髪/奈賀視点

 授業の後、家庭教師のバイトをやっつけて帰宅すると、もう限界だった。
 昨日夜更かししたのが祟っている。眠いし、ふらふらする。
 こころもち、腰がイタイ。
 不快だ、と眉を顰めてみるが、口元がだらしなく緩むのを止められない。
 最近桑原は仕事が忙しくて作業部屋にこもってばかりいる。俺も学校やらつきあいやらが忙しくてなかなかタイミングがあわない生活が続いていた。
 しかし、俺もヤツも若いオトコだ。そうそう禁欲的な生活はしていられない。しかも久々だと必然的に激しくなっちゃう訳で。
「あーっ、くっそ。腰いてー。今日は文句言ってやらなきゃなー」
 誰もいないのに、俺は照れ隠しを呟いた。
 もうすっかり暗くなった夜空を眺めながら、俺たちの愛の巣へ急ぐ。
 ドアを開けると、見知らぬ靴が目に付いた。辰昭や仁のものではない。女物だ。
 誰だろう。
 この部屋を訪れるのはあのクソ煩い小姑がほとんどだ。他に桑原の仕事関係で客が来ることがあるが、それはごくまれだった。
 まさか新たな桑原の親族じゃあなかろうなと思いつつ脱いだスニーカーをきちんと揃え、俺は居間へ通じる廊下を進んだ。軽くノックしてからドアを開ける。
 部屋には髪の長い女がいた。
 桑原と向かいあってコタツに座っている。
 コタツの上には訳の分からないメモや桑原の作品のプリントアウトが乗っていた。どうやら仕事の打ち合わせが正解のようだ。
 振り向いた女に会釈をした俺は、ふわふわしたファーのついたコートが丸めて床に置いてあるのに気がついて凍りついた。
 最近掃除機をかけた記憶がない。
「こんにちは、いらっしゃい。あの、コート、ハンガーにかけましょう」
 慌てて女のコートに手を伸ばすと、桑原がしまったという顔をした。気の利かない男だ。
「あら、ありがとう」
 女が躯を捻って振り向き、顔が見えた。
 綺麗な女だ。くっきり引かれた眉にぬめる唇。青みがかったマスカラ。
 近くで見ると髪も青みを帯びている。基本的には黒なのだが、光の加減で群青がかって見えるのだ。腰まで伸びた髪は量も多く、健康的につやつやと輝いている。
 こういう髪をした女は嫌いだ。
 細心の注意を払い、髪を綺麗に手入れして。男を誘っているのだ。
 男を。……桑原を。
 そこまで考え、俺は唇の端を歪めた。
 他人の事は言えない。俺も同じだ。女みたいな手間暇はかけないが、いつもどう見られるか意識している。女々しいことこの上ない。
 女のロングコートは驚くほど軽かった。ぬめるような手触りにカシミアだと知れる。ハンガーにかけながら、さりげなくくっついてしまった髪の毛を摘み取る。鴨居に下げて振り返ると、女はさっきと同じ姿勢のまま、俺をまっすぐに見詰めていた。
 その視線の強さにひるむ。
「ええと、奈賀。こちらY社の編集の平沼さんだ」
「どうも、同居人の奈賀です」
 戸惑いながら軽く頭を下げると、女がにいっと笑った。
「こんにちわ。あなた、どこかで見た事あると思ったら、彼の絵のモデルさんね?」
「え」
「本物も綺麗なのね。絵になるわ。今、新しい画集の準備をしているのだけど、今回は趣向を変えて絵だけじゃなくKUWABARA自身の内面も目玉にしたいと思っているの。ほら、雑誌の対談みたいな形で露出して。KUWABARAとモデルの対話なんて、素敵じゃないかしら? 彼の写真も載せたいわ。どう?」
 後半は桑原に向かっての問いかけだった。
 俺は思いがけない話に反応できず、桑原に視線を走らせた。
 モデルと言っても桑原が勝手に書いているだけだ。ポーズをとったり、モデルらしいことをしたことはない。喋るネタはないが、桑原がそうして欲しいのなら、別につきあっても構わない。
 だが桑原はあっさりと拒否した。
「だめだ」
「どうして? もちろんギャラも払うわよ」
「コイツを外に出すつもりはない。絶対だめ」
 俺だけのものだから。
 そう言われた気がして、俺はにんまりした。
 女がつまらなそうに溜息をつく。
「残念だわ」
「大体俺なんか出さなくて良いよ。絵だけで」
「イヤよ。せっかく良い男なのに、出さない手はないわ」
 揉めている二人を後に、俺は自室へ下がった。バッグを放り投げ、ベッドの上にダイブする。
 そういえば桑原の描く『男性』は全部同じ顔をしている。眼鏡を掛けたり外したり、幼くなったり日に焼けたり変化するけれど、顔は全部同じ。俺だ。
 男に関しては、桑原は俺専属の絵描きなのだ。
 そんなことを思い出したら、髪の長い女のことなど、どうでも良くなった。
 ごそごそと寝心地の良い姿勢を探し、目を閉じる。
 睡魔は速やかに訪れた。
 仮眠の後には激しい運動が待っている。

おわり 2004.12/2

ヤマもオチもないですね。不発。

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