後に「夕凪の時代」と呼ばれることになるこの時代。
お祭りのようだった世の中が、ゆっくりと落ち着きを取り戻してきた今。
人類は、はっきりと衰退への道を辿り始めている。
人類は、自らの滅亡について実に貧しい想像しかしていなかった。
核戦争。
殺人的ウィルスのアウトブレイク。
地球外生命体による攻撃。
その中には地球温暖化による環境の激変というものもあった。
但しこの要因は、戦争や宇宙人の侵略などと違って、人類滅亡の危機まではかなり時間がかかるものと思われていた。
従って、徐々に悪化していると憂慮しつつも、対策が遅れたことは否めない。
環境の悪化は少しずつ、しかし確実に進行していったのである。
加えて、世界各地で発生した天変地異も大きかった。
同じ年に起こったわけでもないが、地球史的に見ればほぼ同時多発で各地の火山が噴火している。
かつての日本で言えば、阿蘇、桜島、浅間山が大噴火し、青ヶ島などは爆発的な噴火で、島自体がほぼ消滅してしまっていた。
そして富士山も未曾有の大噴火を起こし、あの均整の取れた美しい形状が永遠に失われてしまっている。
しかし通常、大きな火山噴火があれば、その火山ガスが成層圏にまで上昇し、その塵が空を覆うことになる。
つまり日照時間が大きく現象し、地球規模での低温下や例外をもたらすことになるはずなのだ。
なのに地表や海水温は下がるどころか上昇の一途を辿った。
つまり、それらをものともしないほどに温暖化が進んでおり、そこへ日射量低下と降下火山灰の悪影響がいっぺんに出たわけだ。
四季がはっきりとしている日本に於いてすら、季節感が薄れていった。
春のエリアを先取りし、秋を後ろに追いやって夏が長くなった。
冬という季節もあるにはあるし、かなり寒いのではあるが、期間は明らかに短くなっていった。
関東地区であれば、太平洋沿いの地域では数十年に渡って降雪を観測しなかった。
神奈川では数年前に一度だけ20センチほどの降雪があり、細々と運営されていた各交通機関は大打撃を受け、融雪するまでのまる二日に渡って沈黙した。
噴火に伴うものだけではないが、大きな地震も何度かあって、そのたびに文明は壊れていく。
立ち直るヒマがないほどに次々と天変地異が襲ってきたのである。
叫ばれ続けてきた地球温暖化による環境の激変は、人類の予想を上回るものだった。
いわゆる温室効果ガスは抑制されつつあったものの、それまでの蓄積が多すぎた。
これにより、気温並びに海水温が上昇し、海水面上昇だけでなく降水量まで大幅に変化した。
激しい降雨が続くことが多くなったり、降らない土地にはまったく降らないという極端な気象が現出している。
エルニーニョ現象を例に取るまでもなく、海水温が高くなったことにより巨大なハリケーンやカテゴリーを遥かに超えた竜巻、超大型の台風の発生といった異常気象が激増した。
温暖化のせいで気圧配置自体が変化してしまい、従来のデータが参考にならない現象が相次いで発生するようになった。極地の氷が溶け出して海面が上昇しただけでなく、地盤沈下も同時並行して進んでいったため、世界各地で街が沈み、人々は内陸へと避難を続けた。
全人類がその重大性にようやく気づいた時には既に「手遅れ」の状態にあった。
無論、様々な対策は講じた。
緊急的なものから恒久的と思われるものまで、考えつくことは試みている。
が、それでも地球は癒えてくれなかった。
そして人類にも「是が非でも何とかしよう」とか「滅亡を食い止めよう」という強い意志が感じられなかった。
このことは後に論者たちが重々しく述べたように、人類という種のポテンシャルが著しく落ちていたのかも知れない。
それ以前から大きな問題だった少子化現象にもついに歯止めは掛からず、それどころか一層に悪化していた。
男女がカップルを作ることに執心せず、好き合った者同士でさえ、子供を作ろうという意志は薄弱になっていた。
積極的に子孫を残そうとする人たちもいたが、「努力」も虚しく功を奏さなかった。
その頃には人類の生殖能力が心身共にかなり落ち込んでおり、如何ともし難い状況にあった。
