丁度電車はホームに停車したところだった。外に向かい四角く開いた黒い空間に俺は目を向ける。 何処の駅かなんて分からない。だが、俺は鞄を抱えて立ち上がった。 酷い疲労感があった。 時々、こういう気分になることがある。 誰とも話したくない。相手の話を聞くことさえ億劫。愛想の良い顔を保てない。 そういうとき、俺は相手に不快な思いをさせる前に逃げることにしていた。 「あの、奈賀、怒った…?」 敏感に俺の変化を嗅ぎ取ったのか、心配そうな声を上げた阿井に、俺は無理に強張った笑みを向けた。 「いや、俺、ここで降りるんだ。またな、阿井」 ホームに降り立つと、冷えた空気が体を包み込んだ。寂れた駅は人影もまばらで、真っ黒な闇がそこここに滲んでいる。 動き出した電車を振り返り、軽く手を振ってやった。 それだけで、阿井は安心したように口元を緩め、手を振り返した。 阿井は、素直で単純だ。 電車が行ってしまうと、ホームはしんと静まりかえった。 春だというのに冷え込んでいる。俺は、ホームのベンチに深く腰を下ろした。片膝を立てただらしのない格好で、鞄のポケットを探る。 煙草の箱とマッチを探し出すと、俺は慣れた仕草で火を点けた。煙草の先がぽっと赤くなる。 体を丸め、俺は胸の奥深くまで有害な煙を吸い込んだ。そのままゆっくり膝に額を押しつける。 鞄のポケットからブランドもののストラップが飛び出しているのが見えた。以前桑原がプレゼントしてくれたものだ。 やる、と何気なく差し出されたビニール袋をあけると、綺麗に包装されリボンまでかかった平たい箱がでてきた。 別に誕生日とか何かの記念日だった訳ではない。雑誌を眺めながら、何気なく欲しいと言ったのを覚えていてくれたのだ。 可愛い男である。 俺は出てきたストラップをすぐに携帯につけた。それからご褒美にソファに座っていた桑原の膝の上にのぼってキスをしてやった。 キスしながらそう言えば、と思い出しテーブルの上に目をやると、やはり放り投げてあった桑原の携帯に色違いのストラップが付いていた。 お揃いである。 俺は可笑しくて可笑しくて笑い出してしまった。 何ですかコレは。お揃いですか。いい年して恥ずかしいヤツ。ってか、そういう柄じゃないだろお前は。 桑原はゲラゲラ笑っている俺を、気恥ずかしそうな穏やかな目で見ていた。随分と失礼なことを言われているのに嬉しそうだった。 すごく楽しくて、なんだか恥ずかしくて、俺はアルコールも入ってないのにハイになっていた。 体重を傾け、桑原をソファの上に押し倒す。 それから濃厚なキスを。 歯と唇と舌を総動員して桑原を愛撫していると、下から腕が伸びてきた。腰を掴みぐいと持ち上げられ、膝を立てる。 不器用にベルトを外し、ジッパーを下ろされ、俺はキスを続けながらくすくす笑った。 すぐに脱がされるかと期待したがそうはせず、桑原はシャツを少したくし上げ両手で俺の腰を抱いた。素肌に触れられる感触に、鳥肌が立つ。 それから桑原はゆっくり手を下に這わせていった。 緩められたズボンのウェストを通過し、下着の中に侵入する。両手で双丘を掴まれ、背中が反る。 決して柔らかくない、張りつめた肉をふざけたように揉みしだかれ、撫でられ、俺は興奮した。後ろの窪みを指先で擽られた途端、背筋を痺れるような快感と期待感が走る。 欲しい。 後ろに回っていた両手が前に回ろうとしているのを感じ、俺は唇を離した。桑原と見つめあいながら、求めている場所に触れてくれるのを待つ。 桑原の手は焦れったいほど遅かった。 やんわりと握り込まれてため息が出る。 ゆっくり優しく扱かれ、眉間に皺が寄った。 そんなんじゃ、足りない。 言葉にはせず、腰を動かすことで表現する。桑原の手に、自分自身を擦りつける。 そんな俺を、桑原がーー見ている。 俺はバカみたいに興奮していた。 呼吸を荒げ、はしたなく腰を振る俺を、桑原は目を細めて見ていた。 その冷静な様子が俺を煽る。 手だって悪戯するばっかりで、求めている強い刺激をくれない。 でも気持ちよかった。 長い時間をかけて俺は上り詰めていった。 桑原の手が濡れていく。乾いた掌がぬるりと淫猥に滑るようになる。 