大須賀武人が横たわるベッドの脇で、苦渋に満ちた顔で深いため息をつく一人の男。
男は前衆議院議員曽根蔵陽太郎の私設秘書・沖田であり、武人は曽根蔵の甥である。

「(まったく・・・・ 武人さんもとんでもないことをしてくれた)」

当初は不運な事故として処理されていたものの、山津波に飲み込まれた車の中から
一千万以上の現金と猟銃などが見つかるにいたり、警察が動き出した。
さらに椿荘に勤める仲居から、宿と一切連絡が取れないとの訴えを受けて、
警察が椿荘に向かい、そこで何が起こったのかを全て把握したのだ。
曽根蔵の大学の後輩であり、じっこんの間柄の所轄署署長・窪田から、
沖田は事件の概要の一報を受けると、とりあえずマスコミへの発表を
押えてもらい、大須賀が運ばれた病室へと駆けつけたのだ。

「よりによってこんな時期に・・・・」

衆議院が解散され、公示前とはいえもう熾烈な選挙戦は始まっていた。
普段であれば強固な地盤・看板・カバンに支えられた曽根蔵の選挙は
磐石鉄板なのだが、今回は全国的に吹き荒れる『政権交代』という
凄まじい「風」に翻弄されて厳しい戦いが予想されている。
沖田はいまいましげに武人を見やり、もう一度深くため息をついた。

武人は曽根蔵にとって不肖の甥であり、常に頭痛の種だった。
中学を卒業する頃からしばしば問題を起こして警察の手を煩わせるようになり、
曽根蔵はいくどとなく裏から手を回して事件化しないように押さえ込んできた。
だが武人はそれに感謝するどころか、逆に伯父に反発するように
素行が一層不良化していった。

とりあえず高校卒業後は東京の大学に押し込んで厄介払いはしたものの、
卒業後に再びこちらに戻ってくると、悪い仲間とつるんで恐喝・暴行・
傷害・強制わいせつなどの厄介事をしばしば起こし、そのたびに沖田は
曽根蔵から命じられ、被害者との交渉に当たって警察沙汰にならないように
後始末に任されてきた。

だが今度ばかりはさすがに手に負えそうにない。
強盗事件に加えて、仲間の一人が宿の主人に発砲して怪我を負わせ、
さらに居合わせた若い女性客を3人でレイプしたのだという。
こんな破廉恥な事件を甥が起こしたと発覚してスキャンダルとなったら、
現在でもぎりぎりの勝負が予想される選挙戦に与える影響は計り知れない。
いや、それどころか下手に処理を誤れば曽根蔵の政治生命にもかかわる
致命傷ともなりかねない。

医師の話によれば武人の意識が戻るかどうかは五分五分だという。
幸いまだマスコミには事件のことは知られていないが、武人が意識を取り戻せば
警察による事情聴取・逮捕は避けられず、それはマスコミの絶好の好餌となるだろう。
だが、もし武人がこのまま死んでくれたら?

さすがに事件そのものを隠蔽するのは無理かもしれないが、被疑者全員死亡で
書類送検・不起訴ということになり、事件そのものをを矮小化できる。
そうすれば選挙への影響も最低限に抑えられるだろう。
どうせこれ以上生きていても何の価値もない男なのだ。いっそ・・・・・
沖田は携帯電話で曽根蔵と連絡を取り、現在の状況を説明した。

――そうか、意識が戻るか戻らないかは五分五分なのか。
――はい。どうされますか、先生。

しばらくの重い沈黙の後、曽根蔵は独特の低い声で言った。

――まあ、これも運命かも知れんな。

沖田は黙りこくった。
曽根蔵が次に何を言いだす気なのか想像できたからだ。

――沖田・・・・ 『善処』するんだ。
――『善処』ですね。
――ああ。

ここで『善処』の意味を問い直すようでは優秀な政治家秘書とはいえない。
その点でいうなら沖田は極めて優秀な政治家秘書であった。
さらに曽根蔵は電話を切る直前に一言付け加えた。

