保健室/海也視点 「どーも、初めまして。奈賀です」 玄関口で頭を下げる男の姿に、俺は絶句した。 本当に逃げやがった。 そんな柄の悪いフレーズが頭の中をぐるぐる廻る。 強引な展開に母さんもどうしたらいいのか分からないようだ。困ったように俺に目をやると、とりあえず上がってと、男を居間に通した。 本来だったらこの時間、ここに来るのは甲斐さんの筈だった。 甲斐政文。二十一歳の理系大学生。母さんが見つけてきた、俺の家庭教師。 まあ、そもそもは母さんがバカだったのだと思う。センターとか適当な企業を通せばいいものを、自分の知り合いのつてを辿って家庭教師を捜した。結果見つかった家庭教師は所謂ご近所さんで、しかも弟が俺と同じ高校の生徒だった。 俺の噂なんて、簡単に耳に入る環境の人間だ。 電話が鳴ったのはついさっき、約束の時間の三十分前だ。雑音だらけの携帯電話を通じ、甲斐さんはもう家庭教師は出来ないと一方的に言い出した。そして代わりに『スバラシイ家庭教師』を寄越すと無責任な事を言い放った。 ありえない。なんて非常識な男だ。 そして身代わりの生け贄が目の前にいる。 奈賀と名乗る目の前の男は何も知らないのだろう。ソファに座って、母さんが淹れたお茶を飲んでいる。 俺は向かい合う一人掛けのソファに腰掛け、奈賀を無遠慮に観察した。 かなり背の高い俺より頭一つ分ちょい、小さい。多分175cmくらい。太っても痩せてもいない、均整の取れた体格をしている。 ジーンズに薄手のニットという、如何にも大学生っぽい格好だ。ブイネックの襟元から鎖骨がくっきり浮き出している。バッグは最近人気のあるブランド品。中華風のドラゴンの刺繍がやけに目立つ。 そして顔。眼鏡のせいかちょっと冷たい雰囲気があるが、テレビや雑誌以外では見たことがないくらい綺麗な男だった。愛想笑いを浮かべている唇も細められた焦げ茶の瞳も完璧な形状をしている。 甲斐は一体どういうつもりでこの男を寄越したのだろうか。 本当に人身御供なのかなどと不埒な事を考え、俺は思わずぶるっと躯を震わせた。 「あのう、奈賀さんはウチのこと、甲斐さんからどんな風に聞いていらっしゃるのかしら?」 母さんが落ち着き無くエプロンを探りながら聞く。奈賀はちらりと俺を見た。 「ええと、そうですね。高校二年生の理系大学受験志望の男子生徒を教えるのが仕事だと、聞いています。ただし、教えるのは教科全般で理系に留まらないと。甲斐は文系教科が苦手でちょっとあわなかったとの事でしたが…」 「別に。そんな事が理由で逃げたんじゃねーよ、あいつは」 「…逃げた?」 奈賀が怪訝そうに首を傾げた。 くそっ。 俺の膝を母さんが素早く叩く。 「あんたは黙っていなさい。あの、甲斐さんがおっしゃったのはそれで全部かしら?」 「そう…ですね。海也君の成績がかなり良い方だというのも聞いています。このまま頑張れれば志望校にも順当に受かるのではないかと。ですが、その前に……大検受験の可能性もあるかもしれない、とも聞きました」 母さんがぐっと顎を引く。 「この子がまともに高校に行っていないことはではご存知なんですね」 「……伺っています。でも登校はされていると」 少し言いにくそうに奈賀が微笑む。俺はすかさず口を挟んだ。 「保健室に、だけどな」 また母さんに膝をぶたれた。 「そこまでご存知なら結構です。この子をよろしくお願いします。正直、甲斐さんに突然一方的に家庭教師を辞めたいと言われて困っていたんです。いきなり辞めるようなことだけはしないでくださいね」 母さんが深々と頭を下げる。 