浮気 10/阿井視点


 俺は陥落した。
 押し倒されるまま畳の上に身を伸ばす。だめ、と呟いたけれど、その言葉にはまるで力が籠もっていない。
 奈賀が俺の浴衣の前を広げる。俺の貧弱な胸が露わになった。せわしなく上下を繰り返す様が浅ましい。俺は目を閉じた。
 その時だった。
 荒々しい音が響いた。俺の上で更に浴衣を剥ごうとしていた奈賀の動きが止まる。俺も音源を探し首を巡らせた。
 廊下に通じる引き戸が揺れていた。一センチほど開いた隙間に指が差し込まれ、戸がこじ開けられようとしている。もう一度戸が揺れるのと同時に、ちゃちな掛け金が弾け飛んだ。
 そこに桑原さんがいた。そして、彼も。
 俺達は凍り付いた。起きあがってその場を取り繕う事すら考えられなかった。ただ半裸で、これからヤりますと言わんばかりの格好で、バカみたいに二人を眺めていた。
 桑原さんの顔は真っ赤だった。怒りのためだ。握りしめた拳がわなわなと震えている。
 俺の彼は逆に青ざめていた。ショックが大きすぎたせいだろうか、怒る元気もないようだ。
 先に我に返ったのは、奈賀だった。跳ね起き、俺を睨む。
「阿井っ!てめーだなッ。桑原にチクりやがったな」
 俺も肘を突き、ずりずりと畳の上を後退った。浴衣の前を掻き合わせながら、事態を把握しようと必死に頭を巡らせる。
「俺、知らないよ。俺は彼に電話しただけ」
「何時っ」
「奈賀が戻ってすぐ。脱衣場で。だって、マジでヤバいって思って」
 桑原さんが片手を上げた。立てた親指で背後の彼を指差す。
「で、こいつが俺に電話をくれた」
「余計な事しやがって」
 奈賀が忌々しげに吐き捨てると同時に、桑原さんがいきなりずかずかと部屋の中に踏み込んできた。歩きながら右手を振り上げる。
 俺は慌てて立ち上がった。一瞬くらりと視界が揺れたけれど、踏みとどまる。そして俺は、奈賀の前に立ちはだかった。
 物凄く、怖かった。桑原さんは体格が良くて、迫力がある。それに凄まじい怒気を放っている。
 でも俺が逃げたら奈賀が殴られる。それはだめだと思った。
「待って! 暴力はだめ」
 両手を大きく広げる。桑原さんが獰猛に歯を剥き出す。
「どけ。貴様も殴られたいのか」
「阿井!」
 初めて彼が声をあげた。俺は一瞬、たじろいだ。奈賀を好きだから庇っているなんて誤解はされたくない。ちらりと背後の奈賀を窺う。
 奈賀は冷静だった。逃げる気配もなく、立ちつくしている。今日一日でお馴染みになった、諦めきった表情がその顔には浮かんでいた。
 それを見た途端、ものすごく哀しくなった。
 奈賀は、殴られる気なのだ。
 同時に、むかむかと怒りが込み上げてきた。どうして桑原さんは奈賀にこんな顔をさせるのだろう。奈賀が俺なんかより桑原さんを愛していると、何故分からないのだろうか? 殴ったりなんかしたら、奈賀は更に傷つく。……諦める、覚悟を決めてしまう。
 俺はまっすぐ桑原さんの目を見据え、声を張り上げた。
「殴りたければ殴れば?」
「なに?」
「殴ればって言ってんの。大体、桑原さんに怒る権利なんかないよ。全部あなたが悪いんだから!」
 桑原さんの動きが止まった。眉間に皺を寄せ、瞬く。
 俺は一気に捲し立てた。言葉は次から次へと出てきた。


2006.11/18



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