男女は、いくら交わっても子を為すことが難しくなっており、そもそも性的な本能自体が薄れていった。
よくよく考えれば、男女一組で少なくとも3人以上の子を残さねば人口は増えない。
一組に2人の子でようやく「元」なのである。
文明先進国に於いては少子化問題は切実であったが、発展途上国では逆に多産による人口爆発の弊害が出ていた頃もある。
が、衰退は双方へと忍びより、先進国では少子化に拍車が掛かり、見る見るうちに人口が減少した。
一方の多産国家では、気候の大変動による災害や紛争に脅かされ、それこそあっという間に数を減らした。
であれば、衰退も致し方ないとも言える。
広大な国土を持った国ほど早々に沈黙した。
海が陸地を浸食し、海抜が上がって海沿いには住みにくくなったものの、内陸へと避難する人は少なかった。
と言うよりも、住み慣れた場所を離れていく人が少なかった。
住んでいる地区が波に洗われ、海に飲み込まれ、いよいよ住めなくなると、諦めたようにそこから少しだけ内地へと移り住む。
それを何度も繰り返していった。
何を犠牲にしても生き残ろうと考えるよりも、どうせ滅びるのであれば心穏やかに静かに受け入れようという人が多かったのである。
結局、人類が執った施策は、いつの日かまた地上で蘇らせるべく、各種生物の「種」を集め、それを永久に保管しておくことくらいだった。
海抜の低い土地は次第に海没していき、人類や居住できる空間は年々減少していった。
ただ、人類の数も次第に減っていたため、大勢の人間が残った土地を巡って相争うようなこともなかった。
住めなくなった区域から移住し、また新たな生活を営むだけだったのである。
こうして種としての滅亡を従容として受け入れた人類は、ゆっくりと衰えていった。
かつて日本と呼ばれていた東洋の島国も同じだった。
アジアの奇跡と言われた文明国家は見る影もなく衰え、もはや日本という国家を運営できる中枢すら失われている。
今では、それまでの都道府県といった自治体がそれぞれ小国家を為して、細々と営まれていた。
文化や言語は同じだが、制度や法は独自なものが採用されている。
例を取れば、水道や電気、ガスといったライフラインを無償で提供している(無論、それらは税金で運営されているから租税はある)国もあれば、税を抑える代わりに料金を徴収する国もある。
パスポートなど必要としないので、どこの国に移住するのも自由ではあるが、以前暮らしていた国と制度が違って面食らうことも多いらしい。
それでも、そうした小国家群はもめ事を起こすこともなく、衰退の流れに逆らうこともなく、穏やかに運営されていた。
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この世界に於いては、ほぼ完全な人型ロボットが活動している。
ロボット製造数は少なかったが、人間の数自体が減少する一方だったため、比率としては上昇していく傾向にあった。
ロボットには人工筋肉や人工脳が使われているものの、筋力や知能については「人並み」である。
そうでなければ違和感なく人間社会に溶け込んでいくことは難しかったろう。
人々はスーパーマン的なヒーローロボットを求めたのではなく、あくまでも「人類の隣人」を欲したのである。
そして彼らには「人の記憶」の継承を望んでいたのだった。
ほとんど人と変わらぬスペックではあるが、ロボットならではの長所──と言い切ることは難しいが──として「長寿」な点が挙げられる。
しかも、ほぼメンテナンス・フリーであるため、突発的な事故でもない限りは故障しにくく、その場合でも病院で治療可能がことが多い(この時代の医師は、人間だけではなくロボットの治療も行える資格を持つ者も多かった)。
「機械人形」ではなく生体パーツだったこともあり、エネルギーも燃料や電力を使用するのではなく、生物と同様に食物を摂取して体内で消化、カロリーを蓄えて使用する。
この点も人との社会生活をスムーズにさせる大きな要因だったろう。
このことからしても、ロボットとは人口減少による労働力不足の補完というよりは「人間に代わるもの」あるいは「人を継ぐもの」として開発、製造されたらしい。
