「イヤーーーーーーッ!」
 強烈な不協和音に、俺はシャツを脱ぎかけた中途半端な格好で振り向いた。
 二年に進級すると同時に学校の体育館は改装工事を始め、俺達は教室での更衣を余儀なくされていた。女子更衣室は特別棟に確保されたが、男子は女子が出ていくのを待ってカーテンを引き、大急ぎで着替えねばならない。
 休み時間なので、教室の外からは賑やかなざわめきが聞こえてくる。なのに俺のいる教室の中だけ、奇妙に緊張感のある静寂が満ちた。
 ムンクの「叫び」のように両手を頬にあて、口をアルファベットのO型に開いた山田が立ちつくしていた。皆も奇怪な男の裏声に度肝を抜かれたようである。
 山田は普段は大人しくて内向的なのに、ときどき奇矯な行動をとる変なヤツだった。だから皆、またか、という顔をしている。それでも何がきっかけで山田が叫んだのか気になるのだろう。山田が見ているものに視線が集中した。
 山田の視線の先には奈賀がいた。既にズボンをジャージに履き替え、シャツのボタンを半分外しているところだった。アンダーシャツは着ていない。
 奈賀は眉を寄せて山田を見返した。
「なんだよ」
と、低い声で恫喝する。
 山田はわななく指で奈賀を指した。
「キ、キ、キ、キスマーク…」
「あ?」
 奈賀は怪訝そうな顔をして自分の体を見下ろした。その胸元に、たしかに痣が浮いているのが見えた。
 俺はちょっとショックだった。そういう場所に跡がついているということは、誰かと深い関係にあるということを示している。
 俺よりずっと背が高くて大人びているとはいえ、奈賀は俺と同い年なのに!
 俺なんて片思いするばっかりで、キスさえしたことがない。
 しかも奈賀は俺と同じ嗜好の持ち主である。多分、キスマークを付けた相手は、男だ。望みの無い恋をしている俺と違い、奈賀にはきちんと両思いの相手がいるのだ。
 そんなことを一瞬で考え、俺はくらくらした。
 皆も気付いたのだろう。着替え途中の半裸の男達が色めき立って奈賀に迫る。
「奈賀、おまえ、彼女いたのか!?」
「マジかよ、キスマーク!? ちょっと見せてみろよっ!」
 雪崩を打って駆け寄る男達にぶつけられた机がガタガタ音を立てる。
 奈賀はきゅっとシャツの胸元を握りしめた。くねっとしなを作ってみせる。
「イヤン、えっち」
「何がえっちじゃーっ!」
 興奮して吠えた川口を押しのけ、高居が前に出た。
 俺は何故だかひやりとした。
 高居の腕がシャツを押さえた奈賀の腕を掴まえる。もう片方の手が奈賀のシャツを掴み、強引に引いた。
 あっという間の出来事だった。
 引きちぎられたボタンが机の上で跳ね、かつんと乾いた音を立てた。
 奈賀の、引き締まった上半身が露わになっていた。さっき気付いたキスマークが胸部に染みのように見える。その下、腹部にも幾つか淡い色が散っていた。
 間違えようがない。
 セックスの痕跡。
 息を呑む気配がした。クラスメートの生々しい情交の跡を、皆固唾を呑んで見つめていた。
 俺は下腹部がきゅんと緊張するのを感じた。
 奈賀のハダカを見るのは初めてだった。俺はいつだって教室の端っこで壁に向かって着替えをする。
 トモダチのハダカを見てしまうのが怖かった。自分がどのような反応を示してしまうのか、不安だったのだ。単なるトモダチのカラダを見て、興奮してしまったりしたら、サイアクだ。
 幸いなことに、今までそんなことは無かった。
 しかし今。
 奈賀のカラダを見て、俺は確かに反応していた。
 奈賀は不愉快そうに高居を睨み付けながら、口元に笑みめいたものを浮かべた。
「…まいったな」
「不純異性交遊か」
 高居が奈賀の体を凝視したまま淡々と言う。
「いやらしい。とんだ不良だな」
「恥ずかしいだろ、そんなに見るなよ。高居はキスマークがそんなに珍しいのか? まー、童貞クンなら仕方ないか」
