7


「あの……、メリークリスマス」
 おずおずとヨウが言った。
 私は暗闇の中、目を見開いた。
 言葉が出てこない。
 黙りこくっている私に、ヨウは不安をかきたてられたようだ。黒い瞳が反射する、弱い光が明滅する。せわしなく瞬きを繰り返しているのは、緊張している証拠だ。
「あの、お世話になったし。プレゼントくらい、あげたいなと思って。……ごめんなさい、勝手に入って。でもプレゼントを置いたらすぐ帰るつもりだったんだ。本当だよ」
 ヨウは言葉を切ると、私の返事を待った。
 頭の中に砂が詰まっているようだった。
 何か。
 何か、言わねばならない。
 この子供の不安を打ち消す、優しい言葉を。
 そう思うのに、やはり私は何もいえなかった。心臓がやけに存在を主張し、どくんどくんと耳の奥で脈打つ。
「先生、どうしたの? 具合でも悪いの? 熱ある? こんなに早く寝ていたのは、そのせい? オレ、迷惑だった?」
 早口に繰り出される質問に、私はようやく口を開いた。やけに口の中が乾き、粘ついている。
「いや、そんなことはない」
 それからようやく気がついて立ち上がると、部屋の明かりを点けた。いきなり白い光が部屋いっぱいに満ち、目がくらむ。痛む目を細め、私はヨウに向き直った。そして瞠目した。
 ヨウは小さな包みを抱え、立ちすくんでいた。紺のダッフルコートにオフホワイトのマフラーを巻いた姿は良い処のお坊ちゃん風で、もうホームレスの面影は無い。寒い戸外から入ってきたばかりだからか、頬がりんごのように赤く染まっている。赤と、そして紫に。
 唇の端が切れている。まだ新しいその傷の周囲に痣が広がっていた。
 私は頭に血が上るのを感じた。耳の奥で聞こえていた脈動が轟音のような耳鳴りに変わる。激情が表情にも現れているのだろう、ヨウが一歩後退さった。
 その膝にも大きな痣を発見し、私はキレた。縮こまっている子供の手をむんずと掴み、大またに廊下を歩き出す。子供向けの歩調ではない。ヨウは転びそうな危うい足取りで、半ば引きずられるままついてくる。掴んだ手は、氷のように冷たい。
 怒りに、気が狂いそうだった。
 ヨウを痛めつけた子供たちが許せない。だがそれ以上に、つらい場所へヨウを追い返した自分自身を許せなかった。私はヨウのためと言いながら、ヨウを谷底へ突き落としたのだ。
 廊下の突き当たりのドアを開き、さらに奥へ進む。消毒薬のにおいがどことなく漂っている、診療所の領域。
 こちら側へヨウを伴ったことはなかった。怯えた顔でひきずられながら、ヨウはきょろきょろと新しい世界を見回した。
 電灯のスイッチを入れ、診察室に入る。一番奥、仕事中いつも座る椅子に落ち着くと、私はようやくヨウの手を離した。
「脱ぎなさい」
 ヨウの頬に、朱が走った。
 緑の包装紙にくるまれた包みを大事に抱きしめ、おどおどと私を見返す。あの、初めて出会った頃に見せた強い光は何処にも見えない。弱々しい態度が、無性に神経に障った。
「脱げと言っている!」
 怒鳴りつけられヨウは一瞬顔を歪めた。慌てて包みを傍らの硬いベッドの上に置くと、マフラーをほどきだす。
 ヨウは焦れったい位、不器用だった。
 指が震えている。ダッフルコートの大きな止め具さえなかなか外せない。だが私は手伝いもせず、デスクに肘をつき、ヨウが裸になるのを待った。
 セーターにシャツ、アンダーシャツに膝上丈の半ズボン。暖房を消してから何時間も経つ診察室は息が白くなるくらい寒かい。その中で、ヨウはついに靴下と下着だけの姿になり、問いかけるように私を見た。震えながら背中を丸め、己の両肘を掴んでいる。床は清潔だが冷たいリノリウムだ。少しでも接地面を小さくしようと、ヨウは爪先立ちになっている。
 私はその体を仔細に観察した。
 想像していたほどの惨状ではなかった。口元の傷と膝の痣以外には、腰骨のあたりに一箇所痣があるだけだ。私はその痣にそっと触れた。
「痛いかね」
「……押さなければ、平気」
 大した怪我ではなかった。
 気が遠くなる程の安堵を覚え、私は目頭を押さえた。じわりと瞳が熱くなる。
 白々とした蛍光灯の灯りの下、ヨウは不思議そうに首を傾げた。
「先生? オレ、大丈夫だよ?」
 華奢な手を伸ばし、髪に触れる。子供にするように、よしよしと遠慮がちに撫でる。
 我慢が、出来なかった。
 胸の中で嵐が荒れ狂っている。
 裸の腰に両腕を回し、私はヨウを引き寄せた。強く目を閉じ、暖かい体を抱きしめる。
 ヨウは戸惑ったが、大人びた微笑を浮かべると、胸元に押し付けられた私の頭に腕を回した。
 まるで、天使のように。


