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 「何で、しないんだ?」
 朝食の席で放たれた問いの主旨を掴みかね、私はスプーンを止めた。
 爽やかな朝である。たっぷり睡眠をとり、肉体も精神も充実している。目の前には香り豊かなコーヒーとシリアル、そしてスペイン風オムレツ。などと言えば聞こえが良いが、要は冷蔵庫の中に残っていたものを片っ端からフライパンに放り込み卵でとじたものが並んでいる。
 普段だったらこんな手の込んだオカズを作りはしない。私なりに子供に気を使ったのだ。
「するって、何をかね」
 なんとなくアレの事だという気がするが、あえて聞く。こんな年端もいかない子供がそんなはしたない事を口にするなんて、考えたくない。
 しかしヨウは子供なだけあって慎みなど持たなかった。
「セックスだよ」
 ズバリと指摘する。
 昨日よりかなり柔らかさを増した瞳が、悪戯っぽく輝いている。
「オレは、バカじゃない。タダで臭い浮浪者に親切にしてくれる人なんていないってェことくらい知っている。オレとするために連れてきたんだろ? ご飯とベッドはそれの代価。そうじゃないのか?」
 私はため息をついてボウルの中身をかき回した。
「ヨウは物知りだな」
「親切なおっさん連中が色々教えてくれたんだ。『お菓子をくれると言われても、知らない人に付いて行っちゃいけません』って」
 ふ、とヨウは鼻で笑った。憂いを帯びた、子供らしからぬ笑い方である。
 私は頭を抱えた。無意識に、オールバックに整えた髪を撫で付ける。
 昨日は、そうなるだろうと思って連れて帰った。とにかくヨウが欲しくてたまらなかった。裸の彼に触れて、強烈な興奮も覚えた。
 しかし私の欲求の方向性は性欲とは微妙に違った。勃起はしなかったし(まあ最近は若い頃のように、些細な刺激でむやみに立ち上がることはなくなったが)、セックスをしたいという、あの切羽詰った動物的な衝動は訪れなかった。
 あれはむしろ名画を見たり、優れた演奏を聴いたときの感動に近い。
「しても良いのかね?」
 断って欲しいと願いつつ問うと、ヨウは真面目に頷いた。
「でなきゃ、フェアじゃない。あったかい所で寝れて、ご飯も食べさせてもらった。昨夜は寒かったから。……本当に、助かった」
 本当に、子供とは思えない。路上生活者の苦渋を滲ませた笑みを正視できず、私は視線を彷徨わせた。だが途中で壁掛け時計が示す時刻に気が付き、バネ仕掛けの人形のように椅子から跳ね起きる。
「話の続きは昼にしよう。もう、行かねばならない。2時過ぎに戻るからそれまで大人しくここで待っていたまえ」
 すでに私はぱりっとしたワイシャツにネクタイを締めていた。後は白衣を羽織れば診療所に出られる。
 ヨウは高い椅子から滑り降りると、居間へ移動する私についてきた。ずら長いスウェットの裾を両手で引き上げている。私の大きすぎるスウェットは、まくってもまくってもずり落ちた。押さえても足りず、余った裾が廊下を掃く。
 ソファの上に積み上げたままだったクリーニングの袋を破り白衣を取り出すと、ヨウは目を瞠った。
「あんた、医者?」
「そうだ」
「なんだ、悪人だなんて、嘘じゃん」
 子供らしい思い込みである。私は意地悪く笑った。
「医者が善い人だとは限らないよ」
「でも、本当に悪い人は、自分のこと『悪い人』だなんて言わないぜ」
 クリーニングのタグを外そうとしていた指が滑った。
 虚を突かれ、私はまじまじとヨウの顔を見つめた。胸のあたりにもやもやと嫌な感じが澱む。
 ヨウは奇妙な表情をしている私には気が付かず、白衣を奪ってタグを外した。太い私の指は不器用で、こういう作業には向かない。
「ほら、取れたぜ、おじさん」
 ヨウが意気揚々と白衣を掲げる。私は受け取った白衣を大きく振って広げ、ドラマのように裾を広げて袖を通した。
「金井だ。金井、雅司。おじさんは、やめてくれ」


 廊下の突き当たりのドアが生活空間と診療所の境目になっている。通り抜け、さらに続く廊下の向こう、古びた待合室に目をやると、すでに患者がひしめきあっていた。
 この家は祖父の代から殆ど手を入れていない。古びた板張りの床は寒々しく、モスグリーンの皮が張られた木の椅子は骨董ものだ。四角い空間の真ん中に、今ではもう珍しい達磨ストーブが置かれている。
 私の診療所は繁盛していた。ここ数年で駅の近くに新しい病院が三つ開業していたが、近所の者は皆ここへ来てくれる。子供の頃から知っている気安さからか、休診日に駆け込んでくる患者も多いし、往診依頼も頻々と舞い込む。
 事務の泉水さんは、すでにてんてこ舞いをしていた。山と積まれたカルテを前に溜息を一つ吐くと、私は今日も三十分早く診療を開始した。
 毎日朝イチにやってくるおばあちゃんが、名前を呼ばれひょこひょことと入ってくる。しなびた小さな躯にきっちり着物を着込み、泉水さんやたった一人の看護婦にいちいち頭を下げる。最後に私の顔を見て、おばあちゃんはかわいらしく小首を傾げた。
「おやまあ、先生。なんか良いことあったんですか?」


 午前中の診療時間を終えると、私は廊下の奥へは戻らず、つっかけを引っ掛けて買い物へ出掛けた。まず、スーパーで野菜だのパンだのをどっさり買い込む。それから服屋へ寄り、子供用の服を一揃い揃えた。
 家に戻ると、子供はまだいた。
「腹減ったよ。金井センセエ」
 起きた時のままの格好で、テレビの前に寝そべっている。私は何故かほっとして、その横を通り抜け、キッチンで食材を広げた。子供がのそのそ起きてくる。
「何作ってくれんの?」
「やきそばだ」
「へー。でもさー先生。いつもはインスタントだろ?」
 私は横目でヨウを見た。
「冷蔵庫を見れば分かるぜ。調味料も揃ってないし。米びつはすっからかんだし。……あのさ、オレなんかに気を使わなくても良いんだぜ」
 要らぬ気を回す子供に私は臍を曲げた。
「子供に変なものばかり食べさせる訳にはいかん。成長期には、ちゃんとした物を食べないと」
 喋りながらキャベツの変色した葉を取り除く。三枚ばかり綺麗な葉を取って、綺麗な水ですすぐ。
 蛇口をきゅっと絞り、私は黙ってしまったヨウを見下ろした。子供のヨウは私の横腹辺りまでしか頭が届かない。俯くと、顔の表情は分からなくなってしまう。
「手伝ってくれるかね」
「……うんっ」
 意外に元気な声で答えると、ヨウは手を洗い始めた。


 奇妙な同居生活が続いた。
 ヨウは出て行こうとしなかった。
 私たちは一緒のベッドで眠り、一緒に目覚め、一緒に食事を摂った。促すまでもなくヨウは私の手伝いをしてくれた。この子供が良く気のつく良い子だと言うことに私はすぐに気がついた。
 夜は一緒に風呂を使った。毎晩私は幼いヨウの躯を洗い上げた。わずかに緊張を見せるが、ヨウは脅えることもなく、女王様のように昂然と私に体を洗わせた。
 それ以上のものは何も無かった。


つづく。




2003.12/17


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