「先生がこれを知ったらどんな反応をするだろうな?」
 二人は決して仲が良くない。噛み合わない会話に緊迫感が嵩を増す。俺は脱ぎかけたシャツを握りしめた。
 確かに、学校側にバレたら、まずい。あいつらはこういうことには酷く神経質だ。
「おまえは言わないよ、高居」
「不純異性交遊で退学になったヤツらもいるの、知っているか?」
 俺は知っていた。だが、それは奈賀には適用されないと思う。あのバカップルは屋上でヤっていたのだ。近隣のマンションの住人がそれを発見し、学校に通報した。外部の人間に見られた上、ハメてる現場を押さえられては退学以外ないだろう。
「おまえは言えないよ、高居」
 奈賀はにっこり笑った。
 それからやにわに高居の腕をふりほどいた。次の瞬間には、奈賀の両腕はしっかりと高居の首に回されていた。
 そのまま高居の首筋に食らいつく。
 予想外の展開に、高居が吠えた。
 二人を取り巻いていた面々がわっと飛び退く。
 高居は奈賀を振りほどこうと、めちゃくちゃに暴れた。高居の体や振り回された奈賀の足にぶつかった机や椅子がけたたましい音を立てて倒れる。
 手加減を知らない高居の腕が、奈賀の柔らかな茶色の髪を力一杯掴んで引っ張っているのを見て、俺は慌てて二人に駆け寄った。
 高居の腕を押さえようと頑張る。
 しかし、俺は非力だった。
 突き飛ばされ、周囲の机を巻き添えにしてひっくりかえる。脇腹に机の角が突き刺さり、息が止まった。灼けるような苦痛に、動けなくなる。
 その合間もすさまじい物音が俺の鼓膜を叩いていた。
 なんとか痛みをやりすごし、上半身を捻ると、奈賀が跳ね飛ばされたところだった。いくつもの机を道連れにして倒れ込む。倒れた机の中から雪崩のように教科書や禁制のゲーム機がこぼれ落ちた。
 脱ぎかけていたシャツがはだけ、奈賀は肩まで露出させていた。腹も、胸も、喉元も、俺の目の前に晒されている。
 俺はへたりこんだまま、そのしなやかな筋肉をまとった体を見ていた。
 奈賀はゆっくり体を起こした。細い眼鏡のつるが歪んでいる。だが、その頬には歪んだ勝利の笑みが浮かんでいた。
「ホラ、おまえも同罪だぜ」
 高居の首筋にはくっきりと赤黒い刻印が残されていた。
 ひゅうっと誰かが口笛を吹いた。
 怒りのあまり顔を真っ赤にし、高居は片手で吸い付かれた跡を押さえた。
 その目の前で、奈賀はこれ見よがしに、左手を掲げた。腕時計を覗き込む。
「あーあ、もう授業始まっちゃうじゃん」
 途端に見物に興じていたクラスメート達が慌ただしく動き出した。体育の飯田は小うるさく、遅刻をするとした分数だけトラックを走らされる。
 奈賀は立ち上がると、軽く服に付いた埃を払った。それから黙って立ちつくしている高居を横目で見た。酷く物騒な光を宿した目だった。
「何、高居。キスだけじゃ、足りないのか? どうせならフルコースで、犯して、やろうか?」
 低い声は、きっと他の面々には聞こえなかっただろう。皆、倒れた机をよけて移動している。奈賀と高居のそばにいたのは俺だけだった。
 高居は、奈賀を睨み付けた。
 殴りかかるかと思ったが、飯田の体育をばっくれる勇気はなかったのか、捨て台詞を吐くと自分の席へ戻っていった。
 ありきたりで、独創性のまるでないコトバ。
「この、ホモ野郎が」
 全身の力が抜けてしまったような気がした。
 奈賀に向けられた言葉は、俺の心をも切り裂いた。
 高居は勿論奈賀が本当にホモであることなど知らないのだろう。だが、ホモ、という言葉にごく当たり前にこめられた侮蔑が、俺の心臓をえぐり取とうとしていた。
 こんな些細なことで思い知らされる。自分の性癖がどんなに普通の人間には受け入れられないものなのかを。
 腕を掴まれるまで、奈賀が近寄ってきたことにすら気付かなかった。
「阿井?」
