女装3/阿井視点


「俺の女に何してんの?」
 更に引き寄せられ、俺は緩んだ男の手から解放された。その代わり、会いたかった彼の腕が俺を囲う。
「あ……」
 俺は仰け反り、彼の顔を見上げた。後頭部が背後の肩に強く押しつけられる。変な姿勢で見つめる俺を、彼はちらりと見下ろし微笑んだ。それからまた前方にキツい目を向ける。
 俺はさっきよりずっと焦っていた。これは、まずい。こんなことでこの人をトラブルになんか巻き込みたくなんかない。折角のバレンタインなのに。
 だが俺の心配は杞憂だった。
 男は口の中でもごもごなにやら呟くと、すっと視線を逸らして行ってしまった。
 拍子抜けだ。
 ぼんやり人混みに紛れていく男の背中を眺めていると、いきなりぽかりと頭をこづかれた。
「痛っ」
「何変なのに絡まれてンだよ」
 頭上から不機嫌な声が振ってくる。流石にむっとして俺は振り向いた。
「誰のせいだよっ」
 文句は一言だけで途切れる。一歩離れた距離で突っ立ったまま、俺は彼の姿をまじまじと眺めた。
 彼は、めかしこんでいた。
 糊の利いたシャツにジャケットなんか着ている。着ているコートもカジュアルなんかじゃない。勤め人が着るような、ロングコートだ。
 お金のない大学生である彼らしからぬ格好である。
 でも、似合っていた。
 どうしよう、格好良すぎてドキドキしてしまうと、俺は俯く。
 彼もまた俺をじいっと眺めていた。その視線は、きらきらしたピンが留まった頭のてっぺんから、ルーズソックスをはいた足元までゆっくり下がっていった。このソックスはオカマさんおすすめの品だ。細いけれど流石に堅いラインを描く俺のふくらはぎを隠すための、必殺アイテムなのだそうだ。
 俺のつま先まで見終わった彼が、深い溜息を吐いた。
「まー、しゃーねーな。こんだけ可愛いけりゃな」
「えっ」
 彼の手が俺の髪に触る。ちょっとブロウしただけであんまり変わっていない筈の短い髪を指先で数回梳いて、それから頬に。ほっぺたの感触を愉しんだ後顎下へと滑り、少し俺の顔を仰向けさせる。
「化粧もしてる?」
「う、うん……ちょっとだけ」
 妙に真剣な彼の顔に、気恥ずかしくなる。あんまりまじまじと見て欲しくない。粗がバレてしまう。
 そして俺は、彼に『可愛い』と思って欲しがっている自分に気付き、赤面した。
 こんなの、おかしい。俺はいやいや女装させられた筈なのに。
「すげー可愛いぜ、阿井」
 彼の声が低くなる。ふたりっきりの時だけ聞かせてくれる種類の声に俺はますますどぎまぎした。
 彼が、足を踏み出す。あ、と思ったら抱きしめられていた。彼の温かい体温が躯を包む。ものすごく気持ち良くて、嬉しい。
 でも、此処は駅のホームだ。
「だっ、ダメだってば、こんなところで」
 俺はもっとぎゅっとして欲しい気持ちを抑え、身を捩った。だが彼は放してくれない。ますます強く抱きしめてくる。
「いーんだよ。おまえ今、女のコなんだし」
 あ。
 俺は瞠目した。
 そう、か。
 今の俺は、女のコなんだ。
 ホームでいちゃいちゃしている男女のカップルって、結構いる。中には電車の中でキスしている強者もいる。なんだかなあと思わないでもないけど、でも……でも、今だけはいいことに、したい。
 大人しくなった俺の耳の下に、彼はキスまでした。
 俺が乗ってきた新幹線がホームを出ていく。間もなく次の新幹線がホームに滑り込んできて、沢山の人が俺達の周囲を流れていく。ホームががらんとする頃になってようやく、俺達は躯を放した。でもいつも程距離は開いていない。彼の手はしっかり俺の手を握っている。
 少し先を歩く彼は、とても機嫌が良さそうだった。俺もなんだか嬉しくなる。恥ずかしいけれど、女のコになるのって、悪くない。
「メシは?」
 改札を抜けながら、彼が聞く。時刻は五時半、食べている訳がない。お腹が減ったと甘えてみたら、彼はにんまりと笑った。何か楽しい隠し事をしている顔だ。
 駅の雑踏を抜け、外に出る。
 少し歩いた裏道で、彼は地下への階段へと俺を誘った。洞窟めいた装飾がなされた凝った階段だ。どんな店に連れて行ってくれるのか、期待が高まる。
 階段の一番下には、黒づくめの衣装に身を包んだ美女が待っていた。メイドさんにちょっと似た衣装に、俺は目を見張る。黒いベルベットのワンピースに白いエプロン。
 予約を入れておいてくれたようで、すぐに席に案内された。白いオーガンジーカーテンが入り口にかかっている、小さな個室だ。アンティークっぽい重厚なテーブルの前にしつらえられているのは、えんじのベルベットの張られた柔らかなソファ。燭台を模したランプからちらちらと揺れる光が放たれているけれども、とても暗い。
 そこに俺達は、向かいあわせではなく並んで座った。男同士だったら、絶対できないポジションだ。
「なんか……すごいね」
 なんとなく声を潜めて囁くと、彼は得意そうに胸を張った。
「バレンタインデーのデートだからな。たまにはこういうのも、いいだろ?」
 デート。
 デート、か。
 コース料理が次々と運ばれてくる。色鮮やかな前菜は上品な味わいで美味しかった。続いて出てきたメインの肉料理も、値段を聞くのが恐いくらい凝っていて美味しい。
 彼は楽しそうだ。それに合わせ、嬉しそうにはしゃいでみせる俺の心は逆に沈んでいた。
 こういうデートは、俺にはできない。今日が最初で最後だ。俺が女のコだったらいくらだって彼につきあえるのだけど。
 俺はちゃんと笑っていたのだけど、彼には何故か分かってしまったらしい。
「どした? こーゆーの、好きじゃね?」
 心配そうに聞いてくる。
 俺は視線を彷徨わせた。そんなことないよ、と言っても彼は騙されない。その程度には俺を知っている。彼を煙に巻くには適当な嘘が必要だ。だが思いつかない。
 俺は唇を舐めた。
「ううん、そんな事ないけど、ただ、こーゆー店に、前の彼女とかとよく行ったのかなって」
 こんな事を言って、彼は気を悪くしないだろうか。
 俺は彼の顔色を伺う。
 彼は前のめりになった躯を伸ばし、ソファの背にもたれかかった。その眉間に皺が寄っているのに気が付き、俺の胸の奥がすうっと冷たくなる。
「あ? まーよく行ったよ」
 そっけない口調だった。でも俺に怒っている風ではない。
「こーゆー雰囲気とか凝った料理、女って好きなんだよな。俺も嫌いじゃないけどさ、割り勘にしても安くねーのに毎回毎回次はあそこ、その次はここって連れ回されるのはうんざりだったな。阿井みたく素直に喜んでくれるんならいーけど、前の店の方が美味しかったわねとかケチつけたりすんだぜ。てめーは評論家かっつーの」
「そ、そうなんだ」
「こーゆーのはさ、ごくたまーに来るのがいいんだと思うんだよな。そう思わね?」
「……うん」
 俺はフォークを握りしめ、新たに運ばれてきたパスタを見つめた。スプーンを添え、一口分だけフォークに巻き取る。口に運ぶと複雑な味わいが広がった。凝った料理は、味だけでは原材料なんかさっぱり分からない。肉が入っているのだけがなんとなく分かる。ハーブの風味が利いていて、さわやかな味。
 美味しい。
 それを素直に彼に伝えると、彼は嬉しそうに笑み崩れた。カーテンで視界を遮られているのをいいことに、ほっぺたにキスまでしてくれる。アホなカップルみたいで恥ずかしい。
 でも楽しかった。
 すごくすごく楽しかった。