馬鹿馬鹿しい。 俺は冷めた目で奈賀を眺める。 本当に母さんはバカだ。おしつけられた身代わりを、ハイそうですかと受け入れるなんてお人好しも良いところだ。 それに噂を聞いたらこいつだって逃げ出すに決まっている。家庭教師なんてつけようとする事自体、安直で間違っているのだ。 …そりゃ母さんが俺のこと心配する気持ちも分かるけど。 なんだか虚しくなって、俺はわざと混ぜ返した。 「この子って、俺はガキじゃねーんだぞっ」 「ほら、お部屋にご案内しなさいっ。あ、今日からで宜しいんですよね?」 「ええ、よろしく、海也くん。いままでの成績表とかテストとか、見せて貰えるかな」 狭苦しい廊下に出てすぐ右手の扉、そこが俺の部屋だ。 俺は先に立って部屋に入ると、客が来たときだけ出す折り畳み式の椅子をひっぱりだした。 奈賀は部屋の真ん中に立って見回している。セミダブルのベッド──普通サイズのベッドは俺には小さい──、小学生の頃から使っている学習机、南向きの窓がぐるりを取り巻いている。ごついエレクターの棚の上には大事なバスケットボールやシューズ、ユニフォームが綺麗に並んでいる。 どれも使わなくなって、久しい。 ちゃんと学校に通っていた頃は、バスケが俺の生活の全てだった。俺はかなり身長があったから、試合にも結構出して貰えた。朝練に午後練。試合帰りに打ち上げと称し皆で寄る「みしま」のたこ焼きは最高にうまい。むかつく先輩もいたけど良い奴の方が多くて、何もかもが楽しかった。 思いっきり躯を動かす快感。 上手くセットプレーをこなせた時の、爽快感。それらを忘れられない。 でも、もう、あそこに帰ることはできない。 今でも恋しくてたまらない全てを、俺は不用意な一言で捨ててしまったんだ。 俺はどすんと自分の椅子に腰を掛けると、不格好な椅子を叩いた。 「センセ、座れば?」 奈賀はバッグを足下に置いて座った。机の上に成績表を広げる俺に躯を寄せる。仄かに良い匂いがする。男の癖に香水でもつけているみたいだ。 「へえ。本当に成績良いなー。授業には出ていないんだよね。勉強はどこまで進んでいる?」 乾燥してちょっと皮の剥けかけている唇を指先で触りながら奈賀が訊く。俺はぶっきらぼうに付箋の挟んでいる教科書を突きだした。 「おお偉い偉い。独学でちゃんとやってんだ。ほほう、結構進んでいるじゃん」 「俺、別にカテキョーなんていらねーの。あんたも辞めて構わないぜ」 「そうはいかない。甲斐から訊いている。勉強だけでなく、チューターとしての役割もお母さんに期待されているって」 「チューター?」 「まあ、生活指導みたいなコトをする人?」 奈賀はにいっと笑うと不意に机の上に伏せてあった写真立てを取り上げようとした。 反射的に手が出た。 俺は奈賀の手を叩くようにして上から押さえつけた。ぱき、と涼やかな音がして、写真を保護する硝子が割れる。 「おお、イタ」 奈賀がふざけた声をだす。俺は黙って奈賀を睨み付けた。 「あ、イヤだった? ゴメンねー。ところで手、痛いんだけど。離してくれない?」 俺は重なっていた掌をあげた。幾分小さめの手がするりと逃げていく。 厚みのあるフレームのお陰で、砕けた硝子は飛び散っていない。すぐに処理した方が良いのだろうが写真を見られるのがイヤで、俺はこれみよがしにその辺にあった本を伏せたままの写真立てに積み重ねた。 「ははは、そんなに見られたくないのか。気になるなあ」 「見るな」 なんだか母さんの前と性格が違う。 奈賀は肘を突くと、更に俺に顔を寄せてきた。 