少し、乱暴に揺すぶられて目が覚めた。
申し訳なさそうな顔をしている恋人の顔をぼんやりと見返し、俺は再び目を閉じた。疲れ切った体は怠く、睡眠を欲している。
『眠いのは分かるけど、そろそろ支度しないと終電が無くなる』
そう静かな声で言われて、ようやく何故起こされたのかが分かった。
帰る時間なのだ。
かえりたくない。
そんな駄々が言えるほど俺はコドモではなく。
でも、この寂しさを無視できるほど強くもなく。
思いっきり顔を顰めて、ぐずる子供のように布団を抱きしめた。恋人の手が優しく背中を撫でる。
『どうした?』
問われて一言で答えられるほど、ものごとは単純ではない。
いち、に、さん。
心の中で三つ数えて、それから俺は布団から這い出した。素足にフローリングの床が冷たい。
ふらふらしながらバスルームへ向かう。だいじょうぶ?と恋人が問う声が追いかけてきたが俺は振り返らなかった。
もたもたしている暇はなかった。足の間をぬるりと伝い落ちるものがある。
粗相するのを恐れて俺は急いだ。浴室に飛び込み、シャワーのコックを捻る。
熱いシャワーで身を清めて浴室を出ると、床に脱ぎ散らかした筈の服が畳んで置いてあった。
俺の恋人はマメである。
だが、忙しい。
服を手早く着込むと、俺は鏡を覗き込み自分の姿をチェックした。ぼやけてよく見えないが、どうやら大丈夫そうである。最後にぐっと上半身を乗り出して鏡に顔を近づける。
無表情な男がじいっと俺を見つめるのが見えた。
年齢より大人びて見える、冷めた眼差し。
いつのまにか息を詰めていたことに気付き、ふっと溜めていた空気を解放すると、鏡が白く濁り冷ややかな男の目は視界から消えた。
腕時計を見るともうすぐ土曜日になろうとしていた。
身支度を終えて部屋に戻る。
サイドテーブルの上に置いておいた眼鏡をとってかけると、クリアになった視界にきちんと整えられたベッドがうつった。何事もなかったかのように部屋は片づけられ、恋人は、どこにもいない。
奥の部屋にいるのだろうと分かってはいる。だが声をかけるのも業腹で、俺は静かに鞄を拾い上げた。
奥の部屋に入ることは、禁じられている。
恋人ーー桑原とつきあい始めてからもう随分経つが、俺はまだこの男のことを良く知らない。
知っているのは多分年齢は二十代後半であろうということ。一人暮らしなのに3LDKのマンションに暮らしているから、そこそこ金は持っているのであろうこと。それから体。
体質なのであろう、あまり運動はしていないというが、スポーツマンのように筋肉質で逞しい体躯をもっていた。日本人には珍しく胸板が厚い。節くれ立った指は太く、なんだか不器用そうである。
そんな立派な体とは対照的に、桑原は内気で大人しい男だった。今でこそ俺好みに短く刈り揃えさせた髪が見た目だけ精悍な印象を与えるが、出会った頃は実に垢抜けないオッサン臭い髪型をしていた。
どぶねずみ色と言うにふさわしいダサいスーツを着て、背中を丸めカウンターに座り込んでいた。普段だったら鼻もひっかけないタイプである。
出会ったのは行きつけのハッテン場だった。
俺は高校に進学するのとほぼ同時にこういう場所に出入りするようになった。
俺が自分の性癖に気付いたのは中学生の頃だ。同級生への淡い恋心と欲望が自覚の発端となったが、中途半端に頭の良い俺はその恋の成就をさっさと諦めていた。それだけでなく、通常の生活圏内にいる相手に恋することを自らに禁じた。
明らかに異性にしか興味を持てないトモダチに告白して、受け入れられるとは思えない。振られた挙げ句ホモだという噂を広げられるのがオチだ。
自らの性癖を確かめるため何度か女の子と付き合った後、俺は同じ嗜好を持つ相手を求め此処にやってきた。
煙草の煙が立ちこめるその店は、薄暗く雑然としていて俺にとってはとても居心地の良い場所だった。うらさびれた雰囲気が自分に合っている気がしたのだ。
俺はカウンター席で水割りを弄びながらさりげなく周囲の男を品定めしていた。
自慢ではないが、俺はモテる。冷酷そうな印象を与える美貌ーーこれは俺が言ったのではない。以前つきあった男に言われたのだーーに、ほどよく引き締まった躯。それに若さが俺の魅力らしかった。自分ではそこまで色男だとは思っていないが、とりあえず相手に不自由はしない。おかげでハッテン場通いを始めてからまだそう経たないのに、結構な戦歴をうちたてている。
それでも時々ハズレを引いた。
数日前にやはりその店で引っかけた男にひどいセックスを強要されて、俺はいささか弱気になっていた。
営業マンらしいぱりっとしたスーツ姿の男に、警戒心を抱かせるようなものは何もなかった。物腰も柔らかく、人当たりも良い。奢って貰った後結構良いホテルに連れて行かれ、俺はご満悦だった。いきなりしばりあげられるまでは。
