妃法律事務所のソファに座り、向かい合う男女。

「ですから、その件についてはお引き受けするつもりはありません」

英理はいささかうんざりした様子で、目の前の男に声を尖らせて言った。
いったいさっきから何度このセリフを繰り返しただろうか。
男は日売テレビの番組プロデューサだ。今度立ち上げる法律バラエティの
レギュラー弁護士として英理に出演して欲しいとの依頼だった。

「妃先生・・・・ そこを何とかなりませんか」

相手もまた同じセリフを英理と同様に繰り返していた。

「だいたい、私はほとんど刑事事件専門ですよ。そういうものは民事事件を
中心にやっておられる方のほうがよろしいのでは?」
「いや、まあ・・・・ それはそうですが、そんなに堅苦しく考えられなくても
大丈夫ですよ」

英理の言う通りバラエティで扱うのはほとんどが民事事件なのでそちらを専門に
している弁護士の方が適任だ。だがそんなことよりもっと大事なのは数字、
つまり視聴率が取れるかどうかなのだ。そのためには今最も旬な弁護士ともいえる
英理はどうしてもほしいキャラだ。
二人の間に横たわる重苦しい沈黙。そこへドアが開いて秘書の栗山緑がお茶を
取替えに入ってきた。英理はそれを期に立ち上がると、緑を制して言った。

「栗山さん、それはもういいわ。お客様はお帰りだから」

さらに男に言葉は丁寧だが強い口調で続けた。

「クライアントとの約束の時間が迫っていますので、もうよろしいですね。
お帰りいただけますか」

男を拒絶する断固たる言葉だった。男はしぶしぶといった感じで立ち上がり、
部屋を出ていこうとして去り際に振り返った。

「妃先生、私はあきらめません。また来ます」

男が出て行き、ドアが閉まると英理は小さくため息をついた。

「本当にしつこいんだから・・・・」
「先生、今度はどんな番組なんですか?」
「法律バラエティですって。全くもう・・・・」

先々週まで英理は公共放送の教養番組の法律相談コーナーに出演していた。
本来はあるベテラン弁護士が担当していたのだが、体調を崩して一時降板することになり、
その代役として急遽英理に白羽の矢が立ったのだ。
正直言って英理は気が乗らなかったが、そのベテラン弁護士は彼女が司法修習生時代、
そしてイソ弁時代と大変お世話になり、大いに薫陶を受けた恩師といってもいい
存在だったので、彼から是非にと頼まれて断りきれず、復帰するまでの一ヶ月間という
約束で引き受けたのだ。
ところがその反響は予想以上に大きかった。
わずか10分程度の短いコーナーではあったが、お堅い法律論を易しく分かりやすく
解説しつつも理路整然とした隙のない論理展開、法律弱者に向けられた厳しくも
温かい視線、そして何よりその美貌が世間の注目を集めて巷の話題となり、法曹界で
語られていた『法廷のクイーン』の勇名を世間一般に知らしめることになったのだ。
以来、英理のもとには各種マスコミの取材や他局からのテレビ出演依頼が殺到し、
恩師が復帰して番組を降板以降もそれは引きも切らず続いていた。

「全くもう・・・・」

英理がもう一度ため息をつく。

「でも先生、今からクライアントと約束なんかありましたか?」

緑がスケジュール帳を開いて確かめた。

「えっ? ああ、あれは口実よ。実は蘭とちょっとね」
「ああ、蘭さんと約束なんですか」
「ええ、一緒に食事をすることになっててね」

コンパクトを見ながら紅を差し直している英理を見て緑はクスリと笑った。

「毛利さんもご一緒ですね?」
「えっ・・・・ うん、まあ、そうなんだけど・・・・ 全く蘭にも困ったものだわ。
小五郎(あのひと)と私を何とか元の鞘に戻そうとしてるんでしょうけど、相手が
あれじゃあねえ・・・・ もっと誠意を見せてもらわないと」

「(本当に困ってるのかしら?)」緑はいつもながらそう思う。
厳しい言葉とは裏腹に、何だかんだと英理は小五郎のことはいつも気にしている。
それにずいぶん長いこと別居してはいるものの、離婚するつもりはさらさらないらしい。
その証拠に英理の左手薬指には片時離れず結婚指輪が嵌められているのだ。
もっとも英理本人に言わせればそれは単なる『男除け』に過ぎないのだそうだが。