――俺はこの電話は聞かなかったことにする。

切れた携帯電話を見つめ、沖田は苦い顔になった。
つまり『善処』の結果、何かまずいことが起こっても、曽根蔵は一切関係ない、
自分ひとりで責任を被れということだ。

「しかたない、な」

沖田は今の通話の履歴を消し、今度は携帯のアドレス帳には載せていない、
正確に言えば載せることができないある男の電話番号に掛けた。

――俺だ。
――ああ、あんたか。
――ちょっと頼みたいことがある。30分後に例の場所で会えないか。
――なんだ、電話じゃだめなのか。
――ああ

盗聴の可能性もある携帯電話で話せるような内容ではないのだ。
男は裏社会に精通し、ダーティーな仕事を高額の報酬で請け負うアウトローだ。
今までの表に出せないヤバイ仕事はこの男にすべて任せてきた。
報酬はかなり高額だが仕事は確かだし、何より口が堅く秘密は絶対にもらさない。
曽根蔵はこの男の存在を知らない。いや、薄々気づいているのかもしれないが
表面上は知らないことになっているし、それでいい。
電話を切った沖田はちらりと大須賀を見やった。

「(悪いな、武人さん。だけどあんたはやりすぎたよ)」

とりあえず、あの男に任せておけば武人の問題は早々に片がつくだろう。
だが問題はまだまだ山積みだ。さすがに事件自体の隠蔽は無理かもしれないが、
それならば極力曽根蔵の選挙に影響がでないように最善を尽くさなければならない。
何はともあれマスコミが事件に気づく前に被害者達を隔離し、事件について
余計なことを喋らせないようにすることが急務だ。

宿の主人である岡山とその母、宿泊客の福岡という老夫婦、そして雑誌編集者と
ライターの宮崎・山口の6人は何とかなるだろう。問題は3人に輪姦された
小早川という若い女性と、その恋人の中嶋という男の存在だ。署長からの情報では、
2人とも警察官だという。

「さてと、どうするかな・・・・」

沖田は席を立って部屋を出る前に、もう一度ベッドの大須賀を振り返った。
おそらくこれが生前の彼を見る最後の機会になるだろう。
間接的とはいえ彼の命を奪うことに良心の呵責を感じ、沖田の顔が一瞬歪んだ。
だが病室を出た時にはすでに有能な政治家秘書の顔に戻って、曽根蔵のために
最善の手段は何であるかを冷徹に計算し、それを実現すべく次の行動に移っていた。

そこからの沖田の行動は迅速だった。
まず撃たれた岡山の傷は幸い命に別状のあるものではなかったので、
この地域で最も施設の整った病院――もちろん曽根蔵の息がかかった――に
転院させ、最善の治療を施し、贅沢な個室に入院させて岡山親子を懐柔した。
さらに福岡夫妻と山口・宮崎には多額の見舞金という飴と有形無形の圧力という
鞭をかけて事件のことは一切口外しないことと、今後民事の裁判などを
起こさないことを確約させた。

その最中に病院の関係者から大須賀の容態が急変し、懸命の治療の甲斐もなく
息を引き取ったと連絡を受けた。
重体患者の容態が急変することなどよくあることだし、特に大須賀の死に
不審は持たれていない。どうやら例の男がうまくやってくれたようだ。
それでも念のため、大須賀の遺体を一刻も早く火葬できるように手配した。
そして・・・・ 最後に残ったのは中嶋と美幸だ。相手が警察官だけに
下手な圧力は逆効果にもなりかねない。

