勘違いしているのだ。
夏実は再びふつふつと怒りが込み上げてきた。
牛尾はそんな彼女の様子には無頓着で続けた。

「それに、もう勤務は終わったのにちゃんと制服で来てくれた。これはもう僕のため
としか思えませんよ」
「そんなわけないでしょうが! ……あっ」

そう言って夏実は初めて気がついた。
独身の若い男の部屋にしては整理良く片付けられていて、埃やゴミだらけなどという
ことはなかった。
ただ、ろくに足の踏み場もないのは同じだ。

簡易ベッドとパソコンデスク、座椅子と大画面テレビ以外には、ほとんど床面が見え
ない。
雑然としているのではないが、所狭しと本や雑誌、DVDやゲームなどのケースが
並んでいるのだ。
もちろんカラーボックスや小さな戸棚などもあるのだが、そこに入りきらないものが
あふれ出ている。
ただそれらは、山積みになっているがきちんと整理されている。
パントリーも冷蔵庫とレンジがあり、テーブルの上には買い物したらしいレジ袋と
缶ビールが並んでいた。

しかし夏実が驚いたのはそのせいではない。
室内の壁には、所狭しと婦人警官の写真が引き延ばされてポスターのように貼られて
いたのである。
牛尾はそういう趣味があるらしい。
もちろん夏実はそんなつもりで制服を着てきたのではない。
警官の制服は、それなりに威圧感がある。
法の執行者としての威厳というか、目に見えぬ圧力を市民は感じているのだ。
だから夏実は、制服を着てくることで、自分が辻本夏実個人ではなく、警察官として
ここに来たということをわからせたかったのだ。

しかし意味はなかったようである。
むしろこの男を喜ばせているのは無念だった。
その青年の後ろの壁には、実物かレプリカかわからなかったが、婦人警官の制服まで
ハンガーに吊されている。
どうもこの男、いわゆる警察マニアらしい。
というより制服女性マニア、あるいは婦警フェチのようだ。
恐らく本や雑誌なども、ほとんどはその関係なのだろう。
但し、貼られている写真は、よく見るとすべて夏実と美幸だった。

「あ、あんた、これ……」

呆然としている夏実に、牛尾が嬉しそうに説明した。

「そう、これ全部ぼくが撮影して引き延ばしたものですよ。よく撮れているでしょ
う?」

スカートの中だとか胸のアップだとか、そうした卑猥な写真はなかったが、顔や全身
像、バストアップの状態で何枚も何枚も貼ってある。
笑顔のものもきりっとした表情の写真もあったが、いずれも制服を着用していた。
夏実たちの行き帰りやプライベートまで覗き見ていた以上、オフでの私服の時の撮影
チャンスもあったはずだが、それは一枚もなかった。
やはり婦警マニアなのだろう。
驚いて言葉もない夏実に、青年は手にした写真を見せた。

「これはポスターにしてないんですけど……」
「あっ……!」

夏実は思わず大声を上げてその写真を奪い取った。
美幸と夏実のものが一枚ずつあったのだが、なんとヌード写真だったのである。

(シャワー室だ……!)

迂闊だった。
盗聴器があったのなら、当然、盗撮も疑うべきだった。
帰ったらすぐにチェックしなければならない。
後ろ姿だったのが幸いだが、それでも全身像がしっかりと映っていた。
シャワーの湯気でところどころぼやけているからまだマシだったが、それがかえって
そこはかとない色気になっている。
いずれにしても、こんな男に素肌を見られた(それも知らないうちに、だ)ことが
許せなかった。

「あ、あんたねえ……」

夏実は憤激でわなわなと肩を震わせていた。
手にした写真は無意識のうちに破いている。
右手が、これまた無意識に、簡易キッチンのテーブルにあったビール缶を鷲掴みして
いた。
力が入っているのか、肩が小刻みに震え、ビール缶を掴んだ指が白くなっている。

