受×受 02/阿井視点


 ああ。


 俺は落胆に目を伏せた。
 扉の外にいたのは、奈賀だった。
 やはり雨に降られ、濡れている。怜悧な美貌に底意地の悪そうな笑顔を浮かべいるが、目が笑っていない。シニカルで厭世的な、暗い光を湛え俺を見下ろす。
 奈賀は時々こういう目をする。桑原さんという素敵な恋人とラブラブ生活を送っており、幸せの絶頂にある筈なのにどうしてなのだろうと俺はいつも思う。でも口には出さない。
 奈賀は狭い玄関に入り込み、後ろ手に扉を閉めた。膝がぶつかる距離に寝ころぶ俺を見下ろす。
「ヨーホー」
 陽気に挨拶する。その頬が濡れている。柔らかな茶色の髪もしっとりと湿り、まさに水も滴る良い男である。
「こんにちは、奈賀」
「あいつ、いねーの?」
「うん。今朝、帰った」
「そか。……阿井、体調わりーのか?」
「……ううん」
 疼く躯を起こす。
 奈賀は俺が許してもいないのに勝手に部屋にあがりこんだ。歩きながら濡れたシャツを脱ぐ。クロゼットをやはり勝手に開け、ハンガーを持ち出す。
「阿井も脱げよ。濡れた服着ていると風邪をひく。サクサク着替えな」
 自分のシャツを干し、俺にも新しいTシャツを投げてくれた。のろのろと着替えながら、俺は訊く。
「また桑原さんと犬も食わないよーな喧嘩したの?」
「アイツ、ひでーんだ」
 着替え終えたら今度はタオルが飛んできた。ありがたく、髪を拭く。
 奈賀は上半身裸のまま、部屋の中央に腰を据えていた。真夏だというのに、日焼けの跡ひとつない白い肌が目に眩しい。俺はそれとなく目をそらす。奈賀はきれいで、ほんの少しだけドキドキする。
「研究室に改修工事が入ることになって。ようやく休めるからさ、旅行に行こうって言ったらまたしても仕事だって。一泊でさえ空けられねーって。ありえなくね? 理系学生の休みって、超貴重なんだぜ? 仕事なんていっつもやってんじゃん。勤め人じゃねーんだから、ちゃっちゃと片付けて俺のためにスケジュールあけてくれればいいのにさあ」
「駄目だよ、無理言っちゃ。きっと本当に忙しいんだよ。8月はお盆もあるし。あれなんじゃないのかな。お盆進行とかゆー奴」
「知らね。そんなの俺には関係ねーっつーの」
「ずっと桑原さん忙しいの?、お盆なら仕事も学校も休みにならない?」
「……お盆は、帰省するんだって」
 唇が、子供のように尖っている。そのままばったり仰向けに転がってしまった奈賀の傍に、俺は座った。
 そうか。
 奈賀も置いてけぼりにされるんだ。
 だから、寂しくて。
 俺に、八つ当たりしに来た。
 俺は奈賀の肩をぽんぽんと叩いた。眼鏡の奥の拗ねた瞳がちらりと俺を伺い、伏せられる。
 穏やかな沈黙が訪れる。遠い雨音だけが俺の小さな部屋を満たす。
 滝のようだった雨はすでに勢いをなくしていた。窓の外が明るい。もうすぐ夏の雨が上がるのだろう。蝉も鳴き始めた。
「なあ、阿井」
 奈賀の薄い唇が開く。
「来週、旅行行かね?」

 それが。
 俺のとんでもない夏の幕開けだった。

2006.8/25



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