女装/阿井視点


 奈賀は幸せだ。
 此処に来る度、そう思う。

 炬燵の中で足を蹴られながら、俺は正面に座る奈賀を恨めしげに睨んだ。
 此処は奈賀が恋人と暮らすマンションの一室だ。散らかり気味のリビングの中央には暖かな炬燵が据えられている。今はエアコンから流れてくる暖かな風が髪を梳いているが、基本的にこの部屋は暖かい。給湯設備の関係らしい。
 奥の部屋に続く扉は少し開いている。桑原さんがいるのだ。
 俺が来た時、扉を開いてくれたのは桑原さんだった。俺は少し驚いた。桑原さんは俺をあまり好いていない。それを奈賀も分かっている。だから奈賀に遊びに来いよと誘われた時、俺はてっきり桑原さんは留守なのだろうと独り合点していた。
 桑原さんは不機嫌な顔で俺を招き入れると、仕事場である奥の部屋へ消えてしまった。その際扉を開いたままにしたのは、俺を信用していないからであろう。桑原さんは俺と奈賀の仲を疑っている。
 姿は見えなくとも、なんとなく居心地が悪い。
「あのさあ」
 後ろ手で躯を支えながらテレビのリモコンを弄っていた奈賀が、上の空で返事をする。
「んー?」
「俺さあ、やっぱり帰ろうか」
「あ? 何言ってんだ。茶菓子がたりねーのか?」
「そうじゃなくてさあ」
 俺は物言いたげに奥の部屋に視線をやる。つられて背後の扉を振り返った奈賀にも、俺の言いたい事は伝わったらしい。
「桑原の事は気にしなくていーぞ。仕事が詰まっているらしいから」
 そんな社交辞令を、俺は信じない。
「でも俺、お邪魔するのは、やっぱり」
「ばーか。そんな事言ってたら会えねーんだよ。あいつ、うるさいから。いいトシこいて嫉妬深くてホント困るぜ。目の届くトコロで会う分にはいいってあいつが言ったから呼んだの。だからいんだよ。なあ、帰るなよ、阿井。俺、おまえに会いたくてたまらなかったんだぜ?」
 ぎゃー。また。
 聞こえると分かっていて、俺が桑原さんに嫌われるような嘘を言うのはやめて欲しい。
 俺がむっとして炬燵の中で足を蹴ると、奈賀はゲラゲラ笑った。
「まあ、それはともかく。バレンタイン、どーすんのおまえ」
 反っくり返っていた躯を起こし、奈賀が炬燵に肘を突く。炬燵の上には小さな籠がおいてあって、小さめの蜜柑が山と積まれている。俺は急に興味でもあるかのように、それをしげしげと眺めた。
「……別に」
「別に、じゃないだろ。あいつになんか、やらねーの?」
「俺は女の子じゃないし。てゆか、奈賀何考えてんの? 俺があのひとにチョコ贈るとか、考えている? やらないよ、そんな恥ずかしいこと!」
 本当に、バレンタインに何かやろうなんて、考えていなかった。アレは女の子の為のイベント。俺の頭の中ではそう分類されていたからだ。
 だが奈賀はそうではなかったらしい。
「なんで。いいじゃん。外国では、お世話になった人とかにカードとかお花とか贈るらしいよ。今更カードとか花やれとは思わないけどさあ、なんかしたらいいんじゃん? 折角のイベントなんだし。おまえ、遠距離恋愛じゃん。最近あいつと会ったりしてんの?」
「う……」
 俺の視線は宙を漂う。正月には、会った。彼が、帰省していたから。
 帰省と言うより、彼はほとんど俺の部屋で過ごしたのだけど。
 それが、最後。もう一ヶ月会っていない。でも仕方がないと思う。彼だって忙しいんだし。
「だったら尚更。バレンタインにかこつけて、会いに行ったらいいんじゃね? 大体、バレンタインに奴を野放しにしておくなんて危険だぜ。あいつの事だからたんまりチョコレートもらうだろうし?」
「うう」
 俺は頭を抱えた。
 それは確かに心配だった。彼はカッコイイし、高校時代からよくモテたのだ!
