時は1時間ほどさかのぼる。
達也が部屋を立ち去ると、南は言われた通り、ドアのシリンダー錠の鍵をかけた。
鍵など掛けなくてもこれまで何もなかったし、このあたりは住宅街で治安もいいので
問題はないだろうが、それでも最近は空き巣や不審者への注意を喚起する立て看板なども
見かけるようになったので用心に越したことはない。それに自分のことを心配してくれる
達也の気持ちは嬉しい。

「(タッちゃん・・・・)」

そしてふと、先日新体操の練習を終えた後の部室で親友の清水文子と交わした会話を思い出した。

――南は自分の魅力が分かってないんじゃない?
制服に着替える途中の南の下着姿をまじまじと見ながら文子が言った。
――何、それ? どういうこと?
スカートを穿き、サイドのファスナーを引き上げてホックを掛けながら南が聞き返す。
――南って成績優秀・容姿端麗でその上インターハイでも優勝しちゃう完璧超人なんだけど、
  近寄りがたいって雰囲気はないのよね。よく言えば男にも女にもフランクで親しみやすいって
  ことなんだけど。何んかこう妙に隙があるっていうか・・・・
――完璧超人って・・・・ そんなことはないと思うけど。フランクで親しみやすいって
  いうのはいいことじゃない。
――そうなんだけどね。やっぱり隙があるっていうのはちょっとねえ。女の私から見ても
  そういう風に思えるんだから、男から見たら妙な気を起こさせかねないわよ。
――妙な気?
――そうよ。ほらだいぶ昔のヒット曲に「男はオオカミなのよ。気を付けなさい」って歌詞が
  あったじゃない。あれよあれ。
――・・・・・・
――まあ南には上杉君がいるから大丈夫かもしれないけど、その上杉君だって男なんだし、
  案外怖いオオカミかもしれないわよ? あんまり油断してるといきなり押し倒されて、
  なんてことになっちゃうかもよ。
――もう、何を言ってるのよ。でもタッちゃんだったら心配ないわよ。タッちゃんのことは
  私が一番よくわかってるもの。無駄に18年間も幼馴染をしてないわよ。
――そりゃそうかもしれないけど・・・・
――けど、何?
――この世には上杉君みたいな男ばっかりじゃないってこと。
──えっ、それどういうこと?
文子はそこで黙った。以前、忘れ物を取りに戻った放課後の教室で、クラスの男子生徒が
数人集まってひそひそと何やら怪しげな会話を交わしているの目にしたことがある。
彼らは文子に気づくと、ばつの悪そうな顔をしてそそくさと教室を立ち去って行ったが、
その時慌てた彼らがその場に忘れていった雑誌の開かれていたページのグラビアを見て
どきりとした。
それは南が新体操でリボンの演技をしている時のものだったが、明らかに性的欲情を
煽り立てるようなアングルから撮られたショットで、さらに彼らの交わしていた会話の
断片からは「抜ける」とか「やりたい」とか、露骨に彼女を性的対象とした卑猥な表現が
聞き取れたのだ。
さすがにそのことを南に直接言うのははばかられたのでさりげなくアドバイスした。
──南は魅力的なんだから、隙を見せちゃダメってこと。さっきも言ったでしょ。
  男はオオカミなんだから、気を付けなきゃ。
──はいはい。わかりました。貴重なアドバイス、ありがとうございます。
南は軽い調子で答えたが、文子はやや苛立った様子で真剣な目をして言った。
──ちゃんと聞いてよ、南。私真剣に言ってるんだから。西尾先輩の例の事件は
  知ってるわよね?
南の顔に暗い翳が差した。西尾佐知子は前野球部監督の娘で元マネージャーだ。
当然南とも顔見知りで、在学時代は親しくさせてもらっていた。
彼女が高校を卒業してからはやや縁遠くなったとはいえ、その佐知子が3週間ほど前の早朝に、
突然自宅のバスルームで自ら手首を切って自殺を図ったことは南にとって衝撃だった。
幸い、手首を切った直後に、予定を変更して戻ってきた父親によって発見されて病院に運ばれ、
命に別状はなかったが、それ以来、佐知子は入院生活を送っている。
──そ、それは知ってるけど、それとこれとどういう関係が・・・・
──先輩が自殺しようとした理由を知ってる、南?
南は首を振った。そこで文子は一層声を低めた。
──これはあくまでも噂よ、噂。だけど先輩・・・・ 自殺をはかった前の日の夜に
  どうやらレ・・・・ レイプされたらしいのよ。
──ええっ! レイプって・・・・ じゃあそれが原因なのっ!
思わず声が大きくなった南を文子が咎めた。
──しっ! 声が大きいわよ、南。だからあくまで噂よ、噂。何でも先輩が自殺を
  はかった日の早朝、ほとんど半裸姿の先輩が自宅近所の路地をよろよろと歩いているのを
  見た人がいたらしいのよ。
──そんな・・・・ レイプだなんて・・・・ まさか・・・・
あまりの衝撃に絶句する南。
──だから私が言いたいのは、世の中にはそういうひどい男もいるんだってこと。
  さっきも言ったけど南は魅力的なんだから、そういうことにも気を付けたほうが
  いいわよってこと。
──う、うん・・・・
かなり深刻そうな南の表情に多少気が咎めたのか、文子は南のお尻を軽くポンとたたき、
あえて明るくからかうように言った。
──西尾先輩の話はあくまでも噂だし、ま、用心に越したことはないってだけのことよ。
  でもねえ、いずれ南のこの清純無垢なナイスボディを好き放題にできて、そのうえ
  処女を奪っちゃうことができる男も確実にいるわけよね。まったくそのどこぞの
  野球部のエース様はホント、幸せ者よねえ・・・・
──も、もうっ、何言ってるのよ、文子ったら