途中までは冗談だと思っていた。ヤツも笑っていたし、決して強引ではなかったからだ。ちょっとSMテイストの入ったプレイは、実は結構好きだったりする。
だが俺が好きなのはあくまで『テイスト』どまりであり、本物のSMではないのだ。
苦痛に満ちた記憶を振り払い、俺はすっかり薄くなってしまった水割りを煽った。
どの男を選んだら良いのか分からなかった。いつもだったら即決するような良い男もいるのになんだか怖くて、俺はぐずぐず悩んでいた。
怖がるくらいならばこんな所に来なければ良いのだが、来ずにはいられないのだ。自分でも病気だと思う。
我慢していると苛々する。いてもたってもいられなくなり、息が詰まって爆発しそうになる。
ノーマルな社会の中で『普通』の顔をとり繕って生きていくのは、息苦しくてたまらなかった。本当の自分を隠さないで済む此処でだけちゃんと息ができるような気がした。
日常からかけ離れた濁った空気の中で、俺は同性と刹那的な恋愛遊戯を楽しんだ。
同級生の誰も、俺がこんなところで男をナンパして、安易にセックスしているだなんて考えもしないだろう。
ちょっと変わり者だが、成績も良く問題も起こさない平均的な高校生、そんな風に思っている筈だ。
だが、これが本当の俺なのだ。
は、は、は。
俺は煙草のフィルターに歯を立て、唇を歪ませた。
時々自己嫌悪に気が狂いそうになる。皮肉なことにそんなときの俺の精神を慰めるのは、『俺一人じゃない』という事実だった。ここには俺の同類が沢山いる。
あのサディストもその一人だ。
俺は目を細め、気になるメンツにもう一度目を走らせた。
ボックス席に俺を見つめている男がいる。いかにもエリートサラリーマンめいた中年男だ。入り口近くにももう一人。ハンサムとは言い難いが、愛嬌のあるまだ二十代始めの男ーー。
結構な獲物だ。だが、その見栄えの良さに俺はかえって恐怖を誘われた。人当たりが良さそうに見えれば見えるほど、腹の底では何を考えているのか分からない気がした。
神経質な仕草でまだ長い煙草を灰皿に押しつけ、眼鏡のフレームを押し上げる。
それからふと思いついて自分の左手に目をやった。三つ向こうの席の男が自分をちらちら見ているのにずっと気付いていた。それが桑原だった。
場慣れしていないのが一目で見て取れた。落ちつきなく俺の方を窺っては、手の中のグラスに目を落とす。つまみのチーズは全く減っていない。
俺のことが気になるのだ。だが、声を駆ける勇気がない。
始めはあまりにもレベルが低いと却下していたが、よくよく見ると俺好みの良いガタイをしていた。それに、大人しそうな様子が気に入った。今は何より安全が欲しい。
セイフティ・セックス。
それが一番である。
新しい水割りを注文すると、俺はスツールを滑り降り、桑原の隣の席に手をついた。
ここ、空いている?と訪ねると、桑原は真っ赤になって頷いた。ごつい男なのに妙に可愛い仕草だった。
それで、決まりだった。
思った通り桑原は慣れていなかった。段取りも鈍臭かったし、上手くもなかった。しかも俺の痣だらけの体を見て、説教臭い台詞を吐きやがった。だが、壊れ物のように俺を扱ってくれたのが、心地よかった。
コトが済んで帰り支度をする俺に、桑原はまた会ってくれるかとおずおず聞いた。
正直、ものすごく悩んだが、俺は携帯のナンバーを渡した。それからなんとなく続いている。
不特定多数が集まる場所で男を漁るのはやはり危険が伴う。その点桑原は安心できた。ぱっとしないが優しいし、できるだけこっちの意向に添おうと努力してくれる。
ものすごく、楽な相手だった。
だが所詮人目を忍ぶ恋人である。桑原は仕事があるし、俺はまだ隠しているが高校生だ。空いている時間を探して作る短い逢瀬はほとんど抱き合うだけで終わってしまう。お互いのコトを知り合う機会はそうなかった。俺もあえて聞こうとはしなかった。やぶ蛇になって逆に俺のことを聞かれるとヤバイ。
高校生だと分かったら桑原はきっとひいてしまう。そういう保守的なタイプの男だ。
だから俺には推測することしかできない。
桑原は多分普通のサラリーマンではない。奥の部屋が仕事場らしかった。桑原が出入りする隙に、本の詰まった大きな本棚とパソコンが何台も置いてあるのを盗み見たことがある。
子供ではないのだから、何も立入禁止にしなくても良いのにと思う。
あるいは信用されていないのか。
俺は鞄を抱きしめしばらく待ってみたが、桑原の出てくる様子はなかった。
自分がすぐ浴室から出てくるだろうことは分かっているだろうにと、理不尽な怒りが腹の中にわだかまる。
結局さよならの挨拶さえせず、俺は部屋を出た。
月曜日。
朝の電車は殺人的に混んでいた。
ぎゅうぎゅうと人の群に押され、俺は車両の中程、ドアとドアの丁度真ん中あたりまで流された。吊革も確保出来ず、電車が揺れるたびに前後の人にぶつかってしまう。