「さてと・・・・ どうするかな」

沖田は思案し、ふと思いついたように顔を上げた。

「(警察官の相手は同じ警察に任せるとするか)」


──────────────────

美幸と中嶋は担当刑事に所轄署に連れてこられ、署長室へと案内された。
ドアを開けると痩身で白髪の男が穏やかな笑みをたたえながら2人を出迎えた。

「署長の窪田と言います。中嶋さん、小早川さん、どうぞお座りください」

窪田は2人にソファに座るように勧めて自らも対面に腰を下ろすと、
やけに丁寧な口調で切り出した。

「お二人とも今回は大変な目に遭いましたな」

美幸が表情を固くしてテーブルの上の拳を握り締めた。

「ご存知かもしれませんが、犯人達は全員山津波に巻き込まれて死亡しました。
こんなことを私が言うのは不謹慎かもしれませんが、まあ天罰が下ったと
言うべきかもしれませんな」
「・・・・・」
「もちろん、全員死亡しているとはいえ、彼らが起こした事件については
検察に送致しなければなりません。つまり書類送検ということですな。
まあ送検したところで被疑者全員死亡ということで不起訴になるわけですが、
お二人は警察官であるのでそれについての説明は不要でしょう」
「・・・・」
「ただ、彼らをこれ以上裁くことは事実上できないわけで、つまり、あれです。
容疑事実を全て明らかにするのは・・・・ その・・・・ ですから・・・・
あまり意味がないというか・・・・」

急に歯切れの悪くなった窪田に美幸が硬い声で訊いた。

「何をおっしゃりたいんですか」

署長は美幸をまっすぐに見詰め、一つ大きく息をついて続けた。

「つまりですね、小早川さん。あなたが彼らに乱暴されたことを
つまびらかにする必要はないのではないかということです」
「・・・・」
「もちろん、彼らが生きているなら、彼らの犯した罪をすべて明らかにし、
裁きの場に立たせるために、その事実も明らかにする必要があるでしょう。
ですが今となってはそれに意味はない、そうは思いませんか?」
「でもそれは・・・・」

中嶋が何か言いかけたのを窪田は手で遮り、続けた。

「ええ、分かっています。本来はそうしたものではないということも。
ですが小早川さん、それはあなたにとっても決して好ましいことでは
ないでしょう。違いますか?」
「・・・・」
「ですから我々としても、強盗事件のこと自体はさすがにマスコミに
発表せざるをえませんが、宿の主人母子以外の被害者の名前はお二人を
含めて一切公表せず、その内容についても具体的な話はしないつもりです」
「でも、そんなことは・・・・」

中嶋が言いかけると、今度は窪田が中嶋を強い視線で見つめ返した。

「ええ、分かっています。先ほども言いましたように、確かに本来なら
これは正しいあり方といえません。ですが中嶋さん、それではあなたは
強盗事件の詳細を全てをマスコミに明らかにした方がいいとお思いですか?」
「そ、それは・・・・」
「もちろんその場合でも小早川さんが彼らに暴行された事実までは警察は
明らかにはしません。ですが被害者や強盗事件の詳細が明らかになれば
マスコミは大騒ぎしてあなた方被害者に取材攻勢をかけるでしょう。
そうすればいずれその事実も隠し切れなくなるであろうし、心無い一部の
マスコミがここぞとばかりに興味本位の記事に仕立て上げるのは明らかでしょう。
それでもあなたはその方がいいとおっしゃるのですか」

中嶋は沈黙した。
確かに窪田の言うように今回の事件を興味本位で記事にする
週刊誌やゴシップ誌はいくらでも出てくるだろう。
現役美人婦警の輪姦事件。そんな「美味しい」ネタを彼らが放っておくはずがない。
下衆な憶測や過度な脚色を交えてあることないことを煽情的に面白おかしく
書き立てるであろう事は容易に想像できた。さすがに美幸の名前が出ることは
ないだろうが、見る人が見ればそれも容易に見当がついてしまうだろう。

「それで結局私達に何を・・・・」

中嶋は窪田の真意を窺うように訊いた。

「ですからお二人とも今回の事件のことについては一切口をつぐんで
忘れていただきたいということです。繰り返しになりますが、
これは本来は正しいあり方ではない。我々警察としても後ろ暗いことです。
ですがこれはあなた方のためを思っての処置でもあるのですよ」

やや押し付けがましい言い方になってしまったことに気づいて窪田は頭を下げた。

「中嶋さん、小早川さん。これは同じ警察仲間としてのお願いだと言ってもいい。
分かっていただけませんか」

美幸がうつむき、身を震わせる。

「小早川さん、いや、あえて小早川巡査と呼ばせていただきます。
小早川巡査、今回の事件は大変不幸だったとは思う。今のあなたには
どんな言葉を掛けても救いにはならないかもしれない。
それでもただ人生の先輩としてこのことだけは言っておきたい」

