女装2/阿井視点


 ぼんやりと窓の外を眺める。
 長く続くトンネルの中で、目に見えるのは暗い影ばかりだ。面白くもなんともない。
 目の前の強化ガラスには、にやけた男が映っている。大学生なのだろうか、ジーンズによれよれのシャツを合わせた冴えない男。新幹線が発車してからずっと話しかけてくる。俺を、女の子だと思っているのだ。大人しくて、煩いナンパに否と言えない内気な女の子だと。
 がつんと言ってやりたいのはやまやまだったが声を出せば流石に男だと分かる。女装しているのだと、分かってしまう。その方が恐ろしく、俺は黙りこくり窓の外を見つめ続けた。
 車内は満席。逃げ出す先もない。
 あの時みたいだ、と俺はふと思った。
 俺が恋に落ちた日。
 満員電車の中、躯を撫で回す手に暗い気持ちで耐えていた。あの時助けてくれたのは、今会いに行こうとしている恋人だった。
 不機嫌に引き結ばれていた俺の口元が、ふと緩む。だがそれはほんの一瞬だった。窓にうつる自分の唇が更に厳しく引き絞られ、やりきれない怒りに震える。
 あの時は、あんなに格好良かったのに。
 最低だ。
 俺に、こんな格好させるなんて。


