偶然が結びつけた二人の母親はたちまち意気投合した。息子達に同じ『夏』の字の入った名前をつけたほどである。家がそう遠くないこともあり、退院後も二人の関係は続いた。田舎から出てきた鏡子にとって、同い年の子供を持つ喜代子は唯一の相談相手だったし、喜代子も鏡子や夏霞が好きで共に過ごす時間を楽しんだ。
そんなわけで、夏霞と義夏はしょっちゅうお互いの家を行き来して育った。成長しても二人の距離が変わることはなかった。むしろ今年同じ高校に進学したことにより、より近づいたと言っても良いだろう。クラスこそ違うが、義夏は足繁く夏霞のクラスに遊びに来たし、夏霞も一番の親友として遇していた。
お互いの感情が変質し始めたのは、ごく最近のことだ。
夏霞は、ぼんやりと隣に座る男を意識した。触れあった太股から伝わる体温が熱い。僅かではあるが、喜代子の座っている側には余裕がある。わざと夏霞にくっついているのだ。
子供の頃から義夏は夏霞にまとわりついてきた。
そして夏霞は、伸ばされる手からいつだって逃げていた。子供っぽい自尊心で、恥ずかしいと思っていたのだ。男の子はそうそう手を繋いだり、だっこされたりするものではない。
でも今は触れたい。
夏霞は体を堅くして姿勢を保った。力を入れていないとふにゃふにゃに溶けてしまいそうだった。神経が、触れている部分に集中する。じんわりとした熱。体温。触感。呼び起こされているのは、男としての欲望。ちゃんと自覚している。
義夏の低い声が、夏霞の耳を優しく撫でた。
「ビョーインがさー」
夏霞は僅かに眼球を揺らしただけで、振り向きたい衝動をこらえた。頬のあたりがちりちり緊張している。義夏が自分を見つめているのが分かる。
わざとそっけない声で答える。
「ん？」
「無くなっちまって、残念だよなー」
「そうか？」
義夏のふしくれだった手が、膝の上に置かれた夏霞の指に触れた。さりげなく皮膚を撫でられ、鳥肌が立つ。
「残念だろー？ だって、俺達の歴史の始まりの場所じゃんか」
ただの接触が快感になりうることを、夏霞は最近知った。ごくごく弱い、電流に似た衝動が、夏霞を浸食し始める。
義夏は気付いていないだろう。自分のささやかな悪戯が夏霞にどんな影響を与えているかなど。子供の無邪気さで、義夏は夏霞の手を弄んでいる。でもごく柔らかなタッチは絶対子供のしない繊細さで。
惑わせられる。
瞼を伏せて、刺激に耐える。
「大げさだな」
「そ？ でも俺の本心だぜ。俺にとってはマジで大事な場所だからさ。あの病院がなければ、俺達出会えなかったんだし？」
思わせぶりな台詞に夏霞は苦笑いした。女を引っかけるときのようだ。直接的な表現を用いず自分の気持ちを仄めかそうとするあまり、芝居がかっている。どんな鈍い人間でも本意に気付くだろう。分からないのは本人だけだ。不安げな顔で、伝わっているのかいないのか、夏霞を窺っている。
夏霞は不機嫌にも見える無表情を崩さない。
車は小高い丘を登っている。前方に白い建物が見えてきた。
山の上に建つホテル。ここで食事をして一泊するのが毎年恒例の両家の行事だった。いつもなら父親も一緒なのだが、今年は義夏の父は風邪、夏霞の父は出張で欠席である。
「なー、夏霞。なんか、怒ってる？ ここんとこずっと俺のこと無視してねぇ？ 俺なンか悪いこと、したか？」
重ね合う手をぎゅっと握られ、夏霞は眉を寄せた。その表情に、義夏は叱られた子犬のようにおどおどした。大好きな夏霞に嫌われたと思っているのだ。
男っぽい義夏が自分だけに見せる幼い表情が、たまらなかった。
「いや、別に」
するりと義夏の手の中から指を引き、逆に握り返す。その瞬間義夏の瞳の中をよぎった獣の影を、夏霞は見逃さなかった。
獰猛な、雄の欲望。それに、うっとりと魅入る。
「ホント？ 怒ってねぇ？」
「ああ」
「エヘヘ、良かった」
破顔すると、義夏は内緒話をするかのように夏霞の耳元に顔を寄せた。甘い声で囁く。
「ハッピーバースディ、夏霞」
夏霞も目を細めた。
「ハッピーバースディ、義夏」
がくんと車体が揺れ、義夏の鼻が夏霞のこめかみにぶつかった。
窓の外を見ると、タクシーはもうホテルの前に到着していた。ロックの外れる音がし、扉が開く。
外に降り立つと、むっとする熱気が体を包んだ。
フロントに荷物を預けると、一行は最上階に位置するホテルのレストランに向かった。予約をしてあったのですぐに窓際の席に案内される。
レストランの窓から見える景観は素晴らしかった。ホテルに付属する広大な庭園にガーデンプールが眼下に見える。山を下った先には海が広がっていた。天気が悪い日にはブルーグレイに沈む海が、今日は鮮やかなコバルトブルーに染まっている。陽光を反射し、きらきら光る水面が美しい。
アルコール度の低いシャンパンで乾杯し、夏霞と義夏のささやかな誕生日パーティーが始まった。
美味しいコース料理を次々に平らげながら、他愛もない世間話をする。夏霞が柔道の授業で先生を落としてしまったとか、義夏の日焼けの原因はアルバイトのせいだとか。
