帰宅すると母が玄関で待ちかまえていた。
 表情が険しい。ただでさえキツい目元がつり上がっている。
 そろそろだという予感があったので、俺は驚かなかった。
「さっきお父さんから電話があったわ」
「そう」
 立ったまま、踵を摺り合わせてスニーカーを脱ぐ。狭い玄関は雑然としていた。俺は自分の領域外には興味がなく、母は片づけが下手な上仕事を抱えている。外で仕事をしてきた後家事もこなすのは大変だろうと頭では理解していたが、だからといって手伝おうという気はおきなかった。
 廊下はなんとなく埃っぽかった。靴下に付くであろう汚れを自分の部屋に持ち込みたくなくて、俺はスリッパをつっかけた。
 上がり口のど真ん中に立ちはだかる母を迂回して、自分の部屋へ向かう。
 母は、まとわりつくようについてきた。
「明日晩ご飯を一緒にとらないかって。予備校の日じゃなかったからいいって答えたけど、まずかったかしら」
「別に」
「七時に××駅で、って」
「分かった」
 狭苦しい階段を上り、自分の部屋のドアを開く。
 母は異様に早口だった。声も普段よりずっと大きい。俺の返事が済むのも待たず、矢継ぎ早にまくしたててくる。
「何度携帯に電話しても繋がらないって言ってたわよ。ちゃんと電源入れているの?」
「入れてる」
 とらないだけで。
「お父さん、今、どうしているの?」
「さあ」
「どうして隠すの? 本当は私の知らないところで連絡を取っているんでしょう?」
 スリッパを脱いで自分の部屋に踏み込むと、俺はくるりと振り返った。
 母が、どこか不安げに俺を見上げていた。
 母は、俺より一回り小さい。もともと小柄な人だったが最近ますます縮んだ気がする。一時期白髪が増えて愕然としたが、染めてしまったので今どうなっているのかは分からない。だが明らかに母は憔悴し、急速に加齢していた。
 俺は煩い、と言いかけて開いた口を、噤んだ。
 切れかけていた堪忍袋の緒を結び直し、深く息をする。
「連絡なんてとってないし、あのひとが今どうしているかなんて知らない。それじゃ、俺着替えるから。ここ閉めるよ」
 まだ何か言い足そうな母の顔から目を逸らし、叩きつけたいのを我慢してゆっくり扉を閉じた。
 それから抱えたままだった鞄を思いっきりベッドに叩きつけた。

 半年前、両親は離婚した。
 ある日学校から帰ると、母がなんでもないことのようにあっさりと離婚届を出したからと告げた。俺はどう反応したらよいのか分からず、ただ、そう、とだけ応えた。すっとしたわ、と母は笑った。
 よく両親が離婚すると、子供はそれが自分の責任なのではないかと思い悩み鬱ぎ込むというが、俺はそんなことはなかった。
 ただ、どうしてそこまでする必要があるのかが分からなかった。
 確かに夫婦仲は冷え切っていた。だが、その状態は俺が物心ついたころからずっと続いていたし、いまさら離婚などという大技をかますとは予想外だった。
 離婚したい、と言い出したのは母だったらしい。
 不思議だった。
 うちに財産など無い。俺もまだ高校生でバイトしたとしても雀の涙だし、母のパートで得られるお金もたかがしれている。これからの生活が不安定になるのは目に見えていた。
 それでも、あの人とこれからも一生過ごすのかと思うとぞっとするのと母は言った。
 別に、俺はどうでも良かった。あの毒にも薬にもならないような大人しい親父のどこがそんなに嫌だったのかよく分からないが、それで母の気が済むのなら好きにすれば良いと思った。
 離婚はしても血縁は切れない。家を出て行ってから、親父はちょくちょく電話をよこし、俺を食事に誘うようになった。それを断る理由はなかった。母は妻では無くなったが、俺が親父の子供であることに変わりはない。
 それに、母に捨てられた親父が哀れだった。
 俺同様、親父もどうして離婚までしなければならなかったのか理解していなかった。浮気をしたわけでも暴力を振るっていたわけでもないのだ。
 親父は混乱していた。
