間延びした終業チャイムが響き渡り、下校を促している。
 着替えの入った鞄を担いで体育教官室に向かって歩いていると、女子生徒たちが興奮した様子でばたばたと走り抜けていった。
 昇降口をくぐったときから変だなと思っていた。学校中が妙に浮ついている。
 埃っぽい廊下を折れて消える背中を見送り、上原は首を傾げた。
 足音が遠ざかると、特別棟の中はしんと静まりかえる。
 上原は頭をかくとのろのろと教官室に向かった。教員用の更衣室を借りて、着替えるためだ。それからすぐに校庭に出て部活の指導。練習のメニューを頭の中で反芻しながらからりと引き戸を開ける。
 教官室に入ると、他の先生方が窓に鈴なりになっていた。開いた窓からざわついた生徒たちの声が聞こえてくる。きゃあきゃあという女子の嬌声が姦しい。
「どうしたんですか」
「いやあ、それが植木が邪魔で分からないんだよねー」
 バッグを足元に置くと、上原も窓から身を乗り出した。
 体育教官室の直ぐ下は正門に通じる通路になっている。その向こうが一段低いグラウンドだった。
 大勢の生徒が集まって騒いでいるのは分かるが、肝心の中心が通路に植えられた銀杏並木に遮られて見えない。部活の準備をしているはずの野球部員も混ざっているのに気が付き、上原は顔をしかめた。
 その中の数人が窓辺の上原に気が付いた。両手でメガホンを作り、なにやら怒鳴っているが、周りの声が煩くて聞こえない。首を傾げてみせると手招きされた。
「呼ばれていますな」
「そうみたいやなぁ。俺、行って来ますわ」
 フットワークも軽く、上原は廊下に飛び出した。誰もいないのを良いことに、走って昇降口にまわる。
 校庭に出ると、校舎の窓にも生徒たちが鈴なりになっていた。校庭にはうじゃうじゃと人だかりが出来ている。
 その中心にベージュの皮コートを着た男がいることに上原は気付いた。
 私服ということは、生徒ではないと言うことだ。校外からの侵入者か。
 人だかりの最前列には、野球部員ばかりが集まっている。上原に気付いた一人が男の注意をひいた。
 周囲より頭一つ高い長身が振り返る。よく、知った顔だった。
 苦い痛みが上原の中を駆け抜ける。
「…タカハシ」
 その男は、顔をほころばせた。どこか甘い雰囲気のある顔立ちがふわりと柔らかさを増す。
 人垣を割って上原に近づいてくる。
「久しぶりだね。元気?」
「おう。ドラフト一位、おめでとうさん」
「うわ、もう知ってた? 上原こそ就職内定、おめでとう。あ、これ、差し入れ」
 いいながら差し出されたペットボトルの袋を受け取り、上原は近くにいた部員に渡した。
「サンキュ。プロ入りの報告に来たんか」
「そう。みんな変わっていない?」
「ああ」
 答えると、上原は眩しそうに目を眇めた。
「おまえ、プロになるんやなぁ」
 高橋は照れくさそうに頭をかく。
「ま、どうなるか分からないけどね。俺の野球がプロ相手に通用するかどうか」
「大丈夫や。それより後で野球部の練習に参加せえへんか? プロになったら、禁止やろ」
「ああ…、そうだね」
 上原は、にかっと笑うと、ぽんと高橋の肩を叩いた。
「よっし、こき使ったるわ。こっちで着替え」
 部員の間からわっと歓声があがる。
 高橋が足元に置いていた鞄を担ぎ上げるのを待って、上原は先に立った。なかなかどいてくれない生徒たちの間をすり抜けるようにして、特別棟に向かう。高橋と共に、歓声やら嬌声やらの大変な騒ぎも上原の後を追ってくる。特別棟に逃げ込んだときにはもう、高橋はもみくしゃだった。
 むしられた髪を手櫛で整えながら、高橋はふうと深い息をついた。
「なんか、すごいなぁ。女の子にそこらじゅう触られちゃったよ」
「カワイイ子多いからって、変な気起こすなよ。おまえ、プロ野球選手になったんやからイロイロ自覚せなあかんで」
「いやはや。これからはサングラスが必須かな」
「そやな。だっさい黒眼鏡とかがええんとちゃう?」
 高橋は、上原と同期だった。上原同様、大学野球で活躍し、一年目から全日本入りした。そして昨日、日本で一番人気のある球団からの、ドラフト一位指名を受けた。
 上原もテレビで見ていた。甘いマスクでにっこり笑い、カメラに向かって自信に満ちた受け答えをする高橋の姿を。
 上原の夢見たコースを着実に進んでいる男。
 じりじりするような思いを押さえつけ、上原は弾んだ声をあげた。
「大スターになっても俺を忘れんとってくれて嬉しいよ」
「ばあか」
 高橋は鼻を鳴らすと、さっさと歩き出した。その二歩後ろを、上原が追う。
 さっきまでの喧噪が嘘のように、特別棟は静かだった。
 記憶より長くなった襟足を見つめ、上原はふっと現実感が遠のくのを感じる。高校の時は、二人で野球部を率いていたのだ。あのころが一番楽しかった。毎日泥だらけになって練習して、野球のことしか考えなくてよかった。
 何を恐れることなく、思いっきり、プレイができた。
