「センセv」
 ハートマークがついた声と共に、後ろから伸びてきた腕に抱きしめられ、上原はむっつりと手近にあったボールペンを掴んだ。
 窓は全開にされているが、狭い部室にはどことなく汗くささと埃っぽさが篭もっている。ひびの入った窓から差す陽光に、ちらちら細かい塵が舞う。
 目の前の古びたテーブルには、コンビニで仕入れた食料と野球雑誌、そして今週の練習メニュー表が広げられていた。ちょうど、昼休みを利用しての打ち合わせの最中だった。
 テーブルの向こうには、部長である阿部と副部長である條辺が座っている。その阿部のこめかみに、みるみるうちに青筋が立った。
 むんずと目の前にあった物を掴む。
 気付いた條辺が、とっさに横手から阿部を押さえ込もうとする。しかし時すでに遅し。條辺の貴重な卵サンドイッチは宙を舞い、狼藉者の額に命中した。
「なにしてんだっ!失礼じゃないか、その手を放せ、カワモト!」
「あいたたたたたたっ」
 阿部が直接手を下すまでもなかった。上原は無礼な手首をがっちり捕らえ、手にしたボールペンででかでかと「バカ」の文字を書き付けた。尖ったペン先にえぐられる苦痛に、川本が甲高い悲鳴を上げる。
「センセー、ヒドイっすよー」
「おしおきや」
 上原とても、いつもいつもやられてばかりいる訳ではないのだ。
 勝ち誇り、ふんと鼻を鳴らす上原に、川本は子犬のようにつぶらな瞳をうるうるさせて見せた。とはいえがっちりした肩幅にいかついご面相の持ち主である。ちっともかわいげなど無い。
「カワモト、おまえだけ腕立て伏せ二倍な」
 冷ややかにトドメをさす阿部に、川本は盛大にブーイングを上げた。
 いつもとは違って、妙に余裕のある声だった。
「部長、そんな、私情でメニュー決めちゃ、ダメっすよー」
 意味を解せず、上原が振り返る。その後ろで、阿部の顔が茹で蛸のように赤く染まった。
「この、カワモトっ! てめぇ、ふざけんなよっ」
 机ががたがたと激しく揺れ、上原はぎょっとして上半身を捻った。條辺の制止を振り切った阿部が、席を蹴って飛び出していた。
 大きな木の机を回り込み、川本を捕まえようとする。だが、がらくたが目一杯詰め込まれた狭い空間である。まっすぐに到達することが出来ず、周囲に置かれたパイプ椅子や用具にぶつかり、蹴倒しながら前進するという、何とも騒がしい突進になった。
 川本は笑いながら軽いステップで机の反対側に回り込む。
「阿部!止めろよ!打ち合わせ中だぞ!」
「もー我慢できねぇっ! てめぇら皆して俺のことからかいやがってっ!」
「阿部!」
 上原が 二人の間に割って入ろうとした。その時、阿部が机の脚につま先を引っかけて体勢を崩した。
「先生!」
 止めようがなかった。
 勢いのままに阿部は上原の上に倒れ込み、上原は後ろにいた川本の上に仰向けにひっくりかえった。
 一番下になった川本が最も哀れであった。二人分の体重を背負って倒れた先には、パイプ椅子や細々としたものが詰まったカラーボックスがあった。
 ぐえ、と蛙が潰れたような声がした。