ちゅくちゅくと響く音。 時々親指の腹で先端を擦られ、俺は全身を奮わせた。 言葉もなく、あえぐ。 きっとすごくいやらしい顔をしている。自覚がある。 桑原の胸に顔を埋めてしまいたかったけれど、そんなことをしたら眼鏡が壊れてしまう。外そうという発想はなぜか浮かんでこなかった。 ほとんど泣きそうになって、俺は桑原を見た。 奈賀、 と桑原の熱のこもった声が俺の耳朶を打った。 かわいいよ。 我慢の限界だった。 桑原の手を、俺は強く押さえた。 イジワルだった手にきゅうっと強く握り込まれて喉が反る。腹筋だけで上半身を起こした桑原が、喉元に噛みついてきた。 あ、あ、あ ひくひくと痙攣する。痺れるような絶頂感。 俺は桑原の掌に快楽の雫を吐き出した。最後に拭うように割れ目を撫でられて、思わず甘い声が漏れる。 …すごく、良かった。 へたってしまった俺の体を片手で支えると、桑原はお椀型に丸めた掌をそろそろと抜いた。 上にのっている俺の体をものともせず、テーブルの下に落ちていたティッシュの箱を引き寄せ、後始末をしている。 悪戯心がわいた。 俺は起きあがると、手を拭いている桑原のベルトに手をかけた。 そこは内部に張りつめたモノのせいで、大きく持ち上がっている。俺はさっさと前をくつろげさせるとそれを取りだした。既に堅く育っている様子ににやりと口元を歪める。 ズボンと下着を一緒に引っ張ると、腰を浮かせて協力してくれた。 脱がせた服を思い切りよく放ると、桑原が肩を抱いてきた。しかし俺はその手を丁重に押し戻した。 今日はワンステップアップするつもりなのだ。 ソファに座った桑原の足元に座り込むと、桑原の体格相応に大きなモノを手に取る。怪訝そうな桑原ににっこりと微笑みかけ、俺はおもむろにそれを頬張った。 わ、わ、ちょっと。 桑原がうわずった叫び声をあげたが、俺は構わず喉の奥まで桑原を銜えこんだ。桑原の手が俺の頭を押さえる。やめさせようとしているのだろうが、軽く歯を立ててやると抵抗はあっさり止んだ。 うう、と苦痛とも快感をこらえているともつかぬうめき声が頭上で漏れる。 立派な持ち物があるのに、桑原は童貞かと思うほどに奥手だった。まるで慣れていない。 てゆか、へたくそ。 どうすればイイのか教え込んでいくのは、結構楽しかった。調教の仕方は簡単である。気は優しいので、ああして欲しいこうして欲しいというおねだりに素直に従ってくれる。イイ、と啼けばそこを重点的に可愛がってくれる。 桑原は優秀な生徒で、すぐに基礎を覚えた。だが、その後が続かない。俺はなかなか応用編に進むことができず、ちょっと焦れていた。 桑原は生真面目で、ちょっと潔癖なところがある。俺としてはアクロバティックな体位とか、SMテイスト(あくまでテイスト!)のプレイとかに進みたいのだが、引かれそうな気がしてなかなか踏み込めなかった。フェラだって俺は基本だと思うのだが、今までしたこともされたこともなかったのである。 それをパクっといってしまったのは、その場の勢いだった。いい気分が継続していて、こんなことをしたら嫌われてしまうかも、という恐れを凌駕していた。 てゆか、なんでフェラくらいでそんなこと思わなきゃならないんだよ、なー?。 ぐいぐいとすぼめた唇でしごく。舌を絡め、上目遣いに桑原をみあげると、脅えたような表情をしていた。 俺は見せつけるように出し入れを繰り返した。俺の髪を掴んだ桑原の手に力が入る。 な、もう、いいから… 俺は初めてフェラされた時のことを思い出していた。アレは衝撃だった。とてもじゃないが綺麗とは思えない自分のモノが舐められているということに、めちゃくちゃ興奮して、感じまくった。全然もたず出してしまって、笑われたものだ。 あのときの俺と同じなのだろう。桑原はいつもよりずっと早く限界を迎えようとしていた。引き剥がそうとする桑原の手に逆らい、俺は更に強く桑原を吸った。 桑原が痙攣した。青臭い液体が、喉の奥にぶちまけられる。俺はそれをむせながら飲んだ。久しぶりの味だった。 俺が桑原から離れ、一度では飲み込みきれなかった分を嚥下していると、桑原が強く肩を掴んだ。 「おい、まさか飲んだのか!?」 