世界樹の七葉T エルフは古城で黄昏れる3
風呂から上がったエミリアは、部屋の中央の小さなテーブル上に地図を広げる。
「寝る前に、明日のルート確認よ」
この旅の中で、シオンは初めて地図を見た。
「ルハッシュ城までは、街道を進めば着くことができるわ」
地図上のルハッシュ城址と書かれた近くまで、街道は伸びている。
その道筋には街もあり、危険の少ない旅になるはずだ。
シオンも事前に地図を見て旅程を組んでいたので、今更、確認するようなことはない。
「この街を出て北に進むと、街道は西に迂回してる」
エミリアは、地図に描かれた街道の線を細い指でなぞる。
「問題は、ここ」
そう言い、街道が大きく西に曲がる地点で彼女は指を止めた。
「地図通り、街道を進めばいいんじゃないですか?」
「地図には描かれてないけど、ここは街道と廃道の分かれ道になっているの。街道を使うと三日でルハッシュ城近くのバスクダ村に着くし、途中に街もある」
描かれていない道を指でなぞり、エミリアは話を続ける。
「こっちの北に向かう廃道を使うと、バスクダ村まで二日。その代わり、二日とも野営になるわ。しかも国に管理されていないから、魔物や大型の肉食獣が出る率が街道よりも高い」
「街道は一日のロスになるけど、途中に街があって安全。廃道は近道だけど危険……そういうことですね」
シオンは座っているベッドに、背中から仰向けに倒れこむ。
これは悩みどころであった。
元をただせばルハッシュ城に日陽花があるかどうかも未確認で、もしあったとしても枯れている可能性もある。
彼は、採取後に枯れることを考慮に入れていない。
というのも日陽花の特性として豊富な養分を葉に蓄えているため、開花したときに採取すると水を与えなくても一週間は枯れないのだ。
枯れるのは根から吸収される水分が、葉の養分に反応し、全体を腐らせてしまうためである。
日陽花の開花期間が、約十日という短さの原因がそれだ。
一方、採取しても長く開花を楽しめるので、咲いた日陽花は生命の象徴であり、縁起物としての一面も持っている。
なんにせよ到着したはいいが、すでに日陽花が枯れていたということだけは避けたかった。
(でも、近道は魔物とか出るっていうし……)
真上にある天井をシオンが見ていると、急に下半身が重くなった。
「どっちにする? 遠回りして安全な道と、それとも近道して危険な道」
エミリアはシオンの股間に跨って、そう言った。
「離れてください!」
「ちゃんとルート決めてからじゃないと、寝かせないわよ」
エミリアはミニスカートに隠れたショーツの底部を、シオンのショートパンツになすりつけた。
(さっきお風呂で出しちゃったのに、また硬くなってきちゃうよ!)
シオンの股間は熱くなり始めており、エミリアがそれに気づかないわけがない。
「わたしはシオン君に従うわ……どっちの道でもいい」
そう言ってエミリアが腰をグラインドさせると、彼は泣きそうな顔になる。
「や、やめて……」
シオンは勃起してしまう股間をどうしていいかわからず、涙声でエミリアに言った。
(お風呂で、射精までさせちゃったもんね……)
エミリアは、いたいけな少年をからかいすぎたことを猛省する。
風呂場で射精してしまったうえ、エルフの美熟女に股間で腰振りなどされたら、彼は恥ずかしさに耐えられないだろう。
「ごめんなさいね。ちょっと、はしゃぎすぎちゃったわ……」
――コンコンとドアをノックする音が聞こえた。
「はぁい!」
エミリアがドアを開けると、そこにはエプロンを着たニッケがいた。
「明日、旅先でも食べれるように昼用のサンドイッチを作ってあげるから。あの男の子と合わせて、どれくらいの量を用意しようか? さっき、それを聞き忘れちゃって」
エミリアは手短に、サンドイッチの具材や量をニッケに伝える。
部屋のベッドに戻ると、シオンは掛け布団の上で熟睡していた。
彼は二人の会話が終わるのを待っていたが、肉体は疲労の限界を迎えてしまったようだ。
「あいかわらず、可愛い寝顔だわ」
エミリアは掛け布団を、寝ているシオンにかけた。
そして天井のランプを消し、彼のベッドに潜りこむ。
「……添い寝しちゃおっと」