「いったいどういうつもりなのよ、こんないやらしい写真まで撮って! これはもう
肖像権の侵害なんてものじゃないわよ! 強制わいせつじゃないの!」

そう絶叫すると同時に、罪のないビール缶が弾けた。
夏実が握りつぶしたのである。
部屋一面に泡と液体が飛び散り、夏実本人にもかかったが、まったく気にもならなか
った。
牛尾は大いに驚いていた。
夏実が柔道三段だというのは知っていたが、まさかこんな力があるとは思ってもみな
かった。
まさに「馬鹿力」であろう。

「……凄い力ですねぇ」
「当たり前よ。いいこと、もう許さないからね。こないだみたいに平手で済むとは
思わないで。この拳で……」

夏実はそう言って潰れた空き缶を投げ捨て、テーブルを思い切り拳で殴りつけた。
ピシッとどこかにヒビでも入ったような音がした。

「殴り飛ばしてやるわ。美幸の分も含めて二発はね! それから捜査課に突き出して
やるから覚悟なさい!」

夏実はかなりドスの利いた声でそう言ったつもりだったのだが、まるで牛尾は堪えて
いなかった。
気色悪い青年は、へらへらと薄笑いを浮かべて言った。

「おお怖い、怖い。辻本さんに本気で殴られたら、僕なんか入院しちゃいそうだな」
「安心なさい、そこまではしないわよ。タダで済ませる気もないけどね」
「それはどうも。でも僕も殴られるのはいやだから……」

牛尾はそう言うと、後ろに回していた手をすっと前に出した。
手には拳銃が握られている。

「!!」

さすがに夏実も驚いて、一歩足を引いた。

「あ、あんたまさか……、それ本物なの? それともエアガンか何か?」
「はずれ、どっちでもないよ。ピストル型のスタンガン」
「えっ? 痛っ……!」

ばすっとガスガンを発射したような銃声がしたかと思うと、夏実は右腕にちくりと
した痛みを感じた。
ボールペンのペン芯のような弾丸が腕に刺さっている。
先に針がついているようだ。
そのカートリッジの底からワイヤーが伸びて、牛尾の持ったスタンガンの銃口につな
がっていた。

「ぐあっ……!!」

痛みを感じた一瞬後、全身の体毛が逆立つような電気ショックが突き抜けた。
10万ボルトの高電圧が夏実の全身を襲う。
僅か3秒の電撃だったが、夏実はそのショックで床に崩れ落ちていた。
失神することだけは避けられたが、まだ身体中が痺れている。

「あ、んた……、何する、ぐぅああっ……!」

伸ばした夏実の右腕から火花が散り、ばちばちっと凄まじい電撃音がした。
さすがの体力系怪力婦警もこれにはかなわず、白目を剥いて全身をのたうち回らせ
ている。
二度目の3秒電撃を食らい、夏実の身体は麻痺してしまっていた。
まだ辛うじて意識があるのが不思議なくらいだ。

「だいぶ効いたようですね」

牛尾は夏実の顔を覗き込んでから、彼女に撃ち込んだ針を抜き去った。

「電圧は相当高いですけど、電流は3ミリアンペアくらいだそうですから、怪我
したり死んだりすることはないと思いますよ。まあ、辻本さんの体力なら心配ない
けど」
「う……ぐ……」

まだ電気ショックで満足に口の利けない夏実は、必死になって遠のく意識を呼び戻
し、牛尾を睨みつけていた。
青年は落ち着いてスタンガンを仕舞い、今度はロープを手にしていた。
縛られるということは、監禁されるかも知れない。
ただ、すぐに殺されることもなさそうだ。
おぞましい限りだが、牛尾が夏実に歪んだ好意を持っているのであれば、危害を
加える可能性は少ないはずだ。
それに、常識的に考えれば、現職警官をこのまま拉致するとは思えない。
そんなことをすれば大事件となり、遠からず捜査の手が入る。
このままタダで逃がしてくれるとは思えないが、留めておくことも出来ないはずだ。
どうするつもりだろうと夏実が考えていると、牛尾が引き起こした。

