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 ジングルベルが街中に鳴り響いている。
 紀伊国屋で買った分厚い専門書を片手に、私は渋谷駅に向かって歩いていた。
 12月に入った途端、東京はクリスマス一色になっていた。サンタクロースのオブジェ、赤いリボンとまつぼっくりで出来たリース、ちかちか輝く豆電球。
 気温も急に低くなり、街往く人々は分厚いコートを着込んでいる。どことなく華やいだ雰囲気。クリスマスは着実に近づいてきている。
 だが、私は一人だった。
 一人で買い物に出掛け、一人で食事を取り、一人の部屋に帰る。クリスマスも多分一人で過ごすだろう。
 別に何かに拘っている訳ではない。ただ、愛するのに適当な人間が身近に存在しない。ただ、それだけのことだった。
 良い縁談を世話してやろうと言ってくれる人もいないではなかったが、無理はしたくなかった。一人でいることに不自由はない。ただ、時々寂しくなるだけだ。
 それに、最近の私には、女性以上に興味のあるものがあった。
 アルタの前で左に折れ、階段を下りた。駅構内に入ると、寒さがふっと和らぐ。薄汚れた地下道で、競馬新聞を買った。馬券は買わないが、予想を立て、テレビを眺めるのは好きだった。だが地元では競馬新聞など買えない。
 厳格でマジメな人間だと私は思われていた。また、そのイメージを壊したくなかった。仕事柄、ギャンブル好きな人間だと思われたら宜しくないのだ。
 一万円札で払うと、釣りが足りないのか、男はもたもたと箱の中を掻き回した。釣りが揃うのを待ちながら、私はふと左手に目をやった。
 最近では何処でも見かけるが、この広い地下道にも浮浪者がいた。一体どうやったらそこまで汚れられるのか不思議なくらい汚い格好で、床に直接、あるいはダンボールに包まって横たわり、じっと寒さをこらえている。
 ちょうど視線の先、地上に通じる階段から、新しい浮浪者が下りてきたところだった。サイズの大きな服を幾重にも重ね着している。少しウェーブのかかった髪は伸びすぎ、顔を覆っていた。顔も、手も、黒い。そこまでは、他の浮浪者と一緒である。
 彼はふらふらと手近な柱に近寄ると、崩れるように座り込んだ。自分の体を抱き、暖をとろうとしている。その前を着飾った人々が無関心に通り過ぎる。
 私は釣りを受け取ると、金額を確かめもせずコートのポケットにねじ込んだ。吸い寄せられるようにその浮浪者に近づく。一メートルも離れていない場所で立ち止まり、しげしげと見つめた。何日も風呂に入っていない人間独特の嫌な臭気が鼻をついた。
「なに」
 流石に黙って眺めまわす私を不審に思ったのか、浮浪者が声をだした。成年男性にはありえない、ひどく高く細い声である。変声期前の少年特有の声。
 浮浪者は、子供だった。おそらく中学生、下手をしたら小学校高学年の子供。
 こんな子供のホームレスなど見たことがない。此処は日本で、発展途上国ではないのだ。私はその場にしゃがみこみ、顔をのぞきこんだ。子供がきっと睨み返してくる。その陰鬱で烈しい眼差しに私は射抜かれた。
 腰骨のあたりがぞくりと泡立つ。
 久々に沸き立つ感情に、私はゆっくり唇の両端を吊り上げた。
 日本人にしては柔らかな色彩の瞳は美しく、だが底知れぬ空虚さに揺らめいていた。だが、同時に、苛烈なほど強い生命力も感じた。
 ぱちんと、私を戒めていた良識という名の鏨が弾け飛んだ。


 私は医者である。分厚い眼鏡をかけ、白衣を纏い、日々を清潔に、淡々と過ごしている。
 毎日沢山の老若男女が私の許を訪れる。私の前であられもなく胸をさらす娘もいる。私は誰にでも平等に無関心に触れる。実際、彼らの体に情欲を呼び覚まされることはない。
 私にとって患者はモノだ。彼らとの接触はビジネスでしかなく、診察をしている時の私は人間というよりもロボットに近い。また、そうであらねばならない。
 それなのに、仕事に集中できない時があることに、私は気付いた。
 それは決まって子供が診察に訪れた時だった。
 幼い子供が母の手を借りて胸元を開く。シミひとつない柔肌、薄いピンクの乳首が私の視線にさらされる。上目遣いに私をうかがういとけない仕草を見ると、指が震えた。
 子供はどこもかしこも新品で美しい。みずみずしく、生命力に溢れている。どんなに金をかけて整えた女の肌もかないはしない。
 その肌に触れるのは、喜びだった。私は仕事を装い、ひそかに柔らかい感触を楽しんだ。
 そして、もっと触れたいと、いつも切望していた。
 だがその欲求が満たされる日など来るはずがないと、そう、思っていた。



