受×受 05/阿井視点


 テーブルの上に用意された時代遅れのポットと茶器でお茶をいれ、お茶菓子を囓る。
 六畳の和室と、二畳ばかりの板の間。それで俺達の部屋は全部だ。あとは布団の入った押入とちっちゃなクロゼット。クロゼットの中には二揃いの浴衣とタオルがきちんと並んでいた。
 トイレと風呂は外である。全体的に古びていて、あんまり綺麗ではない。タイル張りの壁を、掌くらいの蜘蛛が這っていたりする。
 お茶を飲み終えると、奈賀が温泉に行こうと言いだした。異論はなかった。暑い中を歩き回ったせいで、なんだか体中べたついていて、俺もさっぱりしたかったのだ。
 浴衣とタオルを持って廊下に出る。部屋を出て左側はすぐ壁で、外に出る扉がついていた。右側にはロビーに繋がる長い廊下が延びている。廊下の左側は窓だけど、右側には一定間隔を開けて扉が並ぶ。窓の向こうにも、同じような廊下が平行に走っているのが見えるから、部屋数だけは結構多いようだ。
 軋む床を踏んで歩く。この宿は平屋だけれど、山の斜面に作られているから、上り下りが多い。階段を二つ上って、小さな沢を渡る長い廊下を歩き、ようやく露天風呂についた。
 掘っ建て小屋のような脱衣所で、くるくると裸になる。脱いだ服を無造作に籠に投げ込み、さてと振り向けば、やはり裸の奈賀がいた。うすぐらい小屋の中、その裸身は白く浮かび上がって見えた。
 しみひとつない、まっさらな躯。
 タオルを肩にひっかけ、浴場へと出ていく。俺もその後を追う。
 明るい陽の光の中、桶を片手に屈み込む奈賀の姿を見て、俺は少しびっくりした。真っ白だと思っていた奈賀の躯が、傷だらけだったからだ。
 太股の真ん中に、途切れ途切れではあるけれど長い傷が縦に走っている。それも、両足。肩胛骨の影になる部分にも、古い切り傷があった。腰骨の凹んだところにも、刃物によるものだと分かる長い傷がある。
「どうしたの、それ」
 問うと奈賀は一瞬きょとんとした。それから自分の躯を見下ろし、ああと笑う。
「キチガイに斬られた痕」
「ええ?」
 奈賀の言葉は、嘘か本当か見分けるのが難しい。俺は奈賀の斜め後ろに膝を突いた。指先で、肩胛骨の斜め下に刻まれた跡に触れる。色の濃い其処は、火傷の跡のように他と質感が異なっている。結構、大きい。斬られた時はさぞかし痛かった事だろう。
 本物の、暴力の跡。
 高校生の時には、なかった。体育の着替えの時、奈賀の躯は何度も見たことがある。絶対にこんな傷は無かった。
 俺の知らない所で、奈賀は酷い目にあった事があるのだ。その事実が徐々にリアリティを増してくる。同時に、胸の奥がすうっと冷えた。
「痛い?」
「いや。あんまり触んないでくれる? 感じちゃうから♪」
 おどけた台詞を吐き、奈賀が湯を浴びる。持参したボディシャンプーを泡立て、躯を洗い始める。
 俺はもうしばらく奈賀の躯を眺めていたけれど、そのうち飽いてやはり躯を洗い始めた。
 聞いても、奈賀はきっと教えてくれない。
 髪も綺麗に洗って、湯につかる。
 夕暮れの陽はオレンジ。もう山に隠れ太陽は見えないが、世界は暖かい暖色に染まっている。でも標高が高いから、陽射しが遮られると同時に不快な暑さは影を潜め、清々しい冷気が温泉に上気した頬を気持ちよく冷やしてくれる。
 俺は透明な湯の中、岩に背を預けゆったりと躯を伸ばした。
 都会では滅多に聞けないひぐらしの声。
 切ないような、不思議な気持ちに駆り立てられる。
 いつの間にか奈賀が隣に並んで座っていた。胸まで湯に浸かり、両腕を頭の後ろで組んで岩に寄りかかっている。
 山の陽はつるべ落とし。
 そんな言葉の通り、あっと言う間に周囲が暗くなっていく。
 脱衣所にぽっと裸電球の明かりが灯った。
 泣きたいような気分になった。
 どうしてなんだろう。
 今日は楽しかった。哀しい事なんてなにひとつなかったのに。
 俺は黙って隣の奈賀を見た。
 奈賀もまた、俺を見ていた。
 奈賀は、本当に、綺麗だった。
 すうっとまっすぐに通った鼻梁。薄い唇が、湯のせいで綺麗なピンクに色づいている。白い肌にはニキビひとつない。整いすぎているせいで、冷たい印象を与える顔立ち。でもその内面はとても優しいのだと、俺は知っている。
 その顔が、ゆっくり近づく。
 いけない。
 そう、思ったのに。
 俺は少し顔を仰向け目を瞑り、奈賀の口づけを受けていた。

2006.9/6



novel  next