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 警戒心も露わに、あの強烈な眼差しで私を射抜く。その中には脅えも混じっている。それはそうだろう。ここには誰もいない。私に何をされても逃げる術はない。
 激昂と諦念の、絶妙なバランス。それが私を刺激した。
 私は狂喜した。
 なんて、綺麗なのだろう。
 口元に力がこもる。そうしないと、笑ってしまいそうだった。身の内から生じる興奮が、私の自制を凌駕しようとしていた。
 圧力が高まっていくのを感じる。ポップコーンのように弾けてしまいそうだ。
 分厚い硝子越しに見える私の目になにか感じ取るものがあったのだろうか。子供はふいと視線を外し、俯いた。
 途端に緊張感が途切れる。自分が息を止めていたことに初めて気付き、私は溜めていた空気を吐き出した。
 覇気を失った子供は、酷く小さく見えた。
 不器用に服を脱ぎ始める。
 私は一旦洗面所に戻ると、ゴミ袋を持って戻った。風呂場に戻りしな、行儀良く並んで置いてあったスリッパを袋の中に突っ込む。子供に履かせたものだ。
 子供は私がゴミ袋を突き出した意図を正確に理解した。汚れた衣服は脱ぐ端からゴミ袋の中に消えていった。大人用のジャンパー、数枚のシャツ、新聞紙、Tシャツにアンダーシャツ。そして白いブリーフ。
 全てがおさまると、袋の口はきつく縛られた。諦めたのか子供はもう、私を睨んだりはしなかった。もじもじと、冷たいタイルの上に立ちすくんでいた。
 私は目を細め、子供を検分した。
 子供は汚かった。手や顔は煤けたように黒く、特に爪の間や間接の皺は何かが真っ黒に詰まっていた。服から隠れていた場所も垢だらけだ。
 それに、臭気が酷い。
 裸になったせいで、匂いが明らかに強くなっている。胸が悪くなりそうな悪臭である。だが、子供特有のどこか甘ったるい香りも混じっている。
 汚い躯を目の当たりにして己の興味が薄れるのではないかという期待は裏切られた。
 性徴期を迎える前の、中性的な躯のラインが私を魅了した。いとけなく、弱弱しい風情がたまらなかった。膝と膝とを擦り合わせ、身を縮めているのが哀れである。寒さと恥辱とが子供を責め苛んでいるのだと分かっていたが、解放してやることはできなかった。
 私は食い入るように子供を見つめた。
「湯の中に入りなさい」
 肩に手を添え、誘導する。
 洋風の大きな浴槽の中に、子供は膝を折った。たちまち湯の色が変わる。
 私は腕まくりをすると、シャワーヘッドを取った。子供の頭から湯を浴びせかける。髪は脂じみた汚れで固まり、手櫛さえろくに通らなかった。
「自分で、シャンプー、する、から」
 ぎゅっと目を瞑ったまま子供が主張する。私は酷薄な笑みを浮かべ、却下した。
「私が、やる。君は大人しくしていたまえ」
 髪を綺麗にするのは難事業だった。掌に伸ばしたシャンプーのぬめりを頼りに髪を梳き、汚れを落とす。シャンプーは泡立たないどころか、すぐに存在感をなくした。何度も何度もジェルを掌に押し出し、私は徒労にも感じられる動作を繰り返した。
 ようやく指どおりが良くなり、白っぽい地肌が見えるようになる頃には、封を切ったばかりのボトルが半分になっていた。
 続いて躯に取り掛かる。
 愛用のへちまたわしにたっぷりボディシャンプーを垂らし、首から擦っていく。
 高く浮き上がった鎖骨のくぼみ、ほっそりとした腰、決して柔らかくない臀部。そして、幼い性器。
 まだ毛も生えておらずむき出しのそれを、私は掌にすくった泡で丁寧にくるんだ。小さなそれは脅え、うなだれていた。表皮をひっぱり、隅々まで洗い上げてやる。面白いくらい汚れが落ち、黒ずんでいた色は初々しいピンクに変わっていった。
 子供を洗うという行為は、私に不思議な感動を与えた。薄皮を剥ぐように、子供の肌が本来の色を取り戻していく。汚らしかったホームレスが、無垢な存在に変身する。
 みせかけだけの、メタモルフォーゼ。
 実際には何も変わっていないのに、この子供は私の手によって美しくなっていくのだという、間違った充実感に私は酔った。
 たっぷり泡立てたソープで、くっきり走る眉のラインや柔らかな頬、薄い唇を優しくマッサージしてやる。
 シャワーで泡と汚れを洗い流してやると、子供特有のぷるんとした肌が姿を現した。少し荒れてはいるが、十分それは美しかった。老廃物が極めて少なく、みずみずしい。指先でそっと愛撫し、私はうっとりと目を細めた。
 伏せられていた子供のまぶたが震える。まつげに膨らんでいた水滴が落下する。ゆっくり開くまぶたの隙間から、茶色がかった瞳が覗く。
 タイルの上に膝立ちになったまま、私は少年の目を見つめた。ワイシャツもズボンもずぶぬれになり、肌に張り付いていた。眼鏡は曇り、視界は白くもやがかかっている。だが、そんなものは何の妨げにもならなかった。
 もうもうと立ち込める湯気の中、私たちはしばらく黙って見詰め合っていた。言葉に出来ない何かを、お互いに感じていた。
 沈黙に終止符を打ったのは、子供のお腹だった。きゅううと空腹を訴える情けない音に、二人とも同時に視線を落とした。私は笑った。
「おいで。何か食べさせてあげよう」
 立ち上がり、ワイシャツを脱ぎながら浴室を出る。洗面所に据えてある洗濯機の中にシャツを落とし、ついでに棚からバスタオルを取り出した。追って浴室を出てきた子供をそれで包むと、大雑把に拭いてやる。子供は人形のように大人しい。
 暖かなトレーナーとスウェットを子供に与え、私も新しいジーンズとネルのシャツに着替えた。眼鏡を拭き、鼻の上に戻す。なんとなく鏡を覗くと、時代遅れの黒縁眼鏡をかけた、草臥れた男がいた。
 四十二歳。がっちりした体格はなんとか維持され、まだ腹も出ていない。
 だが、この男の前には、もう下り坂しかなかった。しかも終点まで全て見通せてしまう下り坂である。この年になると、人生の行く末などわかりきっている。未来には意外性の欠片もない。
 私はゆっくり瞬きをした。
 鏡の奥、男の後ろでは、子供が長すぎる袖を折っている。路上生活をしていた哀れな子供だが、その躯はどこもかしこも新品で、ぴかぴか輝いている。
 何もかもを、持っている。
 だから惹かれたのだろうか。私は初めて己の内側を分析しようと試みた。だが、答えは分からなかった。