 上原は、とっさには動けなかった。
 体の下に、川本が埋まっている。だが、自分の上にも重い体がのしかかっている。試しに少し動いてみると、川本が死にそうなうめき声を出した。
 阿部がどかねば動けない。
「阿部?」
 しかし、阿部が起きあがる気配は無かった。
 自分の上に倒れたのだからそんなにダメージを受けたはずはないのにと思うのだが、上原の肩口に顔を埋めたまま、動かない。
「阿部、どっか痛めたんか?」
 上原は困って條辺を見上げた。
 手助けしようと、すぐ足元までやってきた條辺は、だが何故か手を出そうとはしなかった。
「阿部?」
 ゆるゆると阿部が床に手をついた。上半身が浮いて、上原はほっと息を吐いた。
 だが、阿部はそれ以上動かない。
 怪訝そうな顔を向けると、阿部はひどく苦しそうに上原の顎の辺りを睨み付けていた。
 その眉間の皺の深さに、上原は再び心配になる。
「阿部?」
「…センセイ…」
 一度は上がった上体が、また沈んできた。しかも、心持ち位置がずりあがっている。
 近づいてくる顔を見返しながら上原は、足首でも捻ったのだろうか、それとも手首かなどと、とんちんかんなことに想いを巡らせていた。
 ふわりと生暖かい息がかかる。
 このままだと顔がぶつかるなぁなどと思っていたら、いきなり顔が遠のいた。
「がっ、んぐっ!」
「何やってんだ阿部。プロレスごっこか? 川本が圧死しているじゃねーか。ホラ起きろ」
 何時の間に入ってきたのか、三浦が長身を折り曲げて、だんごになった三人の上にかがみ込んでいた。  鈎型に曲げられた二本の指が、阿部の鼻に上向きに圧力を与えている。痛みを和らげようと、阿部の上半身が仰け反り、釣り上げられるような格好で、ようやく阿部が上原の上から取り除かれた。
 ほっと息を吐いた上原の腕が強い力で引かれる。
「ダイジョーブ? センセー」
「ああっ、三浦、乱暴したらあかん! 阿部、どっか痛めたんやないか、今」
「こいつは殺しても死なねぇよ」
 上原を立たせながら面倒くさそうな声で答えると、三浦は不意に上原の顎を掴んだ。
「三浦!?」
「ああ、悪ィ、怪我してんのかと思った」
 ぱっと手を放すと、三浦はわざとらしく一歩後ずさって上原から距離を取った。
 そういえば三浦にセクハラされたことは無かったなと気がついて、上原は改めて三浦を見る。三浦はいつもと同じ無表情で、淡々と上原を見返した。
 背後でがらがらとものの崩れる音がする。
「あーっ、もーっ、死ぬかと思ったー! いたっ」
 ようやく起き上がった川本が、條辺に叩かれて頭を抱えた。
 阿部は、机に寄りかかるようにしてうずくまっていた。
「阿部?」
 近づくと、ますます深くうなだれる。上原はその傍らに膝を付いた。そっと肩に手を置く。
「阿部、どっか…」
「大丈夫ですから!」
 條辺が唐突に大声を出した。
「こいつは、大丈夫ですから、気にしないで下さい」
 そのままつかつか近づいて、ひきずるようにして阿部を立たせる。阿部は人形のように條辺に従った。
 顔が、赤い。
 ぴりぴりと張りつめた空気は、上原の口出しを許さないものがあった。
 教師なのに。
 できることが何一つ見つからない。
 状況の把握さえ出来ていない。
「センセ、昼休み終わるよ。いこ」
 ぶっきらぼうに声をかけられ、上原は後ろ髪を引かれる思いで部室を後にした。先に立つ三浦の背中を難しい顔で睨み付ける。
 訳が、分からなかった。
「三浦…」
 頼りない声で問うと、三浦は足を止め、上原を振り返った。
 整った顔には、何の表情も浮かんでいない。
 阿部はどうしたのかと、聞こうと思って、やめた。
 自分だけが蚊帳の外にいるような不安感があったが、この男に聞くのだけは嫌な気がした。

 その夜久しぶりに野球の夢を見た。
 野球場の上に広がる青い空と、吸い込まれるように消えていく白球。
 とても幸せな夢だったはずなのに、目が覚めるとどうしようもなく悲しくなって、上原は布団の中で膝を抱えた。

 もう一度、マウンドに立ちたい。

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