「そういうわけだから栗山さん、今日はもう帰っていいわ」
「はい、わかりました。先生、お食事楽しんできてください」
「ええ、ありがとう」

緑は一礼すると部屋を出て行った。


─────────────────

米花ホテル展望レストラン。

「ねえ、お母さん、本当に全部断っちゃったの?」

蘭は英理が民放の出演依頼を全て断ったことを聞いてひどく残念がった。

「出演すれば、色んな芸能人やスポーツ選手と会えるかもしれないのに」

英理は思わず苦笑した。
蘭のこのややミーハーな性格は今でもアイドルの追っかけみたいなことをしている
小五郎の血を間違いなく引いている。

「それにあの法律コーナーのお母さん、本当に格好よかったよ。ねえ、コナン君」

蘭は傍らのコナンを見やる。

「あっ・・・・ うん」

コナンが口に入れたばかりのハンバーグを慌てて飲み込んで頷いた。

「おだててもダメよ、蘭。もう決めたんだから。もともとテレビなんてどうも苦手なのよ。
あの番組だって○○先生にどうしてもって頼まれたから出ただけなんだから」
「そうかあ・・・・ でも残念だなあ。あの番組本当に楽しみだったんだけど。
私も・・・・ それにお父さんも、ね」

小五郎が慌てて制止しようとしたが間に合わなかった。

「えっ? どういうこと?」
「だってお父さん、あの法律コーナーだけはちゃんと録画してたんだよ。
そうだよね、お父さん」

小五郎はそっぽを向いた。

「うるせぇ」
「あなた・・・・」
「だいたい、お父さんが沖野ヨーコちゃん以外の番組の録画をするなんて本当に
珍しいんだから」

その時、

「よお、あんた、弁護士の妃英理さんだろ?」

赤ら顔の男が千鳥足で英理達のテーブルに近づいてきた。明らかに泥酔している様子だ。
英理が顔をしかめた。テレビ出演以来こういう経験も増えてきた。

「なあなあ、美人弁護士さんよ。今度俺の悩みも聞いてくれよ」

男が英理の肩にぐっと手を伸ばしてきた。蘭が思わず腰を浮かせたまさにその時、

「やめないかっ!」

小五郎が英理とその男の間に立ちはだかり、男の手をぐっと掴んで逆さにねじり上げた。

「うおっ! い、痛いっ!」

異変に気づいた店員が駆け寄ってきて、小五郎から事情を聞き、男を店内奥の事務所へと
連れて行くと、小五郎が英理を振り返った。

「大丈夫だったか、英理」
「えっ・・・・ うん、ありがとう、あなた」
「それならいい」

小五郎が自分の席に戻ると蘭の賞賛の視線が待っていた。

「かっこいい! お父さん!」
「ばか、何言ってんだ」
「(へえ・・・・ おっちゃんもやるときゃやるんだな)」

内心感心するコナン。
蘭が英理を見やるといくぶん火照ったように顔を赤らめて小五郎を見つめている。
「(これは・・・・ チャンスかもしれない)」


─────────────────

蘭は食後のコーヒーを一口すすると英理に訊いた。
「ねえ、お母さん、明後日の大会は見にこられるの?」
その日は全国高校空手道選手権の関東大会が米花市民センターで開催され、
都大会優勝の蘭も出場するのだ。

「ごめんね、蘭。その日はどうしてもはずせない仕事が入ってて・・・・」

英理は娘に謝った。
前々からそのことを聞いていた英理はどうしても観戦に行きたかったのだが、
あいにくその日に担当している事件の最終公判が入ってしまったのだ。

「なんだ・・・・ 残念」蘭のがっかりした顔を見るのは英理も辛い。
小五郎と別居して独り暮らしをはじめてからも蘭とはしばしば会っていた。
しかし小児期の多感で本当に大切な時期に母親として十分な役割を果たせたとは
到底いえない。そんな恵まれない状況下でも変にひねたりせず、明るく素直に
育ってくれた娘にはどれほどの愛情を注いでも足りないくらいだ。

