「いや、別に。友達としか思っていないよ」
「…………、な、なんなんや〜…」
一気に脱力し、上原は壁に張り付いた。
「でも周囲はそう思っていた。そういう噂が流れていたの。本当に知らなかった?」
上原はぶんぶん首を振った。全然知らなかった。
高橋が、がっくり首を垂れる。
「とにかく。友達がご無体な目にあいそうなのを見過ごすわけにもいかないし、そういうことにしておいた訳。言うだけならタダだしね」
「タダ?」
「俺を敵に回すと分かっていて、お前に手を出すような命知らずがいるわけないだろう?」
確かに。
上原にはどうにも理解できないが、高橋は一年の時から皆に恐れられていた。上級生でさえ高橋には一目置いていた節がある。
「だけどなぁ。就職した後まで俺が睨みをきかせるのは、難しいしなぁ」
「てゆか、そんなん、俺がいやや! ホ、ホ、ホモやなんて…っ」
「そぉか? 俺は気にならないがなぁ。上原のステディ役なら」
くっと顎を上げると、高橋は不敵に微笑んだ。
避ける間もなく顔が寄せられる。
ちゅっと音をたててキスをされ、上原は真っ赤になった。
「何すんねんっ」
「照れるなよ、ハニー。俺はいつでもおまえのことを見守っているぜ?」
「アホっ」
頭から湯気を出して怒っている上原の頬にもう一つおまけにキスをすると、高橋は上原から離れた。
「さって、先生方は元気かな?」
「話を逸らすなやっ!」
きゃんきゃん吠えながらまとわりつく上原を、高橋は上手にいなした。
飛んできた鉄拳を逆に捕らえ、手首を掴む。引きずられて蹌踉めく上原ににっこり微笑む高橋の目には、もう三人、余分な人間がうつっていた。
蒼白になって固まっている阿部。目に見えて狼狽え、傍らの三浦のジャージの裾を掴む條辺。完璧なポーカーフェイスで二人を見送る三浦。
高橋はさらに上原を引き寄せると、腕で首を抱え込み、振り向けないように拘束した。もちろん上原はじたばたと抵抗するが、高橋の鋼のような腕は揺るがない。気付かれないように、そっと人差し指を唇にあてる。
誰にも言うなのサイン。
條辺だけがこくこくと頷いた。
にっこり微笑むと、高橋は指を昇降口に向けて傾けた。
行け。
三浦が真っ先に踵を返した。いつもは少し猫背気味の背中をぴんと伸ばしている。條辺が阿部を引きずるようにして追った。無抵抗に従いながら、阿部の目は執拗に高橋を睨み付けていた。
あからさまな嫉妬に、高橋は笑う。
拘束からのがれようと必死の上原はその気配に気付かない。
「かわいいねぇ」
「誰がや!」
「いやいやこっちのこと」
上機嫌で高橋はそのまま体育教官室まで上原を引きずっていった。他の先生方にまでみっともない姿を見られた上原がむくれたのは言うまでもない。
その日の練習は、高橋の独壇場だった。
野球部員のみならず一般生徒までも、未来の花形選手を見ようとひしめきあい、帰ろうとしない。
部員と一緒に走り込みとストレッチをこなした高橋に、上原がバットを差し出した。
「折角やから、プロのプレイを見せてもらおか」
高橋はすぐにはバットを受け取らず、上原を見返した。見守っていた部員たちの間にも緊張が走る。
以前の事故のことを、皆思い出しているのだ。
この空気が、嫌だった。上原の一挙手一動足を見守り、腫れ物に触れるかのように上原を扱う皆の態度が、たまらなかった。だからあえて、以前と同じタイミングで、同じ言葉を選んだ。でも、同じなのは、ここまで。
「うちの花形ピッチャーの力試しをして欲しいねん。條辺、ウォーミングアップは済んでいるやろ。滅多に無い経験や。こいつに勝負してもらい」
「は、はいっ」
不意に声をかけられ、條辺が裏返った声をあげた。変な声に、笑いが零れる。凍り付いていた空気が解け、皆が一斉に動き出した。
「そういうことなら、喜んで。…お手柔らかに頼むよ」
條辺に向け、片眉をあげてみせ、高橋はバッターボックスに向かった。周囲ではすでに観戦しやすい場所の奪い合いがはじまっている。
ピッチャーマウンドに立った條辺の元に、捕手が駆け寄ってきた。鬼気迫る表情に、條辺が思わず及び腰になる。その襟首を掴み、阿部は脅迫した。
「ぜっっっっったいに、三振にしろよ」
「…いや、もちろんそのつもりで投げるけどさ」
「三振にすると誓え」
「誓ってもいいけど…打たれるかも」
「そしたら二度とうちの店の敷居はまたがせねぇ。今までうちで飲み食いしていた分もきっちり精算して貰う。ノートも貸さねぇし、コンビも解消だ!」
「阿部ちん、無茶言うなよ〜っ」
「いいから、やれっ」
日頃ぼーっとしている阿部の迫力に押され、條辺はしゃがみこんだ。ばたばたと足音が遠のき、阿部が位置に着いたことが分かる。
頭を抱えている條辺に、高橋の笑いを含んだ声が飛んだ。