「な……にを……」
「するのかって? スタンガンでびりびりっと痺れたって、こんなもの一過性です
から。強い辻本さん……いや、夏実さんと呼ばせてもらおうかな。夏実さんなら
すぐに回復して、僕なんかぶっ飛ばされちゃいますんでね」

牛尾はそう言いながら、夏実の身体を縛り始めた。
制服を脱がして、その綺麗な裸を直に見たい欲望に駆られたが、それは今回は我慢
することとした。
せっかく制服を着ているのだ。
そのままでいて欲しい。
濃紺のベストは脱がせたが、下の薄いブルーのワイシャツはそのままにしてロープ
を使った。
濃紺のネクタイもつけたままだ。

「ちょっと我慢してくださいね」

牛尾はそう詫びながら夏実を縛っていく。
腕を後ろに回させて、そこで両手首を縛り上げた。
夏実の腰のベルトに着いている手錠ケースも目についたが、それは使わないことに
した。
婦警を犯すのに手錠で自由を奪うというのは定番だし、それはそれで味があるだろ
うが、それをやってしまうと夏実の綺麗な肌に傷がついてしまう気がしたのだ。
縄でも擦り傷はつくだろうが、手錠が肉に食い込むよりはマシだろう。

てきぱきと手際よく縛ると、元気のいい婦警の自由は拘束されてしまった。
大きな胸を潰すわけにはいかないので、バストの上下を縛る感じだ。
そこまで縛って牛尾はハタと思い出した。
こんなことせずともいいのだ。
青年は夏実をお姫様だっこでひょいと抱き上げ、そのまま無造作にベッドへ放り投げた。
身長158センチと小柄だが、思いの外腕力はあるらしい。

「ぐっ……」

案外柔らかいクッションで、夏実の身体がボンと弾んだ。
牛尾がバッグの中身を漁りだした隙に何とか脱出しようと、夏実はもがいた。
腕はかっちりと縛られており、麻痺がとれても動けそうにない。
脚は自由のはずだが、まだ痺れていて辛うじて動く程度だ。
早く麻痺が醒めることを願ったが、牛尾はすぐに戻ってきた。

「すいません、注射しますね」
「ちゅ、注射って……」

口は利けるようになった。
まだぎこちないが喋れる。
だが、そんなことより注射って何だ。
夏実が牛尾を見ると、医学部に通う医師の卵は、右手に小さな注射器を持っている。
透明な薬液が入っているのがわかった。

「な、何よそれ。何をしようってのよ!」
「あ、もう元気だなあ。まずいまずい」
「あ、やめなさ……い、痛っ……!」
「力抜いてくださいよ、かえって痛いですよ」
「だ、だから変な注射しないでって……あっ……」

ブルーのワイシャツの上から、直接左腕に注射された。
腕をまくろうにも縛ってあるから出来なかったのだろうが、それにしても医学生の
くせにアルコール消毒もしないで着衣の上から注射するとは何事だと思った。
牛尾はすぐに針を抜いた。

「くっ……、痛いわねっ。何を注射したのよ」
「専門的になるけど、辻本さんにわかるかな」
「バカにしてんの!?」
「わかりましたよ」

牛尾は苦笑しながら説明した。
夏実への呼称が、ま「た辻本」に戻っている。
まだ「夏実」と呼ぶのに馴れていないのだろう。

「ベクロニウムってんですけどね」
「何ですって?」
「ベクロニウム。簡単に言えば筋弛緩剤です。でも安心して。ごく微量だから、
心筋が麻痺したり呼吸できなくなったりってことはないから」
「安心なんか出来ないわよ! あんたの言うことなんか当てにならない」
「ほら、そうやって喋れるでしょう? それが証拠だと思うんだけど」
「つ、つまり、あたしは意識があって、でも動けないってことでしょうが!」
「その通り。さすがに辻本さん。賢いなあ」
「バカにしないでよ! それならいっそ……」
「意識がない方がいい?」
「……」

