受×受 04/阿井視点


 行くと決まったら最後、奈賀の行動は早かった。翌週の改修工事に合わせ、さっさと予約を入れてしまう。宿泊場所も交通機関も、買い物を終えて戻った俺の部屋のパソコンで手配終了。温泉旅行と名前は付いていたけれど、熨斗袋の中身は三万円分相当の旅行券で、丁度良かった。
 あれよあれよという間にお膳立ては全て整ってしまい、断る暇なんか全然なかった。
 そう俺は思っていた。でも、本当は嘘だ。
 俺は、奈賀と旅行に行きたかった。
 彼と桑原さんが怒るのが分かっているから断っただけで、奈賀と旅行したら愉しいだろうなと思っていた。彼がいない寂しさを埋めたい気持ちもあったのだと思う。
 とにかく。
 出発の日がすぐにやってきて、俺は小さなバッグひとつ片手に家を出た。
 彼には何も言わなかった。
 先の事など何も考えず、俺は罪悪感と楽しい旅行への期待で、胸をどきどきさせていた。


 奈賀が選んだのは、鄙びた田舎の温泉宿だった。
 バスを降り、山間の道を十分程歩いてようやく到着する。標高が高いから少し涼しいけど、特に景色が良いわけでもない。ただ、宿の背後を渓流が流れていて、川釣りが出来るらしい。
 宿はかなり、ボロい。
 あか抜けないロビーでは、子供がテレビを見ていた。俺達が玄関から中に入るとびっくりしたように大きな目を瞠り、廊下の奥へとすっとんで行く。ママぁ、お客さんがきたよ、という甲高い声が聞こえたすぐ後に、エプロンで手を拭き拭き恰幅の良いおばちゃんが姿を見せた。にこりと愛想の良い笑顔を見せる。
「いらっしゃいまし。まあまあこの暑いのに、山道を歩くのは大変だったでしょう。どうぞ、お上がり下さい。今冷たい麦茶を持ってきますね」
 方言と標準語が入り交じったイントネーションが耳に優しい。俺達は足元にかばんを置くと、薦められたソファに座った。テーブルの下から黒猫がするりと現れ、にゃあと鳴いて逃げた。
 開けっ放しの窓から入ってくる蝉の声が、すごい。
「なんか、田舎の夏休み、って感じだね」
「うん」
 奈賀は上の空だ。
 電車の中でもバスの中でも、酒でも飲んでいるかのような上機嫌ではしゃいでいたのに、バスを降りた頃からぴたりと喋らなくなった。不機嫌、というより、塞いでいる感じ。俺はソファの上に投げ出されていた奈賀の手に、そっと自分の手を重ねた。子供をなだめるように、ぽんぽんと弾ませる。
「いっぱい夏休みを楽しもうよ」
 奈賀がようやく薄く微笑んだ。
「……うん」


 貰った麦茶を飲みながら、宿帳を書いた。
 驚いた事に俺達以外客はいなかった。他人事ながら、大丈夫なのだろうかと心配になる。
 聞けば、この宿は冬で勝負をしているらしい。ゲレンデが近いので、スキー客が大勢来るのだそうだ。その代わり、夏は開店休業。農作業に精を出すらしい。
 近くに小さな滝があると言うので、部屋に荷物を置いて散歩に出掛けた。
 舗装された道路を少し行くと、手書きの看板があって、山道へと分け入る。木漏れ日がちらちら揺れる中、少し歩くと小さな池が見えてきた。身長より少し高い崖から、数筋清流が流れ落ちている。池の真ん中から突きだした岩に、小さな祠が乗っていた。
 俺達はしばらく黙ってその景色を見ていた。
 なんて言う事もない景色なのに、すごーく、夏だなあ、田舎に来たんだなあという気がして楽しかった。
 一時間ばかりぼうっとして、宿に帰った。

2006.9/2



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