 奈賀が優しく囁く。片手で俺の上腕を掴みもう片方の腕で背中を抱いて、そっと体を起こそうとしてくれる。
「どこか痛むのか? 大丈夫か、阿井」
 俺はぼんやりと奈賀の顔を見返した。
 整った顔が、不自然な程近い距離で心配そうに俺を覗き込んでいる。
 鼻の奥がつんと熱くなるのを感じ、俺は慌てて顔をうつむけた。奈賀の腕を避け、そそくさと立ち上がる。脇腹がずきんと痛んだ。
「大丈夫だから」
 俺はなんとか口角を引き上げて笑顔を作った。
 今これ以上優しくされると、本当に泣いてしまうような気がした。
「早く着替えないと。ヤバいよ、奈賀」
 ウン、と奈賀は少し不満そうに頷くと、自分のシャツをとりに席に戻った。
 その後ろ姿を眺めながら俺の吐いたため息は震えていた。

 俺には好きな人がいる。
 俺よりずっと背が高くて、百倍も男前で、明るくて闊達で無神経な男だ。
 殆ど一目惚れだった。入学式の時、初めて見かけた時からいいなと思っていた。
 その気持ちが決定的になったのは、痴漢から助けて貰ったときだ。
 正直言って、彼に助けて貰えるだなんて思っていなかった。
 真っ黒な気持ちで、撫で回してくるいやらしい手を甘受して。唐突に蔑みのこもった眼差しで俺を見ている彼に気が付いたとき、俺は本当に、死にたいような気分に陥った。
 あのとき、俺は確かに彼と自分たちとの間にある距離を感じていた。
 この人が俺を理解することなど、ましてや俺を受け入れてくれることなど未来永劫ありえない。
 「好き」だなんて、そんな身の程知らずの感情を持つことすら、彼に対する冒涜だと思った。
 俺は絶望的な気分で、ただ、彼を見ていた。
 それを彼がどう捉えたのかは分からない。だが、彼はイキナリ人波を割って近づいてくると、俺に触っていた男を掴まえ、外に引きずり出した。
 俺はびっくりした。
 何がなんだか分からなかった。今思い出そうとしても、記憶に連続性がない。断続的に光るストロボのように、間が欠けている。あのとき俺がひどく混乱していたということだろう。
 助けて貰ったというのに、狂ったように男を蹴りつける彼の姿に、恐怖さえ覚えたことは鮮明に覚えている。
 でも一緒に電車の中に逃げ込んで、安堵のあまり、バカみたいに笑い出して。
 子供みたいに開けっぴろげで屈託のない彼の笑顔を見ているうちに、胸がきゅうと痛むのを感じた。
 それから俺はずっと彼に恋している。
 報われようとは思わない。片思いのままで良い。
 でもそんなのは建前で。
 本当は、もっと近くにいたい。
 彼の体に触ってみたいし、触って欲しい。
 好きだと言われたい。
 …キス、したいのだ。



 しろいな、とおもった。
 四角いパネルが並んだ天井はしろ。周囲を取り巻くカーテンもしろ。俺の体を覆うシーツもしろ。
 ぼんやりしていると、温かい手が額に当てられた。額から後ろに、髪を梳くように指先が落ちていく。
 彼ではないとだけ思った。
 俺の好きなあの人はこんな優しく触れてはくれない。
「大丈夫か?」
 柔らかい声は、奈賀のものだった。
 少し顎を上げて眼球を動かすと、枕元に屈んでいる奈賀の姿が見えた。ボタンの弾けたままのシャツを着ている。
 髪の中に差し込まれたままの奈賀の手が、反対側から伸びてきた腕に振り払われた。
「おまえ、やらしー触り方すんなよ。なんか俺まで鳥肌たっちゃったじゃねーか」
 その声に、俺は初めて彼もいたことに気が付いた。
 胸がつきんと痛む。
 間抜けな寝顔を見られたかと思うと恥ずかしくて顔に血が上った。慌てて上半身を起こすと、くらりと視界が揺れる。
 体育の授業の途中で貧血を起こしたことを思い出した。
「阿井、そんな急に起きない方が良い」
「どうせもう昼休みだからな。ほら、鞄持ってきてやったから、メシくおーぜ」
 彼は俺の足元に鞄を置くと、自分もベッドに腰をかけた。勝手に中から俺の弁当箱をとりだす。