 真冬の外界から入ってきた途端裸にされたヨウの体は冷え切っていた。
 私はダッフルコートだけ着せ掛けると、ヨウを浴室に連れて行った。残り湯は十分まだ温かく、ヨウは身を沈めると満足げな溜息をついた。
 気持ちが落ち着くと、私は気恥ずかしくてたまらなくなった。別に性急にヨウを裸に剥く必要はなかったのである。せめて暖房をつけて、部屋を暖めてからすればよかった。余裕のない自分の行動に、嫌悪感が募る。
「先生? 何処行くの?」
 バスルームを出ようとした私に、ヨウがぴりぴりした声をぶつける。私は背を向けたまま答えた。
「……ミルクを温めておくよ。十分体が温まったらキッチンに来なさい」
「なんで? そんなの後で良いよ。先生も来てよ。風呂にはいつも二人一緒に入っていたじゃん?」
 ぱしゃん、と水の跳ねる音がした。
 私は、思いもかけない言葉にフリーズした。
 何を言っているのだろう、この子供は。
 確かに、ヨウがいる間、風呂には二人で入っていた。だが、あれは普通の入浴ではなかった。必ずあの、異様な行為が伴っていた。
 あれは、そんな風に陽気に口に出来る類のものではない。
 私の戸惑いをどう捉えたのだろう。ヨウの声に不安が混じりだした。
「なぁ、お願い。来てよ、先生」 
 甘い、ボーイソプラノで懇願する。
 それが、なんだか恐ろしかった。腹の底から不安感が押し寄せてくる。このまま誘いに乗ってしまったら、とんでもない事が起こる気がした。
「先生? お願い」
 私は、恐る恐る振り返った。
 ヨウは湯船の縁に肘を乗せ、ひたむきな目を私に向けている。ここから離れなければと思いつつ、私は湯船に近づいた。そしてパジャマ姿のまま、縁に腰を下ろした。顔の筋肉を緊張させ、笑みの形を作る。
「私はさっき入ってしまったんだよ。だから、今日は良いんだ」
「えー」
 ヨウが唇を尖らせる。透明な湯の中に、ヨウの裸体が揺れている。私は引き剥がすようにして視線をそこから離した。無くなったと思っていた。子供の体への欲望が、蘇っていた。
 体の芯で、興奮がくすぶっている。
「そんなことよりその怪我はどうした。また……苛められたのか?」
 少し、間があった。
 眼鏡の曇りを神経質に指先で拭いながら、私は待った。返答しだいでは、何らかの行動を起こすつもりだった。弁護士でも教育委員会でも良い。どんな手を尽くしても、この子供を守る。欲望と同時に、そんな純粋な気持ちが私の中に芽生えていた。
「苛めとは、ちょっと違うかな。喧嘩したんだ」
 ヨウの声が湯気の間をふわふわと漂っていく。
「相手は?」
「オレと……ちょっと、問題のあったヤツら」
 いじめっ子たちだと、私は理解した。また怒りの波動が高まる。
 ヤツらを、絞め殺してやりたい。
「勝ったのか?」
 愚問だと思いながら、私は聞いた。勝てるようだったら、そもそもヨウは苛められたりしなかっただろうと、そう、思っていた。
 だが。
「勝ったよ」
 ヨウは意気揚々と答えた。その目は、ぎらぎらと輝いていた。あの強い光をたたえている。子供とは思えない、複雑な感情がその中に渦巻いている。
「何もかも、びっくりだよ。ちょうどさ、自習時間だったんだ。課題のプリントをやっていてさ」
 監督する教員はいなかった。
 ほどなくヨウは、背後から何かが投げつけられたのを感じた。首を捻って振り向くと、足元には紙つぶてが落ちていた。そして、くすくす笑い。
 犯人は、分かりきっている。こんなことをするのは、いつものあのグループに決まっている。
 だが、証拠はなかった。
 ヨウはいらいらとプリントに向き直った。
 その途端、また何かが背中にあたった。続いてもうひとつ。
 別に、これくらい、なんということもない。ちょっと神経に障るだけだ。そもそもヨウは慣れている。
 だが、何故かヨウは爆発した。
「いい加減にしろよって、拾った紙屑を、投げ返したんだ。そしたらぶつけられたヤツがかかってきた。だから、オレは受けて立ったんだ」
「ヨウ」
 私は言葉も無かった。
 ヨウは小さい。
 はじめ、小学生かと思ったほどである。実際には中学一年であるが、その年代の平均的な体格をはるかに下回っている。喧嘩をして、勝てる訳がない。
「あいつら、笑っていた。取っ組み合いが始まったら、グループの他のヤツも立ち上がって近づいてきた。でも、オレ、絶対負けないつもりだった。あいつら全員でかかってきても、やっつける気だったんだ。だけどさ、勝っちゃった」  語尾が震えていた。
 ヨウの指が湯船の縁を強く握り締めている。力をこめすぎて、関節が白く変わっている。
 潤んだ瞳を私は見つめた。いまにも泣きそうな顔を、していた。
 だが激情の波をヨウは歯を食いしばってこらえた。
「びっくり、だよ。気がついたらさ。ク、クラスのヤツが、乱闘に加わってたんだ。オ、オレの、味方、してさ。女の子たちまで」
 いい加減にしなさいよ、と叫んでいた。
 ヤツらは、狼狽した。
 ヨウを苛めていたグループの人数は決して多くなかった。そして、誰かが邪魔に入るなどという事態を、予想していなかった。
これはゲームに過ぎなかったのだ。彼らにとっては。
「途中で先生が来て、喧嘩は止まったけど、今度は口論になって。み、皆が、あいつらが悪いって、」
 かばってくれた。
 ヨウには予想外の展開だったということが、その顔を見ているだけで分かった。
 皆無表情に傍観しているとばかり思っていたのだ、その時まで。自分の感情になど、関心はないのだと。だが違った。
 我慢できず、ヨウは泣きじゃくり始めた。両手で顔を覆い、顔をくしゃくしゃに歪めている。思いがけない好意がヨウを粉々にしていた。
 私は腰の位置をずらした。ヨウに近づき、掌で、黒く湿った髪を、くしゃくしゃにする。
ヨウの声が、堰を切ったかのように高まる。その頭を抱き寄せ、私は仰向いた。私の腰に顔を押し付け、ヨウは泣いた。
「先生、オレ、勝っちゃった」
 小さな手が、私のパジャマのズボンを握り締めている。
「うむ」
 私は肯くと、その頭のてっぺんにキスをした。