 ふと足を止め、高橋が思いついたように聞いた。
「ところで上原、肩の具合はどうだ」
 ずきん、と治った筈の右肩に痛みが走ったような気がした。
 動揺を気取られまいと、上原はぎこちない声を絞り出す。
「…何ともないで。元気元気」
「痛んだり、しないのか? これから寒くなるし、もし調子が悪いようなら」
「平気やって、言うとるやろ!」
 感情を押さえきれず怒鳴ると、高橋は苦しそうに上原を見つめた。その表情を見て、上原は狼狽える。肩は大丈夫なのだ。大丈夫でないのは、むしろ。
「ほんまに痛んだりはせえへん。大丈夫や。それより変に気を回される方が不愉快や」
「そうか。…ごめんな」
「おまえのせいとちゃう。その話はもうええから。早く練習いこ。皆待っとるし」
 肩を押すと高橋は小さく笑って、歩き出した。
「そういえば、さっき生徒たちに聞いて驚いたよ。ここの教師になるんだって? 教えてくれないなんて、薄情だなぁ。電話の一本もくれれば皆集めてお祝いしたのに」
「あー…うん」
 歯切れの悪い上原の返事に、高橋が振り返り、片眉を上げてみせた。上原は慌てて言葉を継ぐ。
「そうかて、正式に決まったわけやないし、オレまだ全然教師らしくないし。なんか、タカハシに言ったらからかわれそうやし…」
「何かトラブルってんの?」
 上原は上目遣いに横を歩く高橋を盗み見た。
 高橋はゆったりとした笑みを口元に浮かべている。
「オレ、何かなめられとるみたいなんや」
「…って、何? 反抗されたりとか、無視されたりとか、虐められたりしてんのか? 服に落書きされたりとか」
 高校時代、蛇蝎のように嫌われていた英語教師がスーツに落書きされた事件があったことを思い出し、上原は少し顔をしかめた。
 あの頃はいい気味だと思っていたが、いざ自分が教師になってしまうと他人事ではない。自分がそんなイジメを生徒から受けたらと考えると、ぞっとする。
「そんなことはあらへんけど…。なんか、セクハラされるんや。やたらフレンドリーにベタベタ触られて…。抱きつかれたりとか」
 ぴたりと高橋の足が止まった。上原に向き直って、大仰に肩をすくめてみせる。
「男性教員が生徒にセクハラされるなんて話、聞いたことないぜ?」
「んなことわかっとんねん!」
「いーや、分かってないね。まったく。おまえは高校時代から全然進歩していない。隙だらけだ」
「なんやそれは! っとにおまえなんかに言うんやなかったわ!」
 むうっと唇を尖らせた上原の両肩を掴んで自分の方を向かせると、高橋はじっとその顔を覗き込んだ。
「何?俺様にそんな口きいていいと思ってんの、上原」
 威圧感のある声に、反射的に首を縮めた。
 そんなことを言われるような心当たりは欠片もない。欠片もないが、高橋がこんな声を出すときにはろくなことがないと、経験で知っている。
「な、なんやねん、その偉そうな態度は」
「じゃあ言うけど。上原、高校の時もセクハラ受けていたよね。先輩とかOBとかに」
「そんなことあったっけ?」
「あった」
 自信満々の高橋に、上原の確信は揺らぐ。
 高校時代に余り不快な思いをした記憶はない。だが言われてみれば、上級生に冗談交じりのちょっかいを出されたことがあるような気もする。
「そやかて、そんなん、一時のことやん。すぐ止んだし」
「上原はなんですぐにセクハラが止んだか、分かっている?」
 嫌な予感がした。
「だって、俺かて男やし。此処共学やし。俺なんかより、女子マネ構ってた方がよっぽど楽しいに決まってるし」
「まァ、気付いていないとは思っていたけどね。あのね。俺が手を打ったの。上原にちょっかいだすなって。変なコトしたら、ただじゃ済まさないぞって」
 上原の眉間に皺が寄る。
 なんだそれは。変なコトって、なんだ。
 全体的に文法が変な気がする。どうして自分が高橋に守られねばならないのか。言われた方だっておかしいと思うはずだ。高橋は上原の保護者か?
「おまえほんっとにバカだな」
 高橋の目が細くなった。
 心底呆れかえっている。
「普通好きな奴にちょっかいだされたら、男だったら黙っていないだろう?」
「は?」
 眉間の皺がますます深くなる。
「ちょい待ち。誰が誰を好きなんやて?」
「俺がおまえを、だ」
 たっぷり三十秒、上原は考え込んだ。
「っっっっっっだ〜〜っ! 何いうてんねんっ、おまえは〜っ!」
 絶叫する上原に、高橋がさらに一歩近づいた。
 体が反射的に後ろに逃げる。
 高橋はニヤリと笑うとさらに上原を追いつめ、ついには壁際に追い込んでしまった。
 上原を囲い込むように両腕をつく。
 上原の瞳に怯えが走った。初めてみる高橋の凶悪な表情に、すくんでいる。
「な、なんやなんやっ! おまえ、俺のこと、…その、好き、なんか??」
 高橋はにっこりと微笑んだ。


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