そこでいったん言葉を切ると、窪田は諭すように美幸に語りかけた。

「今回のことは狂犬にでも噛まれたのだと思って忘れてしまいなさい。
もちろんこんな言葉が何の慰めにもならないことは分かっています。
ですが・・・・ あなたはまだ若いんだ、いくらでもやり直しはきく。
確かに今は辛いかもしれないが、いずれ時が解決してくれる。
あなたの人生はこれからが大切なんです。今回の不幸な出来事に
いつまでも囚われるべきではない」

美幸は身を固くし、うつむいたまま押し黙っていた。
窪田、そして中嶋も息を呑んで美幸の答えを待った。
どれほどそうしていただろうか、美幸がようやく顔をあげると窪田を見つめて
一言だけ言った。

「わかりました」
「そうですか。分かっていただきましたか」

窪田はほっとしたような顔になり、デスクの引き出しから小箱を取り出した。

「それではこちらをお返しします」

それはあの時、大須賀に奪われた婚約指輪だった。
窪田は美幸にそれを渡し、今度は中嶋に諭すように言った。

「中嶋さん、あなたも大変辛い思いをされたと思う。だが今小早川巡査を
支えてあげることができるのはあなただけなんだ。今度こそ彼女をしっかりと
守ってあげなさい。わかったね」

──────────────────

所轄署から出て行く中嶋と美幸の姿をブラインドの隙間から覗く窪田。
中嶋には美幸を支えてやれなどと励ますようなことを言ったが、
目の前で輪姦された恋人とうまくやっていけるわけがない。
あの2人はもうおしまいだろう。
そこへドアが開き、沖田が入ってきた。

「どうでしたか、署長」
「ああ大丈夫。二人とも口をつぐんでくれるそうだ」
「そうですか、それは助かります。それで署長、もう一つお願いがあるのですが」
「何ですかな」
「事件の発表は今回の選挙が終わった後にしていただきたいのです」
「えっ? し、しかしそれは・・・・」
「まだ公示前とはいえ選挙戦はすでに始まったも同然です。この事件が公になれば、
今回の選挙に重大な影響をもたらすことは明らかでしょう。それは選挙の公正という
観点からもまずいのではないでしょうか」
「ですが、いくら何でもそれは・・・・」
「署長、私は何も事件を隠蔽してくれと言っているわけではないのです。
ただ発表の時期を遅らせてくれるだけでいいんです」
「・・・・」

渋る様子の窪田に沖田がおもむろに切り出した。

「署長は確か来年が定年でしたよね。それに再就職先が大変なことになったとか」
「えっ! ど、どうしてそれを・・・・」

窪田が天下るはずだった特殊法人で金銭スキャンダルが発覚してトラブルとなり、
定年後の再就職先が宙に浮いていることを沖田はちゃんと掴んでいた。

「曽根蔵もそのことを大変気にしていましてね。署長のような有望な人材は
それなりの地位と確かな報酬を得てその才能を活かなければならないと。
署長さえよければ、自分がそれを世話をしてもいいともおっしゃっていました」

窪田の視線がせわしなく動き、表情が落ち着きをなくした。
明らかに迷っているのだ。
その時、机上の電話が音を立てた。
内線ではなく直通のランプが光っている。

「失礼」

窪田が電話に応答する。たちまち緊張の面持ちになった。

「そ、曽根蔵先生っ!」


沖田は窪田に軽く一礼した。
「私は席を外しましょう。外にいますので、電話が終わったら呼んでください」
部屋を出て行く沖田。背後で窪田が額の汗を拭いながら緊張して応答していた。

――ええ、はい、はい、大丈夫です。二人とも今回の事件のことについては
  口をつぐんでくれるでしょう。ええ、さすがに事件を非公表にするわけには
  いきませんが・・・・ えっ・・・・ ですが曽根蔵先生、それはいくら
  なんでも・・・・