頷くと、脱力してソファに沈み込んだ。喜ぶどころか困惑しているらしい桑原の表情に、俺は首を傾げた。 「何だよ。気持ちよくなかった? 俺よく上手いっていわれるんだぜ」 「…どこでそういうの、覚えるんだよ」 「そりゃ俺は経験豊富だから」 ふざけた口調に、桑原は顔を顰めた。 「前の、恋人に…?」 「ばっか。恋人なんかじゃないよ。たまたまナンパしたヤツとかにさぁ…」 気まずい雰囲気を感じ取り、俺は口を閉じた。桑原は不味いものでも食べたような顔をしていた。俺はなにがいけなかったのか分からなかった。 実際、今まで俺に恋人なんて存在はいなかった。一週間以上付き合ったのは桑原が初めてなのである。俺にいろんなことを仕込んだのは皆一晩限りの情事の相手だった。 「大丈夫だよ、俺ビョーキとかは持ってないし」 意識的に明るい声で冗談を言う俺を、桑原は非難するような目で見た。 「奈賀は好きでもない奴とも寝られるのか」 ずきんと胸が痛んだ。 俺は咄嗟に言い返すこともできなかった。 瞬時に頭に血が上り、くらくらする。 桑原がホモの癖に保守的な男だということには、とっくの昔に気付いていた。 浮気とか、愛の無いセックスとかを絶対に認めない。フリーセックスなんてもってのほか。 遊んでいるようなヤツは最低の人間だと決めつけて疑わない。そういう人間が、どんな気持ちでそういうことに走るのかと言うことを考えもしないのだ。 俺だって好きで遊んでいたんじゃない。 むしろ遊べば遊ぶほど心がうつろになって、壊れていく気がした。 俺にとってアレは自傷行為だった。一種のビョーキだ。自分を傷つけずにはいられなかったのだ。 桑原にとっては身持ちの悪い男の一言で済まされてしまうのだろうが。 だけど、桑原だって俺のナンパにのったんじゃないか。 俺は奥歯を噛みしめて桑原を睨み付けた。 ホイホイついてきてホテルで俺を抱いた癖に、セックスの時しか会おうとしない癖に、偉そうなことを言うんじゃない。 大体、自分をなんだと思っているんだ? 恋人気取りで説教? 笑わせるんじゃない。 ふざけんなってんだ。 ちょっと便利だからつきあってやっているだけなのだと、この男は分かってないのだろうか。そうでなければ誰がこんな下手くそでダサい男とヤるっていうのだろう。 凶悪な衝動が腹の底からわき上がってきた。俺は唇の端を歪めて笑った。嫌な笑い方だと自分でも思った。 「説教すんじゃねーよ。なぁ、もっとスゴイ事しようぜ…?」 挑発的に言うつもりだったのに、なぜか声が低く掠れていた。 蛇に睨まれた蛙のようになっている桑原に、覆い被さる。 桑原は、従順だった。 俺は言葉どおりスゴイことをしてやった。 獣のようになってお互いの体液にまみれ何度も何度も達し。 でも全然満足できなくて、苦しかった。 何かが足りない気がして、落ち着かなくて、泣きたいような気分だった。 いつのまにか煙草がフィルターを残すのみになっていた。 挟んでいた指に痛みが走る。 どうすれば良かったというのだろう。阿井のように、同級生相手に苦しい恋愛をしていれば良かったのか? 誰とも寝ず、鬱々と煮詰まった性欲を溜め込んで、表面だけ身綺麗なままでいて? だが大体遊んでいなければ桑原に出会うこともなかったのだ。 そもそもこんなことは考えるだけ無駄だ。過去はやり直せない。 吸い殻を投げ捨てると、コンクリの上に灰が固まって落ちているのが目に入った。一二度しか口を付けてないのにもったいないことをしてしまった。 もう一本取りだして火を点ける。火傷をした指がずきずき痛んだ。 ニコチンで気分を落ち着かせようと試みながら、俺はまた横目でストラップを見た。 なんということもなく指先をひっかけ、ストラップを引っ張る。ひきずられ、携帯がポケットから抜け落ちてきた。 ごとんと鈍い音を立ててベンチの上に落ちる。 のろのろと俺は携帯に手を伸ばした。 いつもは仕事中であろう桑原に気を遣ってメールを使っていたが、からからに乾いた心にそんな優しさが残っていよう筈もなかった。 桑原の番号を呼び出し、耳に押し当てる。呼び出し音が三回なった後、不機嫌そうな桑原の声がした。 どうした、と誰何され、躊躇する。 