すぱんと小気味の良い音を立てて、ボールがミットに収まった。
 内角低めのストライクゾーンぎりぎりのコース。バッターは動けない。
 早くて重い球だった。だが、キャッチャーはあれ、と小首を傾げた。当のピッチャーもにへらと笑って舌を出す。
 傍らで見ていた上原が笑いを含んだ声で言った。
「フォークを投げるって言わへんかったか?」
「言ったような気がしますねぇ」
「しますねぇ、じゃねーだろ。落ちてねーよ、全然」
「俺は落としたつもりなんだよ」
 投げ返されたボールをキャッチすると、ピッチャーは不審気に手の中のボールを睨み付けてみせた。
「ボールがおかしいんじゃねぇのか?」
「アホ言うとらんで、もう一回」
 上原の指示に、ピッチャーはもう一度バッターボックスに向かって構えた。長身をいかした美しいフォームでボールを送り出す。
 投球はのびやかな直線を描いてキャッチャーの手の中に吸い込まれていった。ミットがすぱぁんと気持ちの良い音を立てる。
「やる気あんのか、條辺!」
 マスクをかなぐり捨ててキャッチャーが立ち上がった。條辺に比べるとわずかに低いが、彼もかなりの長身である。いつもは茫洋としており、何処を見ているのか分からない瞳が、今はまっすぐに條辺を睨み付けている。
 がっちり筋肉のついた肉体が、とても高校生には見えない迫力を備え、相手を威圧しようとしていた。
 しかし肝心の條辺は、眉一筋動かさない。
 その代わり、緊迫する空気に耐えかねたバッターが、ブルペンから逃げ出した。二人とは比べようもない痩身短躯をネットの後ろに隠し、怖々と様子を伺う姿に、上原が気の毒そうな視線を送る。
 彼はまだ一年生。部長とエースの争いに巻き込まれては、今後の進退にも影響する。野球部を率いるべきこの二人は、非常に闊達で茶目っ気が強く、言葉を替えれば子供っぽい。下手な事を言うと、おまえあの時あいつの味方しただろと、後々まで苛められるのが明らかだった。
「あるある。やる気満々。でもほら、幾ら俺様が天才でもそう簡単にフォークが出来るようになっちゃったら、ドラマになんないじゃん。後々の伝記を盛り上げるためにもここは一つ挫折を織り込まねば」
「冗談言ってる場合じゃないだろ、真面目にやれ、真面目に!」
 ぽやんとした風貌の阿部が顔を真っ赤にして怒っている。それには取り合わず、條辺は爽やかな笑顔と共に上原を振り仰いだ。
「先生がフォークマスターしたときは、どうだったんですか。すぐ出来ました?」
「そうでもなかったわ。結構苦労した。だから、焦ることないんやで。こいつには一応、直球という武器もあるんやし。来年の予選までに出来るようになれば上等やん」
 後半は阿部に向けての牽制であった。阿部は基本的にはおっとりした性格であるが、生真面目過ぎる。特に野球に対しては真摯であり、妥協を許さない。そこが魅力でもあるのだが、マイペースに野球を楽しむ部員と時々軋轢を起こすことがあった。
 特に目の前にいる條辺とはしょっちゅう角突き合わせている
 マイペースと言ってもそこは甲子園常連の強豪校。元々のレベルからしてかなり高いのであるが…
「先生、俺握り方がおかしいのかなぁ」
 ボールを掴んだ拳を差し出す條辺に、上原は穏やかに微笑んで歩み寄った。片手で條辺の手首を掴むと、人差し指と中指の間に嵌っているボールの具合を返す返す眺める。
「握り方は悪くないんやけどな。やっぱり力のかけ方やないか? あと、意識しすぎるせいで、フォームがすこし崩れてる。変な癖がついたらあかん。ちゃんと普段通り投げられるよう、心掛けな」
「はいっ」
 元気良く応えると、條辺はスポーツマンらしい精悍な顔に、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「センセーの手って、すべすべして気持ちいいっすね」
