浮気 06/阿井視点


 いつの間にかすっかり乾いてしまった肩に顎を乗せ、俺は闇に目を凝らした。いつの間にか陽はすっかり沈み、山間の温泉は真っ暗だった。ひぐらしの声も絶えている。
 裸電球の灯りが届く範囲だけが、白っぽく浮き上がって見えた。
 電球の下には、黒い小山が出来ていた。フィラメントの発する熱に灼かれた虫の死骸だった。
 俺は奈賀の背中に腕を回した。
「奈賀はいつもそんな事を考えていたの?」
 奈賀は荒っぽいのにどこか不安そうな声で応えた。
「こんな事、考えたくねーよ。でも、ダメなんだ。頭の中から消えてくれない」
 俺は奈賀の背中を撫でる。子供をなだめるように、何度も、何度も。
「奈賀は桑原さんを信じていない?」
「信じているさ! 信じている。俺が信じられないのはあいつじゃなくて…運命、だ」
 ああ、そうか。俺は納得し、目を閉じた。
 話には聞いていた。桑原さんの弟と、従兄弟。鬱陶しくてたまらねーと悪し様に罵る奈賀がわざとらしいむくれ顔をしていたから、逆に気付かなかった。奈賀は彼らを、本当に気に病んでいたのだ。自暴自棄になる程に。
「そんな事、考えちゃダメだ」
 俺は奈賀を抱きしめる。奈賀が少し恥ずかしそうに鼻を擦る。
「分かっている」
 俺は言い募った。 「桑原さんを諦めちゃ、ダメだよ?」
 驚いた事に、奈賀は念を押す俺をせせら笑った。
「バカかおまえ。俺があいつを諦める訳ねーだろ。くそったれ共がどう言おーとどんな邪魔しよーと、あいつは俺のものだ。最後まで首っ玉にしがみついて放さねーよ」
 言葉は強気だったけれども、奈賀の目がそれを裏切っていた。とっくに奈賀は諦めてしまっているのだと気がつき、俺は頭の芯が痺れるような恐怖を感じた。俺は目の前の事だけでいっぱいいっぱいで、今までそんな事考えもしなかった。でも俺達にも訪れうるのだ。その、運命は。
「なあ、しよう、阿井」
 子供のように駄々を捏ねる奈賀の頬を、俺は濡れた掌で撫でた。改めて、キスをする。
 快楽を追う為のキスではない。奈賀を慰撫する為のキス。奈賀が、自分が、可哀想で愛しくて、胸が痛かった。
 奈賀は、俺。もうひとりの俺自身だ。
 奈賀の手が俺の肌の表面を撫でる。さっきまでの余裕なんて欠片もない、切羽詰まった動きだ。それでも奈賀の愛撫は的確で、羽が触れるかのように優しい。
 俺もまた奈賀に触れた。
 ふたりの乱れた息づかいが夜の闇に溶ける。


2006.10/21



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