待ち合わせ場所には、何も無かった。
 立入禁止の立て札だけが、ぽつんと立っている。その奥に広がる雑草の生い茂った更地に、夏霞(なつか)はうろんな目を向けた。ここには、自分の生まれた病院が建っているはずだった。

 祇園精舎の鐘の音。諸行無常の響きありーーか。

 この世には何一つとして変わらないものなどないのだ。
 頭上には雲一つない青空が広がっている。きれいなカーブを描いた眉を歪ませ、夏霞は頭上を睨みあげた。
 暑かった。
 他の季節ならいざ知らず、真夏の晴天は決してありがたいものではない。背筋をたらたらと汗が流れ落ちる。虫が這うような感触が気持ち悪い。
 じりじり照りつける日差しに溶けてしまいそうだった。
「暑いわねぇ」
 日傘の作る小さな陰に身を潜めた母が、おっとりと声を上げる。
 夏霞は恨めしげな視線を横に流した。 
 まだ若く美しいこの女性は、きっちり着物を着込んでいるというのに汗ひとつかいていない。
 十八で夏霞を生んだから、まだ三十四歳。夏霞とよく似た涼やかな顔立ちをしているが、熟れた女性特有の匂い立つような色香を放っている。
 田舎の旧家から、一介のサラリーマンでしかない父の元に嫁いできた。いつもマイペースに柔らかな笑みを浮かべているから、世間知らずの箱入り娘と評されることが多い。だが夏霞にとっては、どんな時も超然とした態度を崩さない、底の見えない女性だった。何かあるとすぐ怒鳴り散らす父より、ある意味恐ろしい。
「夏霞さん、こっちにお寄りなさいな。あなたはすぐ日に焼けて赤くなるから。日傘の中に入った方が良いわ」
「結構です」
 日傘に入る男子高校生など見たことがない。
 ぶっきらぼうに拒絶する息子に問答無用で日傘を差し掛け、母、鏡子はついでに自分の腕を絡ませた。
「お母さん!」
「いいじゃないの。夏霞さんはまだ機嫌が悪いの?」
 小首を傾げてのぞき込まれ、夏霞はむっつりと黙り込む。出掛けに行きたくないと駄々をこねたのを、母は気にしているのだ。
「義夏さんと喧嘩したのかしら?」
「別にそんなことない」
「そうお? この間夏霞さんが遊んでくれないって、義夏さんが電話で泣いていたわよ。あんまり意地悪しちゃあ駄目よ。義夏さんは、あなたのことが大好きなんだから」
 母に取り入ろうとするとは、やり方が汚い。眉間にまた、険悪な皺が増える。
 それに、母が『大好き』という単語をどういう意味で使っているのかが気になっていた。夏霞と義夏の関係は、現在微妙な局面を迎えている。そのことを知っているのかどうか。聞いてみたいが恐ろしい。夏霞がぼんやり母の美しい横顔を眺めていると、脳天気な大声が聞こえてきた。
「おーっす。ひっさしっぶりー! 夏霞ー、元気だったー?」
 道の反対側にタクシーが止まっていた。その後部ドアが開き、大柄な男が屈託のない笑顔を見せている。日に焼けた黒い顔に、白い歯がきらりと光る。しばらく会ってないうちにまた小汚くなったなと夏霞は思う。
 男はタクシーから飛び出すと、軽いフットワークで夏霞の元に駆け寄ってきた。にやりと唇を歪め、いきなり夏霞に抱きつく。太い腕で首を絞められ、夏霞は息を詰まらせた。
「チョー会いたかったゼー!」
「やめろばかもの。暑苦しい」
 肩にかかるほど長い茶髪を掴み、後ろにひっぱると、義夏はあっさり離れた。心配そうに後頭部を撫でる。そういえばブリーチのせいで抜け毛が増え、悩んでいると風の噂に聞いていた。
「んだよっ。ハゲたらどうすんだよっ」
「うるさい」
「まあ、あなたたちったら、子供の頃からちっとも変わらないんだから」
 鏡子がおっとりと笑う。なんだか気恥ずかしくなって、夏霞と義夏は顔を見合わせて黙った。
 義夏が改めて鏡子に頭を下げる。
「や、お久しぶりです。おばさん。相変わらず綺麗っすね」
「義夏さんは、男前ね」
「エへへ」
 照れて笑う義夏を、夏霞は無言で眺め回した。いかにもスポーツマンでございといわんばかりによく灼けた肌、明るく朗らかな表情。半袖のシャツの下から伸びる腕は太く、逞しい筋肉に覆われている。高一にはとても見えない、がっしりとした体型をもつ義夏は、今日は珍しくスーツを着ていた。きっちりネクタイまで締めている。
 ヤバイ、気合いが入っている。もしかしたら勝負に出る気かもしれない。
 夏霞に自信たっぷりの笑顔を向けると、義夏は当然のように足元に置かれた荷物に手を伸ばした。
「あら、いいのよ。夏霞が持つから」
「いえいえ。暑い中、待たせちゃったし」
 鏡子の大きなバッグと途中で買ったアルコールの入った包みを掴み、次に義夏は夏霞の持つ重そうな紙袋にも手を伸ばした。
「これは、いい」
「遠慮すんなって」
「これは、おまえへのプレゼントだから」
「あ……そ」
 義夏が手を引っ込める。夏霞は紙袋を大事そうに抱えると、タクシーに向かって歩き出した。後部座席に華やかなサマードレスを着た女性の姿が見える。義夏の母の、喜代子だ。
「鏡子さん、夏霞ちゃん、お久しぶり。暑かったでしょう。乗ってちょうだい」

