6


 ゲーム。

「あいつらにとっては。別にたいしたことじゃない。オレは怪我もしていないし、金も取られていない。あいつらのやることなんか、なんでもない」
 子供の口調は勇ましい。唇の両端は引き上げられ、ぺこんとえくぼが出来ている。
 うすっぺらな虚勢。
 だが、私の目には、子供の本心が明らかだ。
 いたわりを込め頬に触れると、ヨウは奥歯を噛み締めた。そらされた瞳が潤みを増す。硝子玉のように、綺麗に光る。
「そんなことより先生、オレのこと調べたな!?」
「うむ。先刻、君の両親と会ってきた」
「なんでそんな勝手なことするんだよっ!」
 キャンキャンとヨウは吠えついた。
 私は真剣な顔を作った。
「君が、好きだからだ」
 ヨウがひるんだのは一瞬だった。険のある表情で私を睨み、噛み付く。
「嘘つけっ。そんなの理由になるかよっ! オレが子供だからってなめてんだろ。好きって言えばなんでも誤魔化せるって思ってんだっ」
 どん、と胸を突かれた。続けて顎につっぱりをかまされる。がちんと歯が噛み合い、振動が頭蓋骨に響いた。
 私は衝撃に軽くのけぞった。子供と言えど侮れない力である。仕方なく私は暴れる子供の両手首を掴んだ。
「なめてない。ただ、一言に要約しただけだ」
「なにそれ。わっかんねーよ。分かるように説明しろよっ!」
 ヨウがヒステリックにわめく。
「君は子供だ。説明して理解できるとは思えない」
 ヨウはますます憤激した。
 だが、真実である。
 私がヨウ位の年齢のころ、大人の説教は意味を成さなかった。おまえの将来のためだと聞かされた繰言にも、そのうち後悔するぞという脅しにも、何のリアリティも感じなかった。無限の可能性が己の前に広がっていると、漠然と信じていた。そうではないと理解できるようになったのは、大人になってからだ。
 未来は無限ではない。過去に積み上げられてきたものの上にしか、新たなものは築けない。そして後で気がつき悔やんでも、上へは、もう、昇れない。
 ヨウは家に戻らなければならない。学校へ戻り、義務教育を、できれば優秀な成績で終了させねばならない。そうしないとヨウの未来が削られる。
 こんな大人の理論にヨウが納得するとは思えない。だから私はあえて端折った。
「嘘でも誤魔化しているわけでもない。私は君のためにそうした。」
「そんなの、信じられない」
「二人とも心配していた。きちんと話しなさい。苛めのことも」
 今度は頭突きがきた。鎖骨がじんと痺れる。両手を私に捕らえられたまま、ヨウは不器用に、だが懸命に頭で私の胸を叩いた。
 その目元には涙が光っていた。
「オレの体に飽きたの? もう、オレはいらなくなった? だからオレを追い出すの? しなかったのは、俺にミリョクを感じなかったから? なぁ、そんなのひどいよ。散々ひとのこと弄んでおいてさぁ……っ!」
 なんとも色っぽい表現である。正確ではないが、間違ってもいない。入れるモノは入れて無くとも、私はこの子供の体を愉しんだ。
 私は子供の体を抱きこんだ。手首をひとつにまとめ片手で握る。悲しいくらいあっさり抵抗を封じられ、ヨウは遂に泣き声をあげた。くしゃくしゃに歪んだ顔が不憫だった。

 かわいそうな、ヨウ。
 何がそんなにつらいのか、私には分からない。
 他人だから。

 だけど、君にしてあげられる事を知っている。
 子供だましの方法だけれども。

「納得いかないのなら、私が君にした事をご両親に言いなさい。そうすれば未成年に対する性犯罪で私は逮捕されるだろう。君はこれ以上ない仕返しをすることが出来る」
 私は手持ちのカードを開いて見せた。ついでに私を完膚無きまでに叩きのめす方法まで教えてやる。
 ヨウは濡れた目を見開き私を見上げた。ちらりと怯えの影がのぞく。
 無垢なこの子供はそんな事を考えもしなかったのだろう。あるいはその可能性を知ってはいても、本当の本当にそれが現実になるかもしれないとまでは考えなかったのかもしれない。
 子供にとって、世界は優しい。大人が幾重にもヴェールで覆い庇護しているからだ。飢餓も暴力も何もかも、ブラウン管の中にしか存在せず、どこかリアリティに欠けている。
 だが現実は、いくらでも残酷になりうる。
 ヨウはバカではない。私が非常に危険な立場にいる事を理解した。緊張が増した証拠に瞳孔が細く絞られる。
「先生」
「私が、そんなリスクを犯してまで君を帰そうとしている意味を考えなさい」
 『信頼』。
 それが私の送ったメッセージだ。
 この種のメッセージには絶大な力がある。裏にどんな冷静な計算が存在しようと。
 ヨウは堰を切ったように泣きじゃくり始めた。
「オレ、やだ。帰りたくない」
 顔を私の胸にこすり付ける。庇護欲を掻き立てられたが、私の言うべき言葉は決まっていた。
「駄目だ。帰りなさい。たかがゲームに負けるんじゃない」


