一瞬躊躇したが、條辺は上原にボールを渡した。要求されるままに場所を明け渡す。
 投球位置に立つ上原を、阿部は不安げな様子で伺った。
 それには気付かない振りをして、上原はボールを手の中に握り込んだ。グラブをはめているつもりで、右手を左手で包み込む。胸元で構え、ホームに目をやると、阿部が慌ててしゃがみこんだ。
「これが、直球」
 バシンと音を立てて、ボールがミットに吸い込まれた。その衝撃に、阿部が驚いたように眉を寄せる。135キロを越える速球は、まだ高校生の條辺の投球に比べ遙かに重い。
 阿部の口元が何か言いたげに開かれる。上原に、阿部が何を言おうとしているのか、予想がついた。無理はするなとか、そんなところだろう。
 どんな言葉も聞きたくなくて、上原は間をおかず阿部に向かって手を伸ばした。
「つぎに、フォーク。阿部、ボールを」
 催促されて、阿部が慌てて投げ返す。上原は最前とまったく同じフォームでボールを構えた。そして、投球。
 球が、ぐんと曲がる。
 横から見ている條辺からはなだらかなカーブにしか見えないその軌跡は、阿部には目前でいきなり沈み込んだように見えた。かろうじてキャッチする。
 バシンと、ミットが音を立てた。
「どや、結構落ちたやろ。これくらい曲がらんと武器にはならへんねん。條辺、精進精進」
「…はい」
 條辺は気の抜けた声で呟いた。
 普段と変わらない上原の様子に、張りつめていた空気が弛緩する。阿部が片膝を突いて、ほっと息を吐いている。
 それらを目の端で捕らえ、上原は苦々しい気持ちを噛みしめた。ネットの際まで後退して、條辺に練習を続けるように合図を送る。
「はいっ」
 溌剌とした声を返すと、條辺は投げ込みを開始した。
 真剣な面もちでホームを睨み付け、渾身の力を込めて球を放つ。部員の中でも、一際目立つ集中力と気迫。
 上原には分かる。
 條辺には才能がある。
 時折アドバイスを与えながら、上原は條辺の健やかな肉体をぼんやり眺めた。
 まだ体は出来上がっていないが、若々しい力が全身に漲っている。そして野球にかける情熱は、熱い。
 教師という立場上、上原は努力さえすればいつかは報われるのだと説いているが、それは嘘だ。
 才能が無ければどうしようもない事もある。
 特に一つ上の立場から大勢の生徒たちを見ていると分かる。
 ここ、Y学園は甲子園常連の強豪校で、野球部員の数は百名近い。当然レギュラーの座を勝ち取るため、部員の間には常に熾烈な競争が繰り広げられている。皆野球部に入って甲子園に行く心づもりでこの学校に進学して来たものばかりであるから、レベルも高い。努力も他校の生徒とは比べものにならないくらいしているだろう。
 レギュラーになれた者は選りすぐりの先鋭である。
 だが、その中でも明確な格差があった。
 才能のある者と、努力でなんとか這い上がってきた者。
 上原の目には三人、野球の才能に恵まれた生徒がうつっている。
 條辺と阿部、それから三浦。
 彼らは怪我でもしない限りレギュラー落ちすることはないだろう。
 その他大勢との力の差は歴然としている。
 たまに彼ら以外の部員が哀れに思えることもあるが、彼らは彼らで充実した青春を送っているのだ。例えその先が無くても、ここで揉まれた経験はこれからの人生においてプラスになるだろう。
 だが、三人は。
 多分プロになれる。
 ずきん、と上原の胸が疼いた。


「先生、うちに飯食いにきませんか」
 ジャージから私服に着替えて体育教官室を出ると、阿部が待ちかまえていた。
 すでに秋の日は落ち、窓の外は真っ暗だった。校内の照明も落とされ、教官室から漏れる蛍光灯の白々とした光だけが廊下をわずかに照らしている。
 阿部に付き合わされたのだろう。條辺と三浦も、疲れた表情で壁にもたれ、控えていた。
 三人とも紺のブレザーにネクタイ姿であるが、三浦だけは襟元をくつろげ、ネクタイも首にひっかけただけのだらしない姿だった。ズボンのポケットに手を突っ込み、背中を丸めている。
「あれ、三浦。おまえ今日の練習におらんかったやろ」
 上原が眉を顰めて言うと、三浦はいかにも心外といった表情を作ってみせた。
「いましたよ。センセ、部員の数が多いから気付かなかったんじゃないですか」
 見え透いた嘘に、アホウと頭を小突いてやると、三浦はくすくす笑った。いつもの無表情が崩れ、子供っぽい顔になる。
「先生、そんなことより、飯」
 無視された阿部が、ぷうっと頬を膨らませて二人の間に割って入った。でかい図体に似合わぬ可愛らしい仕草に、自然に笑みがこぼれる。
「あのなあ、教師っちゅーいうもんは、特定の生徒と校外で仲良くしたらあかんことになってんねん」
「そんなの、どうでもいいじゃん。センセーまだ本当の先生じゃないんだし。親父、先生のファンだったんだよ。店に連れて来いってうるさいんだ」
 ファンだった、という過去形に、きゅっと胸が切なくなった。わずかに瞳を揺らし、上原は曖昧に笑う。
「阿倍ちんの親父さんの店、うまいんですよ。俺らもよく食いに行くんです。今日も、な」
 阿部の脇腹を條辺が肘でつついた。援護射撃に力を得た阿部が勢い込んでうなずく。
「そうそう、マジ美味いっすから。いっつも練習ばっかで、あんまり話とかできないじゃないですか。俺ら、先生の高校時代の話とか、全日本の話とか聞きたいんです。大学のこととかもそろそろ考えなきゃいけないと思うし」
「…おまえは、高校卒業と同時に球団入りやろ」
 思わずそう言うと、阿部は目を丸くした。顔のまえで両腕をぶんぶん振り回す。
「とんでもない! 何冗談いってるんですか!」
 上原は、あははと声を上げて笑った。からかわれたのだと思った阿部がまたもや頬を膨らます。
 三浦が着替えの入った巨大な鞄を揺すりあげた。
「なあ、早く決めてくんねぇ? 俺、腹減った」
「だったらおまえも先生説得しろよ、三浦」
「…行きたくないのを無理に誘うことはねぇだろ」
 ぽそっと漏らした言葉に、條辺が天を仰いだ。阿部の声がひっくりかえる。
「なんてこと言うんだ、三浦っ!」
「いやいや、三浦はオトナやなー。ほんなら、俺は帰る。おまえらも明日朝練あるんやから、遅くまで遊んでんなよ」
「せんせ〜!」
 背を向けて歩き出した上原の背に、阿部が悲痛な声を投げた。角を曲がる際に、振り向いて手を振ると、目を潤ませた阿部がわざとらしいくらいのオーパーアクションで手を振り返してきた。
 條辺はかがみ込んでなにやら荷物をかき回している。
 一歩下がったところから三浦が無表情に上原を見つめていた。
 その視線は、酷く密度が高いようにも、また無心のようにも感じられた。全く感情が読みとれない、黒々とした瞳。
 …案外、生徒の助け無しには誘いを断ることも出来ない上原の気弱さを蔑んでいるのかも知れないなと考え、上原は自虐的な笑みを浮かべた。
 すでに明かりの消えた廊下は闇に沈み、自分の立てる物音だけがうつろに響いている。
 なんとはなしに、冷え冷えとした気分で、上原は駐車場への扉を開けた。


 教師になど、なる予定ではなかった。


novel  next