 奈賀も反対側に座り、コンビニの袋をベッドの上に広げた。
「あの、でも、こんなところでゴハン食べたりなんかしていいの?」
「だって、ばばあ、いねーもん」
「委員会だって。俺、保健委員だからついでに留守番頼まれたんだ。だから問題ない」
 そう言うと、奈賀はパンの袋をひきちぎって囓りだした。パンくずがぱらぱらとシーツの上に落ちている。
 問題ないと言うことはないだろうと思いつつ、俺はベッドヘッドに寄りかかると差し出された弁当箱を受け取り蓋をあけた。
「高居と対決したんだって?」
「ああ。おまえ教室いなかったんだっけ」
「俺、着替える必要なかったからな。見たかったぜ〜、おまえが高居にちゅーするトコ!」
 そう言って、彼は笑った。まだジャージのままである。彼はサッカー部の朝練と午後練がほぼ毎日あるので、登下校時以外はほとんどジャージ姿で過ごしていた。それは、俺にとっても救いだった。彼の着替える姿を見なくて済むのだ。
「なあ、おまえ、キスマークつけているんだって!? 見せろよ」
「なんだ、おまえも童貞か?」
 無邪気な求めに奈賀は苦笑いした。残っていた上半分のボタンを外す。下半分はゼムクリップで器用に止めてあった。
 彼は身を乗り出すと、奈賀のシャツの中を覗き込んだ。
 なんだかものすごくやらしい光景に見えて、俺は箸を噛んで弁当箱に視線を落とした。
「うわ、すげ。んもー、奈賀ってばむっつりスケベなんだから〜。オンナいるなんて知らなかったぜ。なあ、どんなオンナ? 俺の知っている奴?」
「いや」
 そっけない奈賀の肩をぐいと抱いて、彼はにやにやとイヤラシイ笑みを浮かべた。
「カワイイ?」
「…そうだな。可愛いよ。すごく」
「カーッ! のろけちゃって!」
 俺ははらはらしながら二人を見守っていた。奈賀の恋人が女性であるわけがない。このまま放置していいのだろうかと思ったが、奈賀は涼しい顔をしている。
 俺も奈賀の恋人に興味があった。
 彼は興味津々で下世話な質問を続けている。
「胸は?でかい?」
「…うーん、平均よりは大きいのかな…」
「桜井みたいなオンナ!?」
 桜井というのは隣のクラスの女子だ。その巨乳は密かに男どもの羨望の的になっていた。
「いや、あんなにちっこいひとじゃないよ。俺より5センチくらい身長高いから」
「うわ、ナニソレ! でけーオンナ!」
 俺も少し驚いた。なんとなく、奈賀の相手は小さくて可愛いタイプの男のコだと思っていたからだ。
 ちなみに奈賀の身長は170センチ以上ある。
「もしかして、年上か?」
「ああ」
「おねーさまかよ! たまらんな! まさか大学生?社会人ってことはねーよな」
「社会人だよ」
 彼はベッドの上で悶絶した。
 奈賀はしれっとしてパンを囓っている。
 俺もいつのまにか箸が止まっていた。
 年上の、大人の男性と付き合っている奈賀など、想像したこともなかった。
 思わず聞いてしまう。
「きれいなひと?」
「いや、どっちかというと不細工だな」
 矛盾したことを言う奈賀に、彼がすかさず突っ込んだ。
「おまえ、さっきカワイイって言ったじゃん!」
「俺にとっては可愛いんだよ」
 俺は赤面してしまった。
 奈賀はその人のことを、きっとすごく好きなのだ。
「うわー、俺おまえのこと殺したくなってきた!」
 ぐいぐいと奈賀の首を締め付け、彼がわめいた。
 俺は構わず質問を続ける。
「どんなきっかけで付き合いだしたの?」
「寂しい男が集まる店があってね。そこで、ナンパした。遊びのつもりで声かけたんだけど、気が付いたらハマっちまってた、みたいなー」
 照れたのか、語尾をコギャル風に伸ばした奈賀に、俺はもう、どうつっこんだら良いのかさえ分からなくなっていた。
 寂しい男が集まる店って、それはつまり、ハッテン場のことではないだろうか。
 そこで、ナンパ?
