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共同生活が2週間目を迎えた土曜日、午前中の診療を終えた私はヨウに黙って警察署に行った。
ヨウとの生活は快適だった。だが、私の良心が軋み音をあげていた。
既にホームレス時代と合わせると最低一ヶ月間、ヨウは学校に行っていない筈である。このままだとヨウは一年を丸々失う。
私は現実というものをよく知っている。
ヨウの将来に影を落とすような事はしたくなかった。
受付で家出少年らしき子供を保護していると告げると、ああそうですかと制服の女性は頷いた。別室に案内され、事務的に処理される。
知っているのはヨウという名前。そして、携帯でこっそり撮った写真。たったそれだけの資料で、警察はヨウの家族を割り出した。捜索願が出されていたのだ。
ヨウの家はそう遠くなく、一時間ほどで両親が駆けつけた。
私は取り乱した感のある夫婦の姿を丹念に観察した。母親は赤ん坊を抱いている。眼鏡を掛けた父親は私よりも10歳近くも若いだろう。その事実に私はショックを受けた。
独り身だったから考えもしなかったが、ヨウは私の子供でもおかしくない年齢なのだ。
「あの、ヨウは。ヨウは、何処に」
母親がきょろきょろと辺りを見回す。ウチに居る、と告げると、二人は初めてまっすぐ私を見た。
「どういう事なんですか。ヨウは、此処にいないんですか」
「とにかく、座ってください」
長机を挟んで、私達は向かい合った。パイプ椅子は座り心地が悪い。私は既に尻が鬱血しているような感覚に苛ついていた。
路上生活をしていたヨウを拾った経緯を自分に都合良く端折って話す。二人は青ざめた顔で真剣に聞いた。母親は涙ぐんでいる。
「信じられない……こんな寒い時期にヨウが、ホームレスをしていた、なんて……」
「それでヨウは。どうしたんですか。どうして此処にいないんですか。まさか、怪我でも」
「私はここに来ることをヨウに言っていません。ヨウはまだ、うちにいます」
「行きましょう。すぐに会わせてください」
ガタン、とパイプ椅子が鳴った。性急に腰を浮かせる親を、私は制した。
「彼は、帰りたがっていない」
ヨウは用心深かった。
ヨウはどんな字かと訊ねても、なんだって良いじゃん、とはぐらかす。家のことも学校のことも、絶対に口にしようとしなかった。あからさまに見せる鬱陶しそうな表情に、私はやがて諦めた。そして邪推した。
多分、帰りたくない何かがあるのだ。
ホームレスをしていた位である。よほどのことであろう。
様々な児童虐待のケースを、私は知っている。もしその類の事があるのなら、ヨウを返す訳にはいかない。
ヨウが口を割らないのなら、この両親から事の是非を見極めねばならないと私は考えていた。
だが、見たところこの両親は普通だった。異常性の欠片も見受けられなかった。
父親がまた腰を下ろす。いてもたってもいられないのだろう。机の表面に這わせた掌を、ひらいたりとじたりしている。
赤ん坊が、不満そうな声を上げた。
「ヨウがいなくなって初めて知ったんですけど、あの子、学校で苛められていたみたいなんです」
母親は思い詰めた表情をしていた。
「いじめ」
緊張が走る。
いじめと言っても様々なレベルがある。シカトや罵倒など、精神的なレベルだけに留まるモノ。暴力を伴うモノ。金銭の収奪、エトセトラ。
「お友達が、教えてくれたんです。でも、担任の先生は、そんな事、無かったって」
「ヨウと会わせてください。本当の所を知りたい。それが家出の原因ならば、私達がなんとでもします。なんだったら、転校させても良い」
私も、本当の事を、知りたかった。
今すぐヨウと別れる訳にはいかない。
名刺を一枚取り出し、父親に渡す。
「明日、ここに来てください」
父親は名刺を見もせずに机の上に置いた。母親が脇からのぞき込む。
「何故、今日じゃないんですか!? 僕はあの子の親ですよ!? 分かったからには、そんな、訳の分からない他人なんかに」
「あら、あなた、お医者さんなのね」
医師という職業は、時々葵の御紋のような効果を現す。私は重々しく頷いた。
「そうです。医師です。専門は内科ですが、その他でも異常があれば、分かる」
「異常って!?」
「息子さんは、大変不安定な精神状態にあります。無理矢理家に連れ戻すと悪化するかもしれない」
真面目な顔でウソを言う。