沖田は署長室のドアを閉めるとそれによりかかり、一つ大きく息をついた。

「(これで何とかなるだろう)」

沖田は内ポケットからタバコを一本取り出した。
ふと目を上げると「署内禁煙」の
張り紙が目に入ったがそれを無視して火をつけた。そ
して政治家秘書として
やるべきことを果たした満足感に浸りながらうまそうに一服ふかしたのだ。


──────────────────

所轄署を出て駐車場に向かう中嶋と美幸。
中嶋は美幸にかける言葉が見つからず、ただ黙って美幸の後を付いていった。
愛車の前まで来て美幸が中嶋を振り返り、キーを片手に無表情で言った。

「中嶋くん、東京まで運転お願いできるかしら」
「あ、ああ」

2人は車に乗り込むと東京への帰途についた。
それから数時間、互いに一言も言葉を発せぬまま重苦しい雰囲気の長いドライブを
終え、
中嶋は美幸の住むマンションの前に車を停めた。

「小早川・・・・」

ようやく口に出す中嶋。だがそれ以上の言葉が続かない。
美幸は硬い表情のまま振り向いた。

「ありがとう、中嶋くん。あとは自分でやるからいいわ」
「そ、そうじゃなくて・・・・ 俺は・・・・」
「何も言わないでっ!」

その激しい言葉に中嶋は言葉を失う。

「・・・・・」
「お願い中嶋くん、もう車を降りて」
「でも・・・・」
「お願い、中嶋くん、お願いだからもう・・・・」
「小早川・・・・」

中嶋が運転席から降りると美幸がそこへ横滑りし、エンジンを再始動させると
中嶋を見上げた。

「中嶋くん、これ、返すわ」

そう言って中嶋に差し出したのは婚約指輪。

「えっ! こ、小早川っ!」
「分かるでしょ? これは受け取れない。中嶋くんとは結婚できないもの」

中嶋には返す言葉が見つからない。だがようやく搾り出すように言った。

「小早川・・・・ お、俺は君を愛している・・・・」

美幸は全てを拒絶するかのように激しく首を振った。

「だめよ、だめ、だめっ!」
「小早川・・・・」

そして泣き笑いの表情になり、感情を押し殺すように言った。

「中嶋くんだったらすぐにいい相手が見つかるわ。だから・・・・ 私のことは忘れて。
私も・・・・ 全てを忘れたいの」
「・・・・」

トヨタスポーツ800がゆっくりと動き出す。
そしてその場には呆然と立ち尽くす中嶋と、
彼の手から滑り落ち、道に転がった指輪だけが残されていた。

──────────────────

美幸が玄関のドアを開けると夏実が意外そうな表情で出迎えた。

「あれ、美幸、帰りは明日じゃなかったの?」

美幸が無言のまま自分の部屋に向かうと背後から声が掛かった。

「で、美幸ぃ〜 中嶋くんとの婚前旅行はどうだったのよ?」
「えっ! 夏実、ど、どうして・・・・」

美幸が驚いた表情で振り返り、夏実がおかしそうに笑った。

「そりゃあ分かるわよ。あんな休暇の取り方でカモフラージュできたと
思ってるのはあんた達だけだって。頼子なんてもうずっとお祭り騒ぎだったし、
交通課のみんなもかなり盛り上がってたわよ。あのへたれの中嶋くんが
ついに男を見せて勝負に出たってね。徳野さんまで感心していたくらいなんだから。
まっ、アタシに言わせれば遅すぎるくらいなんだけど」
「・・・・」
「で、どうだったのよ、美幸? いくらあんた達でも泊りがけの
婚前旅行まで行ってまさか何もなかったとは言わせないわよ。
どう? 中嶋くんに抱かれたんでしょ? ついでにプロポーズまで
されちゃったとか? どうなのよ美幸、教えなさいよ」

美幸をせっつく夏実。
だが美幸は一瞬表情に翳を落とすと何も答えずに彼女に背を向け、硬い声で言った。

「ごめん、夏実、私疲れてるから先に休むわ」
「ちょ、ちょっと待ってよ、美幸・・・・・」

その頑なな態度に戸惑う夏実から逃げるようにして美幸は自室にこもると、
ベッドの上に身体を投げ出した。

――中嶋くんに抱かれたんでしょ? ついでにプロポーズまでされちゃったとか?