そんなことはない。
確かに、動けない状況でおかしなことをされるのは屈辱だが、期を失っている時に
好き勝手されるのはもっと嫌な気がする。
そこまで考えて、夏実はようやく気がついた。

「あ、あんた……。あたしに何をしようってのよ」
「……」
「言いなさいよ!」

言葉の語尾が少し震えている。
例え相手が凶悪犯であろうとも、武器を持っていようとも、夏実が相手に怯むこと
は滅多にない。
人質でもとられていれば別だが、自身への脅威には無頓着──というより、怒りの
方が先に立つのだ。
だがそれもケースバイケースであることを思い知らされた。
敵が危害を加えようとしているというのは同じだが、牛尾の場合、夏実を傷つけよう
とか、命を奪おうとしているわけではないだろう。
青年は言った。

「……改めて言わないでもわかると思いますけどねえ」
「……」
「僕たちはここで初夜を迎えるわけですよ」
「!」

やはりそうだ。
ストーカーの場合、希にはつきまとう相手に対してストイックで、そうした欲望を
持たない犯人もいる。
だが大抵は、その女をものにしよう、下世話に言えばセックスしたいと思っている
のだ。

(こ、こんな男に抱かれる……!)

殴られたり蹴られたりした方がどれだけマシか知れない。
牛尾のようなやつに犯されるなど絶対に容認できない。
案の定、牛尾は服を脱ぎ始めた。
夏実は目を閉じて顔を背けた。
そんなものは見たくなかった。
そこに気色悪い声がする。

「ふふ、辻本さん。いいですよ、それ。初めて夫をベッドインする新妻がはにかんで
いるみたいだ。まるで本当に初夜ですよ」
「バカッ、誰があんたの妻……いやっ!」

思わず目を開けて正面を見てしまったが、そこには当然のように牛尾の裸身があった。
逆光になってよく見えなかったが、それなりに筋肉質だった。
保険金詐欺で得たカネでジムにでも行っているのかも知れない。
股間でぶらぶらしているそれが目の端に入ると、夏実は叫んで顔を伏せた。
牛尾が嬉しそうに言う。

「純情だなあ、見かけによらず。もしかしてマジで処女なの? んなわけないよね、
彼氏……いや、元カレがいるんだから」

確かに処女ではない。
そもそも25歳にもなるのだから、ヴァージンでいる方が希少だろう。
もちろん夏実にもそれなりの経験はある。
何を隠そう、東海林ともそういう関係はある。
東海林以前にも一時的に男がいたことはあったから、彼とつきあう前にはすでに非処女
だったことになる。
それでも、その素晴らしい身体や開けっ広げな性質とは裏腹に、性体験はまったく
少なかった。

夏実は性行為に恥じらいを必要以上に感じるタイプだ。
彼女のような、姉御肌で一見豪快に見えるタイプは案外そういうものなのだろう。
ただ、それを見抜かれたくはいから、言葉では経験豊富のように言っているだけだ。

「元カレって何よ!」
「だから、その東海林さん」
「元じゃないって。今でも……」
「これからは違いますって。今から僕が……」
「だからあんたなんか嫌だって何回言えば、うっ!」

元気に抵抗する夏実に、牛尾がのしかかってきた。
片手で顎を掴むと、正面を向かせる。

「お、重いっ……! あ、顎……痛いわよ……」
「いいですか、よく聞いて下さい」

夏実の抗議など取り合わず、牛尾が真面目な顔で言った。
いつもへらへらしていることの多い青年だったから、夏実はこいつの真顔を初めて
見る。

「僕はあなたを愛している」
「……」
「あなたも僕を愛しているはずだ」
「誰が愛してるのよ! 嫌いだって言ってるでしょ!」
「まだ気づいてないだけですよ」
「気、気づいてないって……」