「もう、コナン君たらこんなに食べかすをつけちゃって」

コナンの口の周りをナプキンで丁寧に拭き取ってやっている蘭を見て思わず微笑んだ。
かなり勝気ではあるが芯は女の子らしくて優しい。面倒見がよくて子供好き、自分と
違って家事も万能で家庭的な性格だ。それに親の贔屓目を割り引いたとしても、
容姿も十分人並み以上で愛らしく魅力的と言っていい。
いずれ蘭もきっと身を焦がすような恋をし、愛する人と結ばれ、その相手の子を産み、
よき妻・よき母親として幸せになれるだろう、いや、そうなってほしい。
その蘭もいまや17歳の青春真っ只中、恋焦がれる相手がいてもおかしくない年頃だ。
実際、親友・工藤有希子の息子であり、同じ歳で幼馴染の工藤新一が、彼女の中で
ずいぶんと大きな存在となってきているようだ。

「(幼馴染か・・・・)」

ちらと小五郎を見やった。
自分がこの男(ひと)を選んだように、蘭もまた幼馴染を生涯の伴侶として選ぶのだろうか。
小五郎と結婚して得たもの、失ったものはそれぞれあるが、蘭を授かったこと、
その一点だけで失ったものを全てを補ってなお余りある。
気が付くと小五郎もまた蘭の様子を優しく見守っていた。おそらく似たようなことを
考えているのかもしれない。二人にとって蘭はまさしく掌中の珠、最愛の一人娘なのだ。
もっとも小五郎は蘭の新一への想いをあまり快く思っていないようだが、これは父親として
しかたないのかもしれない。
英理の視線に気づいた小五郎がコーヒーカップを掴んだ。

「そんじゃ、そろそろ帰るとするか」

小五郎はコーヒーをぐっと飲み干すと立ち上がった。
ホテルの外へ出たところで蘭はすかさず言った。

「ねえ、お母さん、ちょっとうちに寄っていきなよ」
「えっ・・・・」英理は迷っているように見えた。
「ねえ、お父さん、いいわよね」
「あ、ああ。そりゃあ別にかまわねえが」
「そ、それじゃ・・・・ ちょっと寄っていこうかしら」
「(やった!)」

蘭は小躍りした。いくらしっかり者だといっても蘭はまだ17歳の高校生、
両親と一緒に暮らしたいのは当たり前だった。これをきっかけに二人がよりを
戻してくれれば・・・・ だが蘭のそんな甘い期待はあっさりと打ち砕かれた。
「小五郎さ〜ん」甘ったるい声が背後から掛かった。
振り向くとそこには小五郎行きつけのスナックの若い女性店員がしなを作って
小悪魔的な笑みを浮かべていた。

「名探偵さぁん、また今度お店の方によって、事件のお話、聞かせてぇ」

小五郎の腕に自らのそれを絡めてもたれかかり、舌足らずな口調で鼻声を鳴らす。
さらに英理に目をやると胡散臭そうに言った。

「小五郎さぁん、誰なのぉ、このおばさん?」

――ピキッ

英理のこめかみに怒筋が立つ音が蘭の耳にはっきりと聞こえた。

「蘭、悪いけど、やっぱり私戻るわ。片付けなくちゃならない仕事もあるし」

さっきまでの甘い雰囲気はどこへやら、怒りのオーラを身に纏った英理が
背を向けて立ち去ろうとしていた。

「お、お母さん! ちょっと待って! あっ、あれは・・・・」

英理はくるりと振り返ると蘭に一言釘を刺した。

「蘭、幼馴染の探偵っていうのにろくな男はいないわよ。あなたも気をつけなさい」
「お母さんっ!」

再び踵を返して立ち去る母親を呆然と見送る蘭。そしてその若い女性に鼻の下を
伸ばしている父親を背中を思いっきりはたきつけた

「お父さんのバカバカバカバカバカッ!」


─────────────────

2日後、米花市民センターで満面の笑みを浮かべて優勝トロフィーを掲げる蘭の姿があった。

「おめでとう、蘭」
「よかったな、蘭」
「おめでとう、蘭ねえちゃん」

親友の鈴木園子、そして小五郎とコナンが蘭を祝福した。

「ありがとう、園子、コナン君、お父さん」
「ホント格好よかったよ、蘭。どこぞをほっつき歩いてるアンタのだんなにも見せて
あげたかったわね。恋女房のこんな雄姿を見ればきっと惚れ直したんじゃないの?」

