教室も屋上も、高橋を見物している生徒でいっぱいだった。
 少し考えて上原は体育館の裏手に回った。教師の特権である合い鍵を探し、古い体育用具室に潜り込む。ずっと締め切ってあるせいで、空気がカビくさい。一つだけ高い位置に開口している明かり取りの窓から差す陽光に、ちらちらとほこりが浮いている。
 壁に沿って積み重ねられたマットの上に、上原は膝を抱えて座り込んだ。

 もう一度、プレイをしたい。

 マウンドに立って、高橋と勝負をしたい。

 ずっと蓄積され続けていたフラストレーションだった。
 投げられないのがこんなに辛いことだとは思わなかった。
 苦しくて、苦しくて、上原は拳でマットを叩く。
 あのとき無理をしなければなどと、無駄な後悔をするのはやめた筈だった。全部もう、取り返しがつかないことで、何を考えてもどうにもならないのだ。
 何もかもきれいさっぱり諦め、新しい仕事に打ち込むのが、これからの自分のすべきこと。
 そう、ちゃんと分かっている。
 だけど、駄目なのだ。
 才能ある選手が力を伸ばしているのを見ると、嬉しいと思う反面、どこかで悔しく思う自分がいる。未練がましく過去を反芻し、こんな筈ではなかったと、楽しげにプレイする選手たちを憎らしいと思う、醜い自分。
 生徒に対して嫉妬心を抱くだなんて、教師にあるまじき行為だと分かっている。
 Y学園に来たときは、こんな気持ちは無かった。気持ちの整理もつき、上原は心の平穏を取り戻していた。生徒たちを見ても悔しいなんて思わなかったのだ。
 それを全部ひっくり返したのは、高橋だった。



 小さな音に気がつき、上原は動きを止め、耳を澄ませた。
 確かに扉の方から金属が触れあう音がする。誰かが鍵をあけようとしているのだ。
 かちゃりと錠の外れる音がし、上原は体を堅くした。重い音と共に金属の扉が横にスライドする。
 途端に流れ込んできた光の洪水に上原は目を細めた。逆光の中に背の高いシルエットが浮かび上がった。
「あっれ、センセーもサボり?」
 三浦だった。ジャージ姿のまま、野球部のシンボルのようなでかい鞄を提げている。
 何も答えずにいると、三浦は鞄を足元に下ろし、扉を閉め元通り施錠した。それからマットによじ登ると、上原の横に座り込んだ。
 最も会いたくない相手だった。だが、別の場所を探す気力もなく、上原はそのまま座っていた。
 だが、三浦は腰を落ち着けると、ジャージのポケットから煙草を取り出した。
 未来の教師の目の前で校則破りをする三浦の根性に、上原は眉をひそめた。こうなると口を出さない訳にはいかない。
「三浦、おまえ不良やな。煙草なんて吸うと体力落ちるで」
「センセ、古いね。不良なんて、死語だよ。…分かってんだけどさ、たまに体に悪いことしたくなるんだよね。センセーそういう時、ない?」
 落ち着き払って答えると、三浦は慣れた仕草で振りだした煙草をくわえた。別のポケットからレトロなペーパーマッチを取り出し、火をつける。
 狭い室内に香ばしい火薬の匂いが立ちこめた。
 うまそうに煙を吸い込むと、三浦は火のついた煙草を上原に向かって差し出した。
「吸う?」
 予想外の展開に、上原は戸惑う。しばらく煙草を見つめていたが、首を振った。
 煙草は、吸ったことが無かった。吸っている人間のそばによることも避けていた。
 肺活量が落ちるからだ。
 全部、野球の為だった。
 上原は膝を抱え、俯いた。膝小僧に額を強く押しつける。
 全部全部、野球のため。
「センセーってさァ、カワイソーだよな」
 煙草を吸いながら三浦が言う。煙と一緒に言葉を吐き出す。
「皆にカワイソがられてさ。あれやられると、自分まで惨めな気持ちになっちゃうんだよな」
「……」
 煙った空気が肺の中に流れ込んでくる。
 上原は激しくせき込み、目に涙をにじませた。
 高橋は連絡を取る度に肩の調子を聞く。阿部は自分がボールを持つ度に心配そうな顔をするし、他の部員も上原の前では絶対肩や怪我の話をしない。
 気を使ってくれているのだ。それは彼らの善意だ。
 だが、それが目に付く度、上原は自分の不幸をつきつけられるような気がする。思い出してしまうのだ。自分がもう、投げられないことを。
 最初からそうであった訳ではない。上原は充分回復していた。周囲も怪我は過去の話として捉え、特に気を使ったりはしなかった。
 六月の暑い日、教育実習中に遊びに来た高橋を相手に、上原はボールを握った。部員を前にしたデモンストレーションだった。
 大丈夫だと思ったのだ。一試合投げきる訳ではない。だから、投げてしまった。たった一球だった。
 生徒たちに格好の良いところを見せたいという気持ちもあった。だがそれ以上に、プロ入り確実と言われている高橋を負かしてやりたい気持ちが強かった。
 悔しいとか妬ましいとかそんな気持ちではなく、純粋に高橋に対して自分の球がどれくらい通用するのかという、野球バカらしい心持ちで。
 良く晴れた日だったことを覚えている。
 久しぶりにマウンドに立って、グラブを嵌めて。渾身の力を込めて投げようとした。振り切ったその瞬間、激痛が走った。
 最後の最後にすっぽ抜けたその球を、高橋は当然打った。皆がその、美しい軌跡を追っていた。
 膝を付き、肩を押さえている上原に、最初に気付いたのは阿部だった。
 それからのことは切れ切れにしか覚えていない。病院に担ぎ込まれ、同じところを痛めたのだと叱られた。
 上原は、呆然としていた。
 怪我をしてから一度もきちんと投げてなかったから、本当は分かっていなかったのかも知れない。
 自分が本当に、もう二度と投げられないことを。
 いままで努力して積み上げてきたものは、一片残さず消え去っていた。  自分が、空っぽになってしまった気がした。