男は、年上の女性を説得するように続けた。

「まだ心はあの男にあるって顔ですけど、そんなものはどうでもいい」
「……」
「取り敢えず身体ですよ。心なんて後からついてくる。身体同士が馴染んでくれば、
きっと僕の思いが伝わります。そうすれば辻本さんも僕を愛するようになる」

夏実は呆れて物が言えなかった。
この、女の肉体に対する偏見と、女性心理の冒涜は何なのだろう。
大まじめでそんな風に思っているのだろうか。
それとも下品な創作物に感化され、いつしかそう信じるようになったのか。
夏実は牛尾に対する嫌悪感がますます募っていく。

「絶対に……ない」
「何です?」
「絶対にあんたを愛することなんかないってのよ! 今、核戦争が起こって全人類が
滅んで、地球上にあたしとあんたしか生き残らなかったとしたら、人類は絶滅する
わよ。それくらい嫌いなの!」
「……やれやれ強情だな。まあ、そこが辻本さんの可愛いところだけど」
「か、可愛いってあんた、年上の女性に向かって……」
「もういいですよ。じゃあ早速やりましょうか。本当はもっとムードが欲しかった
ところだけど」
「や、やめなさいっ……! け、警官に対する婦女暴行なんてやらかしたら、あんた
どうなるかわかってんの!?」

夏実はそう言いながらも空しさを感じていた。
そんなことは彼には関係ないのだろう。
罪を恐れているのであれば、最初っからこんなことはすまい。
覚悟しているのか、それとも欲望が先走りしすぎて思いが至らないのか。
いずれにしても、夏実にとっては最大に危機であった。
しかも逃げ道がまったくない。
牛尾はせせら笑って嘯いた。

「婦女暴行? 強姦ですか? まさかね。僕と辻本さんは合意の上でセックスする
んですよ」
「誰が合意なんかするかっ! あ、こら、やめろっ!」

牛尾の脂ぎった痘痕面が夏実にのしかかってくる。
手は縛られているからどうしようもない上に、自由なはずの脚も弛緩剤で力が入ら
ない。

「くっ……、何これ……。脚が動かない……」

重いと言うより本当に動けない。
感覚はあるのだ。
なのに動けない。
ちょうど金縛りにでも遭った時のようである。
あれも、意識はあるのに身体が動かせない。
どういうわけか、目は開くし、口も動く。
その感覚によく似ていた。

「や、やめろ、触るな!」

男の手が、ブルーのシャツの上から胸を掴んできた。
ブラジャー越し、ワイシャツ越しではあるものの、男の手で乳房が揉まれているの
には変わりない。
夏実は全身の毛が逆立つような悪寒を感じて寒気がした。

「どこを触って……、あっ、いやっ!」
「どこって胸ですよ、夏実さんのおっぱい」
「く……、こ、このっ!」
「ああ、いいなあ。服の上からだけど、いい。婦警の制服のまま、夏実さんのおっぱ
いを揉めるなんて」
「感極まってんじゃないわよ! やめて、離れてよ!」

夏実自身は必死になって拘束を解こうと激しく身体を揺すっているつもりなのだが、
ほとんど身体が動いてくれない。
それでも懸命になって無為な努力をして、牛尾を抗っていた。

「少し落ち着いて下さいよ、夏実さん。怖いのはわかるけど」
「怖いって……」
「初夜は誰でも怖いもんなんでしょう?」
「だから、誰があんたなんかと初夜を……」
「心配しないでも、少しずつ身体をほぐしてあげますから」
「余計なことしないでいいわよっ! そんなことより、さっさと解いて!」

暴れる──否、暴れようとしている夏実を横目に、牛尾はそっと彼女の身体に触れ
ていく。
少しめくれ上がったスカートから覗く長い脚を手が撫でていくと、夏実はびくっと
全身を震わせた。