はっと母親が息を飲んだ。親の動揺を感じたのか、抱かれていた赤ん坊が、本格的に泣き出す。父親は棒のように硬直し、突っ立っていた。
「私はあなたたちに身分を明かした。逃げ隠れする気はありません。ただ、猶予が欲しいのです。彼をこのまま強引に連れ戻したところでまた家出されては元も子もないでしょう。お父さん、思い出してみてください。あなたにもあった筈だ。親にだけは相談したくない類のことが」
父親が力無く椅子に座り込む。項垂れて、両手を強く握りあわせる。母親がその肩に手を回した。愛し合う夫婦の姿を、私は複雑な気分で眺めた。
「彼にとってそれはいじめの事かもしれない。そうではないかもしれない。あなた方にとってははどうしてそんなことを言えないのかと思う類の事かも知れない。でも、彼は現実に言えなかった。時間が経ったからと言ってそれが変わったとは思えない。でも、私ならきっと彼は話してくれるでしょう。私は彼に信頼されている」
本当だろうかと、私は胸の中でごちる。ただ、都合の良い避難所だから、ヨウはうちにいてくれるのじゃないだろうかと。
体に触られる意味を、あの子供はきっと本当には分かっていないのだ。
「でも、ヨウはあなたに何も言わなかったんでしょう、今まで」
「ええ。私は何も知りませんでしたが。だが今、新たなカードを手に入れられた。これで、ゲームができる」
ヨウは寝転がってテレビを見ていた。テーブルの上には食べ終えたカップラーメンが置きっぱなしになっている。手に取ると、まだ温みが残っていた。
ゴミの始末をし、コートを脱ぐと、私はヨウの隣に腰を下ろした。ムートンのカーペットが暖かい。ヨウは私を見もしない。だからといってテレビに集中している訳でもない。拗ねているのだ。つまらなそうに、だがムキになってブラウン管を睨んでいる。
その髪を指先で梳いた。
つやつやと輝き張りのある髪が、さらさらと流れる。ヨウは不機嫌に頭を振った。
「今日、土曜日だろ。半ドンじゃなかったのかよ」
「ちょっと、出掛ける用があってね」
「オレが待ってるって分かっているのに? 空腹で死にそうになった」
きっと睨み付けてくるのもほほえましい。私はヨウの小さな体を両手で掴んだ。抵抗を歯牙にもかけず、胡座をかいた膝の上に、向かい合うようにヨウを抱き込む。
ヨウは真っ赤になって暴れた。
「オレは赤ちゃんじゃないっ」
「大人でも抱き合う時は、ある」
ふっとヨウの目が泳いだ。
「でも、それは恋人同士だからだろ。センセエ、俺とセックスしないじゃん」
意外な反応に、私は瞬きをした。ヨウは唇を噛んでいる。その美しさに、私は一瞬見惚れた。
ヨウを美しいと思う気持ちは初めて会ったときから全く薄れていなかった。間近でそのくすみのない肌を見る度、また弾力のある体に触れる度、感動を覚える。若さという、美に。
ヨウに感嘆しているのか、ヨウの持つ若さに感嘆しているのか、自分でもよく分からない。
ヨウの腰に回っている、自分の手を見る。太く、血管が浮いている様は子供には有り得ない大人の逞しさを持ってはいる。だが、衰えていた。ヨウのような肌の張りはない。昔は無かったほくろが無数に増え、全体に黒ずんでいる。
腕に力を込め、更にヨウの体を引き寄せた。
「センセイ」
額と額を併せる。吐息がかかる。腰は完全に密着している。衣服越しの体温。ヨウの手はためらいがちに私の肩に縋っている。
「あのさ、センセイ、オレのこと好きなのか?」
好き?
好きにも色々な種類がある。私は目を伏せ、笑った。
「その質問に答えたら、ヨウも私の質問に答えてくれるかね」
「……」
ヨウは用心深く口を噤んだ。訊きたいが、訊かれるのは怖いのだ。分かりやすい子供である。ぐりぐりと触れあった額が擦り会わされる。
「別に……聞かなくとも、オレには分かってんだぜ。あんたがオレを好きだってコトくらい。エッチな触り方してくるし。こんなことするし?」
「触れば好きって事になるのかね」
冷静な言葉に不安を呼び起こされたのか、ヨウの声が震えた。
「……違うのか?」
肩を掴む手に力が篭もる。それだけでは足りず、ヨウは私の首にしっかり両手を回し胸元に顔を埋めた。それこそ赤ん坊のように。
ヨウに見えないのを良いことに、私は笑った。この子供が可愛くて仕方がないと思うと同時に、鉛のように重い何かが胸の奥に積もるのを感じた。
つづく。
2003.12/20
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