上着とミニスカートを脱ぎ、下着姿になったエミリアはシオンの頭を撫でながら眠りについた。
「なんで今朝は、ボクのベッドにいたんですか」
シオンは赤面しながら、前を歩くエミリアを問い詰める。
「いいじゃない。わたしの生下着を見れたんだから」
二人はデオンの街の宿屋から街道に出て、次の目的地であるバスクダ村に向かっていた。
「……なんだか、遠くにきたって感じです」
王都近くに比べると、街道ですれ違う人の数は減っていた。
ここにきて、シオンはようやく旅をしているという実感が湧いてくる。
初日に見えていた遠くの山脈が、今は大きく感じた。
あのどこかにルハッシュ城がある――そう考えると、彼は一端(いっぱし)の冒険者になったようで心が踊る。
「昨日、話した分かれ道よ。どうする?」
デオンの街を出発して三時間後、昨夜のルート確認で話題になった分岐路に二人はさしかかった。
街道を示す石畳が廃道にはなく、剥き出しの地面になっている。
「昼食を食べるので、ちょっと考えさせてください」
シオンは分岐路の前で、少し早い昼食を提案した。
「ニッケさんに頼んで、たくさん作ってもらっちゃった」
エミリアは背負い袋から、サンドイッチを取りだす。
サンドイッチは一つ一つ包装紙にくるまれ、タマゴやハムといった中の具材が書かれていた。
「タマゴサンド、おいしいです」
シオンは岩場に腰掛けて足をぶらぶらさせ、サンドイッチの味に満足した。
「こっちもおいしいわよ」
地面に座っているエミリアは上にいるシオンに、ローストポーク入りのサンドイッチを渡す。
二人は昼食のサンドイッチをすべて食べ終え、分岐路の前に再び立つ。
「廃道を通って、近道します」
シオンの出した結論はそれであった。
「ほんとに? 下手すると死ぬわよ。冗談じゃなくて」
エミリアの言葉は、単なる脅しではない。
街道沿いは年に数回、王国の兵士たちによって魔物の討伐が行われる。
それが効いているらしく、街道にゴブリンなどが出現する確率は低い。
ところが廃道になると王国の管理から外れているため、魔物との遭遇率は著しく上がる。
一説には、王国に届けられる魔物による死亡報告の約七割が、街道以外の場所だとも言われていた。
「廃道の先は森になってて、魔物や肉食獣の巣になりそうな洞窟も多いわ。やめるなら、いまよ?」
エミリアは念を押す。
廃道になるからには、それなりの理由がある。
十年ほど前までここに分岐路はなく、廃道のみしかなかった。
つまり廃道こそが、街道だったのである。
しかし、魔物によって旅人が殺される事件が相次ぎ、王国は西に抜ける新たな道を作った。
それが現在の街道となり、廃道の森林地帯を大きく迂回している。
「行きます。エミリアさんになにかあったら、ボクが守ります」
シオンは顔を赤くし、エミリアの手を引いて廃道を進み始める。
「あらあら、勇ましいのね」
この旅で初めてシオンに先導され、エミリアは頬を赤く染めた。
しかも手までつながれては、彼女は完全に女の子扱いである。
――剥き出しの地面の廃道を歩き始めて数時間、二人は森林地帯に入っていた。
シオンは、周辺の見通しの悪さに緊張している。
街道だと全方向に対して視界がひらけていたのに、廃道では道の前方と後方しか見えない。
横は森のため薄暗く、昼間でも魔物が出てきそうな雰囲気がある。そのため彼はいつでもショートソードを抜けるよう、柄に手をかけ準備していた。
――午後四時半になるころ、二人の周囲は日没のような暗さになってしまう。
「……ここが良いかしら」
そう言ってエミリアは、廃道から少し外れた大木の下を野営地にすることに決めた。
魔物の出現率が高い地域では、なるべく岩や木など天然の壁を背にして野営するのが基本である。
理由は敵の奇襲方向が限定されるからだ。
些細なことではあるが、結果的にそれが生死を分けるのを彼女は経験から学んでいた。
「はーい、点火するわよ」
エミリアは薪を前にして、指先に精霊魔法の小さな火を灯す。
シオンは焚き火の点く瞬間が、野営の中で一番好きだった。
炎のもたらす安心感――それは彼が、旅に出てわかったことの一つである。
「晩御飯はソーセージだから、このダガーに刺して焼いてね」