桑原は仕事中なのだ。これから俺が言うことは我が儘だ。だがいつもは俺が桑原の都合に合わせてやっているのだ。たまには俺を優先させてくれないだろうか。 そんなことを考えている自分が可笑しくて、俺は目を閉じた。社会人と学生は、違うのだ。 何気ない振りを装って言う。 「今夜、暇ない?」 分かり切った返事が返ってきた。 『悪いが仕事が押しているんだ。週末に…』 最後まで聞かず、俺は携帯を切った。 この店に来るのは久しぶりだった。元々ナンパが目的で通っていた場所だ。桑原とつきあい始めてからは思い出しもしなかった。 店内に入ってきた俺を見て、マスターは酷く驚いた。そういえば制服姿でここに来たのは初めてである。 俺は入り口で立ち止まると、店内をゆっくりと見回した。 男を漁りに来たのだと、無言で主張して見せたのだ。 まだ早い時間なのに、人が多かった。制服や高校生に萌を感じる人種はこっちにもいる。数人が目の色を変えるのを捕らえ、俺は冷え冷えとした笑みを浮かべた。 いつものカウンター席に腰をかけ、いつもと同じ水割りを頼む。 だが、出てきたのはただの水だった。 「だめだよ、制服なんかで来ちゃあ」 マスターは迷惑顔だった。俺は苦笑いしてウーロン茶を頼んだ。 「桑原さんはどうしたの? 待ち合わせ?」 問われて俺は驚いた。マスターに話しかけられたのは初めてだった。しかも何故桑原のことを知っているのだろう。 「いーや。あいつがお仕事で忙しいっていうからさ。代わりを探しに来たんだよ」 「浮気? 別れたんでないのなら、やめといた方がいいんじゃないの?」 「煩いなっ!」 自分でも驚くほど尖った声だった。思わず口元を手で覆う。 こんなところで癇癪を爆発させるなんてどうかしている。 自分で自分を律することができない程いっぱいいっぱいになっていることに気付き、俺はため息をついた。 マスターはぎょろりと俺を睨むと店の奥に消えた。 ひどく空虚な気分だった。 目の前にゴンっと音を立ててウーロン茶のグラスが置かれる。 俺は反射的にそれを口に運んだ。 ものたりない。 アルコールが欲しい。 それから何もかも忘れられるような、セックス。 なんだったらあいつでもいい。いつか俺をボロボロにした、サディスト。 そんなことを考えていると、コトリと隣の席に水割りのグラスが置かれた。 レゲエな男が媚びた笑みを浮かべて俺を見下ろしていた。好みのタイプではない。だが、俺は笑顔を浮かべた。それをオーケーととった男が腰を下ろす。 「コーコーセー? よくこの店来てたよね。ずっと大学生かと思ってた」 俺は曖昧に頷いて男の肩に手を置いた。ぐっと上半身を乗り出して距離を縮める。 男が嬉しそうに目を細めた。 その耳元に唇を寄せ、低く囁く。 「なぁ、いこう」 「まぁ、そう、急ぐなよ」 俺がじりじりしているのには気付かず、男は軽く食事をしてからだとピザを注文した。もともと食事を取りに来ていたらしい。 俺は一ピース分けて貰って囓りながらも、落ち着かなかった。 今すぐにしたかった。 だが男はのんびりとピザを口に運んでは、下らない話題を振ってくる。俺はいらいらして仕方がなかった。他の手っ取り早そうな男に乗り換えようかと悩む。 三十分も経っただろうか、肩に触れる無骨な手に顔を上げると、桑原が立っていた。 黙りこくってはいるが、表情が険しい。厚い唇は引き結ばれ、俺と目を合わせようとしない。 桑原は狼狽する俺を無視し、隣に座っていた男に軽く頭を下げた。 「面倒かけたな」 「そう思うんなら、今度奢ってよ」 俺をナンパした筈の男は、のんびり言うと最後のピザを頬張った。 それでようやく俺はハメられたことに気がついた。 桑原はマスターにも頭を下げると、俺の肩を掴んで歩き出した。指が食い込んで痛かった。いたいと訴えても放してくれない。 こんなことは初めてだった。 桑原は俺の厭がることはしたことがない。 ものすごく怒っているのだ。 すうっと腹の底が冷えた。 自分が希薄な存在になった気がした。なにもかもが酷く遠い。 恐怖だけを感じていた。 泣きたい気分を押し殺し、桑原についていく。 いつのまにか繁華街を抜け、住宅地に入っていた。