その時はそれで話は打ち切りになった。
佐知子の自殺未遂の原因がレイプかもしれないといい話は衝撃的だったし、文子が自分のことを
心配してくれる気持ちは分かる。それでもやはりすぐにはそれを自らの身に切迫したものとは
受け止められないのも事実だ。
しかし「達也にいきなり押し倒される」という文子の言葉は現実に起こったのだ。
あの時は心底驚き、動揺した。
もちろん達也はすぐに冗談だと言って謝ってくれたが、あの時本当に達也の心に一片の疚しい
気持ちがなかったのだろうか?
その答えは恐らく「ノー」だろう。
もしあの時、南が拒否していなかったら・・・・ あのまま南は達也と一線を越えてしまって
いたかもしれない。
達也が自分のことを本当に心から愛してくれていることは分かっている。
だが同時に彼が自分のことを「女」として強く意識し、性的な欲望を抱いていることにも
気付いていた。
実際ほんの時折ではあるが、達也の自分を見つめる視線の中に「男」のというより、
むしろ「雄」の気配を感じることがある。まだ彼から直接身体を求められたことはないが、
口には出さずともそういう雰囲気は敏感にくみ取れるものだ。
もちろん南にしてもいずれは──それもそれほど遠くない未来──に、達也と身体を重ねる
関係になるであろうことは容易に想像できたし、また文子の言い草ではないが、この穢れない
清純無垢な身体を初めて晒し、すべてを許して処女を捧げる相手は達也以外にはありえない。
だが、それは今ではない。そのことは達也だって分かっているはずだと思っていた。
だからこそあの時の達也の行動に驚愕し、動揺したのだ。
もちろん自分が拒否すれば、達也がそれを無視してまで己の我を押し通そうなどしないこと、
ましてやレイプなどという恥ずべきで行為で自らの欲望を満たすような男でないことは、
誰よりも南自身が分かっていたし、事実、達也はすぐに自分を解放してくれた。