「くっ……!」

芋虫が這っているかのような気色悪い感触に、夏実は総毛立った。
牛尾の手で触られるくらいなら、本当に芋虫にたかられている方がマシに思えてくる。
触っている青年は、うっとりとした表情で夏実の脚を褒め称えている。

「綺麗だ。綺麗な脚ですよ、夏実さん。ああ、このストッキング越しの触感もいい
なあ。本物の夏実さんの脚なんだ……」
「こっ、このっ……!」

一発ぶん殴ろうにも蹴り飛ばそうにも、身体の自由が利かない。
結局、顔を激しく振りたくりながら、悔しそうに呻くしかなかった。
牛尾は夏実が抵抗できないのをいいことに、じっくりと撫でている。
スカートをすっかりめくってしまい、ストッキングに包まれた脚と腰が露出されて
いる。
ストッキングはアイボリーで、ほとんど素肌と同色だろう。
その下に、白い下着が見えていた。
夏実はやや顔を染めて叫んだ。

「見るな! あんたどこ見てんのよっ!」
「騒がないでくださいよ。まだ下着越しですよ。最後にはモロに見ることになるのに」
「バカッ、そんなことしたら絶対許さないからっ! あっ……く……やめ、ろっ……」

触れるか触れないかくらいの繊細なタッチで腿の内側をすっと撫で上げると、夏実は
首を反らせて小さく呻いた。
これくらいでいきなり感じてしまうこともないだろうが、くすぐったいのは確からしい。
こそばゆさの先にある感覚を早く呼び覚ましてやろうと、牛尾は腿や脚の付け根、
ふくらはぎ付近を優しく撫でていく。
そのたびに「くっ」と呻き、身を反らせようとしている夏実は、その身体にうっすら
と汗を浮かべていた。
同時に、薄甘くて香ばしい匂いが漂ってくる。
牛尾がこれ見よがしに鼻を蠢かせた。

「ああ、いい匂いだなあ。これ、夏実さんの汗の香りですね」
「う、うるさいっ……。もうやめろぉっ!」
「あんまり怒鳴ってると疲れますよ。明日の朝まで寝られないかも知れないのに」
「な、何を言って……、んっ……」
「おやおや、そんな声を出して。そろそろ気分が出てきましたか?」
「か、勝手なことばかりっ……!」

牛尾は夏実をからかいながら、彼女の性感を引き出そうと盛んにその身体を撫でさす
っていった。
少しずつ神経が戻ってきているのか、牛尾の手が蠢くたびに、夏実の足腰が細かく
震えていた。
麻酔がとけるのを慎重に見極めながら、医学生は青い制服の上から夏実の乳房を揉ん
でいく。
ブラやシャツの生地が邪魔だが、その大きさと弾力、そして柔らかさは充分に手の
ひらに伝わってくる。
細身なイメージだったのに、思いの外バストが大きいようだ。

「やっ……、い、いい加減に……し、あっ……しなさいよ……くっ……は……」
「だんだん声が変わってきましたね。感じますか?」
「さ、さっきからバカなことばかり……くうっ……」

言葉では元気に抵抗しているものの、身体は徐々に反応してきているようだ。
シャツの上からも、夏実の乳首がだんだんと硬く尖ってきているのが牛尾にもわかる。
そこを指先でちょんと押し込んでやると、夏実は「あっ!」と甲高い声を出して呼吸
を乱した。

「たまらないな……」

夏実の反応に牛尾は息をのんだ。
充分に時間はある。
じっくり時間を掛けて夏実を味わうつもりだったが、そうした余裕がなくなっていく。
大げさでなく、夢にまで見たことが現実となっているのだ。
もう牛尾の股間は、これ以上無理だというくらいに勃起している。
一度くらい放出してやらないと痛くて仕方がないくらいだ。