  翌日。朝食を食べていると、ヨウの両親が訪ねてきた。
 来る前に連絡くらいくれるだろうと思っていた私は少し驚いた。両親は玄関のドアを開けた瞬間から、廊下の奥、足が届かない程高い椅子に座ってパンをほおばるヨウを食い入るように見つめていた。挨拶するのもそこそこにあがりこむ。
 腹は立たない。ちゃんとヨウを愛しているのだという、それは証だからだ。
 父親は足早にヨウに近づくと、一歩手前で立ち止まった。ヨウは持っていたパンを皿に下ろし、口をもぐもぐさせながら父親を見上げた。
「心配した」
 ぽつりと父親がつぶやくと、ヨウは俯いた。
 追ってきた母親が赤ん坊を夫に押し付け、ヨウの頭を控えめに抱く。その手がわなわなと震えている。目元に涙が光っているのを、私は確かに見た。
「おうちに帰りましょう」
 そして抱擁を解いた。
 ヨウはちらりと私を見た。そして椅子から滑り降りた。父親が背中を押すようにして出口に向かう。出しなに母親が深々と頭を下げた。
「ありがとうございました。また改めて御礼させていただきます」
 そそくさと一家は立ち去った。もたもたしていると私にヨウを奪われるのではないかと心配しているかのように。
 私は鍵をかけ、キッチンに戻った。テーブルの上には食べかけの朝食が二人分残っている。
ヨウのために買ったカフェオレ・ボウルには、中身がまだ、なみなみと入っている。砂糖がたっぷり加えられたそれは、ヨウのために入れてやったもので、私の好みではない。
 手を伸ばし、ボウルを掴むと、私は一口飲んだ。
 甘い、子供の味がした。
 部屋はしんと静まり返っている。


 両親がどなりこんで来ることも、警察が訪れることも無かった。ヨウは健気にも、私がしたことを口外しなかったらしい。少し、拍子抜けした。もちろん逮捕などされたくはなかったが、私は心のどこかで告発されることを期待していた。
 これまで何とも思っていなかった単調な日々が、酷く苦痛でたまらない。私は逃げたかったのだと今更ながら気がつく。現状を壊してくれるものなら何でも大歓迎だったのだ。
 ヨウは。
 その為のツールだった。子供は変化と新生の象徴で、私に新しい何かをもたらすものだった。
 だが、もう、それもお終いである。何も、変わらなかった。私の前には、以前と同じ風景しかない。

 私はヨウのために揃えたものを少しずつ片付け始めた。子供用のパジャマや洋服、食器など、目に付いたものからダンボールに詰め込む。すぐに済むだろうと思った作業はなかなか終わらなかった。ヨウの遺した物は家中に散らばっており、まるで宝探しのようだった。終わったと思っても、洗濯物の中や洗面台の引き出しから新しいものが出てくる。小さなパンツ、甘い子供用歯磨き粉──大人用を使うと、吐きそうになるのだとヨウは主張した──、裾を輪ゴムで止めて掃いていた、大きなスウェット。
 全部つめてもヨウの荷物は箱の半分にもならなかった。空間を埋めるために、私はヨウが気に入っていたムートンの敷物を丸めて詰めた。
 この箱に入っているのは、私には必要の無いものばかりである。だが、処分方法に私は迷った。ヨウに送ってやろうかとも考えたが、家に帰った以上きっとこんなものは必要ない。間に合わせで買った物より余程良いものを両親が用意しているだろう。だからと言って捨ててしまうのもためらわれた。逡巡した末、その箱は寝室に置きっぱなしになっている。
 ヨウのことはあまり思い出さなかった。
 ただ、静かだと思った。何をしていても、沈黙がまとわりついてくるように思えた。
 だからテレビをつけっぱなしにした。オーディオセットを新調した。CDを買った。
 だが、音を立てれば立てるほど、その後の沈黙が重く私にのしかかった。