 ただ息子とメシを食うだけなのにいつもどこかぎこちなく、酒を過ごした。そして酔っぱらうと自制をなくし、腹に溜めていた不満を爆発させた。
 一応、息子の俺に気をつかっているのだろう、婉曲な言葉を用いた母への非難はだが、辛辣でどす黒かった。
 うわずった声。
 日本酒のコップを握った手が緊張の余り細かく震えている。俺はその様子を、メシを口に運びながら冷ややかに眺めた。
 同調してくれることを望んでいるのだろうが、俺は曖昧な相槌を打つことしかしない。
 どちらの味方もできない。
 どちらも俺の親だからだ。
 味のしない食事を済まし家に帰ると今度は母が待ちかまえている。
 父と食事に行くと知ると、必ず母は不安定になった。
 食事を終えて帰ってくるのを何時まででも待っている。平静を失っているのが明らかな早口で親父の生活の様子を根ほり葉ほり聞きだそうとする。答えるのが億劫になり適当にあしらうと、あんたはお父さんと一緒の方がいいんでしょうとヒステリックに罵った。
 俺はいつもどうしたらいいのかわからない。
 仕方が無いから心にもないことを言って、宥めて。
 父からの誘いが来るたびに憂鬱になるのに、断ることも出来ずにこやかに快諾して。
 あれだ。
 童話に出てくるコウモリ。
 両方に適当なことを言ってとりいっている。

 気がつくと、部屋の中は真っ暗だった。
 俺は思い出したようにスイッチを入れ、カーテンを閉めた。投げやりな動作でベッドに座り込む。
 片手で鞄を引き寄せ、少し迷ってから携帯を取りだした。
 次は来週末にと約束していた。まだ水曜日だ。
 今連絡しても、多分ダメだ。
 分かっている。分かっているけれど。
 我慢できなくてメールを打つ。
 メッセージは短い。
 『あえないか?』
 目を閉じ、念をこめて送信ボタンを押して。
 返事が来るまで携帯を握りしめていた。
 返信は早かった。
 携帯が場違いに明るい音楽を奏でる。急いで携帯を操作しメッセージに目を走らせた。
 …分かってはいたが、全身から力が抜け、俺は横様にベッドに転がった。眼鏡が鼻梁にくいこむ。
 『悪いが仕事が終わらない。今夜は無理だ』


 金曜日の夜に、父と会食した。



 かととん、かととん、かととん、かととん、かととん、かととん、
 リズムを刻むのはレールの継ぎ目にぶつかるからだと、昔何かで読んだことがある。
 すっかり暗くなった夜景を眺め、俺は扉に寄りかかった。
 丁度帰宅時にあたり、電車の中は混んでいた。押しくら饅頭をするほどではないが、吊革は全部埋まっている。
 今日も同じ車内にクラスメートが乗っていた。俺は車内に入るなり気がついたが、会話に夢中になっている彼らは気がつかなかった。
 声をかけるのが億劫で、俺はわざと他の乗客に遮られて見つからないだろう位置に移動した。それでも気になってどうしても視線が流れてしまう。
 クラスで一番ののっぽとチビが並んで座っていた。のっぽはほれぼれするほど良い男だった。スポーツマンらしい爽やかな男っぷりが際だっている。だが、見かけ通りの良い人、ではない。意外と意地の悪いところもある。だがそこがまた魅力だった。
 良い人、であるだけではダメなのだ。
 俺は窓の外に流れる風景に集中しようとする。だが外が暗いせいでよく見えず、反射した明るい車内の光景ばかりが目についた。
 とろけるような笑顔をのっぽに向けているのは阿井だった。
 阿井が彼に恋焦がれているのを俺はずいぶん前から知っていた。知っていて歯がゆく思っていた。
 一時は仲違い(?)していた二人が、復縁(?)するきっかけを作ってやったのは何を隠そうこの俺だ。お陰で以前よりグレードアップしたいちゃつきっぷりを見せつけられるようになり、いささか食傷気味だった。
 二人の距離は以前より明らかに近づいていた。阿井をうとんじるところがあったあいつが、酷く優しい笑顔を阿井に向けている。
 二人は、明らかに同性のトモダチ同士という枠を越えていた。顔を寄せて内緒話をする様子など、恋人同士以外のなにものでもない。