 冷凍食品のピラフとコンソメスープを出してやると、子供はガツガツと貪り食べた。私は缶ビールを片手に、その光景を興味深く眺めた。
 安っぽい化学調味料まみれの食べ物を、実においしそうに食べるのだ。見ている方が楽しくなる勢いである。
 食事はあっと言う間に終わった。テレビに子供の守りをさせ、汚れ物を洗う。大した食器の数ではない。十分も経たないうちに片付け終わり様子を見に戻ると、子供は椅子に座ったままコックリコックリ船を漕いでいた。いまにも椅子から転げ落ちそうに見えるのに、ぎりぎりのところできちんと止まりびくりと元へ戻る。
 実に、面白い。
 揺り起こし歯磨きをさせると、私は子供を寝室に連れて行った。セミダブルのベッドの上に散らかっていた分厚い書籍を退け、くしゃくしゃの寝具を整える。
 子供はその間、ベッドの脇でしかめつらしい顔をしていた。
「このベッド、おじさんのだよな」
「うむ」
 “おじさん”という呼称に私は内心傷ついた。だが子供は繊細な年寄りの心の機微になど気付かない。
「俺が此処に寝る訳?」
 ちんまりとした指でベッドを指差す。
「そうだ」
「じゃあ、おじさんは何処に寝るんだ?」
 くだらない質問を私は笑い飛ばした。子供が本当は何を恐れているのか気付いていた。だが、安心させてやるほど親切ではない。かちりとムーディーなランプを灯し、蛍光灯の明るく健康的な光を消してしまう。
「このベッドに決まっている。うちにはこれしかベッドは無い」
 子供の鼻に皺が寄る。またあのキツい目で私を睨み据える。
「さあ、ベッドに入りなさい」
 毛布をまくって促すと、子供は一瞬ぎゅっと掌を握った。拒否するかと思ったが、意外なことに子供は素直にベッドに入った。私も続いてその横にもぐりこむ。
 手を伸ばすと、子供はカチンコチンに固まっていた。
 私はわざとその躯に手を回し、耳元に口を寄せた。
「ああ、そうだ。聞き忘れていた。君、名前は」
「ヨウ」
「ヨウ? どんな字を書くんだ?」
 返事は無かった。
 ヨウ。陽。洋。耀。
 様々な字が浮かんでは消える。
 あまり、考えている時間はなかった。私は寝つきの良い人間だった。
 襲いかかる睡魔にあらがいもせず、私はコトリと眠りに落ちた。


つづく。




2003.12/15


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