エミリアは持っているダガーをシオンに渡した。
「ダガーでソーセージ焼くなんて初めてです」
「ダガーは武器にもなるし、こうやって串の代わりにもなるから便利なの。そのダガーを鞘ごとあげるから、シオン君も持っておきなさい」
じゅうじゅうという焼き音に混じり、ソーセージから脂が滲んできた。
シオンがそれを口に入れると、豚肉の旨味が舌の上に広がる。
二人は空腹のため、黙々とソーセージを食べた。
「……このチーズで晩御飯は終わり」
エミリアは二つに切った拳ほどの大きさのスモークチーズの片方を、隣にいるシオンに分ける。
「ごちそうさま」
シオンはスモークチーズをあっという間に食べ、腹をさすった。
「歩きっぱなしだけど、疲れは取れてる?」
「そういえば、歩いてもあまり疲れなくなりました」
エミリアが前に言ってたとおり、シオンは足の疲れが気にならなくなっている。
どうやら、体が歩くことに慣れてきたらしい。
歩き方にコツのようなものがあるようで、適度な歩幅や踵から爪先までの重心移動などが関係しているようだ。
それらが彼の体に染みつくまで、数日はかかるとエミリアは見越していた。
「バスクダ村って、どんなとこなんですか?」
シオンはすぐ側のエミリアに聞く。
「あの村は湯治で有名なの。ルハッシュ城のあるゴガ山の近くで、温泉が湧いてるわ」
温泉と聞き、シオンは湯に浸かる艶っぽいエミリアを想像して、股間が膨らんできてしまう。
「ねぇ、村についたら温泉に入りましょうよ。混浴のところもあるから」
エミリアに顔を近づけられ、シオンは顔が赤くなってくる。
「エミリアさんは、エッチすぎます」
「エッチなお姉さんは嫌い?」
エミリアはさらに顔を近づけてきたので、シオンはたじろいだ。
「き、嫌いじゃないですけど……」
「シオン君はもっと女性に慣れないといけないわ。ここに頭を乗せなさい」
太腿をぺちぺちと叩いて、エミリアは言う。
「それって膝枕じゃないですか!」
「誰も見てないんだから、恥ずかしがらないで。ほら、早く」
こうなるとエミリアは一歩も引かなくなるのを、シオンはこの数日でよくわかっていた。
ミニスカートから見える肉付きの良い太腿に彼が頭を乗せると、むっちりとした弾力が頬につたわってくる。
「シオン君て好きな人いるの?」
そう聞いたエミリアの顔は、シオンと同じように赤い。
「……います」
エミリアは、ますます顔が赤くなった。
「誰? どんな人?」
「秘密です」
二人の顔は、これ以上にないほど真っ赤である。
「エミリアさんは、好きな人いるんですか?」
膝枕しているシオンの顔が見えないのが、エミリアにはもどかしい。
「いるわ」
「どんな人なんですか?」
「秘密よ」
エミリアは頭から湯気が出そうなほど赤面し、シオンの頭を撫でた。
二人が揺らめく炎を見つめているうち、夜は更けていく。
「……寝ましょうか」
エミリアはシオンを抱きしめる。
彼はまったく抵抗せず、彼女と一緒の布マントにくるまった。
真っ暗な森の中で、二人のいる場所だけが明るい。
ここでは木々の枝が邪魔して、月光さえとどかなかった。
エミリアの爆乳に頬擦りしながら、シオンは森の中に自分の気配が溶けこんでいくのを感じる。
――不意に、狼の遠吠えが聞こえた。
(エミリアさんを守らないと……)
反射的にシオンは近くに置いたショートソードの鞘を握ったが、眠気という最大の敵には勝てなかった。
夜が明け、二人はバスクダ村に向けて出発する。
シオンも野営に馴染んできたようで、起きてからすぐ動きだせるようになっていた。
(いい顔つきになってきたわね)
エミリアには心なしか、彼の顔つきが旅に出る前よりも精悍(せいかん)になったように見える。
「……雲行きが怪しい」
エミリアは灰色の空を見上げ、そうつぶやく。
彼女の金髪を靡かせる風も湿気を含んでおり、天候が崩れる兆しがある。
「雨が降ったら、村の跡地で雨宿りかしら」
「村の跡地?」
「ここが街道だったころ、この先にイーゴ村というのがあったのよ。そこの村人たちは新しくできた街道の方に、みんな移動しちゃったわ」
街道が廃道になることに猛反発したのは、イーゴ村の住民たちだった。