 それでもエッチはまだしていないと俺はふんでいた。そういうものはなんとなく分かるものなのだ。
 橋渡しをしてやったにも関わらず仲の良い二人に嫉妬して俺は苛々していた。ああいう風に、いつも一緒にいられる恋人が欲しかった。
 かたたんとレールの作るリズムの間隔が開き、慣性の法則が俺の体を前方に押しやろうとする。駅が近いのだ。車内の空気がざわめく。乗り換え駅なので、いつもここでどっと人が降りることを俺は知っていた。
 完全に停車するのを待たず、あいつが腰を浮かせた。阿井にじゃあと別れを告げて、俺の立っている戸口の方へやってくる。
 これでは隠れようが無い。俺は観念して歩いてくるあいつに顔を向けた。
 俺がいるのに気がついて、あいつは少し驚いた顔をした。だが、何を疑うこともなくにやりと笑い、短くじゃあなと呟いて出ていく。振り向くと阿井がきょとんと目を見開いて俺をみつめていた。
 俺は軽く片手をあげて挨拶すると、あいつが座っていた席に座った。阿井がにっこりと笑う。
 いつ見ても可愛い笑顔である。もともと黒目がちだが、笑って目を細めるとますます黒目の面積が増え、小動物めいた雰囲気が強まる。子供っぽくて、よしよしと頭を撫でてやりたい衝動に駆られる。
「ねぇ、もしかして、結構前からあそこにいた?」
 阿井の問いに俺は苦笑した。
「んー、まぁな」
「声かけてくれれば良かったのに」
「お邪魔したら悪いデショ」
 意味ありげに顔を覗き込んでやると、阿井は面白いくらい赤くなった。
「よかったじゃん。うまくいっているみたいじゃないの」
 さらにだめ押しすると、阿井は怒るかと思いきや、はにかんだ笑みを浮かべた。それがとても幸せそうで、俺の狭い胸はツキンと痛む。
「…おかげさまで。あの、ありがと。奈賀のおかげだよ、ホント」
「いえいえどーいたしまして」
「あの、でもさ。俺、奈賀に相談とかしたこと…なかったよね」
「ああ、ないね。何、きかれた?」
 片眉をあげて問うと、阿井はおどおどと頷いた。
「まー、そりゃそうだろうな。俺達別に仲良くなかったし。悪いかなとは思ったけど、阿井が可哀想だったから、テキトーなこと言ってみたんだ」
「あ、そうなんだ…。転校するのかとか聞かれて、俺もう、びっくりして」
「はは、阿井の方がびっくりしてちゃおかしいと思うよな」
 そつなく会話を続けながらも、俺は上の空だった。阿井の顔に薄く残った痣が目について仕方がなかった。
「それはともかく。…ごめんな」
 切り出すと、阿井はまた目を見張った。不思議そうに小首を傾げる。
「え」
「痴漢。手伝ってやらなくて。そんな大きな痣」
 ああ、と阿井は頷いた。
「いいよ別に。女の子じゃないんだから、これくらいどうってことないし。何、気にしてたの?」
 なんの拘りもない様子にかえって自己嫌悪が募る。知らず知らずのうちに顔を顰めていたらしい、阿井が人差し指で眉間をつついた。
「そんなしかめっ面しないの。折角の良い男が台無しだよ」
 阿井は本当に人が良い。
 なんでそんな風に笑えるのだろうと思う。俺だったらきっと許せない。
「本当に、気にしないで。こういうの、初めてじゃないし」
「…え」
 俺は気の抜けた声を出した。
「初めてじゃないって? 前にも痴漢と対決したことあるのか?」
「ん。だってムカつくじゃない」
「だっておまえ、自分が痴漢にやられた時にはされるままになってたんだろう? だからあいつが…」
 阿井は少し驚いたが、すぐに思い当たったのか俯いた。恥ずかしそうに自分のスニーカーのつま先を見つめている。
「やだな、あの話聞いたんだ。あのさ、俺、すごくダメな奴って思われているみたいだけど、本当は違うんだ。あのときだって別に痴漢がコワイとかそーゆーので黙っていたわけじゃないし」
「じゃ、何で」
 思わず上半身をよじって阿井の横顔をのぞきこむと、阿井は静かに微笑んだ。