「夏実さん、まだ前戯が足らないかも知れないけど我慢してください。僕の方が辛抱
できなくなってきた」
「ど、どういうことよ……」
「さっそく一発やらせてもらいますから」
「な……!」

さすがに夏実も目を剥いた。
そうなるかも知れないと恐れてはいたが、牛尾は堂々と宣言してきた。
夏実を犯すというのだ。
しかも、勤務時間外とはいえ、制服を着用してきた婦人警察官を凌辱する。
そんな事件は前代未聞かも知れない。
気の強い婦警の顔からも、すうっと血の気が引いていく。

「バ、バカな真似はやめなさい! 今なら……今ならまだ間に合うのよっ!」
「間に合う? 間に合うって何がです?」
「だ、だから犯罪を犯さずに済むってことでしょ! こ、このままあたしを解放すれ
ば逮捕はしない。このことは不問にしてあげるわ」
「……」

それを聞いて動きを止めた牛尾に、夏実は安堵した。
やはり逮捕だの起訴だのという言葉は、一般人には効くのだ。
前科者になるかどうかの瀬戸際なのだから。
だが、それが大いなる勘違いだとわからされた。

「わかってない。わかってないよ、辻本さん」
「……」
「僕とあなたは愛し合うんだ。罪も何もない」
「あんた、まだそんなことを……」

夏実は失望した。
この男は本気でそう考えているらしい。
人間形成がおかしかったのか、それとも夏実の前でだけは歪んでしまうのか。
いずれにせよ、まともな説得が効く相手ではないようだった。

「それじゃ行きますよ」
「やっ、やめて!」

スカートをすっかりまくり上げると、腰で止まっているストッキングを両手で一気に
引き下ろした。
ストッキング色よりもずっと白い脚が艶めかしかった。
それを愉しむこともなく、今度は下着のゴムに指をかける。
頼りないショーツは、牛尾の指一本であっさりとずりおろされてしまった。

「ああっ!」

とうとう秘部を露わにされた夏実は屈辱で胸を灼いた。
見知らぬ男に素肌や大事なところを見られる恥ずかしさもあったが、そうした羞恥より
もこんな傍若無人な男に自由にされてしまう屈辱感の方が強かった。
裸を見られるいたたまれなさより、怒りの方がずっと大きい。
牛尾の興奮しきった声がする。

「こ、これが……これが辻本さんのオマンコ……!」
「っ! み、見るな、このっ……、やめろっ!」

夏実の声を聞き流し、牛尾は上擦った声で続けた。

「ウソみたいに綺麗なオマンコだ……。本当に処女じゃないんですか?」
「な、何回もそんなこと聞くな! 見るなあっ、見るんじゃないっ! あ、こら、
どこ触ってんのよっ!」
「どこって、オマンコまだあんまり濡れてませんよ。このまんま入れたら痛いです
よ?」
「だっ、だから何もしなければいいでしょっ! やめろ、触んないでって!」

媚肉やなぞり、恥毛を嬲るようにいびっている牛尾に、夏実は絶叫するように言って
抗った。
腰が少し蠢いている。
さっきより動くようになってきているらしい。
手出しはしないものの、あまりに抵抗する夏実に少しうんざりしたように若者が
言った。

「まだ濡れてないけど辻本さんがその態度じゃなあ……」
「……」
「仕方ない。このまま入れますよ」
「!」

ぶらんと男の腰で揺れるものの正体がわかると、夏実は懸命に顔を逸らせた。
あんなもの、見たくもなかった。

牛尾の方は、夏実と心から愛し合いたいという欲求はあったものの、今回は取り
敢えず諦めたようだった。
それに、いつもこうでは困るが、たまにはこうして抵抗する夏実を犯すようなプレイ
も愉しいかも知れないと思い直した。
夏実にとっては「プレイ」ではなく、本気で嫌がって抗っているのだが、邪心で
曇った牛尾の目と心にはそれがわからない。

「ひっ!」



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