 ぴくりと上原の顔が引きつった。
 條辺の、空いている左手が上原の手に重なっていた。指の腹がゆるゆると上原の肌を撫であげる。敏感な指と指の間を擦られ、上原はとっさに手を引いた。
 だが、條辺はしっかり握ったまま放してくれない。それどころか楽しくてたまらないといわんばかりに笑み崩れている。
 上原は本気でむっとした。
 最近部内で上原に性的な悪戯を仕掛けるのが流行っている。
 性的な悪戯と言ってもカワイイもので、馴れ馴れしく抱きついたり、べたべた触ってくる程度のものである。実害はない。
 これで上原が女性だったら立派にセクハラが成立するのであるが、上原はれっきとした男性である。神経質になる必要はないのかも知れないが、上原としては気にならない訳がなかった。
 何故なら、上原は彼らより五つも年上のOBなのである。しかも、野球を指導しているコーチである。来年にはこの学校の教師となることも内定している。そんな自分が舐められて、セクハラなどされていいのであろうか。いや、言い訳が無い。
 生徒たちの狼藉が自分の指導力の無さを指摘しているように思われ、上原は内心密かに悩んでいた。自信が無いから、生徒たちにも強く出られない。
 一発頭でも叩いてふりほどけば良いのに、しつこく絡みついてくる腕を振り払いきれず、漫才みたいな争いを演じてしまう。
 大事な練習時間をこんなことで浪費してはならない。何かぴしっと言わねばと上原が口を開いた途端、怒号が轟いた。
「いい加減にしろよバカーッ!」
 阿部が真っ赤になって立ち上がっていた。
「不潔ーっ!」
「おまえの脳みその方がよっぽど不潔じゃねーか」
 條辺があさっての方を向いて小声で呟く。耳ざとい阿部はなにーっとまた怒鳴り声を上げた。條辺はわざとらしく投球体勢に入る。
「さあって、投球練習再開しよっかなっと。阿部、投げるぞー」
 しかし怒った阿部は捕手体勢に入ろうとしない。條辺は構わずボールを握った腕を振りかぶった。 「條辺っ」  阿部の耳の数センチ横を、剛速球が駆け抜けていった。
 ネット裏からぎゃあと叫び声がする。ネットに張り付いて見学していた一年生が、目の前に飛来したボールに腰を抜かしていた。ネットを掴んだ指にあたっていたら骨折しかねない球威である。
 阿部が青ざめた。
「危ないじゃないかっ」
「てめーがちゃんと受けないからだろ。ホラ、ちゃんと位置につけよ。一年も、そこにいたらダメだって前言わなかったか?」
 條辺が先輩面で注意を促す。生真面目な部長の悲しさ、憤懣やるかたない顔をしながらも阿部は腰を落としミットを構えた。
 上原はその様子を眺めながら、思春期だなぁなんてのんきなことを考える。
 手を握って不潔だなんて、死語だと思っていた。
 潔癖さが初々しい。
 阿部が上原に関することにだけ過敏症なことに、まるで気付いていない。そしてまた、皆が阿部が見ているときに限ってセクハラを仕掛けてくることにも。
 條辺がゆっくりとボールを振りかぶる。冗談を言っていたときとは別人のような真摯な顔をして、手の中のボールを勢いよく阿部に向かって押し出す。放たれた球はわずかに軌道を落とし、阿倍のミットに弾かれた。
「あっ」
「曲がった? 曲がっていたよな?? どうですか、先生!」
 上原は苦笑する。
「阿部、これくらいで球取りそこねていたら、あかんよ」
「はいっ。まさか曲がるとは思ってもいなかったんで」
 ささやかな阿倍の反撃に、條辺が唇を尖らせてみせる。大きなカーブを描き返されたボールを、條辺が手慣れた動作でキャッチした。そのボールに向けて、上原が手を差し出す。
「貸してみ?」
「え」
 緊張が、走った。


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