 食事の後、少しゲーセンに寄ってから彼の家に向かった。
 彼は執拗にプリクラを撮りたがったけど、俺は断固として拒否した。いくら可愛いと言われても、物的証拠は残したくない。
 やっぱり手を繋いで電車を乗り継ぎ、彼のアパートへの道を歩く。着替えの入った大きなバッグは彼が持ってくれている。
 お腹はいっぱいだし、幸福だ。未成年の格好だからお酒は飲めなかったけど、酔っぱらったみたいな幸福な気分だった。ふわふわしている。足元なんて、踊り出しそうなステップを踏んでいる。
 まだ真新しいアパートが見えてくると、俺の胸は高まった。これからする事は分かっている。それは俺も好きだし、やることに依存はない。
 でも、と俺はすうすうする下半身を意識した。
 これを見られるのは、セーラー服の比じゃないくらい、恥ずかしい。
 なんとかして、コレを見せずにアレに持っていけないかと、俺は必死に考えた。考えているうちに、アパートについてしまった。
 新築の癖に、ぎいと鈍い音をたて、扉が開く。
 どうぞと手招きされ、俺は彼が開けてくれた扉をくぐった。靴をぞんざいに脱ぎ捨て、彼があがってくるのを待たずバスルームへ向かう。
 お風呂に、入ってしまえばいいのだ。
 だが
「待てよ」
 彼の声が背後から追ってきた。
「ドコへ行くんだよ」
「お風呂。あの、俺、ホラ、準備が必要だから」
 それは、本当だ。
 だがもちろん彼は、そんな事で楽しみを逃すようなひとではなかった。
「そんなの後でいい。お披露目会を先にしようぜ」
 ぎゃあ。

end 2006.4/2



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