 それに今は、大学サッカーのスーパールーキー。
 彼が入学した時にはちょっと強いかな程度だったチームは、最近めきめきと順位を上げている。俺の大学でも、強い選手は大学を挙げてヒーロー扱いされているし、彼もきっと、ちやほやされているに違いないのだ。
 地味で男で、しかも滅多に会えない俺なんて忘れてしまっているかもしれない。
 ごつん、と額が炬燵板にあたる。
 本格的に炬燵に懐いてしまった俺の頭を、奈賀が撫でた。
「落ち込むぐらいなら、行けよ。でもってあいつがメロメロになるくらい、いっぱいサービスして来りゃいーじゃん」
「でも……。俺、プレゼントなんて考えられないし」
「バカだなあ! いーじゃん。『プレゼントは俺』で!」
 今度は別の意味で俺は炬燵に懐きまくった。
「いや本当に、あいつ喜ぶと思うぜ。ついでにセーラー服とか着てみねえ? 俺がさあ、可愛い下着まで見立ててやるから!」
 奈賀はやたらはしゃいでいる。炬燵の天板に描かれた木目を眺めながら、俺はもしかしたらこれが奈賀が俺に会いたがった理由なのではないかと思った。俺を玩具にしたいのだ。
 しかし、もちろん奈賀の玩具にされるわけにはいかない。とんでもない事になる。
「何言ってんの。冗談にも程があるよ。俺がセーラー服なんか着て、似合うわけないだろ。彼だって、きっと嫌だよ」
「いやあ、阿井は線が細くて目も大きい乙女顔だから似合うと思うぜ。それにセーラー服は男のロマンだからな。恋人がセーラー服で遠方から会いに来てくれたらもう、感激のあまり駅前のホテルに連れ込まれちゃうかもよ」
 俺は両手で炬燵を掴み躯を支え、両足でがしがしと奈賀を蹴りまくった。
「ふざけんな! 何が男のロマンだ! じゃあ奈賀は桑原さんがセーラー服着てくれたら嬉しいとか思うのかよ!」
 俺の攻撃を避け、炬燵の外に待避しかかっていた奈賀が、いきなり炬燵に両手をつき身を乗り出した。
「燃えるね!」
 鼻息が荒い。端正で上品な顔立ちをしている奈賀の興奮しまくった様子に、俺はあっけにとられた。
「スカート丈は膝丈で! タイじゃなくてリボンが良いね! こう、押し倒して、しゅるっとリボンを解いてさ、スカートの裾からじわりじわりと手を入れて攻めたいね!」
 乱暴な音を立て、奈賀の背後の扉が開いた。桑原さんが熊さんのマグカップを片手に、無表情に仁王立ちしている。その迫力に、俺は竦み上がった。
 桑原さんはじろりと俺達を睥睨し、無言のままキッチンに向かって歩き出した。奈賀の横を通り様、ひょいと手を上げ丁度良い位置にある頭を叩く。
「いてっ!」
 べしっと、かなり痛そうな音がした。俺も思わず首を竦めたが、桑原さんは俺には何もせずキッチンへと消えた。
「んだよっ。本当のこと言っただけじゃんっ。ずりーぞ自分ばっか愉しんでさ。今度ヤらせろよな!」
 奈賀が頭を抱えたまま、姿の見えない恋人に怒鳴る。その内容の恐ろしさに、俺は倒れそうになった。
 自分ばっか愉しんでって……。
 深読みのしすぎだと、俺は頭を振る。だけど、此処にいるのは、奈賀だ。ありえない話ではない。
「奈賀、まさかとは思うけど……着たの?」
「あ? うん。記念写真、見る? ちょっとエロいけど」
 俺はそのまま横様に倒れた。炬燵布団で顔を覆う。
 着たのか!
「今、コーコーセーの家庭教師バイトでしていてさ。そのツテで本物のセーラー服手に入れたんだ。で、桑原が出かけている間にそれ着てさ、おかえりなさいって迎えた訳。もうもう、お互いに燃えて燃えてすごかったね! まず玄関で立ったまま一発だろ。それから寝室で、脱がないまま痴漢ごっこしてさあ〜。最後は騎乗位よ。桑原がもう獣みたいにさあ…」
 引き戸の軋む音がした。