 ヨウは泊まっていくと言い張った。短い押し問答の後、私はヨウの両親に電話を掛け、外泊の許可を貰った。
 奇妙な話である。しきりに恐縮していた両親も、そう思っていることが、電話越しになんとなく感じられた。それはそうだろう。同年輩の子供がいるならともかく、私のような年寄りと一緒にいて、ヨウは一体何が楽しいのか。実に不可思議である。
 私は寝室に鎮座したままになっていたダンボール箱を開き、ヨウのパジャマを取り出した。
 クリスマスのご馳走は何もないが、どうせ家で食事は済ませてきただろうと、紅茶を淹れる。ヨウのカップには温めたミルクをたっぷりと足し、甘いはちみつを垂らした。
 ヨウは少し眠たげな表情で、待っている。その膝の上には緑の包みが大事そうに置いてある。
「そら、ヨウ。舌を火傷しないように気をつけて」
 そういいながらカップを差し出すと、ヨウはうれしそうに受け取った。
「なぁなぁ、乾杯しよう! クリスマスなんだしさ」
 私の持っているカップに自分のカップをちょんとぶつけ、メリークリスマスと一人ではしゃぐ。私もカップを掲げ、メリークリスマスとおどけて言うと、熱い紅茶を少しだけ啜った。ヨウもカップを両手で包み込むようにして、ミルクティを舐める。
 暖かな沈黙が降りた。
 私は満ち足りた気分でヨウを眺めていた。
 あれだ。
 仔猫を眺めているような感じ。見ていて、全然飽きない。ほんわかとして、幸せを感じる。
 仔猫は私を見てにゃあと啼く。落ち着き啼く、体を揺らす。
「なぁ、先生。オレ、プレゼント持ってきたんだ!」
「うん?」
「じゃじゃーん! な、これ! 開けてみてよ、先生!」
 いっぱいに手を伸ばし、突き出された包みを、私は頬杖を解いて受け取った。大きな割には軽い。リボンを解き、包装紙をパリパリ鳴らして開くと、中からはマフラーが現れた。ランダムなカラーのストライプがいかにも今の若者向きであるが、落ち着いた色合いなので、なんとか私でも使えそうである。
 私はパジャマの上からそのマフラーを首に掛けた。ヨウは照れくさそうに眺めていた。
「本当はもっと良いものを上げたかったんだけどさ、オレの小遣いじゃこんなモノしか買えなくてさ」
「いや、嬉しいよ。ありがとう、ヨウ。しかし参ったな。何も用意していないぞ、私は」
 思案する私に、ヨウはわたわたと手を振ってみせた。
「いいっていいって! オレ、先生にはいっぱい良くしてもらってんだから! これ以上、何もいらないよ!」
「そうか?」
「そう!」
 とはいえ、そのうち何かお返しをせねばなるまい──と思いつつ、私は紅茶を口に運んだ。
ヨウにあげるのは、何が良いだろう。学生なのだから、文房具か。服を上げても、面白いかもしれない。大好きなサッカーチームのユニフォームか、好きだといっていたブランドのジーンズ。かばんでも良い。
なんだか、わくわくする。
 あれやこれや考えていると、ヨウがカップをテーブルの上に置いた。
「あとさ、オレ、思ったんだけどさ」
「うん?」
「オレも先生の事、好きみたいだ」



つづく。




2004.2/28


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