「どうした、花形ピッチャー。勝負をする前に降参か?」
「な訳ないでしょ!」
勢いよく立ち上がると、條辺はバッターボックスを睨み付けた。高橋が地面に突いたバットに寄りかかる姿勢で、腰に手を当てている。余裕の表情が憎たらしい。
「始めましょうか」
ボールをグラブの中に握り込むと、高橋は姿勢を正した。バットを二三度振り、調子を確かめてから、構える。
バットがぴたりと止まると同時に、空気がぴんと張りつめた。
甘い風貌はそのままなのに、目だけが鋭く、條辺を捕らえている。
條辺もまた、本気モードに入っていた。
相手がプロだとか、憧れの選手だとか、そんなことは全部頭の中から閉め出して、投げ勝つことに集中する。
グラブを胸の前に構えて、呼吸を整える。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
雑念も、周りの雑音もすうっと消え、ピッチャーとキャッチャーだけが、残った。
相手が誰であろうと関係ない。
習い始めたフォークはまだモノになっていないから、武器は直球だけ。プロに比べたらそれもまだまだだろうけど。
そんなのは、どうでもいい。
勝ちたい。
條辺は大きく振りかぶった。
渾身の力を込めて投げ込む。
ボールが指を離れた瞬間、よし、と思った。
内角低め、会心の一投だった。
なのに。
鈍い音と共にボールは條辺の頭上を越えていった。
秋晴れの空に大きなアーチを描き、遙か遠く、フェンスを越えて消えていく。
皆言葉もなくそれを見送った。
「ま、こんなもんでしょ」
高橋の呟きと共に、わっと歓声が上がった。
「すごい、やっぱりスゴイっ」
「初球でホームラン!? かっけーっ」
拍手がマウンド上の三人を包み込む。
阿部は呆然とボールの消えた辺りを眺めていたが、頭を小突かれて顔を上げた。
高橋が人の悪い笑顔を浮かべて、阿部を見下ろしていた。
「勝負は俺の圧勝だな。悪いけど、おまえらみたいなガキとはレベルが違うんでね。…上原には、ちょっかい出すなよ」
言葉もなく、阿部はがっくり肩を落とした。
そんなやりとりには気付かない條辺が、嬉しそうに駆けよってくる。
「高橋さんっ、もう一球! もう一球、お願いしますっ」
「おや、まだ俺と勝負する気? 何度やっても俺には勝てないと思うけど」
「いや、三振とれるとは思ってませんけど…じゃなくて、ええと、勿論勝つ気でやりますけど、なんていうか、今の、すんごく、気持ちよかった」
「打たれて気持ちいいなんて、君、マゾ?」
「いや、そうじゃなくて、この、緊張感が。あの、ヌルい練習試合の百倍勉強になるというか。あああ〜っなんて言ったら良いんだ、この気持ちを〜っ」
頭を抱えて身もだえる條辺に、高橋は穏やかに笑う。
「かわいいねぇ。いいよ。やろう。とりあえず四球にちなんであと三球はつきあうよ。そしたら、別の投手に交代ね」
「はいっ」
ばたばたとマウンドに走って戻る條辺を見送って、高橋は阿部を足でつついた。
「何すんですかっ」
「うだうだしてんじゃない、勝負再開だ。おまえキャプテンだろ。チームを引っ張っていく立場だろ。しけた顔してんじゃない。野球やっている間は締まっていけよ」
「…言われなくても、大丈夫ですっ」
噛みつかんばかりの勢いで吠えると、阿部はミットを構えた。瞬時に表情が変わる。
高橋は目を細めた。
楽しい。この自分に、身の程知らずにも挑戦しようとする意気込みが、可愛くてたまらない。実に苛め甲斐がある。
上原の貞操云々の問題はすでに頭から飛び去っていた。己の楽しみのために高橋はバットを奮い、いたいけな高校球児たちを容赦なくたたきのめした。
上原は、人垣の一番前で勝負を見守っていた。
條辺も阿部も手塩にかけて育てている選手である。高橋相手に勝てるとは思っていないが、本気で挑もうとしている姿を見ていると肩に力が入った。
特に條辺は自分と同じ投手だから、感情移入してしまう。
條辺が振りかぶったとき、上原は文字通り息を詰めていた。
條辺の体に、緊張はなかった。いつも通りの伸びやかなフォームは、満点に近い。
だが、そのボールが條辺の手を放れた瞬間、上原は打たれることを予感した。
レベルが、まるで違うのだ。高校野球ではまず打たれることのないボールだろう。だが、数々の経験を重ねた高橋の敵ではない。
ぎん、という鈍い音が上原の心臓に突き刺さった。
消えていく白球を見送る。
自分だったら。
上原は思う。
自分だったら、高橋を押さえ込めた。
驕りではない。本当に。
それだけの力を持っていたのだ。
皆が高橋に注目している隙に、上原はその場を抜け出した。辛くて、たまらなかった。
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