 開いた窓から流れてくる湿っぽい匂いに気がつき、雨が近づいているのを知った。目をやると、重たげな雲が空一面を覆っている。
 この匂いが私は好きだった。土臭く、なんとなく気分が落ち着く。
 だが弱い風がやむと、また消毒液の匂いが鼻についた。
 診療の途中だった。
 目の前には母親に付き添われた子供が不器用な手つきでシャツの裾を引っ張り上げている。小学校就学前の子供は、診察室に入ったときから半泣きで、今も泣く寸前の表情で私を見上げている。黒目の大きな、栗鼠みたいにかわいい子供である。しみ一つ無い肌はみずみずしく美しい。
 だが、何の劣情も呼び起こされない。
 私は淡々と聴診器をあて、母親の話を聞き、診断を下した。事務的に親子を控え室に送り出し、カルテに暗号めいたドイツ語を書き加える。所定の籠に書類を投げ入れ、次の人をと指示すると、泉水さんが笑った。
「牧野さんで最後ですってさっき言ったじゃないですか。先生、最近大丈夫ですか?」
「ん? そうだったかね」
 眼鏡を外し、眉間を軽く揉む。集中力が落ちている自覚はあった。もちろん仕事中にミスをしたりはしないが、ふと気を抜いた時に泉水さんに笑われるようなことをしでかす。
「疲れていらっしゃるんじゃないですか。最近風邪が流行っているから。今日はもう、あがられたら」
「ああ──、うん」
 ほとんど無意識に肯いてから、思い出した。
「ああ、今日はクリスマスか。すまないね、遅くまで仕事させて。旦那さんと健二くんが待ちわびているんじゃないかね」
 診療時間などあってないようなものである。受付時間にやってきた患者の診療が全て終わるまで仕事は続く。レントゲンや点滴などが必要な患者がいれば、さらに時間がかかる。時刻はとっくに七時を回っていた。
 泉水さんがうふふと幸せそうな笑みを浮かべる。
「ごめんなさい、お言葉に甘えて今日はもう、上がらせていただきます。明日、ちょっと早く来ますから」
「ああ、ありがとう」
 何も言わなかったが、仕事が終わるのを待ちわびていたのだろう。泉水さんはばたばたと帰っていった。その背中を見送り診療所の玄関に施錠して、私はしばらくぼんやりしていた。


 静かだった。
 待合室はまだ暖かかった。大きな時計がぼおんと時を告げる。
 クリスマスなど、私には関係ない。
 待合室と診療室を掃除し、片付けてから私は廊下の奥の扉をくぐった。
 ビールと冷凍食品で夕食を済ませる。
 ヨウがいなくなってから、食生活は元に戻っていた。冷蔵庫の中には酒と加工品しか入っていない。野菜や果物は姿を消した。自分の食事に気を使う必要性は感じない。脂肪分と糖類、塩分の過剰摂取にさえ気をつければ、大人はそうそう病気になったりしない。
 風呂に入って、早々に就寝する。
 だが、眠りはなかなか訪れなかった。転々と寝返りを繰り返し、ようやくうとうとし始めた途端、何か聞こえたような気がして目が覚めた。
 玄関のドアが開くような音。
 あたたかな布団の中でまどろみながら、耳を澄ませる。
 不気味なほど、なんの音もしなかった。
 世間は陽気なクリスマスなのだろうが、この洋館はそんな世俗とは隔絶されている。
 また、うとうとしはじめた。緊迫感は無い。強盗など、よく考えればどうでも良い事だった。失って困るようなものを何も持っていないからだ。
 だが、私はまたすぐ目を覚ました。今度は完全に覚醒し、半身を起こした。
 今度の音はすぐ近くだった。寝室のドアが細く開いている。廊下の暗がりから誰かがのぞいている気配が確かにした。
 しばらくの間、私は誰とも知れぬ相手と睨み合った。分厚いカーテンの隙間から漏れる弱い月明かりが唯一の光源という暗がりの中である。相手の姿など見えはしない。
 逃げようとか、戦おうとか。そんな思考はまったく生まれなかった。私はただ、凝視した。其処にいるのが誰なのか、闇を透かして見てとろうとしていた。
 ドアの隙間がゆっくり広がる。黒いシルエットだけが、ぼんやり見える。それで十分だった。私は布団を蹴って立ち上がった。
「ヨウ……!」



つづく。




2004.1/18


novel  next