リーマン/辰昭視点 兄貴は鮭が一番好きだけど、たまには蟹を買うのも良いかもしれない。生きているタラバガニを丸ごと一匹。焼いても良いし、鍋にしても良い。ビールで蟹。いいなあ。うまいだろうなああ。 課長の甲高い声を聞きながら、俺はそんな事を考えていた。今月の成績がどーのこーの 、ノルマがどーのこーのきゃんきゃん吠えているのをまじめに聞いていたら、ノイローゼになってしまう。適当に聞き流すのが社会生活を健康に過ごす秘訣だ。そうでないとこの会社ではやっていけない。 とはいえ、俺は置物になりきれるほどの大人物ではない。もやもやとした苛立ちが胸の底に堆積する。こいつを溜めすぎるとヤバい事になることを、俺は長年の経験で知っている。ガス抜きが必要だ。 俺は会社帰りにデパ地下に寄り、蟹を買った。シーズンは終わりかけだが、大きな毛蟹を仕入れる事が出来た。その後ディスカウントショップに寄る。 ぎっしり並んだ酒の種類の多さに目移りしながらゆっくり棚の間を物色して歩く。ビール以外あまり飲まない俺には酒の善し悪しはよく分からない。『売れています!』の札に薦められるまま黒糖焼酎を買う。ちょっと高いが、まあいいだろう。いつもビールを飲み荒らしているのだし。 買い物が終わった後もぶらぶらし、八時まで暇をつぶす。時計の針が十分程過ぎた所で携帯が鳴った。 仁からのメールだ。いとこ殿も仕事が終ったらしい。 電車に乗る。乗換駅で降りて、連絡通路に入ると、仁がベンチに座って待っていた。 「お疲れ」 「お疲れ様」 短い挨拶を交わしてホームに向かう。 仁が俺を穏やかな眼差しで見上げる。 「おまえ、仕事終るの俺よりずっと早いんだろう? 先に行けばいいのに」 なにもかも分かっているんだぞと言いたげな顔に、俺は動揺を押し隠す。 「……いや、蟹とか買ってたから。ほら、酒も」 重い袋を仁に示す。仁はそんな誤魔化しには目もくれない。 「まだ、奈賀君の事が苦手か?」 「そんなこと、あるわけないだろう。嫌いなだけだ」 こどもみたいだ。 自分で分かっている。 だが、分かっているからといって自然に振舞える訳ではない。 仁はくすりと笑うと俺の肩を叩いた。 「分かった分かった。兄さんのところには、さっき俺から連絡入れておいたから。今結構仕事が忙しいらしくて、奈賀君が出たけど」 「……あっそう」 自分で電話しなくて良かった。 向かいのホームでベルがけたたましく鳴る。大音量のアナウンス。ホームに滑り込んでくる電車。吐き出されてくる大量の人々。注意深く扉の脇に寄って人の流れをやりすごしてから電車に乗る。この路線はいつも混んでいる。 仁は手すりの際でうつむいている。やわらかい容貌はいつも微笑んでいるように受け取られがちで、今もそう見える。だが、仁の表情は必ずしも仁の内面をうつしていない。あたりは良いが分かりにくい男だ。 俺は仁の向かいに立ち、そばの男が読む新聞を盗み見る。 会話はない。仁とふたりきりの時はいつもこんなものだ。 手に提げた重い袋の中で蟹ががさりと音を立てる。 兄貴のマンションに着いたのは九時過ぎだった。 エレベーターを降り、砂っぽいコンクリの通路を進む。どこかから陽気で猥雑なヒットソングが聞こえてくる。夜遅いのにどんなバカが鳴らしているのだろう。 チャイムのボタンを押す。 いつもならかすかにベルの音が聞こえるのだが今日はまったく聞こえない。音楽のせいだろうかと二度三度押したが、やはり音はしなかった。 「チャイム、壊れているみたいだね」 仁がドアノブを掴む。鍵は掛かっていない。あっさり開いた扉の隙間から溢れてきた大音量の音楽に、俺は怯んだ。 軽薄な音楽の源は兄貴の部屋だったのだ。 くそ。 俺は無意識に顔をしかめる。こんな音楽は兄貴の趣味じゃない。 あいつだ。 奈賀が鳴らしているのだ。夜だと言うのに、なんて非常識なのだろう。兄貴がやっているのだと近所に思われたらたまらない。 俺は靴を脱いであがりこむ。しょっちゅう訪れる身内の家だ。まずいかもなんて欠片も思わなかった。 目の前には居間につながる廊下が伸びている。すぐ左手にはキッチンへの引き戸があったが、コンポが居間にあると知っている俺はまっすぐ奥へ向かった。 磨りガラスのはめこまれたドアを開けようとする。その手を、仁が押さえた。 「なに?」 「しっ」 細く平井と扉の向こう。仁の視線の先を辿ると、奈賀が、いた。兄貴の膝の上に。 俺は凍りついた。 兄貴はソファに浅く腰掛けている。よれた部屋着に顎を縁取る無精髭は、数日仕事部屋に閉じこもっていた証拠だ。その浅黒い髭のあたりを擦りながら、奈賀が喉を反らして笑っていた。ジーンズに包まれた膝がソファの背にぶつかっている。 音楽で何を言っているのかは分からない。 奈賀の唇が動いているのだけが見える。 と、不意に奈賀が兄貴の頭を掻き抱いた。そして兄貴の額に、キス、した。 無邪気な戯れに見えた。