夏実の言葉が脳裏に蘇る。
そう、確かに中嶋と激しく愛し合い、プロポーズされた。
それは今までずっとずっと待ち望んでいた最高の瞬間(とき)。
だが・・・・ その後に襲った悪夢。あのケダモノ達にその身を散々弄ばれ、
繰り返し犯された。そしてその淫惨苛烈な責めに屈し、こともあろうに中嶋の
目の前で恥ずかしい嬌声を上げて何度もイカサれ、あのケダモノ達を自ら
受け入れてしまったのだ。
それは美幸の女として、いや人間としての高い矜持をずたずたに切り裂いた。
そして警察官としてのプライドを崩壊させ、警察官である自分自身の全てが
否定されてしまい、これ以上警察官という仕事を続けていく自信すらなくなった。

「(辞めよう・・・・)」

美幸は身を起こして机に向かうと引き出しを開け、以前からもしもの時のために
認めておいた辞表を取り出した。


──────────────────

翌日、美幸は交通課の誰よりも早く出署すると、課長に辞表を提出した。
突然のことに驚いた課長は懸命に慰留したが、美幸の決意は固く、
その場では翻意させることはできずにとりあえず辞表を預かることになった。

「突然のことでご迷惑をお掛けして申しわけありません。
今日はこのまま帰りますので交通課のみんなにはよろしくお伝えください」

美幸は深く一礼すると、くるりと踵を返してそのまま部屋を出ていった。
そのことは出署してきた署員達に瞬く間に伝わり、交通課は大騒ぎになった。
特に美幸と中嶋の婚約祝いの薬球まで用意していた頼子は思わず夏実に詰めより
喰ってかかった。

「夏実っ! これはいったいどういうことなのよ!」
「それを聞きたいのはこっちの方よ。全然そんなこと聞いてないものっ!
確かに昨日戻ってきた時の美幸の様子は変だったけどまさか・・・・」
「でも、どうして、どうして美幸が辞めちゃうのよっ!」

葵が頼子をなだめるように落ち着いて言った。

「頼子さん、落ち着いて。とりあえず中嶋さんに事情を聞いてみたらどうでしょう。
きっと旅行先で何かあったんですよ」
「そうね、それが一番手っ取り早いわ」

だが中嶋は美幸が辞表を出したことを聞いて、一瞬はっとした表情を浮かべたが
それからは黙りこくった。

「どういうことなのよっ、中嶋くん!」
「そうよ、そうよ、美幸が警察を辞めるなんて・・・・ いったい何があったのよ?」
「そうですよ、中嶋さん。いったい何があったんですか?」

だが3人にいくら問い詰められようと、中嶋は黙して語らない。
ついに夏実がぶちきれ、中嶋の襟首を掴んで詰め寄った。

「中嶋っ! 美幸はあんたの恋人なんでしょ! このまま美幸を失っちゃっても
いいのっ! 返事をしなさいよっ! いったいあんた達に何があったのよ!」

だが中嶋にはそれに答えることは決してできないのだ。

──────────────────

仕事を終えてマンションに戻った夏実はためらいがちに美幸の部屋のドアをノックした。
返事がないのでドアノブに手を掛けると、それは抵抗なくくるりと回った。
恐る恐るドアを開くと、荷物がまとめられてあらかた片付けられた部屋の片隅に
美幸が体育座りでうつむいていた。

「こ、これは・・・・ ど、どういうことなのよ、美幸?」

美幸に駆け寄り、肩に手を掛ける夏実。美幸が顔を上げた。

「夏実・・・・ 私・・・・ 田舎に帰るから」
「ちょ、ちょっと待ってよ、美幸。いきなり田舎に帰るって・・・・
いったいどういうことなのよ、ちゃんと説明してよ、美幸!」
「・・・・・」
「中嶋君も美幸が辞めるって聞いても黙りこくったままだし、
いったいあんた達二人に何があったのよ? 喧嘩でもしたの?」
「何もないわよっ! 中嶋くんは関係ないのっ!」