園子が親友の肩をたたきながら笑って言い、思わず顔を赤くする蘭とコナン。

「もうっ! 何言ってるのよ、園子」
「いや・・・・ そんなことは・・・・ ははは・・・・」
「うん? どうしたのコナン君? そんなに顔赤くしちゃって?」

蘭が不思議そうにコナンを覗き込む。

「なっ、何でもないよ、蘭ねえちゃん」
「おい、蘭、そのだんなってまさか、あのクソ生意気な探偵坊主ってわけじゃないだろうな。
俺は認めんからな、だいたいあんなやつにたぶらかされて・・・・」
「たぶらかされてって、何よもう! だいたい新一と私は別にそんなんじゃ・・・・」
そこへカメラを背負った報道関係者らしい男が近寄ってきた。
「毛利さん、ちょっと取材お願いできますか?」
「えっ、取材? あっ、はい」

少し離れた場所で蘭はラフな格好をした記者からインタビューを受けている。
どうやら何かの雑誌の取材らしい。
ややはにかんだ表情で受け答えする蘭を見て小五郎がポツリとつぶやいた。

「なんかだんだんあいつ、英理に似てきやがるなあ」

すると園子がからかうような口調で言った。

「じゃあ、蘭もおばさまと同じように幼馴染の探偵と結婚するんじゃないの?」
「けっ・・・・ 結婚って・・・・」

男二人が同時に声を上げ、小五郎はそっぽを向き、コナンはたちまち真っ赤になった。


ちょうど同じ頃、英理は担当事件の最終公判を終えて法廷を出てきた。
難しい裁判だったが裁判官の心証はかなり被告に同情的だし、これなら
判決も期待できそうだ。

「(蘭はどうなったかしら?)」

もう大会は終わっている時間だ。結果を確かめようと携帯電話を取り出したその時、
背後から声が掛かり、振り向くと事務員が立っていた。

「妃先生、先生にお客様です。今、応接室で待っておられます」
「お客?」

一瞬、例のプロデューサーの顔が浮かび、思わず顔をしかめた。

「ご案内しますのでどうぞ」

英理が事務員についていくとまたもや背後から声がかかった。

「妃先生」

再び振り向くとそこに立っていたのは検察のマドンナこと九条玲子検事だった。

「あら、九条さん」

法廷内では敵味方に分かれてそれこそ激しく鎬を削る仲ではあるが、検事と弁護士という
立場の違いこそあれ、法という名の下で互いの実力を認めて敬意を払う間柄でもある。

「それにしても妃先生、最近は随分と色んな方面でご活躍のようですね」
「あら、九条さん、それは嫌味かしら?」
「とんでもない。ですが・・・・」
「何かしら?」
「検事にしても弁護士にしても、私達は恨みを買いやすい職業ですから・・・・」

玲子はそこで言いよどんだ。

「ええ、そうね」

英理にも玲子が飲み込んだ言葉は分かった。
テレビ出演依頼、いわれのない誹謗中傷や脅迫、さらに不気味な無言電話なども激増した。
どこの世界でも成功した者・目立つ者を妬み、貶め、引きずり下ろすことで自らのけちな
プライドを満たして溜飲を下げるという見下げ果てた根性の持ち主はいるものだ。
英理があえてそれ以上は訊かずにいると、玲子は足を止め、一礼した。

「それでは失礼します」

踵を返した玲子を見送り、再び事務員に案内されて応接室へと向かう。

「こちらです。それでは私も失礼します」

事務員が立ち去り、英理がドアを開けるて中に入るとソファに座っていた男が顔を上げた。

「妃先生・・・・」
「あっ・・・・ 墨田さん」

墨田誠――彼は半年ほど前、英理が弁護した刑事被告人だった。
墨田は立ち上がると深々と頭を下げた。
「妃先生、先般は大変お世話になりました。先生にはいくらお礼を言っても足りない
くらいです。あの時先生が弁護を引き受けてくれなかったら私は今頃・・・・」