彼等は先祖代々の土地を捨てることに、我慢ならなかったのだ。
それについて王国は支度金を渡すという形で応じ、住民との和解が成立した。
「シオン君、歩く速度を上げられる? 雨が降りそうだから、できるだけ距離を稼ぎたいの」
エミリアの表情に、いつもの余裕がない。
それだけ切羽詰まった状況なのを、シオンは理解した。
「大丈夫です。やれます」
大丈夫とは言ってみたものの、どこまでその速さについていけるのかシオンには自信がない。
(……でも、やるしかない)
廃道で雨に降られるというのは可能な限り、避けるべきだ。
まず、雨によって体温が奪われ、体調を崩しやすくなる。
廃道沿いは街が存在しないため、熱を出したときなどは医療機関に頼れない。
雨による視野の悪化と、聴覚が雨音に惑わされるのも問題だ。
冒険者の視界の悪さに乗じ、雨音にまぎれて魔物が近づいてくることもある。
そして雨によってもたらされる、最悪な事態をシオンは想定していた。
おそらくエミリアも自分と同じことを考え、歩く速度を上げたのだろうと彼は直感する。
――二時間後、エミリアの言葉は現実のものとなった。
雨が降りはじめたのだ。
二人は布マントのフードを頭にかぶり、互いに喋ろうとしなかった。
会話の声によって、魔物が茂みを歩く音などが聞き取りにくくなるからだ。
シオンは学校でそれを習ったが、実践で使ったのは初めてである。
(雨ってここまで、まわりの音を消すのか……)
普段の生活の中で意識したことはなかったが、こうして雨音を聞いていると森の中がどうなっているか全然わからない。
晴天の日の森は離れたところから、鳥の羽ばたきや鳴き声が聞こえていた。
いまは、ざーっという激しく降り注ぐ雨音しか耳に入ってこない。
――イーゴ村の跡地に着いたのは、日が完全に落ちてからである。
廃村だけあって家屋はそのままなのに、人の気配がまるでないことが不気味だとシオンは感じた。
エミリアは背負い袋からランタンを出して火を灯し、彼を連れて雨宿りできそうな場所を探す。
「剣を抜いておきなさい。ここに魔物が、住みついてることもあるから」
エミリアに言われ、シオンはショートソードを鞘から抜いた。
村人が移動して十年も経った木造の家は、ほとんどがボロボロである。
痛みのひどくない家々を見ているが、どれもこれも野営に適したものではなかった。
「ここ、良さそうね」
もうすぐ日付が変わる時間になるころ、二人は雨漏りのない平屋を発見した。
「部屋を見るわよ」
エミリアとシオンは敵がいないか各部屋を確認してから、椅子やテーブルのないリビングの床に座った。
「なんとか、雨宿りできたわ」
床に置かれたランタンの小さな炎が、エミリアの横顔を照らしだす。
「服が濡れて気持ち悪いです」
シオンはマントを脱ぎ、雨の染みこんだ服の裾を両手で絞ると大量の水滴が落ちた。
「ちょっと待ってて」
エミリアはランタンを持って立ち上がり、土間のほうに行く。
しばらくして、彼女は落胆した様子で戻ってくる。
「薪があるかと期待したけど空振りね。今夜はこのランタンだけで過ごさないと」
エミリアも雨の中を歩いたせいか、いつもより口数が少ない。
シオンが座っている体勢を変えようとしたとき、足に鈍痛がはしった。
「……ぐっ!?」
シオンは震える足を、両手で押さえてうずくまる。
「今日はペースを上げたから、足の負担が大きかったのね。ごめんなさい……」
エミリアはシオンの足を揉み、申し訳なさそうに言った。
「この道を選んだのはボクです。それにペースを上げなければ、もっと遅い時間にここへ来ることになってました」
「……優しいのね」
エミリアはシオンの言葉に感謝した。
この子は本当に年上の女を本気にさせるのが上手――彼女は、暗がりの中で頬を染める。
「あれ……足の痛みが取れました」
「気術で足のツボを突いたの。わたしは回復系の技術は身につけてないから、これが応急処置の限界ね」
体にはツボと呼ばれるものが存在し、そこを気術で刺激することによって回復力を増すことができる。
だが、僧侶のような治癒魔法とは違うので、あくまでその場しのぎにしかならない。
「今夜はもう眠りましょう」
エミリアは、シオンをいつものように抱っこしたかった。