散文的な情報や開発史的なものはともかく、統計的にまとめた資料、データのほとんどが失われてしまった今となってははっきりしないものの、今ではその説が有力である。
様々な悲喜劇を伴う試行錯誤の結果、集大成として完成したのがA7型ロボットだ。
A1からA5タイプまでは、視覚や聴覚、嗅覚、触覚、そして味覚といったそれぞれの人間の感覚器官を代行する器官の実験及び開発による成果であるとされている。
それらの感覚器官をとりまとめてヒューマン型のA6タイプが試作され、さらにそれを発展、実用化したのがA7タイプである。
一応「完成系」と呼ばれており、A7M1、M2と試作が進み、最終的な量産型であるA7M3となった。
思考形態については、電子脳に記憶というデータを埋め込むのではなく、ほとんどプレーンな状態の記憶脳を装備した状態で人間が育てる、という形式が採られている。
ちなみに「感情」も、それまで一般的だった電気信号によるものではなく「経験」を積ませることで覚えさせていく方式だ。
これは感情だけでなく、味覚や嗅覚、触覚などの獲得形質に関してはすべてまっさらで製造され、実際に体験することで学習することが求められていた。
膨大なデータを蓄積し(あるいはデータベースにリンクさせて)、それを参考にした推論並びに結論を導き出す手法──いわゆるエキスパート・システムは既に陳腐化していた。
運用側にとっては扱いやすく、理論的にもわかりやすいのだが、ロボットに採用するには無理があった。
それだけ多くのデータを電子脳に蓄積することは物理的に不可能だったし、データ量を減らせば目に見えて「性能」が落ちてしまう。
外部データベースにアクセスさせれば容量の問題は解決するが、そのためには強力な通信機能を搭載する必要が出て来る。
データ信号が届かなければ何の役にも立たなくなるし、そのデータベース基地や中継局にトラブルが発生すれば立ち往生してしまうわけだ。
特に後者の事象は、様々な天変地異で施設を失った人類にとって重大な懸念事項だったから採用するわけにはいかなかった。
あくまでロボット単体で完結するシステム──スタンド・アロンで成立しなければ意味を成さないのである。
従ってニュートラル理論に伴うネットワークシステムが重要視された。
これは2種類あり、ひとつはスーパーバイザー・ラーニングと呼ばれるもので、ある事象に対して「教師」が正解に導く学習法だ。
もうひとつはアン・スーパーバイザー・ラーニングと言い、問題に対しての「正解」というものがない。
「ない」というよりも決められていないのだ。
従って「教師」は必要ない。
ロボット自身が過去の蓄積データ及び経験学習した事象から推論し、自分なりの結論を導き出す方式である。
こちらはもちろん「間違う」可能性があるわけだが、そのことも経験データをとして憶えていく。
なぜその結論が間違いなのか、どうして間違えたのかまで併せて仮説を立てさせ、また実行し、その推論が正しいかどうかの判断をする。
アルファ型機には、この「教師付学習法」と「教師なし学習法」が併用して採用されることとなった。
A7Mシリーズは、サブサンプション・アーキテクチャの革新的進化に伴い、蓄積された基本データだけではなく、神経ネットワークを通じて環境から学習し、経験を重ねた上で判断力の基準とする行動型システムが採用されている。
彼女たちに「人間的」な誤り、勘違い、物忘れが発生するのは、それが要因だという説が有力である。
特に、極初期型とも呼ばれ一体しか作られなかったA7M1タイプ、量産試作機でこれも三体しかないA7M2タイプは「教師」役の「オーナー」と呼ばれる所有者に預けられ、育成されていった。
知能発達や知識の蓄積だけではなく、判断力や情緒的なことに至るまで教え込まれ、学習させていく。
その上でそのロボットに「自我」を持たせる必要があったからだ。
目指したのは完全自律型のロボットである。
最終的な量産普及型機であるA7M3型はオーナー制度ではなく、ロボットの「研修所」で一定期間修学することにより、一般的な社会知識と経験を積んでから人間社会に出ていった。