墨田誠は長女・詩織が生まれた直後に妻を亡くし、その後男手一つで愛娘を育て上げてた。
詩織は近所でも評判の器量よしの孝行娘として成長し、大学卒業後に入社した総合商社で
将来を嘱望されている先輩に見初められた。そして1年の交際期間を経てその好青年との
婚約がめでたく成立し、これまでの墨田の苦労も全て報われるはずだった。
しかし・・・・ そこで悲劇が起こった。
ある晩、墨田父娘と婚約者の3人で夕食をともにした帰り道、突如複数の暴漢に襲われた。
それは高校時代に詩織に一目ぼれして言い寄り、一時はストーカーまがいの行為に
及んでいた男が彼女の婚約を知って逆上し、不良仲間を集めて彼らを襲わせたのだ。
3人は郊外の廃屋に拉致監禁され、そこで詩織は父親と婚約者の目の前でその男達に
輪姦されてしまった。通報を受けて駆けつけた警察によって3人は救い出されたものの、
当然婚約は破談となり、そして事件から2週間後、絶望と失意の末、詩織は自らその
若い命を散らせたのだ。
もちろんその男――荒川剛――と仲間一味は逮捕され、集団強姦罪で起訴され服役した。
だが荒川自身は事件の首謀者であったにもかかわらず、たまたま直接の陵辱行為には
加わっていなかったこともあって、わずか5年足らずの刑期を終えて出所すると、
なんと墨田の前に悪びれもせずに姿を現した。
彼が何ら反省していないことは明らかで、そこで墨田に謝罪するどころか彼を嘲り、
罵倒し、こう吐き捨てたのだ。

「たかが輪姦(まわ)されたくらいで死んじまうてめえの娘がアホなんだよ!
「俺は犯ってなかったのに、おかげで長いこと臭い飯を食わされちまったぜ!」

面蒼白となって怒りにうち震える墨田に、荒川は顔を卑猥に歪めて追い打ちをかけた。

「でもよお、アンタの娘はホントいい身体してやがったな。それにぞくぞくするような
いい声で喘いでたよなあ・・・・ ありゃきっと犯られながらイッチまってたんだぜ。
生きてりゃ、今度こそ俺がたっぷりと可愛がってやれたのによ。ホント死んじまうなんて
バカな女だぜ」

非業の死を遂げた愛娘への最大の侮辱に墨田の中で何かが弾けた。墨田はキッチンに
取って返すと出刃包丁を持ち出し、一直線に荒川の胸へと突き刺した。鋭い刃先は
荒川の心臓を誤またずに刺し貫き、彼は出血多量で即死した。
墨田は警察に自ら出頭し、取調べにも素直に応じて殺意を認め、殺人罪で起訴された。
墨田の弁護を引き受けた英理は奮闘し、殺人罪で起訴されたケースでは極めて珍しい
執行猶予付きの判決を勝ち取ることに成功し、検察もまた控訴せずに判決はそのまま
確定したのだった。

「本当に妃先生には何度お礼を申し上げたらいいのか・・・・」

墨田は先ほどから同じ言葉を繰り返している。

「いえ、墨田さんもよく頑張られました。それに執行猶予が付くのは当然です」

そしてこの墨田の事件を起訴したのがさきほどの九条検事だった。
だが、検察の求刑自体が懲役5年という殺人罪の刑罰としては最低限の軽いものであり、
裁判においても玲子は徹底して争うというよりむしろ、被告に同情的な裁判官の訴訟指揮に
たいした反論もせずに従っていた。たぶん彼女自身、執行猶予が付くことを最初から
覚悟していたのではないかと英理は思っている。

「それで・・・・ 今日はわざわざそのことを言いにいらっしゃったんですか?」

墨田の顔が曇った。

「いえ、実は最近、あの男の弟から電話があって・・・・」
「弟って・・・・ まさかあの?」

あの集団レイプ事件の犯行一味の中の唯一の未成年者、それが荒川剛の弟・猛だった。
彼は少年院に送られて観察期間を経て出所するとすぐに行方不明になったが、墨田の
事件が起こると再び姿を現し、毎回のように裁判の傍聴に現れていた。
彼の瞳に宿る暗く淀んだ不気味な光は英理にも強く印象に残っていた。

「それでその弟は何て言ってきたんですか?」
「私は留守にしていたのですが、留守電に『絶対に復讐してやる、覚悟していろ』って
メッセージが入っていました」
「まあ・・・・ 墨田さん、それは明らかに脅迫ですから警察に相談した方が・・・・」

そこで墨田がさえぎった。

「それだけじゃないんです、妃先生。あの男は先生のことも口汚く罵っていました。
そして『あの弁護士にも絶対復讐してやる』って・・・・」

英理は大きくため息をついた。逆恨みとしか言いようがない。

「先生、私は明後日の詩織の七回忌を終えたら田舎に戻ります。もうあんなヤツらとは
二度とかかわりたくありません。先生もどうぞお気をつけてください」
「ええ、ありがとう、墨田さん」
「それでは失礼します」

墨田が部屋から出て行くと英理はもう一度深いため息をつき、玲子の言葉を思い出していた。
「(恨みを買いやすい職業・・・・か)」



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