 新幹線に乗る三時間前、俺は言われた通り奈賀の家を訪れた。
 扉を開けてくれたのは、また桑原さんだった。
 俺と会うときの桑原さんはいつも不機嫌を押し殺した無表情だ。でも、今日の機嫌の悪さは格別なようだった。唇をへの字にひんまげている。動作も乱暴で、ちょっと恐い。
 いつものようにリビングに通されると、炬燵に奈賀がいた。そしてもうひとり。スーツ姿の、みるからに長身の男が窮屈そうに長い足を折り曲げ炬燵に入っていた。
 見覚えのない姿に俺は立ち止まった。
 誰だろう?
 立ちつくす俺に、見知らぬ男が整った顔をほころばせる。
「やあ、久しぶり」
 え。
 知り合いであるかのような挨拶に、俺は戸惑った。男の顔をまじまじと見直す。やはり見覚えはない。
「どちらさま?」
 奈賀に聞くと、ぷっと吹き出した。
「まあ、普通はわかんないわな」
 途端に男の雰囲気ががらりと変わった。
「やだあ。阿井ちゃんてば薄情なコね! お店で会ったじゃない。あたしよ、ア・タ・シ!」
 情けなさそうに眉が寄せられる。凛として見えた男の変貌っぷりに俺は愕然とした。
 独特のおかま口調と女性っぽい表情に、記憶が蘇る。
 以前、奈賀の行きつけの店で紹介された男───というかオカマ───だ。あの時は長い黒髪にばっちりメイクを決めていた。注意して見れば男だと分かるものの、女性としても不自然ではないプロポーションをしていたように思う。こんなに体格の良いひとだったとは驚きだ。
 ……と。それより。どうして今此処にこの人がいるのだろう。その方が問題だ。
「なんで……」
 物問いたげに語尾をぼかすと、男は脇においてあった黒い箱を炬燵に上げ、広げ始めた。
「阿井ちゃんがセーラー服を着るって奈賀に聞いて、助っ人に馳せ参じたの。お化粧品なんて、持ってないでしょ? それに男が女に化けるって結構難しいのよ。コツがあってね。でもアタシがいれば大丈夫。阿井ちゃんを、最高の美女に仕上げてみせるわ」
 おけしょうひん。
 俺は青くなった。
 黒い箱はメイクボックスだった。様々な色やサイズのボトルや刷毛が次々と出てくる。
「まずはバスルームに行って洗顔して。あと、足も剃りましょうね。スネ毛のある女子高生なんていただけないもの」
 俺はくるりと躯の向きを変えた。玄関に向かって逃げ出す。
 お化粧に臑毛まで剃るなんて!冗談ではない。
 しかし、玄関には鍵ばかりかご丁寧にチェーンまでかかっていた。焦る指で外そうとしている間に奈賀に追いつかれてしまう。
 俺は、非力だった。
「さー、阿井。おめかししよーなー?」
「い、いやだっ! やだ、絶対やだ! 放せっ」
 抵抗空しく、俺はバスルームに連れ込まれた。見事な連係プレイが繰り広げられる。
 奈賀が俺を羽交い締めし、男が俺のベルトを抜く。ジッパーが開けられ、ズボンが引きずり下ろされる。
 パンツまで一緒に脱げそうになってしまい、俺は本気で泣きそうになった。
 太股にシェービングフォームを塗りたくりながら、男が猫撫で声を出す。
「大丈夫よー。大人しくしててねー。すーぐ済むからねー」
「やっ、やだ……っ」
 泡だらけの掌が、腿の内側を撫で上げる。思わず身を捩ると、耳元で奈賀が低く笑った。
「阿井。感じちゃった?」
「ばかっ」
 男も茶々を入れる。
「本当に可愛いわよね、阿井ちゃんは。そそられるわあ。嫌がる様子を見ているだけで、勃起しちゃいそう」
「……!」
 その目が妖しい光を湛えているのに気がつき、俺は震え上がった。
 この男、本気だ。
 大人しくなった俺の足に、剃刀があてられる。
「いい足しているわね。筋肉も少なくて羨ましいわ。アタシなんてゴツくって。いつも苦労しているのよ。アタシも阿井ちゃんみたいに可愛く生まれたかったわあ。今日は思いっきり気合いいれて、可愛くしてあげるわね。理想的な可愛子ちゃんをメイクできるなんて、ホント楽しいわぁ」
 じょり、と剃刀の刃が動いた跡に、白いつるつるの肌が現れる。
 ああ……本当に剃られてしまった。
 情けなくて、がっくりきた。同時にムラムラと怒りがわき上がる。
 理想的な可愛子ちゃんをメイクできて、楽しい?
 だったら、と俺は以前この男と一緒にいた可愛子ちゃんを思い浮かべた。
「だったら、俺じゃなくてマサキをメイクすればいいだろ」
 男の手が、止まった。
 泡がてんこ盛りになっている剃刀を、盥の中で振るう。泡と一緒に長く縮れた毛が湯に広がった。
「あー、その事なんだけど。私たち、別れたの」
 何気なく言われ、俺は男を凝視した。奈賀も初耳だったのか、驚きの声をあげる。
「えっ。そうなのか!?」
「そうなの。だから奈賀に声掛けられて、喜んで尻尾振って駆けつけたって訳。ねえ、奈賀。あんな野暮ったい男には、そろそろ飽きたんじゃない? またアタシと楽しい事、しようよ」
 男の整った顔が近づいてくる。正確には俺ではなく、奈賀に近づいているのだ。キスでもするつもりなのだろうか。
 奈賀には桑原さんがいるのに。
 あわや、という瞬間、バスルームの引き戸が乱暴に開かれた。戸袋の奥に突き当たり、壮絶な音を立てる。
 そこにはもちろん、桑原さんがいた。
「貴様〜〜。まだコイツにちょっかい出すか!」
 男が立ち上がる。体格の良い男二人の対決に、俺は目を見張る。体格は桑原さんの方が立派だが、男の身長は桑原さんをしのいでいた。
「まっ、立ち聞きするなんて、卑怯な男ねっ」
 緊張感をそぐオカマ言葉で、男が桑原さんを非難する。いつもは寡黙な桑原さんも黙っていない。 「バカヤロウ。聞こえたんだよっ。でかい声で誘惑しやがって!」
「はいはい、そこまで! どーどーどー」
 奈賀が苦笑しながら立ち上がった。こういう所、本当に神経が太いと俺は感心する。動揺の欠片もない。
 奈賀は両手を広げ、セコンドのように二人を引き離すと、桑原さんに向き合った。
「桑原ー。おまえ、バッカだなあ」
 火に油を注ぐような無神経な台詞を平気で吐く。
「なに!?」
 案の定声を荒げた桑原さんの両耳を、奈賀が掴んだ。
「うわ!」
「あら……ら」
 俺と誘惑者が同時に声を漏らした。
 奈賀が桑原さんに、キスをした。それも軽い奴じゃない。舌が入っているのがはっきり分かる、ディープキッス。くちゅりと唾液が音を立てる。
 たっぷり一分、奈賀は桑原さんと唇をあわせていた。俺達はそれを、バカみたいに凝視していた。
 桑原さんの手がいつの間にか奈賀の腰に回っている。奈賀が仕掛けたキスだったけど、最後の方では桑原さんの方が積極的だったみたいだ。奈賀は背を逸らすようにして、桑原さんから唇を引き剥がした。
 奈賀の唇は赤く充血していた。目元も潤んでいる。奈賀がこんなに色っぽいなんて、知らなかった。
 そんな気はないのに、俺まで股間が疼くのを感じる。
「バーカ」
 上擦った声で、また奈賀が言った。桑原さんが少し笑う。
 桑原さんも、いつもより5割増良い男に見えた。
 いきなり剃刀を握ったままの男がだみ声を張り上げた。
「やだもー! やめてよねー、このバカっぷるがーっ! いちゃつくなら、あっち行っててよおお」
「ん」
 奈賀が頷いた。そして本当に桑原さんとバスルームを出ていってしまった。
 あの、これからドコでナニをするつもりなんですか?
 と、ものすごく言いたかったが、言えなかった。
 仕掛けた男は黙ってしゃがみ込むと、また俺の足を剃り始めた。もう、抵抗する気力もなかった。俺は大人しく臑毛を全部剃られると、顔の産毛もあたってもらい、セーラー服を着た。男に薄化粧してもらい、東京駅まで送るという申し出を承ける。
 奈賀と桑原さんは最後まで姿を現さなかった。


 腑抜けてしまった俺に気力が戻ってきたのは、新幹線の中で、だった。
 この隣の男。この男が俺の怒りを呼び覚ましたのだ。
 何故この俺が女装しなきゃならないのか、という。
 新大阪駅へ着くと、俺はむすっとして新幹線を降りた。男も荷物を抱え、俺の後をついてくる。一緒に食事しようなんて馬鹿げた誘いをかけながら。
 最後まで無視するつもりだった。
 だが、俺が黙っている事で焦れたのだろう。あるいは俺が何も言わなかったから、大人しく言う事を聞きそうな子だと思ったのか。
 いきなり腕を掴まれ、俺はたたらを踏んだ。着替えの入ったバッグが肩から滑り落ちる。
 むっとしてふりほどこうとしたが、男は放さなかった。腕に食い込む指の痛さに、初めてヤバいかもしれないと思った。
 だが心配は無用だった。
 不意に反対側の腕を掴まれ振り向くと、彼がいた。

end 2006.3/25



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