白衣/奈賀視点 キーボードを叩いていた手を止めると、俺は大きく伸びをした。体重を受け止めた背もたれがぎしぎし嫌な音を立てる。 冷えてしまったインスタントコーヒーを口に運ぶ。仄かに爽やかな香りが鼻先をくすぐるのを感じ、俺は目を細めた。大学の研究室は様々な嫌なにおいに満ちている。器材を洗浄する薬品のつんとする刺激臭、白衣に染み付いた試薬の不快な臭い。同室で研究している面々はもう感じないようだが、俺はいつまでたっても臭いに慣れることができず、部屋にいるだけで苦痛だった。 だが実験は順調に進んでいる。今日はそろそろ上がりにするかと実験データのメモを掴むと、かしゃりと人工的な音がして視界が白く染まった。 「……なんだよ」 一足早く帰り支度を済ませた美香ちゃんが、携帯を構えていた。後ろで木田が笑っている。 「見て見て。携帯、新しくしたの。フラッシュつき!」 「俺のだってフラッシュついているよ」 「アタシの前の携帯には付いてなかったの! ほら見て。綺麗に写っているでしょ」 新しい玩具を手に入れた子供はとかく遊びたがる。俺は子守の気分で差し出された携帯を眺めた。 大き目のディスプレイの中には画面の外に向かって手を伸ばす俺の姿が映っていた。フラッシュを焚いたせいでコントラストがきつい。羽織った白衣が真っ白に発光しているようだ。 「ふーん」 俺は片眉だけ吊り上げた。 グッドアイディアが閃いたのだ。 「木田。ちょっと俺の携帯で俺の写真撮ってくんない?」 ポケットからひっぱりだした携帯を撮影モードにして木田に渡そうとすると、横から手が伸びてきた。 「いいわよ。私が撮ってあげる」 試薬で荒れた手から逃げるように、携帯が宙を漂う。 「いや。美香ちゃん下手糞だからいらない」 「わ、ムカつく!」 「写真撮って、どうするんだ?」 俺の携帯を受け取った木田がディスプレイを覗き込む。俺はどすんと椅子に腰を下ろすと、高々と足を組んだ。 「俺のハニーに送るのさ」 「ハ、ハニーっすか……」 力の抜けた声を出す木田に、俺は100万ドルの笑顔を向けた。 「そ。男前に撮ってくれよ、木田。理知的に、ハンサムにな。あ、フラッシュは焚くなよ」 デジタルに色補正してくれる携帯の場合、多少暗くてもフラッシュを焚かない方が綺麗な写真が取れる。 俺は気取ってデスクに肘を付いた。それから気がつき、白衣の裾をさばいて皺を伸ばす。もう一度ポーズを決めて木田を見上げると、カシャリと小気味良い音がして撮影が終わった。 美香ちゃんの手を経由して戻ってきた携帯画面には、頭良さげなナイスガイがばっちり写っている。俺はにやにやしながら画像を添付したメールを作り始めた。 「バッカじゃないの?あんたいつも彼女に自分の写真送りつけてんの?もしかして奈賀ってナルシスト?」 下手糞と罵られたのが気に入らないのか、美香ちゃんが攻撃を仕掛けてくる。俺は忙しく指先を動かしながら応えた。 「ちげーよ。いいか、この写真にはな、『今夜、お医者さんごっこをしよう』ってメッセージをつけて送るんだ」 「ウソォ。何それっ」 「げぇっ、奈賀、やらしーっ」 美香ちゃんが興奮して足をばたばたと踏み鳴らす。木田も男の癖にほんのり頬を赤らめた。小柄で大人しい男だが、童貞なのかもしれない。 俺は胸を張る。 「おお。俺はやらしいとも。男だからな」 「清潔そうな顔してそういう事言わないで〜」 美香ちゃんがぐったりと椅子に座り込んだ。 俺は送信の終わった携帯をポケットに収め、立ち上がる。 「さて。生協で新しい白衣買っていこうっと」 「キバりますね、奈賀ドクター」 「試薬のシミのついた白衣じゃ興ざめだからな」 汚れた白衣を脱ぎ捨て、荷物をまとめる。ロッカーに上着を取りに行きながら、俺はどんな『診察』をしようか考えた。最高に気持ちいい治療をしなくてはならない。桑原とはこの間辰昭の事で喧嘩したっきり、まだちゃんと仲直りをしていないのだ。 家に帰ると桑原が夕食の支度をして待っていた。少し伸びすぎの感がある明太子スパゲティにたっぷり黒胡椒のふられたステーキにご飯。滅茶苦茶な組み合わせだが俺の好物ばかりだし、食い盛りの胃袋にはノープロブレムだ。 なにより桑原が俺の為を思って作ってくれたのが嬉しい。 鞄を放り出し、早速食卓に着く。 食事中はふたりとも無口だった。つけっぱなしのテレビからニュースの音が流れているだけ。いつもこぼれる軽口も出てこない。 ふたりとも仲直りする隙を窺っている。どんなに愛し合っていても『ごめんなさい』の一言を発するのは意外に難しい。別に言いたくない訳じゃないが、上手いタイミングを捕まえないと口から出てきてくれないのだ。 