 振り向く間もなかった。湯気の立つマグカップを片手に持った桑原さんが、恐ろしい勢いで俺の横を通り抜けた。奈賀の頭にげんこつをくらわせる。
 さっきよりもっと大きな音がした。
 頭を抱え転がる奈賀の躯を、桑原さんが更に蹴った。
「余計な事を話すな!」
 その顔が真っ赤に染まっている。
 奈賀に制裁を加え終わると、桑原さんは俺には一瞥も与えず、風のようにまた自室へ消えてしまった。
 俺は最初から最後まで、ぽかんと口を開けたまま傍観していた。
「いいい、痛い……」
 奈賀が呻いている。あの巨体に暴行を受けたら、それは痛いだろう。
 しかし奈賀は全くめげていなかった。炬燵によじ登りながら、途切れ途切れに続ける。
「……とにかく、そう言う訳でセーラー服は、あるから。ちゃんとクリーニングしてあるから汚くねーよ。あと、えっちな下着は通販カタログ持っているからすぐ手配できる。それはお餞別に俺がプレゼントしてやるから心配しなくていい」
「心配とか、そういう問題じゃなくて」
 俺はなんだか疲れてしまってきていた。
 可愛い下着がいつの間にかえっちな下着に変わっているし。
「とにかく俺はそんなの着る気、ないから。彼も喜ばないと思うし、奈賀と違って、似合わないから」
「……強情だな〜。似合うと思うから勧めてやってんのに」
「強情はそっちだよ」
 俺はそっけなくテレビに目を移す。古い白黒映画。途中から眺めてもどういう話なのかさっぱり分からない。
 奈賀はしばらく考え込んでいたが、やがてその唇に不穏な笑みを浮かべた。
「分かった。じゃあ、あいつの意見も聞いてみよう」
 あいつ?
 あいつって、誰だ?
 危険を察知して振り返った俺の目の前で、奈賀は既に携帯電話を耳に当てていた。奪い取ろうと飛びつく俺を、殆ど突き飛ばすようにして避ける。そして無様に転んだ俺の背中を、踏んだ。本当に体重を掛けて思いっきり踏まれ、俺は亀の子のようにばたついた。
 抜け出すことができない。
 やがて相手が電話に出たようだ。奈賀が喋り始めた。
「よう、久しぶり。ちょっとさあ、聞きたいんだけど、阿井がセーラー服着るのって、どう思う? 燃えね?」
「わー!誰と話しているんだよ、奈賀!ばかっ!」
「ん?ああ、阿井は此処にいるけど、俺は別に何もしてねーぜ。……いやいやいや、変な嫉妬すんなよ。俺がじゃなくておめーの話だよ。もし見たいってゆーんならバレンタインにS女の制服着せて大阪に送り出してやろうかななんてさあ。……そうそう。……うん、だろ?」
 だろ?
 なにが、だろ?
 てゆか、相手は誰だ?
 ほぼ見えている回答に、俺の頭が拒否反応を示す。
 奈賀の足の下から抜け出そうと、俺はカーペットを掻きむしった。
「で、餞別にえっちな下着も用意してやろうと思ってんだけどさ、どんなのがいい? Tバック?」
「ぎゃー!」
 なんで奈賀ってこんなに綺麗な顔をしているのに、下品なんだろ。
 すぐ後ろで交わされる会話を阻止できず、俺は段々涙目になってきた。
 彼がいやだと言ってくれればいい。そう思うものの、状況は絶望的だ。
 疲れて段々ぐったりとしてきた俺の耳元に、携帯が突きつけられた。
「阿井、ちょっと聞いて♪」
 聞きたくない。聞きたくないけれど。
 携帯から聞こえてきた声は、耳にするだけで胸が掻きむしられるように切なくなるあの人の声で、
「阿井、紐パンで頼むな。赤の。だけど、奈賀にはいている姿は見せるんじゃねーぞ」
と、言ったのだった。

end 2006.3/21

気がつけば、一年ぶりの更新でした。

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