いちいちスミマセンと謝りながら、俺は車内を見渡した。
鮨詰めになった乗客の半分は、同じ制服を着ている。ちょうどこの車両は、高校のある駅の階段の前にあたるのである。知った顔がいる確率は大きい。
今日も四人おいた向こう、手すりの前に小柄な少年が立っているのを見つけた。
バンビのように大きく潤んだ瞳は間違いない、阿井である。
声を掛けるには距離が遠かった。俺は電車に揺られながら黙って阿井を見ていた。
阿井は珍しく不機嫌だった。
俯いて前に座るサラリーマンを睨み付けているようだ。
ようだ、というのは俺のいる位置が阿井より少し後ろにあたるため、はっきりその視線の行方が見えなかったせいであるがーーきりりと結ばれた唇は、確かに怒っていた。
阿井が怒る姿を見たのは高居パシリ事件以来である。俺は少なからず興味をそそられ、ちらちらと阿井の様子を観察していた。
がたんと電車が停車し、阿井の背中側にある扉が開く。
押し合いへし合いしながら乗客の何割かが入れ替わり、電車は再び動き出した。
その間阿井は人波に揺られながらもじっと一点を睨み続けていた。それからぐいと手すりを掴み、自分の体を扉の方に寄せた。俺はそれを、電車が揺れたせいだと思っていた。
阿井が怒鳴るまでは。
「おまえ、その手をどけろ」
少し高いテノールは車内によく響いた。
周囲にいた人々が一斉に阿井の方に顔を向けた。
「おまえだよ、おまえ。その紺のスーツ! 彼女厭がっているじゃないか」
そこまで聞いて、俺はようやく阿井が何を睨み付けていたのかが分かった。
ドアの端、手すりの際に、セーラー服の少女が泣きそうな顔を阿井に向けていた。その体を角に押しつけるようにして、紺のスーツのサラリーマンが立っている。
痴漢だ。
痴漢は、上半身を捻って阿井を睨み付けた。
大柄な男だった。そしてヤクザばりに柄が悪かった。
「んだとこらァ。俺が何したって」
「さっきからずっと彼女のこと触っていた。次の駅で降りな。痴漢は犯罪だよ」
駅に貼られているポスターそのままの台詞が、なんとも生真面目な阿井らしい。
「このガキ、何いいがかりつけてやがる。俺は触ってなんかねぇよ」
「嘘よ、ずっと触ってました!この人、痴漢よ!」
「何でたらめ行ってやがる、この女!」
「きゃあ!」
「おい、やめろ!」
揉み合う三人に周囲は騒然となった。
電車はすでに減速を始めている。次の停車駅では男のいる側の扉が開くはずである。
俺は他人事のようにその騒ぎを見ていた。
扉が開いた途端スーツの男が蹴り出された。周囲にいたサラリーマンや学生が一緒にわらわらとホームに降りる。
彼らの後を追おうと動き出した阿井が、降り際にふとこちらを振り向いた。
大きな瞳がますます大きく見開かれた。唇が短い音節を形作る。
”奈、賀…?”
挨拶を返そうかと思ったときには阿井はすでに車外だった。スチールの扉が視界を右から左へ遮る。
動き出した車窓から、俺は騒ぎの続きを見物した。それらはブラウン管の中のドラマのように賑やかで、俺からは遠い。
不思議な光景だった。
阿井や居合わせた乗客達が、逃げようとする男を取り押さえ駅員を呼んでいる。
阿井に、あんなことをする勇気があるとは思わなかった。守られるばかりのバンビちゃんだとばかり思っていた。
人は見かけによらないな、と胸の中で呟き、俺はようやくゲットできた吊革にすがった。
遠く流れていくホームには警官の姿まで湧いている。
その日阿井は二時間遅刻して現れた。その頬には大きな青あざが浮いていた。
普段大人しい阿井の痛々しい姿は、教室中をざわめかせた。俺も呆然として阿井を見つめた。
「おい、なんだそれ。誰にやられたんだ」
仲の良い数人がわらわらと周囲に集い、詰問する。普段だったら自分もさりげなくその輪に交じるところだが、とてもそんな気にはなれなかった。
後ろめたい気分を抱え、俺は教室から逃げ出した。
あの大きな青い痣。
きっと、痴漢と揉み合ったときにやられたのだろう。あんな小さくて細っこい阿井を殴るなんて信じられない。
痴漢への怒りが湧く。
同時に胃のあたりにわいた独特の不快感に、俺は顔を顰めた。強烈な不安と自己嫌悪が俺を苛んでいた。
自分も参戦すれば良かったのだろうか。阿井と違い俺はそれなりに喧嘩慣れしている。自分がいれば多分阿井は殴られなくて済んだ。
だけど、あれに混ざっていたら遅刻確定だったし。他にたくさんの善意のひとがいたから自分が手を出さなくても大丈夫だと思ったし。
俺は見ず知らずの人間を助けるような善人ではない。
三時間目のチャイムが鳴り、廊下から潮が引くように人の姿が消えていく。少し逡巡して、俺は次の授業をさぼることを決めた。
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