無言のうちに食事は終わり、俺は洗い物を始めた。飯を作らなかった方が後片づけをするのは、二人の間の暗黙の了解ってヤツだ。桑原が風呂に入るのを横目で眺め、俺は手早く洗った食器を乾燥籠に放り込んだ。風呂の様子を窺いながら桑原の仕事部屋をのぞく。 仕事あるとつけっぱなしにされる筈のパソコンの電源が、落ちている。予定通り「お医者さんごっこ」ができそうだ。 桑原と入れ替わりに風呂が入る。浴室にはまだかすかに桑原の体臭が残っていた。 新品の白衣を羽織って寝室に行く。 桑原はベッドに腰掛けて待っていた。きちんとパジャマを着ている。俺もワイシャツにネクタイの重装備だ。いつもは自然乾燥させる髪もきちんとドライヤーで乾かした。 折り畳み式の椅子を桑原の前に置き、座る。 しばらくふたりとも黙っていた。 桑原は落ち着かない。後ろめたそうに足下ばかりを眺めている。その様子に苦笑し、俺はごっこ遊びの口火を切った。 「さて。今日はどうしました?」 すっと桑原の視線が上がる。上目遣いに見つめられて、俺はいかにもドクター然とした笑みを浮かべた。右手で眼鏡の位置を直す。 「どこが悪いんですか? 喉?お腹?……それとも、ソコ?」 意味ありげに視線を落とすと、桑原がごくりと喉を鳴らした。 桑原はこういう遊びに慣れていない。気恥ずかしげに俯いてしまう。だが逡巡した後、腕がゆっくり上がり左胸の上を掴んだ。 「ここが、痛い」 心臓が。 きしりと、俺のハートも痛む。 「それはいけませんね。原因に心当たりは?」 「ある。下らない事で癇癪を起こして……やつあたりした。悪かった」 「桑原、それじゃお医者さんごっこになんねーよ」 俺は歪んだ笑みを浮かべた。 「いや、でも、一番に言わなきゃいけないことだ。俺の我が儘でおまえに余計な負担をかけて、すまないと思っている。でも」 「家族も大事にしたいんだよな、桑原は。分かっている。そんな顔しなくても大丈夫だよ。俺、最近好き勝手やってるだろう? 桑原が心配するほどいじけてなんかない。俺も悪ふざけしすぎて悪かった。だから、なぁ、そんな事よりココの診察、させろよ」 俺は椅子から床に降りた。桑原の足下に跪き、パジャマのズボンの前を引っ張る。肌触りの良いパイル地のパジャマは無抵抗に伸びた。桑原の協力の下俺はズボンと下着をずりおろし、桑原の性器を露わにする。 「触診、しますね」 俺はまだ柔らかいそれを、優しく手で包む。敏感だと分かっている部分を指で辿る。触れるか触れないかの微妙なタッチに、桑原の溜息が漏れる。びくっと内股が震え、ペニスが力を持ち始めた。 「どうですか? 痛いところはありませんか?」 「な……い……」 「じゃあ、ここはどうですか?」 割れ目にきゅっと爪を立てる。 「はっ……!」 思わず、といった風に桑原の手が肩を掴んだ。強すぎる握力に、俺はわずかに眉を顰める。 「診察の邪魔をしたらダメですよ」 俺はしげしげと桑原を見つめた。いつ見ても見事な一物だ。見ているだけで、興奮する。 思わず舌を伸ばして、舐めた。 「!!」 桑原が呻く。 ペニスもぐんと大きさを増す。 もっと舐めてやろうと口を開いた所で、桑原に邪魔をされた。ベッドの上に引きずり上げられ、のしかかられる。 「ちょっと!診察の邪魔すんなってば!」 「俺にも診察させてくれよ。ドクター」 俺の上に跨った桑原が、両手首をシーツに縫いつける。手慣れた様子に俺は歯噛みする。腕力で言う事をきかせようとするとは、狡い。 桑原はそのまま上半身を丸め、俺の胸元に口を寄せた。ワイシャツの上から俺の小さな突起を唇で挟む。 舌先で嬲られて、俺は怒った。ソコは俺の弱点なのだ。 「この不良患者!」 桑原は答えない。 うううと唸る俺の胸元をしつこく桑原が攻める。濡れた生地に風があたるとすうっと冷えて、俺の躯が震える。何故だろう。直に舐められるより感じた。 白衣の中で躯を捩る。 「だ、ダメだっつってんだろ……」 「大丈夫、大丈夫。さ、諦めろ、ドクター」 いつの間にか立場が逆になってしまった。 俺は楽しそうに俺の躯に悪戯する桑原を睨み上げ、躯の力を抜いた。陥落したと知った桑原が、抵抗を封じるために使っていた両手を別の作業に使い始める。 きっちり結ばれていたネクタイの結び目に指をつっこんで解き、ボタンを外して。 キスされたら眼鏡がずれた。 真新しい白衣はもうくしゃくしゃだ。二の腕までずり下がり、俺の躯にかろうじてまとわりついている。 「くそう。診察するのも注射をするのも医者の役目なのに……」 毒づく俺を見下ろし、桑原が今日初めて笑った。 おわり 2004.11/26 |