しかし服が濡れているため、別々に室内の壁にもたれて寝ることにする。
降りしきる雨の音と、すぶ濡れになった服の不快感のせいでシオンは眠りにつくことができない。
(……やっと眠くなってきた)
疲労により、ようやくシオンがうとうとしはじめたときのことだ。
「――シオン君、起きて!」
エミリアに揺さぶられ、シオンはこれが夢なのか現実なのか一瞬だけ迷った。
「この家、敵に囲まれてるわ」
シオンの眠気が飛んだ。
側に置いたショートソードを装備して、攻撃の準備を整える。
「数は七。いえ、まだ増えてるわね。敵の体格は、そんなに大きくない。二足歩行で重心が片方に寄ってるから、片手武器を持ったゴブリンのはず」
シオンには、ゴブリンの足音など聞こえない。
耳を澄ましても、家の屋根を叩く雨音のみだ。
ここはもしかしたら、彼等の狩場なのかもしれないと彼は想像した。
廃道を通る冒険者は雨になると、この家にやってくる。
そこを狙って、彼等は待ち伏せしていたのではないかという推察だ。
「表にわたしだけ出て戦う方法もある。だけど、そうなるとシオン君はこの家の中に入ってきたゴブリンと、一人で戦うことになるかもしれない」
「このまま、朝を待つっていうのはどう?」
「奴等は偵察隊のようなものよ。早くここを出ないと、本隊がやってくるわ」
シオンは一気に脈拍が上昇した。
日中、彼が考えていた最悪の事態とはこれだ。
雨のせいで焚き火のないまま、敵に夜襲を仕掛けられる。
こうなってしまうと盲目のまま、戦闘状態に突入するようなものであった。
エミリアのランタンはあるが、焚き火の光量に比べると頼りないこと、この上ない。
「ゴブリンは夜目が利くから、外にはわたしが行くわ。シオン君はここに残って。もしも敵が入ってきたら、そのときは壁を背にして立ち回りなさい」
それだけ言って、エミリアは家の外に行ってしまった。
外で獣のような鳴き声が聞こえる。
彼女は戦闘を始めたらしい。
(敵がくるとしたら、どこから……どこからくるんだ!?)
シオンのいる室内には家の出入り口のドア、寝室のドア、土間のドアの三つがある。
いずれも、いまは閉まっていた。
この家を発見して寝室と土間を調べたとき、それぞれの部屋は窓が破壊されている。
ゴブリンが、そこから侵入してきてもおかしくない。
シオンは床のランタンをリビングの隅に移動させ、壁を背にしてショートソードを構えた。
どれくらい時間が経ったのか。
二十秒か。
それとも一分か。
このまま夜が明けないのではないかというくらい、時間の流れが遅く感じる。
シオンは瞬きもせず、三つのドアを順番に睨みつけていた。
――ひたひた。
そんな音が、土間の方から聞こえた。
雨に濡れたゴブリンの足音だろうかと、シオンが気を取られたときだ。
寝室のドアが、勢いよく蹴り開けられる。
そこから現れたのは、肌が緑色の小柄な生物だった。
そいつの上下の犬歯は鋭い牙になっており、両目は充血したように赤い。
右手には錆びたロングソードを握っており、その魔物が道具を使うだけの知能を持つ証拠だった。
(……これが本物のゴブリン!)
いままでシオンは肉眼でゴブリンを見たことがなかった。
せいぜい教師の話を授業で聞いたり、教科書で見たりするくらいである。
一般的に弱い魔物として扱われているが、こうして目の前にすると迫力に気圧されそうだ。
(あ、足がすくんで動かない!!)
シオンはゴブリンの殺気に怖気づき、足が震えている。
さらに土間のドアからも、二匹目のゴブリンがリビングに乱入してきた。
――死。
彼の脳裏に、そんな予感がよぎった。
(やだ……やだ……やだぁああああああああああっ!)
シオンの心の声は、絶叫となって発せられる。
「うわぁあああああああああああッ!!」
シオンは一匹目のゴブリンのロングソード攻撃を、床に横転しながらかわした。
「キシャアアアアアアアアアアア!」
二匹目のゴブリンは奇声を上げ、ハンドアックスを振り下ろしてくる。
シオンは上半身をひねり、横に頭をずらした。
ごすっ、という重い音とともに、ハンドアックスの切っ先が床にめりこむ。
(こいつら、本気で殺しにきてる!)