但し、開発時期、製造ロットによって「オーナー」に預けられた機種も存在する。
ちなみにアルファはA7M2型三体のうちの一体である。
固有名の「アルファ」は「アルファ型」から来ている。
ちなみにアルファの先代でもあるA7M1型機も固有名を「アルファ」とされていた。
一方で脳以外の器官──筋肉や内臓などはすべて生体パーツとなっている。
もともとはこの人造臓器などは、人間への移植等も考えられたようだが、拒絶反応の問題のみならず、ロボットたちは人造血液だったため造血幹細胞が人間とは異なっており、これは夢に終わっている。
この血液も人間や他の動物と同じく赤い色だから、赤血球に類似した細胞であり、恐らくヘモグロビンと同質のタンパク質があって、体内にくまなく酸素を供給している、ということだろう。
もちろん「違和感」をなくすため、という意味合いもあると思われる。
ちなみに血液や唾液、汗、リンパ液などの人造体液はすべてロボットたちの臓器によって生産されているため補充する必要はない。
いずれにしても筋肉や臓器を生体パーツにしたのは、後々のメンテナンスを考慮してのことだった。
ロボットたちは体内で血液などの体液を製造し、筋肉、臓器の自己修復能力を持っている。
これは特別なことではなく、人間を含めた他の生物たちと同じく、ある程度の「自然治癒」が可能だということだ。
つまりこれは「メンテナンス・フリー」ということである。
生命活動に重大な影響を及ぼすような怪我を負ったりしなければ(疾病という危険性はほぼないとされている。ウィルス性疾患などは、相手が生物細胞でなければ感染しないからだ。今のところ、ロボット独特の「病気」というものは存在していない。つまりアルファたちは風邪もひかないのである)、治療という名の修理は必要ないのである。
無論、これも生物や他の人造物と同じく劣化による「寿命」というものはあるが、それまではほとんど自分で何とか出来てしまうわけだ。
だからこそアルファやココネたちロボットは、ここまで人間社会に浸透できたのである。
外見はもちろんのこと、その能力、知能、そして感情に至るまでほとんど「人」との差違がないため、人間社会では違和感なく受け入れられている。
ただ「雰囲気」でそれとわかることも多いため、区別として「ロボットの人」と呼ばれるのが普通だ。
但しこれは差別的な意味合いはほとんどなく、同じ社会生活を営む仲間ではあるが、自分たちとは生い立ちが違う、という認識に過ぎない。
言ってみれば「外国人」や「白人」「黒人」あるいは「○○地方出身の人」くらいの感覚である。
とは言え言葉は通じるし、突拍子もない反応というものもないことから意志は普通に通じる。
そのことから、一般人から見れば「外国人」よりもずっと身近な存在だったと言える。
そしてロボット自身も「ロボットの人である」と理解はしているものの自分は「人」だという認識だった。
街で見かけるロボットの人はほとんどが女性であるため「ロボットの人は女である」「ロボットは女しか作られなかった」と思っている人も多かった。
もちろんそんなことはなく、製造比率は男女同じだったらしい。
外見的及び機能的に男性型もあるにはあったのだ。
ただ、作られはしたのだが、どういうわけかこの型は耐久性がなかったらしく、今ではほとんど残っていないとされている。
この辺りも謎であり、前述したように資料があまり残っていないため、解明されずにいる。
「身体的にはほぼ問題ないはずだから精神的な要因ではないか」という説もあるが、これも推測に過ぎず断定は出来ないらしい。
ロボット関係の資料一般というだけでなく、特にこの件に関してはほぼデータがなかったことから「意図的に」抹消されたのではないか、という説もあった。
そうした「人の子」であるロボットたちは、訪れてくる「人の時代の黄昏」を、人とともに静かに見つめ続けていくのだった。
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