 しかも、遊びのつもり?
「おまえ、もしかして、すっげー悪い男なんじゃねーの?」
「あ、知らなかったか?」
 指をピストルの形にすると、奈賀はバンと口で言って彼の胸を打って見せた。それからふっと指先を吹く。
「俺に触ると火傷するぜ」
「バーーーーッカ!」
 力一杯怒鳴ると、彼はベッドの上に仰向けに転がった。伸ばした俺の足が下敷きになっているからきっと寝心地は悪い。
「あー、くっそ、俺も彼女ほしーぜ」
 思わず言ってしまった、という感じだった。
 俺は黙っていた。
 奈賀は冷ややかな視線を彼に突き刺した。
 居心地の悪い沈黙が、保健室に立ちこめた。
 彼は、もてる。
 そのことを俺は知っている。
 何人かの女子にコクられたことがあるらしいことまで分かっている。
 なのに、彼女はいない。作らない。
 それは、俺に気を使っているからではないかと、前々から疑っていた。

 ばかだな。
 やっぱり彼女が欲しいんじゃないか。

 不意に、足を圧迫していた体重が消えた。
「悪い、俺先教室戻っているわ」
 言葉が終わる前に彼の姿は視界から消えていた。すぐに、保健室の扉が開閉する音が響く。それから、沈黙。
 俺はもそもそと口の中に残っていたご飯を咀嚼した。充分噛んだ筈なのに、それを飲み込むのは恐ろしく難しかった。
 それ以上食べる気が起きず、俺は箸を箸箱にしまった。弁当箱に蓋をする。
「面白い奴だよな。彼女欲しいなら作れば良いのに。ホモの友達に気兼ねするなんて、ね」
 奈賀が淡々と言った。
 俺はこっくり頷いた。まったくである。
「阿井も可哀想に」
 俺は弁当箱を鞄にしまうと、膝を引き寄せ顔を埋めた。
 なんだか急に自分が可哀想に思えてきた。
 寂しかった。
 恋人が、欲しかった。友達ではなく。
「阿井」
 奈賀の手が、優しく髪を撫でる。
 やめて欲しい。優しくされると、余計泣きたくなる。
 だから、顔を伏せたまま、手で奈賀を振り払った。
「ダメだよ奈賀。ちゃんと大事な人がいるのに、優しくしたりしないで」
 馬鹿なことを言っていると思う。
 でも優しさは、俺にとっては凶器だった。
 優しくされると期待してしまう。
 甘えたくなる。
 振り回されて。
 どんどん自分が弱くなる。
 特に俺の好きなあの人の中途半端な優しさは、俺を散々傷つけた。
 ぎしり、とベッドが軋み、俺は奈賀が近づいてきたのを感じた。
「俺は、阿井にも興味があるよ」
 ひそやかな声は、意外な程近かった。
 思わず顔を上げると、鼻がぶつかりそうな距離に奈賀の顔があった。
「奈賀?」
 すっと奈賀の顔が近づく。
 ちり、と唇で弱い静電気が弾けた気がした。

 キスしようとしている?

 俺は反射的に上半身を後ろに引いていた。
 ほんの少しだけ接触してしまった。いまのはキスのうちに入るのだろうか。
 ああ、そんなことを考えている場合ではないのに。

 奈賀はそれ以上俺に近づこうとはしなかった。
 ただ目を細めて、形の良い唇を笑みの形に歪めた。
「気が変わったらいつでもおいで。慰めてあげるくらいのことは、できるから」
 それだけ言うと、奈賀は立ち上がった。ゴミをまとめて持つと、カーテンの外に消える。
 カラカラと引き戸の開く音がし、校内のざわめきが一瞬大きくなった。だがすぐにまた遠ざかる。
 奈賀が何を考えているのか、俺にはさっぱり分からなかった。



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