他者から露骨な殺意を向けられることなど、日常の中ではそうあるものではない。
シオンの感情は恐怖と昂揚を往復し、自分が何をすべきかが頭の中から抜け落ちていた。
(逃げられない)
(敵はゴブリン二匹)
(エミリアさんは!?)
(外は雨)
(殺される!)
断片的な思考が激流となって、彼の心をかき乱す。
手にしているショートソードで応戦することすら、彼の頭からは吹っ飛んでいた。
「グワァウウウウウッ!」
一匹目ゴブリンのロングソードの先端が、床から立ち上がったシオンの顔面に近づく。
「あ……」
鋭利なそれが、自分の右目に向かって直進してくるのがシオンには見える。
あと一秒もしないうち、ロングソードが後頭部まで貫通し、脳漿(のうしょう)を飛び散らす――彼は他人ごとのようにそう思った。
(………ッ!?)
それは、偶然の産物以外の何物でもなかった。
立ち上がっていたシオンは、死に直面して腰が抜ける。
脱力した下半身に連動して、上半身もやや右斜め後方に倒れこむ。
――それが彼の命を救った。
彼は仰け反るような姿勢で、ゴブリンのロングソードをかわしたのである。
「う、うわッ……!?」
倒れこんだシオンは、床をもがくようにして立ち上がる。
(……頬が熱い)
彼が手の甲で右頬に触れると、赤いものが付いていた。
――血だ。
ゴブリンに攻撃されたロングソードが、頬をかすったのだろう。
彼は自分の血を見たせいで心が急速に醒め、さっきまで浮かべていた苦悶の表情が消えた。
焦燥。
恐慌。
狼狽。
そういったものが、彼の中からすべて排除される。
二匹のゴブリンはタイミングを合わせ、ハンドアックスとロングソードで攻撃してきた。
彼は、床の上を前転する。
最初に床を転がったときはかわすことしか考えてなかったが、今回は明確な意味があった。
ハンドアックスを持ったゴブリンとすれ違うとき、彼はショートソードを思いきり薙ぐ。
「ギシャアアアアアアアアアア!?」
ハンドアックスのゴブリンは左膝より下を斬り落とされ、床に仰向けになって激痛による大声をあげた。
シオンは最初からゴブリンの膝を、切断しようとしていたのだ。
そして、倒れたままのゴブリンの胸にショートソードを突き立てる。
ハンドアックスのゴブリンは緑色の血液を大量に噴き出し、何度か痙攣して死んだ。
彼は戸惑いを捨てた。
廃村を生きて出るには、敵を殺すしかない。
その結論に彼は到達した。
あとは簡単である。
(残りのゴブリンも殺せばいい)
初めて魔物の命を奪った彼は無表情だった。
ただ、邪魔な物を片付けたという、道端の石ころを投げ捨てたような感覚である。
ロングソードのゴブリンは、仲間の死体を見て怯む。
敵も学習しているようで、しきりに足元への攻撃を警戒していた。
(それなら……!)
