浮気 08/阿井視点


 携帯が生き物のように震えた。ぶうんと鈍い音を立てて振動し、青い光が明滅する。俺はびくりと肩を揺らし携帯を凝視した。恐る恐る眺めたディスプレイには、彼ではなく、奈賀の名があった。
「いつまで風呂入ってんだよ。生きてんのか? メシが来たぜ。さっさと戻って来いよ」
「う、うん」
 携帯を切る。籠の中の荷物を纏め、脱衣場を出た。
 食事をしている間は奈賀もちょっかいを出して来るまい。その間に、対策を考えよう。ぎしぎし軋む廊下を歩きながら、そんな事を考える。
 随分長くぼうっとしていた。およそ二時間も脱衣場で座り込んでいたのだと、携帯の時計は告げている。
 長い渡り廊下を戻り、本館のずらりと並んだ扉の前を通り過ぎる。探すまでもなかった。俺達の部屋の扉は開け放たれ、黄みがかった光が薄暗い廊下へと溢れ出していた。
 おずおずと覗き込むと、料理の並んだテーブルを挟み、奈賀とおばちゃんが仲良く座っていた。奈賀はおばちゃん受けも良い。話は弾んでいたようだ。
 俺に気付いた奈賀が怜悧に微笑んだ。
「おかえり」
 おばちゃんが慌てて腰を浮かせた。
「あらあ、おかえりなさい。今お風呂で溺れているんじゃないかって話していたとこ」
「……涼んで、いたので」
 荷物を部屋の隅に置き、おばちゃんが空けてくれた席に着く。座布団が暖かい。おばちゃんがいそいそとご飯をよそう。奈賀が既に栓の開いた瓶を差し出す。
「阿井。ビール、飲むだろ」
「うん」
「おばちゃんも、も一杯、ど?」
「あらあ、そんな」
 メーカーのマークが入った安っぽいグラスに、黄金色の液体が注がれる。素朴な田舎料理を前に、俺達は乾杯した。
 おばちゃんは、出ていかなかった。これは裏の川で捕れた魚なのよだとか、米はウチで収穫した無農薬米なのさあだとか、ほがらかに喋りながら細かく世話を焼いてくれる。いつもこんなにサービスが良いのかと驚いたら、今はお客さんが少ないからと笑った。スキーシーズンだと食事を部屋に運んだりはせず、食堂で摂ってもらうのだそうだ。勿論きめ細かな給仕はなし。
 オフシーズンで良かったと、つくづく思う。奈賀とふたりきりにならなくて済んだ。まあもしこれが彼との旅行だったらおばちゃんのサービスは鬱陶しいとしか感じられなかったに違いないのだけれど。
 大学の話だとか、滝はどうだったかとか、会話は延々と続く。おばちゃんの相手をしているのは主に奈賀だ。俺は適当に相槌を打ちながらビールを飲み続けた。酒量を抑えようと心掛けてはいたけれど、俺は酒に強くない。段々と頭の中が霞んでくる。
 ふと気がつくと、テーブルいっぱいに並べられていた料理はきれいさっぱりなくなっていた。おばちゃんが大きなお盆の上に空いた食器を片付けている。おしゃべりは止む様子もなく、口が動いているのが見えたけれど、俺には何を言っているのか分からなかった。
 思考が全く働かない。
 刺身の乗っていた大皿が消え、ビール瓶が消え、ご飯茶碗が消える。そしていつの間にか、おばちゃんの姿も消えていた。
 奈賀は煙草を吸っている。煙草なんて煙いだけだと思うのに、奈賀は実においしそうに目を細めている。
 半ばまで吸った煙草が、灰皿に押し付けられた。奈賀が腰を上げ、付けっぱなしになっていたテレビを消す。自分の席には戻らず、俺の斜め後ろに正座した。開いた膝の間に、俺を挟むように。
 両手が俺の躯に巻き付いてくる。
 まずい。
「なァ、しよ」
 耳元で囁かれた。


2006.11/5



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