 ぱたりと水滴がジャージに濃い染みを作った。
 三浦が横でじっと見ている。それが分かっているのに、止められない。
 もう、バカにされようが、軽蔑されようが、どうでもよかった。
 次から次へとあふれ出す涙が、頬を濡らし、顎からぽたりぽたりと落ちる。
「ダメじゃん、センセー。先生は、泣いちゃいけねぇんだぜ。特に不良の前では。なめられちまう」
 真面目なのか冗談なのか分からない口調で、三浦が言う。
 上原は口元を歪めたが、それはどうしても笑顔にはならなかった。
 三浦の言うとおりである。生徒の前で泣くなんて、教師失格だなと思う。
 柔らかな感触が髪に触れ、上原は首を捻った。三浦が、恐る恐るといった風情で、上原の髪を撫でていた。
「泣くなよ…て言う場面なんだろうけど、センセーだって泣きたい時くらい、あるよな」
 マメだらけの指が、涙の跡を辿る。
 三浦の顔が近づいて、頬に熱が触れた。涙を、舐め取っている。
「三浦」
 掠れた声で名前を呼ぶと、三浦は一瞬視線を泳がせ、それから上原の肩に腕を回した。
「そう言う声、反則」
 頬ずりをされた。
 顎のラインを愛撫するように手が滑り、顔を仰向けるよう促された。膝を付いていた三浦がかがみ込むようにして、上原の唇に触れる。
 どうしてこんなことをするのだろうという疑問がうっすらと浮かぶが、泣いて興奮状態に陥っている頭に正確な状況判断は不可能だった。慰めるような優しい接触が気持ちよくて、三浦のするにまかせる。
 誰でもいい。慰めてくれるなら。
 おずおずとした接触は次第に熱を増し、三浦は文字通り上原の唇を貪った。舌が滑り込んでくる。上原は目を閉じて三浦を受け入れた。
 くちゅりと濡れた音が室内に響く。
 上顎の裏をくすぐられ、ぞくぞくとした感覚が身内を走った。
 平衡感覚がおかしい。あれと思ったときにはマットの上に押し倒されていた。埃臭いにおいが強くなる。
 胸元まで一気にシャツがまくり上げられ、腹部があらわになった。鎖骨に噛みつかれる。
「三浦」
 せわしなく肌を探る手の動きに、何かが呼び起こされようとしている。
「アカン、三浦」
 三浦はジャージの下を引っ張り下ろそうと奮闘していた。そうされまいと力の入らない手つきで抵抗する上原を、宥めようとまたキスを落とす。
「なんだよ、今更駄々こねんなよ」
「アカンて。俺、先生やし」
「うわ、今更」
「こ、こういうことは、好きな人とやらなあかんねん。一時の雰囲気に流されたらあかんで、三浦。…俺、男やし」
 ふ、とため息をついて、三浦は上原の肩の脇に手を突いた。
「センセーを女と間違えるなんて不可能だよ。ホント純情だよな。今時そんなこと言う奴いねぇぜ」
「俺は、三浦が後悔しないようにやな」
「俺は、後悔なんて絶対しない」
 呟くように言うと、三浦は肘を折った。鼻先が触れそうなほど、顔が近づく。
「俺、センセーのコトが好きだから」



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