「こんなところにそんな格好でいて、寒くないかね」
 私は優しく訊ねた。
 子供は警戒心もあらわに、長い前髪の間から私をねめつけた。
「別に。あんたには関係ないだろ」
 偉そうな言葉とは裏腹に、頼りない風情だった。寒さに歯の根があっていない。おまけにぐううと、派手にお腹の虫が鳴る。
 不意に、笑い出したくなった。気狂いじみた衝動を噛み殺し、私は医師用のしかめつらしい仮面をかぶり続ける。
「まあ、ないがね。ご両親は、どうしたのかね」
 少年は黙りこくった。黒ずんだ唇が真一文字を描く。敵意を、全身から放射している。
 だが、私は意にも介さなかった。汚れの下にある、子供特有の柔肌さえあれば、顔の美醜も生意気な態度もどうでも良いのだ。
「言いたくないのなら別に構わないよ。ただね、そういうことを気にするのは私だけではない。こんな目立つところにいたら君はすぐに保護され、ご両親の元へ連れ戻されるだろうね」
 直線だった唇がへの字に曲がる。眼球を覆う水分量が増える。
 少年はのろのろと立ち上がった。視線は、さっき降りてきた階段を見詰めている。逃げようかどうしようか、考えているのだ。
 外は、寒い。子供には過酷な気候である。連れ戻されるのは嫌だが、出て行きかねている。そんな少年の心情が、手に取るように分かった。
「お腹、減っていないかね」
 私はゆったりとした口調で続けた。
「一緒に来て、私の夕食につきあわないか? 暖かいベッドも提供しよう」
 我ながら妖しげな誘い文句である。だが少年が警戒し逃げたら、それはそれで良いと思った。私は聖人君主ではないが、悪魔でもなかった。己の欲望のままに少年を弄びたいと望んでいたが、そうすることに迷いもあった。
 だが、少年は私の葛藤には全く気付かず、きょとんと目を見開いた。
「あんた、何? 俺を補導する気?」
「はは、違うよ。私は警察なんかじゃない。どちらかというと、悪い人、だ」
 噛んで含めるようにささやくと、少年は眉根を寄せた。
 私は微笑む。
「おいで」
 そして改札に向かって歩き出す。ゆっくり大またに歩きながらポケットの中を探り、プリペイドカードを指先で見つけだす。改札の直前で振り向くと、子供はちゃんとついてきていた。大きな目で私を見上げている。私は苦笑してカードを差し出した。自分も別のカードで構内に入る。
 京王線は空いていた。
 子供は遠慮がちに隅っこに乗り込んだが、異様な臭気に人は遠巻きになった。私は知らん顔をして子供から少し離れた吊革に掴まっていた。時々不安そうに見上げる視線を感じる。
 明大前で各駅停車に乗り換え、十分。自宅の最寄り駅に着くと、私は無言で電車を降りた。子供が慌てて追いかけてくる。家に着くまでこの静かな追いかけっこは続いた。


 私の家は閑静な住宅街にある。崩れかけた石塀に囲まれた洋館は大きいが、医院を兼ねている。居住空間はそう広くない。
 正面の入り口には『休診』の札がかかっていた。私はその前を素通りすると、家の横手に並ぶ飛び石を渡り勝手口に向かった。
 鍵を開け子供を玄関に入れる。それから子供を玄関で待たせ、風呂場へ向かった。浴槽に湯を注ぐ。
 玄関にとって返すと、おどおどしている子供にスリッパを履かせ、風呂場に連行した。密閉した空間に入った途端、子供の放つ臭気は耐え難い程強くなった。
 子供がタイル張りの床に裸足で降り立つ。おどおどと周囲を見回す仕草に、淡い憐憫を感じた。
 浴室は白い湯気で煙っている。湯が徐々に浴槽の中を迫り上がる。そのまんなかに、黄色いアヒルの人形が一つ、ゆらゆら揺れている。
「服を脱ぎなさい」
 短く命令すると、子供はその無垢な、大きな瞳で私を捕らえた。


つづく。




2003.12/12


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