性的な意図は感じない。だが俺は、胸を差すような痛みを覚えた。 なにをしているのだ。このふたりは。 奈賀がまた何かを言う。続いてまた、落とされるキス。今度は鼻のてっぺんだ。 兄貴も上機嫌で笑っている。ソファの座面に遊んでいた手が持ち上がり、奈賀の腰に回った。しなやかな躯を引き寄せ、シャツの襟元を掻き分けるようにして胸元に唇を押しつける。髭があたったのだろう。奈賀がそっくり返って笑った。 くすぐられた、子供のように。 俺は動けない。 仁の手が俺の拳の上からドアを押さえている。俺の手はどうしてだか細かく震えている。戸惑って仁を見ると、仁は薄い微笑を浮かべ、熱心に室内を覗き見ていた。 「奈賀君も残酷ないたずらをする」 柔らかな声が俺の耳朶を撫でる。 残酷? どういう、意味だ?? その時、ふざけていた奈賀の目が不意にこちらへ流れた。視線と視線がぶつかったのがはっきりわかった。 覗き見に気づかれたのだ。 顔に熱が昇る。 奈賀の笑顔に意地の悪い色が混じる。目を細め、見せ付けるようにして、今度は兄貴の唇めがけ奈賀が身を屈めた。ゆっくりと奈賀の薄い唇が、兄貴の唇に近づく。 最後まで見ることはできなかった。 添えられた仁の手に力が篭り、扉は静かに閉まった。 「キッチンへ行こうか。蟹が死んでしまう前に調理したいし」 廊下を戻って、キッチンへ通じる引き戸を開ける。ありがたいことにキッチンと居間を結ぶ戸は閉まっていた。 仁が鍋を引っ張り出す。俺は冷蔵庫からビールを取りだし、スツールに座り込む。 澱が。 投げ込まれた大石に掻き乱され、舞い上がる。 背中を丸めてビールを喉に流し込む。爽快感を与えてくれるはずの液体はやけに苦い。 仁は袋からまだ泡を吹いている蟹を取り出すと鍋に投げ込んだ。 続いて冷蔵庫を物色して見つけたネギを刻み出す。 「辰昭。あんまり奈賀君に拘らない方が良いぞ」 「……」 言い返す、気力もない。 兄貴は子供の頃から普通の人とどこか違った。 自分のやりたいことをちゃんと知っていて、他人の目を気にしない。 進路も。 皆によってたかって四年制大学へ行けと言われていたのに、揺らぐことなく専門学校へ行ってしまった。 絵、なんて。 つぶしはきかないし。大成しなきゃ喰えるかどうかさえ分からない分野だ。母さんや親戚のオバさんは、兄貴のことを夢ばかり見ているバカだと言った。 だけど今、兄貴はちゃんと絵で喰っている。画集も出したし個展もちょくちょく開いて名前も売れている。稼ぎだって悪くない。 誰にへつらうことなく、自分のペースで仕事をして。 ……………………俺みたいな、何の取り柄もないサラリーマンとは全然違う。 俺は傍にあった戸棚に頭をもたれかけさせた。 兄貴は、恋人まで普通とは違う。 ホモという単語自体に嫌悪感は感じない。そういう人間がいても別にいい。それくらいの認識だった。いままでは。 だが現実に身内がそうだとなると、理不尽なくらいイヤだ。 だって男だ、男。 柔らかい胸もない、子供を育む子宮もない、ありふれた、男。そんなものを好きになる兄貴の気持ちが分からない。 だけど。 幸せそうだった。 嬉しそうにじゃれていた。 一瞬だけ。 綺麗だと思った。しなやかな骨格、伏せた瞼、端正な造形。官能的な唇。 その事がどうしようもなく胸の内を掻き乱す。 濁る。 濁って、真っ黒に。 もう澱なんていう問題じゃない。 「なんだ、来ていたのか」 からりと引き戸を引き、兄貴が顔を出した。覗かれたことに気付いていないのか、平気な顔をしている。 俺は兄貴の顔を見られない。不自然に俯いて、床を睨み付ける。 顔が熱い。きっと耳たぶまで赤くなっている。 仁が知らぬげに言う。 「チャイム、壊れているみたいだよ」 「いや、あれはさっき奈賀が電池を替えたんだ。なんだちゃんと元通りにしなかったのか。直しておくよ」 ということは、計画的犯行か。俺はずびずびとビールを啜る。口の中で炭酸が弾けるのがうざい。 仁が刻んだ野菜をフライパンに流し込む。 「今日は辰昭さんが蟹買ってくれたから、今茹でている」 「そうか。いつもありがとう、辰昭」 からからと引き戸の閉まる音がする。兄貴の気配がキッチンから消える。 仁が呆れたような声で言った。 「辰昭。彼女でも作れ。いつまでもおにーちゃんおにーちゃん言っているな。また合コン組んでやるから」 「……仁の連れてくる女はブスばっかりだ」 気が乗らなくて言い返すと、仁は本気で気分を害したようだった。 「そんなことないだろう。普通に可愛いじゃないか。大体おまえは身の程知らずなんだよ。手に入らないようなものばっかり欲しがって。特に、兄さんのものばかり」 そうだったろうか? ……そんな気がしなくもない。特に、こどものころ。 だが別に今はそんなことはないし。 「……そうかな?」 奥の部屋から奈賀の笑い声が聞こえた。 end 2005.3/10 |