「なぁ、甲斐が逃げたって、どういう事?」 カテキョーっぽく、ない。まるでうわさ話好きの女の子のようだ。 俺はむっつりと奈賀を睨み返した。 俺は躯がデカイ上にちょっと吊り目がちで印象がキツイらしい。つまり、「怖い」と、よく言われる。だが奈賀に怯む様子は全くなかった。 「なあ、教えろよ。今後の参考にさ」 にやにや笑う奈賀から顔を背ける。 「言葉通りの意味だよ。おまえ甲斐センセーにハメられたんだ。あいつ、俺のカテキョーやりたくなくて、あんたに押しつけたんだ」 「なんでよ? 海也くん、そんなタチ悪そうな悪ガキに見えないけど。救いようもないバカでもないし」 俺は逡巡した。あんまり知られたくない話だが、遅かれ早かれこの男の耳にも入る。親しくなってから 甲斐みたいに逃げられたら……それはそれで辛い。 「…………俺が、──だから……」 ぼそぼそと言うと、奈賀が大声で聞き返した。 「え!?ナニ!?」 しかも顔をのぞき込もうとするから、ますます躯が密着する。ふわんとまたあの匂いが鼻をくすぐり、俺は焦った。 「俺が、ホモだからっ!」 「えっ!?」 奈賀の動きが止まった。 俺は冷たい反応を予期し、歯を食いしばった。 前回授業に訪れた甲斐は、俺の躯に極力触れないようにしていた。ちょっと動くだけでもびくりと反応し……ぎこちない会話が、痛かった。 仲が良かった筈のクラスメートは聞こえよがしに悪口を言った。 部活に行ったら、シカトだ。 そして好きだったあいつは────俺から、逃げた。 嫌な思い出がぐるぐる廻る。 「ぷっ」 中でも奈賀の反応は、最悪だった。 耳元で吹き出され、俺は顔をしかめた。 「おまえ、ホモなの!? マジで!?男とセックスしたいとか考えてんの!? あっ。もしかして登校拒否もそのせい!?」 ゲラゲラと、笑い転げる。 笑い事ではないのに。 直截な表現に、顔が熱くなる。 男とセックス? したいとも! だからこんなアホな事になったのだ。 好きだと、言ってしまったから──────。 ああ、くそっ。切ない。 「何笑ってんだよっ。そんなに可笑しいかよっ。襲うぞ、てめぇっ」 顔が熱い。きっと真っ赤になっている。ちょっと泣きそうだ。 腹立ち紛れに奈賀をどなりつける。 奈賀はそれでも全く俺を恐れなかった。笑いすぎ、椅子から転げ落ちそうになった躯を、俺の躯にすがりつくことで支えている。ありえない体勢だ。慣れないスキンシップに俺の躯が緊張する。 ゆっくり奈賀は笑いを納めた。 「あー、ごめんごめん、全然可笑しくないよ、うん。いやなんか甲斐の『おまえにぴったりのカテキョー先を紹介してやる』ってゆー台詞を思い出したらムショーに笑えてきちゃってさー。海也くんも、初々しくって可愛いし」 「何言ってんだ、おまえ。ばっかじゃねーのか!?」 奈賀の指が伸びてきて、俺は固まった。少し荒れてがさがさした指先が俺の目元をなぞる。 泣いてなんかいない。ちょっと潤んでしまっただけだ。 だけど触られて鼻の奥がつんと痛んだ。ちょっと、ヤバイ。 奈賀がにっこりと微笑む。 「あのさ、ココだけの話、俺もなんだ」 意味の見えない言葉に、俺は顔を顰めた。 「? 俺もって、何が」 奈賀がまた顔を寄せてきた。耳元にふっと息がかかる。心臓がどきりと跳ねる。 「ホモ」 俺はその単語の意味を考えた。会話の流れを反芻した。それでもやっぱり納得できなくて、奈賀の顔を見返したら、太股を撫でられた。 「………!?、ええええええ─────────────っ!?」 ありえない。 end 2005.2/19 |