 タクシーの中は、天国のように涼しかった。
 暑苦しいのは嫌だという母を助手席にエスコートすると、夏霞は義夏の隣に座り込んだ。母親達がさっそくお喋りを始める。
 明朗な喜代子は大きな声で活発に喋る。対する鏡子はゆったりとした自分のペースを崩さない。傍で見ていると凸凹な二人であるが、気は会うのだろう。機嫌良く歓談している。
「暑かったろ。ポカリ飲む?」
 半分ほど中身の残ったペットボトルを差し出され、夏霞は素直に受け取った。酷く喉が乾いていた。キャップを空け、喉を反らして飲み干そうとする。その露わになった喉元に何かが触れ、夏霞はびくりと体を震わせた。あやうくドリンクが零れそうになる。
「何すんだよ」
「あ、ごめ。汗かいてるなと思ってよ」
 伸ばしていた指をひっこめると、義夏はポケットからハンカチを取りだした。首筋に流れる汗を拭こうとする。夏霞は慌ててその手を振り払った。
「んなことしなくて良い」
「汗かいたままクーラーで体冷やすと風邪引くぞ」
 嫌がって身を捩る夏霞を無視して、義夏が首筋や額に浮いた汗を拭いていく。夏霞はなんとか抵抗しようとしたが、狭いタクシーの中ではどうしようもなかった。
 ガキの頃から義夏は構いたがりだった。だが、最近ではそれに更に磨きがかかっている。
 揉み合う二人を、妙齢の女たちはじゃれあう子供を見守る母親の目で眺めていた。
「優しいわねぇ、義夏さんは」
「義夏は夏霞ちゃんが大っ好きなんだもんね。もうね、ここのところ不機嫌でしょーがなかったのよ。喧嘩したのかどうしたのか知らないけど、夏霞ちゃんに嫌われたってしょんぼりしちゃって。それが夏霞ちゃんと会った途端ゴキゲンだものね。お安い男だわ」
「うるせーよっ!」
 義夏が獰猛に唸ったが、母親二人は歯牙にも掛けなかった。
「あら、ごめんなさいね。夏霞さん、あんまり意地悪しちゃだめよ。義夏さんが可哀想でしょう」
「気にしなくていいのよ。うちのがだらしないの。大きななりして気が小さいんだから」
 夏霞は思わずくすりと笑いを零した。
 学校で、義夏をこんな風に評する者などいない。義夏は、男らしくて傲慢なキャラクターで通っている。
「笑うんじゃねーよっ」
 猛々しく吠えると、義夏は拗ねた。口をへの字に曲げてそっぽを向く。子供っぽい仕草が可愛い。視線が自分に向いていないのを良いことに、夏霞はその横顔を見つめた。意志の強そうな眼差しに、通った鼻筋。分厚い唇が、夏霞にはひどくエロチックに見える。この唇に唇で触れてみたら、どんな感触がするだろう。きっと、柔らかくて、弾力があって、なまあたたかい。
 ずくんと下半身が疼いた。
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