足に注意を逸らしたロングソードのゴブリンに、シオンは大上段からショートソードを振り下ろす。
彼は、ゴブリンの肩口にめりこんだ剣先を抜こうとするが抜けない。
「グッ……グガァアアアアアアアアアアアア!!」
痛みで呻いているゴブリンの腹に蹴りを入れ、彼はショートソードをようやく抜いた。
「やぁあああああああッ!」
シオンは正面から、ショートソードでゴブリンの喉を突く。
それは背後の壁まで勢いよく貫き、刺さる。
からん、というゴブリンの持っていたロングソードが床に落ちた音――それは一つの命がこの世から消えた音だった。
「はぁはぁ……」
シオンは呼吸が乱れているのを自覚する。
ショートソードを引っこ抜くと緑色の血飛沫が壁を染め、ゴブリンの亡骸はずるずると床にへたりこんだ。
「――シオン君!?」
そのとき、家の出入り口のドアが開いた。
ずぶ濡れのエミリアは部屋の死体を見て、シオンがゴブリン二匹を倒したのだと知る。
「良かった……シオン君が無事で」
エミリアはシオンを抱きしめ、何度も頭を撫でた。
「ここは危険よ。すぐに出発するわ」
エミリアは荷物を背負い、シオンの手を引いて家の外に出る。
外の雨は止んでいなかった。
廃村を出る途中、シオンはゴブリン四匹の死体を見る。
そのどれもが、破裂したように頭部が潰されていた。
「外には九匹いたから、このぶんだと本隊は二十匹はいる……追ってこなければいいんだけど」
戦闘後のシオンは経験したことのない感情を抱いており、それは自制の効かないドス黒いなにかだった。
「今日はこのまま、森を抜けるわ。眠いだろうけど我慢して」
エミリアはそう言って、しきりに背後を振り返る。
ゴブリンの追撃を気にしているのだ。
――空が明るくなってきたが、雨は依然として降り続いている。
一睡もせず二人は歩き、街道と廃道の合流地点に着く。
(ここまでくれば、ゴブリンも追ってこないわ)
エミリアは廃道を通っていたときの緊張を解いた。
「シオン君、体はどう?」
「…………」
「ねぇ、聞こえてる?」
「…………はい」
エミリアがいままで見たことないほど、シオンの表情は険しい。
体力が限界なうえ、ゴブリンとの戦闘で精神的に参ってしまっている――彼女にはそう見えた。
夕方になり、二人はルハッシュ城が近い、バスクダ村に到着する。
「ここは温泉地だから、宿屋が多くて助かるわ」
宿屋の部屋に入ったエミリアは、横にいるシオンにそう言った。
「…………」
シオンは黙ったままだ。
「雨、まだ止まないのね。明日は晴れるかしら」
エミリアはマントを脱ぎ、窓の外の雨を眺めてつぶやく。
「エミリアさん!」
シオンは、いきなりエミリアをベッドに押し倒した。
「シ、シオン君……!?」
エミリアは彼に両腕を掴まれ、仰向けにされる。
彼女はなにが起きたか、わからなかった。
シオンの手がミニスカートに入ってきたとき、彼女はやっと状況を呑みこんだ。
(この子、わたしを犯そうとしてるのっ!?)
ミスニカートに侵入した指は、彼女の下着の上から割れ目をなぞった。
「やめて、シオン君! ねぇ、お願い!」
エミリアの声は、シオンには聞こえてないようだ。
彼は指先で縦筋の上部をショーツ越しに擦り始める。
「やン……ッ…シオン君…ダ、ダメなんだからぁ……あぅ!」
牝の弱点である股間の突起を探り当てたシオンは、集中的にそこを責め続ける。
エミリアの声が弱々しくなり、代わりに媚びたような甘い吐息が口から洩れてきた。
「エミリアさん! ボク……ボクは……!」
シオンはそう言いながら、エミリアの爆乳を揉む。
柔かなそれが少年の手でこね回され、自由に形を変えていく。
「元の優しいシオン君に戻って! こんなのイヤぁ……!」
シオンに組み伏せられていたエミリアは叫んだ。
(エミリアさん……)
エミリアの叫びに、シオンは我に返った。
自分がとんでもないことをしていることに、彼は気づく。
「……エ、エミリアさん、ごめんなさいっ!」
シオンは雨よけのマントも身につけず、宿屋の外へ走りだしてしまった。
あちこちに温泉宿の看板があり、湯治に訪れた通行人たちは雨に濡れたシオンを遠巻きに眺めている。
やがて、彼は娼館の並ぶ通りに迷いこむ。
「あら、可愛い。坊や、サービスしちゃうわよ♥」
何人かの娼婦に声をかけられたが、シオンは無視して通りすぎる。
(エミリアさんに酷いことしちゃったな……)
己にあんな凶暴なところがあるとは、シオン自身も知らなかった。
しかし、エミリアを犯そうとした事実は変わらない。
――いつしか、村民たちの家々が集まる通りを歩いていた。
降りしきる雨の中、彼はある家の前で足を止める。