──この世には上杉君みたいな男ばっかりじゃないってこと。

文子は奥歯に物が挟まったような言い方をしたが、文子の言いたいことは理解できた。
実際、南は自分が異性からどんなふうに見られているかは薄々気づいていたのだ。
もともと美人でスタイルもいいと噂されて、異性から好意を寄せられる存在であるという
ことも自覚していた。そしてその好意が当然、性的関心と結びつくことも理解できた。
また男の自慰行為についてもある程度承知していて、自分がその際の「おかず」にされている
ということも耳にしたことがあるのだ。
その時の男達の淫らな妄想の中で、いったい自分がどんな目に遭わされているのかということに
思い至れば、もちろんいい気持ちはしないし、正直、嫌悪感を抱いてしまう。
だが、こればかりは自分ではどうしようもないことだ。だからそのことがすぐにはレイプに
対する危機感につながらないのは当然だし、逆にそれをすぐに結び付けるようではそれこそ
自意識過剰だろう。
佐知子の話にはショックを受けたのは確かだが、やはり南の心の片隅にやはりレイプなんて
自分には関係のない話だという気持ちがあったことは否定できなかった。
だが・・・・ 南はすぐに親友の言葉が真実をついていたことをその身をもって知ることになる。
そう、まさしく西尾佐知子をレイプした凌辱魔達の次の標的に彼女自身が選ばれ、その魔手が
すぐ間近に迫ってきていることなど、この時の南は思いもしなかったのである。

                    ※

男達はずぶ濡れになりながら小部屋のドアの周りに集まった。
阿倍野が時計を見る。日付が変わるまであと4分。
ドアに鍵がかかっていることは確認済みだ。この薄いドアの向こうに極上の獲物がいるのだ。
ちゃちな鍵など無理やりぶち壊して、今すぐにでも押し入りたい衝動に男達は駆られていた。
だがそこまで焦ることも危険を冒す必要もない。南が必ず0時前には自宅に戻ることは
何度も確認済みなのだ。あとはこのドアを獲物自身が開けてくれるのを待てばいい。
暗い瞳に爛々と怪しい光を輝かせる男達。その中でただ一人敏和だけは真っ青な顔をして
ある決断をしかねていた。
今ここで大声を出せば、上杉が戻ってくるかもしれないし、最低でも部屋の中の南に注意を
喚起することができる。
こいつらは本気で南をレイプするつもりなのだ。今彼女を救えるのは自分しかいない。
時間がない。こうしているうちにも部屋のドアが開いて南が現れるかもしれないのだ。
そうなってしまえばすべては終わりだ。南はこいつらにレイプされ、そして自分は・・・・
あの時、雲散霧消した勇気をもう一度振り絞って叫ぼうとした。

「浅・・・・」

だが、声に出そうとした直前の一瞬の逡巡。その気配を敏感に感じ取った都島が間一髪で
背後から敏和を締め上げ、低く抑えた声で脅した。

「てめえ何を考えてるんだ。ここまで来て妙な仏心を出すんじゃねえよっ!」

苦しげに呻く敏和。だが、この土砂降りの雨音がその声をかき消し、部屋の中の南には届かない。
その時、部屋の中で人の動く気配がしたかと思うと、すぐに部屋の灯が消え、カチャリとドアを
開錠する音が聞こえた。
暗闇の中の男達の顔に緊張の色が浮かぶ。そしてドアノブが回転し、ドアがゆっくりと開き始めた。

               ※

南は通称赤本といわれる志望大学の過去問題集を閉じて時計に目をやった。
時計の針は0時5分前を指していた。そろそろ自宅に戻らなくてはならない。
勉強している時は集中していてまったく気にならなかったが、外は相変わらずの
土砂降りで、屋根をたたく雨音でうるさいくらいだ。天気予報では夜明け近くまで
この調子で降り続くらしい。
いつもなら休日前は家に戻っても2時くらいまでは勉強しているのだが、明日は模試受験で
朝が早く、それに登校前に達也の朝食を作りにも行ってやらなければならない。

「(今夜はさっとシャワーだけ浴びてすぐに寝よう)」

筆記用具を片付け、ノートを閉じ、机の上の電気スタンドを消した。
立ち上がってもう一度忘れ物がないか机上を確認したその時、一瞬外で何か人の声が
したような気がして耳を澄ませたが、一層激しくなった土砂降りの雨が屋根をたたく音で
やかましいだけだ。

「(気のせいね)」

忘れ物がないことを確認した南はまずドアを解錠し、スイッチに触れて部屋の電灯を消すと
ドアノブをひねってゆっくりとドアを開けた。
しかし、この時南が開けたのはたんなる部屋のドアではなかった。そう、それは自らを
淫惨極まる凌辱地獄へと突き落とす残酷な運命の扉をも一緒に開けてしまったのだ。


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