もう時刻が遅いので通行人もいない。 やがてぎりぎりと俺の肩を締め付けていた桑原の握力が弛んだ。立ち止まり、むっつりと前方を睨み付けている。 どうしたのかと聞こうとした時、桑原が口を開いた。 「すきなんだ」 突然の告白に、俺は反応できなかった。 体中をガチガチに固めて、桑原が声を絞り出す。 「捨てないでくれ」 俺は桑原の横顔をじっと見つめた。 俺好みに短く刈り込まれた髪。身に纏っているのは俺が勧めたブランドの服。それから俺が大好きな逞しい躯。 桑原は出会った頃から変化していた。少しだけ、良い男になった。 俺が外見を整えてやった為だけではない。自信なさげに俯く癖がいつの間にかなくなり、相手をまっすぐ見るようになった。乏しかった表情が増え、どことなく落ち着きが備わった。 多分今ハッテン場で桑原に出会ったら、俺はすぐさま食らいつく。 なのに相変わらず桑原は優しかった。共に過ごす時間は短かったが、できるだけ俺を満足させようと気を遣っているのをいつも感じていた。俺以外の男に興味を示したこともない。 そんなことを、俺はいまさらのように思い出していた。 「俺以外の男を誘ったりしないでくれ」 桑原の肩が震えている。 歯を食いしばり、ぎゅっと目を瞑った桑原は、今にも泣き出しそうだった。 不思議だった。自分よりずっと年上の図体の良い男が、俺みたいな下らないヤツの情を求めて泣いている。 悪いことをしたのは、自分なのに。 さっきまでの苛立ちや不安が嘘のように、消えていた。 俺はゆっくり桑原の肩口に額を押しつけた。強張った腕を両手で抱き込む。 「悪かった。もうしない」 そう言うと桑原は、空いている方の腕を伸ばし俺の肩を引き寄せた。 眼鏡が桑原の肩にあたって落ちそうになったが、かまいはしなかった。そのまま俺達は唇を重ねていた。 桑原の太い腕が背中をしっかり抱きしめている。 決して小柄ではない俺が、桑原の胸の中にすっぽり包み込まれる。 これだから、ガタイの良い男が好きなんだ。 俺達は誰が来るとも知れぬ路上で気が済むまでキスを交わした。 それから桑原の家まで歩いて帰った。 セックスは、できなかった。 家に帰り着いた途端桑原はそわそわと奥の部屋を気にした。俺に食い物を勧めたり風呂に湯を溜めたりしながらしきりに時計を確認している。 「仕事、あったんじゃないのか?」 少し残念に思いながら水を向けると、桑原は困ったように微笑んだ。 「まだ、結構かかるのか?」 「うーー、うんー…」 「じゃあ、無理して俺に付き合わなくていいから。まだ終電に間に合うし、俺帰るよ」 そう言うと、桑原は不安そうに俺を見た。 そんな顔をされる理由が分からなくて俺は首を傾げる。 俺はキスしただけですっかり満足していた。あとは約束の週末まで待つつもりだった。 しかしよく考えてみれば桑原にそんな俺の気持ちの変化が分かるはずもない。桑原はおずおずと近寄ると、そっと俺を抱きしめてきた。髪を撫で、背中を愛撫する。 「でもおまえ、俺が会えないって言ったから、あそこに行ったんだろう?」 「んー、まぁ、そうだけどさ」 「俺はもう、おまえにあんなことして欲しくないんだ」 段々と熱のこもる愛撫が心地よい。俺も桑原の首筋にキスをした。 それから厚い胸板に手をついて、桑原を引き剥がした。 桑原は傷ついた顔をした。 「そんな顔するなよ。もうナンパなんてしないから。週末なら大丈夫なんだろう。その時までちゃんと待っているから」 「ほーー、ホントに?」 まだ疑わしそうな桑原に、俺は傷ついちゃうなぁと笑った。 「セックスは、重要じゃないんだよ。もちろん、ソレも好きだけど」 俺は眼鏡のレンズの奥から桑原を眺めた。桑原はとても真剣に俺の言葉を聞いていた。 「ただ、会いたかったんだ。会えなかったから、寂しかったんだ。ここんとこ色々あって」 桑原がそっと手を伸ばした。優しく頬を撫でてくれる。俺はなんだかほっとして目を伏せた。 「でも、もう顔見たから、大丈夫」 「奈賀」 桑原は感極まった声で呟くと、もう一度キスをくれた。 どんな技巧をこらしたキスより気持ちの良いキスだった。 このひとの、恋人でいたい。 end 蛇足 |