その家の窓からは若い父と母、そして小さな子供の家族がテーブルについて夕飯を食べていた。
三人とも笑い合い、とても楽しそうだ。
シオンは、幼いころを思い出す。
『こないだ冒険に出たとき、こんなに大きい猪が出た。それを倒して、仲間と一緒に食べたんだ』
『わぁ、すごいねお父さん!』
『お前も、中等部に行くころには、お父さんが旅に連れて行ってやるからな』
『うん、約束だよ!』
『わたしは旅に連れていってもらえないのかしら?』
『お母さんも連れて行く!』
『よし、家族全員でいつか旅に出よう。お父さんが案内してやるからな!』
シオンの温かい団欒の記憶は蝋燭の炎のように揺らめいて消え、降りしきる雨音と孤独だけが残った。
――何時間、その場に立ち尽くしていたのだろうか。
あたりの家々から灯りが消え、彼は闇の住人になっていた。
「……こんなところにいたのね」
女性の声がする。
――声の方を見ると、エミリアが立っていた。
「探したのよ……怒ってないから、宿屋に帰りましょう。ね?」
シオンの頬に雨とは違う、熱い滴がつたっていく。
彼は、それをなんとかして止めようとしたが止まらない。
「エミリアさん……!!」
シオンはそれだけ言って、エミリアに抱きついて泣きじゃくった。
嗚咽しながら、「ごめんなさい!」と何度も繰り返す。
旅の中の緊張感。
歩き通しの疲労。
死に直面した戦闘。
それらによって、彼の中で張り詰めていた精神の糸が切れてしまった。
エミリアを押し倒したのも、彼の中で芽生えたある感情が抑えきれないほどになっていたからだ。
「ほら、泣かないの。冒険者はどんなときも、堂々としていないといけないのよ」
エミリアは泣いているシオンに頬擦りしながら言った。
「だ、だってぇ……ひっく……」
「宿屋に戻るわよ。一睡もしないで歩いたんだから、温泉に入って休まないと」
エミリアは子供をあやす母親のように、シオンの手を引いて宿屋に帰った。
「――いいお湯ね。どう、落ち着いた?」
エミリアとシオンは、宿屋にある混浴の露天風呂に入っている。
「落ち着きません……」
顔の赤いシオンの後頭部には、エミリアのタオル越しの爆乳があった。
彼女はいつもように、シオンを背後から抱きしめるような態勢で温泉に浸かっている。
「ここの温泉は、お肌にいいんだって」
温泉の湯は乳白色で、周囲の岩場の木樋から流れこんでいた。
「エミリアさん、ごめんなさい……」
シオンは寝室でエミリアを押し倒したことを謝る。
「いいのよ。十四歳の男の子なんだから、ムラムラしちゃうときもあるわ」
それについては、エミリアにも責任はあった。
欲求不満なシオンを、何度も刺激するようなことをしたからである。
(でも、あそこで強引に迫られてたら、わたし……)
エミリアは女として、シオンを拒絶していなかった。
股間を指で軽く愛撫されただけなのに、濡れてきていたのだ。
自分からはシオンと肉体関係にはならないと決めた――しかし、彼が自分を激しく求めてきたらどうするのか。
(どうしたら、いいのかしら。こんな可愛い男の子の初めての相手が、わたしみたいな熟女エルフなんて……)
それとは裏腹に、彼のことを独占したいという感情もある。
(やだわ。わたしったら、シオン君のことばかり考えてる)
頬を染めたエミリアは、前にいるシオンに抱きつく。
「雨、止みましたね」
エミリアの柔らかな乳房を背中に押しつけられ、シオンは顔を赤らめて言った。
「今日は、ずっと雨だったわね」
「うん」とシオンは振り向き、エミリアにこたえる。
「いつものシオン君に戻ったみたい。良かったわ」
シオンの表情は、普段の柔和なものになっていた。
「エミリアさん、こんなとこで思いっきり抱きしめないでください! 他の人がきたらどうするんですか!?」
「うふふ、見られてもいいでしょう。わたしたち、そういう仲なんだし」
「どういう仲なんですか!?」
口ではそう言うシオンであったが、エミリアから離れようとはしなかった。
――二人は温泉で旅の疲れを癒やし、宿屋の部屋に戻る。
「ゴガ山のルハッシュ城は、ここから三時間で着いちゃうの。だから明日は昼すぎまで、ゆっくり休みましょう」
エミリアは、ベッド上に広げられた地図のゴガ山を指さす。
廃村でゴブリンと戦い、一昼夜も歩き通しだったシオンもこれに賛成した。
彼女は部屋のランプを消して下着姿になり、シオンのベッドに入る。
「シオンくぅ〜ん」
エミリアはそう声をかけたが、シオンはすでに寝息をたてている。
(……昨日から今日まで、大変だったものねぇ)
エミリアは眠っているシオンの頬を人差し指で突ついて、くすくすと微笑む。
部屋の窓から見える夜空には、美しい月が雲間から顔を出していた。