母親達の笑い声や、からかわれた義夏の怒声が心地よく耳元を通り過ぎていく。
長い食事が済むと、母親達は一階のカフェに移動していった。まだまだお喋りをするつもりなのだろう。
食事中散々玩具にされた義夏はむくれている。スーツに包まれた長い足を投げ出してロビーの椅子に座り込んだきり動かない。仕方なく夏霞はその隣に腰を掛けた。
何か言うべきだろうかと考えたが何も思い浮かばず、夏霞は黙りこむ。
しばらくそのままじっとしていたが、沈黙に耐えられなくなったのか、唐突に義夏が言った。
「ったく、俺だっていつまでも子供じゃないっつーの」
両手をシートに付き、半分ずり落ちていた尻を引き上げる。それから背もたれに腕をひっかけただらしない姿勢で、夏霞の顔を見上げた。
「そうだろ？」
夏霞は答えない。
義夏は真剣な顔で夏霞を見つめていたが、やがてちいさなため息を吐くと立ち上がった。
「部屋、行こうぜ。荷物運ンどかないとかーさんたちに叱られる」
夏霞が立ち上がるのも待たず、フロントに向かって歩き出す。夏霞は座ったまま、その逞しい背中を見送った。
どこから見ても男だ、と思う。
男なのに、義夏は夏霞に恋をしている。そして夏霞も、義夏と共にいると平常でいられない。
こんなの、間違っていると思う。
義夏が女だったらとちらりと思ったが、もしそうだったらこの感情は生まれなかっただろう。夏霞をどきりとさせるのはいつだってオトコを感じさせる義夏だ。でも夏霞もれっきとした男性で、女になどなれない。
だったらこの『好き』はどうしたら良いのだろう。夏霞には、分からない。
だから、決定的瞬間が訪れるのを避けていた。二人きりになりそうな場面をできるだけ避け、電話にも出なかった。義夏を振りたくなかったのだ。
「おい夏霞。来いよ。お前の分の荷物運べよ。俺に自分のプレゼント運ばせるつもりか」
思案に耽っている夏霞を容赦なく義夏が呼ぶ。重い腰を上げると、夏霞は義夏の傍に歩み寄った。
義夏の方ががっちりした体型をしているので大きな印象を与えるが、二人並ぶと身長はほとんど変わらなかった。正確には夏霞の方が一センチ高い。
しなやかな体を曲げると、夏霞は足元に置かれたバッグを持ち上げた。ふたり並んで部屋に向かう。
始めに開けたツインの部屋に母親達の荷物を放り込み、義夏と夏霞は自分たちの荷物をもう一部屋とったツインに運んだ。
部屋に入るなり靴を脱ぎ散らかし、スリッパに履き替える。汗を流そうとシャツのボタンに手をかけた夏霞を、義夏が止めた。
「ちょっと、こっち来て」
応接セットに腰掛けて、手招きしている。スーツの上着は来たまま、緩められていたネクタイもいつのまにか締め直されていた。義夏の前のテーブルには小さな包みが用意されている。
嫌な予感に夏霞は顔をしかめた。
「何変な顔してんだよ。早く来て」
イヤだと言って逃げても、少し先延ばしになるだけのことである。夏霞は観念してテーブルについた。椅子に浅く腰掛ける。
最初から逃げ腰な夏霞に気が付いているのかいないのか、義夏はにこにこしている。
「ハッピーバースディ、夏霞。これ、俺からのプレゼント」
自分の前に押しやられたケースを無視し、夏霞は立ち上がった。がたがたと椅子を鳴らして応接セットから飛び出す。
「夏霞？」
荷物を置いたベッドの際まで行くと、夏霞はずっと自分で抱えてた重い紙袋を掴んで振り向いた。どこか悲壮な表情で席に戻ると、義夏に向かって突き出す。
「これ、俺からのプレゼント」
「イエー！ サンキュー！ なーにかなー？」
早速義夏が袋の中身をごそごそ掻き回し始める。夏霞は自分の前の包みには手をつけず、義夏の反応を待っている。しばらくして、中身の検分を終えた義夏が情けない顔をあげた。
「なんだよ、これー」
「参考書だ。いつまでも俺がおまえの勉強見るわけにはいかないからな」
紙袋にぎっしり詰まっていたのは、各教科の参考書および問題集だった。ところどころに夏霞の書き込みが入っている。
義夏は夏霞に比べ、かなり成績が悪い。そもそも夏霞と同じ高校に入れた事自体が奇跡なのだ。なんとか授業についてこれているのは、夏霞のフォローのお陰である。酷い成績表を貰ってくる度に夏霞がつきっきりで義夏の勉強をみてやっていたのだ。
参考書のプレゼントは、それをもうやめたいということを示していた。
ぎりりと義夏が奥歯を噛みしめる音がした。
「なんだよそれ。やっぱ夏霞、俺のこと避けてんじゃねーか？ ベンキョーみたくないっつーことは、そーゆーことだろ。今までそんなこと言ったこと無かったのに！ 一体何なんだよ！」
「他意はない。甘えるな、ってことだ」
淡々とした答えに義夏の目が燃え上がった。
いきなり夏霞の前に置いた包みを掴み、包装紙を引きちぎる。出てきたベルベットの小さな箱を夏霞の鼻先に突き付け、義夏は怒鳴った。
「見ろよ！ これが俺からのプレゼントだ！」
夏霞はゆっくりとそのケースを受け取った。蓋を開けると、シルバーの慎ましやかな輝きが目を射た。
ケースの形状から予想がついてはいたが、シンプルなリングが収まっていた。
ベタすぎる。
夏霞は目眩を感じた。