美幸は大きく首を振って否定したが、そのあからさまな強い口調が
返ってそれが真実を突いていることを夏実に確信させた。

「やっぱり、旅行先で中嶋くんと何かあったのね。でもいきなり辞めて
田舎に帰るって・・・・ ただの喧嘩ってわけじゃなさそうだし、
いったい何があったのよ、美幸」
「・・・・・・」思わず視線をそらす美幸。
「どうして話してくれないの美幸? 今までは何だって話してくれたじゃない。
ねえ、ちゃんと私の目を見て話してよ」

美幸の肩を揺すぶる夏実。だが美幸は唇を噛み締めてうつむき、黙ったままだ。

「ねえ美幸、私達は最高のパートナーでしょ。それともそう思っていたのは私だけ?」

美幸は夏実に視線を戻し、辛そうに答えた。

「夏実・・・・ そうじゃない、そうじゃないの。あなたは最高のパートナーだし、
一番の親友よ。だけどごめん・・・・ あなたには話せないの」
「どうして、どうして話してくれないの、美幸」

再び美幸の肩を揺すぶる夏実。だが美幸は頑なだった。

「いくら最高のパートナーだって、どうしても話せないことがあるの。
ごめん、夏実。許して、お願い」
「・・・・・・」

もうそれ以上、夏実には美幸の堅く閉じられた口を開ける術がなかった。

──────────────────

翌日、夏実が出勤している間に美幸はマンションを出ていった。
美幸の辞表はとりあえず課長が預かったかったまま休職ということで処理していた。
そして非難の目は、明らかに美幸が辞めた理由が分かっているはずなのに
何一つ語ろうとしない中嶋に集中した。
だが、どれほど周りから責められようと中嶋は一切の口を閉じていた。
中嶋もまた苦悩していたのだ。

あの夜、目の前でケダモノ達に繰り返し犯された美幸の姿が目に焼きついて離れない。
必死に泣き叫んで自分に助けを求めた美幸に何もしてやることができなかった。
窪田に諭されたように、今度こそ自分が美幸を守り、しっかりと支えて
やらなければならない。もちろん理性では分かっている。だが・・・・
陵辱の限りを尽くされながらも、あのケダモノ達の責めに屈して腰を開き、
彼らを受け入れた美幸の姿。そして中嶋の耳朶をうった美幸のせつない
喘ぎ声もまた頭から離れないのだ。

あのケダモノ達が生きているなら、怒りの矛先を彼らに向け、憎み抜くことで
全てを振り払うことができたかもしれない。
だが彼らは全員死んだのだ。
死者を憎み続けるには限界があった。
行き場を失った怒りの感情は暴走し、まっさきにその鋭い矛先で中嶋自身を
切り裂いた。
そして・・・・ 不可抗力だとは頭で分かっていても、あのケダモノ達に身体を
開いた美幸にもともすれば向かいかねなかった。

「俺は・・・・」

頭を抱える中嶋。
美幸を愛している気持ちに変わりはない。
だが、目の前で輪姦されるさまを見せ付けられては、たとえ結婚したとしても
尋常な夫婦生活は営めるとは思えない。美幸に罪はなく、窪田が言うように
ただ狂犬に噛まれただけだと信じ込もうとしても、刻み込まれた傷口は決して
癒えることはないばかりか、時が経つに連れて大きく広がっていくような
気さえした。
だが、いみじくも窪田が言ったように美幸はまだ若い。
自分が美幸と別れ、事件に関して口をつぐんでいれば、いずれ美幸も新たな
人生を切り開き、他の男と新生活に入ることができるかもしれない。
自分が身を引くことで美幸が新たな幸せを掴むチャンスが増えるというなら、
喜んでそうしよう。美幸さえ幸せになってくれるなら、自分がどれほど
傷つこうと、大切なものを失おうとかまわない。
だが・・・・ 本当にそれでいいのか?

「小早川・・・・」

中嶋はその手にぎゅっと彼女に突き返された指輪を握り締めていた。



      戻る   作品トップへ  第十章へ  第十二章へ