浮気 07/阿井視点


「ふ……ん……っ」
 挿入はしなかった。お互いの手だけで、俺達は昇りつめた。
 厳粛と言っても良いくらい切ない気分だったのに、迎えた絶頂は不釣り合いな素晴らしさだった。あんまり悦くって、一瞬気が遠くなった。奈賀が支えてくれなければ溺死していたかもしれない。
 終わってからもしばらく、俺達は身を寄せ合い湯に浸かっていた。俺は黙って水面に電球の光が照り返すのを眺めていた。
 やがてどちらからともなく俺達は唇を交わした。本当の恋人のように、自然な仕草で。
 先に湯船から出た奈賀が俺を見下ろし小さく微笑んだ。
「部屋に、戻ろう」
 背筋をぞくぞくっと何かが駆け抜けた。
 これで終わりではないと、何故か分かった。張りつめた何かがまだ持続している。部屋に戻ってふたりきりになったら、続きが始まってしまう。
「阿井?」
 奈賀がタオルで躯を拭きながら俺を見つめている。ねっとりと舐めるような視線。俺の躯の奥もまだ疼いている。何もないのに肌がちりちりと粟立った。俺を、急かしているのだ。
 早く、もっと深い快楽をくれ、と。
「阿井?」
 脱衣場の扉は開けっ放しだ。俺を視界に納めたまま、奈賀は浴衣を羽織り帯を結ぼうとしている。鼻梁にはいつもの眼鏡。髪から落ちた水滴がちかりと光る。
 俺はのそのそと湯船から上がり、冷水で顔を洗った。のぼせ上がっていたのが、少し落ち着く。気がつくと、随分気温が下がっていた。山、だからだろうか。
 急に肌寒く感じ、俺は湯船に再び飛び込んだ。
「先に戻っていて。俺は……もうちょっと浸かってから、行く」
「此処で待っているよ」
「いいから戻っていて!」
 奈賀は少し首を傾げ、目を細めた。俺の腹の底まで見透かすように。だが拘泥することなく、荷物を両手に抱えた。
「じゃあ、お先。早く来いよ」
 奈賀の姿が視界から消える。廊下へと通じる立て付けの悪い戸が開く軋みが聞こえた後、不意に物音が途絶えた。
 静寂。
 俺は周囲に目を走らせた。うすぼんやりと山の稜線が見えるだけで、全ては深い闇に沈んでいる。誰の気配もない。
 ふと全裸で湯に浸かっているのが怖くなって、俺はばしゃばしゃと湯を跳ね飛ばしながら脱衣場に走った。大急ぎでいい加減に躯を拭き、浴衣を着る。帯を引っ張り出した拍子に籠の中から携帯が飛び出てきた。堅い音を立て、木の床に落ちる。弾みでディスプレイが青く光った。
 どきりとした。
 一瞬、彼から電話が掛かってきたのかと思ったのだ。帯を腰に巻き付けた姿勢のまま俺は凍り付き、携帯を凝視した。
 携帯は、鳴らなかった。
 俺は手早く帯を結んでから携帯を拾った。ストラップに通してある彼の第二ボタンが鈍い光を放つ。携帯を両手でかかげ持ったまま、俺はへたへたと椅子に座り込んだ。


2006.10/29



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