「なんだか、考えちゃってさ。俺、自分が痴漢にあったのはあのときが初めてだったんだ。男の俺を触るってことは、その痴漢も、あの、…俺と同じだってことだろう? 俺、それまで自分の仲間には会ったことなかった。なのに、始めて会ったヤツが痴漢で、俺、こんなヤツと一緒なのかって思ったら、なんだか…悲しいっていうか、虚しくなってきちゃって。いつもだったら警察に突き出すところなんだけど、…どうでもよくなっちゃってさ…」
 俺は呆然とした。
 阿井は、おおきな瞳にひどく大人びた色を浮かべていた。苦々しい笑みが柔らかそうな唇を歪ませている。
 それは、とても阿井らしくない表情だった。
「おまえ、そんなコト考えたのか…」
「バカみたいだろ」
「いや」
 呟くと、俺は座席に深く座り直した。無意識にポケットから煙草を取り出す。阿井がびっくりして目を見開いたのに、はっと気がついて箱をポケットにしまい直した。
 電車の中で喫煙なんてできるわけないのに、何をやっているんだろう、俺は。
 馴染みの虚無感がじわじわと胸の中に広がりつつあるのを感じる。
 俺はそれを振り払おうと、わざと明るい声を上げた。
「ま、いーんじゃねーの。おかげでアイツと接点が出来たんだし。どうよ。ちゅーぐらい、した?」
 俺の揶揄に、阿井は目に見えて狼狽えた。
「えっっ。そんなの、するわけないじゃん!」
「なんでー。したくないわけじゃないだろ?」
「そりゃ、したいけど…彼は、普通のひとだし」
 俺はほっそりとした阿井の肩に腕を回した。耳元に口を寄せる。
「襲っちゃえばー? 一回やっちゃうと、変わるぜぇ? 女とやるよりよっぽどイイしさ。何なら俺が、いいクスリ調達してやろうか?」
「えっ、えっ? 何のクスリ?」
「シたくなる、ク・ス・リ」
 阿井は、耳まで真っ赤になった。薄いシャツを通して早鐘のような鼓動が伝わってくる。
 俺はさりげなく阿井のうなじに触れた。
 指先を滑らせる。触れるか触れないかの微妙なタッチに、阿井はますます体を堅くする。
「だ、ダメだよ。ダメだよ、そんなの。ズルイよ」
「何いってんの。恋愛ってのはルール不問の争奪戦だぜ。ぼやぼやしていると誰かにかっさらわれちまう。アイツ、もてるし」
 阿井は唇を引き結んだ。いつも潤んだような瞳が、不安をうつして揺れている。
「好きなヤツとエッチしたいと思うのは当たり前だろ。恥ずかしがることじゃない」
 そう言うと、阿井は切なげにうなだれた。
 そのまましばらく黙っていたが、やがてゆっくり顔をあげ、俺をみた。強い眼差しだった。
「ありがとう。だけど、彼は俺とは違うから。だからいいんだよ。そんなことまでしてエッチしたいとは思わない」
「阿井」
「間違ってたら悪いけど、奈賀も俺と同じ、だよね」
 不意の問いかけに俺は動揺した。なんとなく阿井から視線を反らせてしまう。
「ああ、そう、だけど」
「奈賀は、ーー自分が嫌になることって、ない?」
 ずきんと、こめかみが脈打った。俺は呆然と阿井の顔を見つめた。
「ごめん、こんなこと言ったら嫌な気分になるよね。でも、俺は、こんな自分は本当は嫌なんだよ。あの人は俺がホ、ホモだってことに気付いている。知ってて、でもトモダチでいてくれて、優しくしてくれる。普通はこんなの無理だよね。俺はこれで十分だと思っているんだ。…彼をこちら側に引きずり込むなんてできないよ。俺と同じような思いはして欲しくない。あの人は今のままでいてくれればいいと思うんだ」
 俺は、何も言えなかった。
 まっすぐな阿井の視線に耐えられず、自分の、少したばこ臭い掌を見つめた。
 俺はそんな風に考えたことは無い。
 いつも自分のことばかり考えていた。どうしたら楽になれるか、どうしたら傷つかずに済むか、どうしたら愛して貰えるか。
 初めて好きになった同級生を諦めたのだって、相手のためなんかではなかった。自分が傷つくのが怖かったから、だから逃げたのだ。
 阿井が羨ましいとは思わない。そんな生き方をしたら辛いだけだ。
 でも、俺の目には阿井はキラキラ輝いて見えた。
 自分が、どうしようもなく醜い生き物のように思えた。