それからずるずると時は流れ、俺は相変わらず絶望的な恋に身を灼いていた。
 彼はいつも俺の近くにいた。
 まるで、気の合う友達といったスタンスで、俺達は何をするにもつるんでいた。
 周囲にペットと飼い主と認識されていた俺達の関係は、いつの間にか普通の親友に格上げされていた。
 彼は常に部活で忙しかったけれど、あいた週末には一緒に映画や買い物に出かけたし、夏休みにはクラスの皆と一緒に旅行したりもした。
 彼と寝起きを共にすることには、甘やかな幸福が伴った。
 同室で雑魚寝しているクラスメートの気配を意識の外に追い出し、俺は早朝の峻烈な光の中に浮かぶ、彼の寝顔だけを見つめた。
 これがグループなどではなく、ふたりっきりの旅行で、情を通じた翌朝だったらと、やくたいもない夢想に耽って。
 それは空虚には違いなかったが、俺にはすばらしく幸せな時間だった。
 彼は相変わらず彼女を作ろうとはしなかった。
 かといって、俺を受け入れることもなかった。
 友達がホモであることは受け入れられても、自分がそうなることは想像もできないらしかった。
 仕方がないことだと思う。それが俺と彼の境界線なのだ。


 彼の所属するサッカー部はその年全国大会に進出し、ベスト十六に入った。そのおかげで周囲の皆が必死に受験勉強をしているのをよそに、彼は早々とスポーツ推薦を決めた。関西の大学だった。
 これといって目立つところのない俺は、勉強に没頭するしかなかった。勉強する必要もなく部活も引退した彼は、暇を持てあましていたのだろう。煩く俺にちょっかいを出してははねのけられ、『遊んでくれなくてつまんねぇ』と子供っぽく嘆いた。
 そんな些細なことが、俺の幸せの全てだった。
 好きだったのだ。
 本当に、大好きだったのだ。




 校庭に、桜の花びらがちらちら舞っている。
 暖かい日が続くなと思っていたら桜の開花も早く、俺達の卒業式は満開の桜に見送られることになった。
 式典は淡々と終わった。別にすることもないが、何となく立ち去りがたく、俺は教室に戻った。
 彼は、いない。
 部活をしていた連中は後輩に囲まれ、校庭で花束を受け取っている。それが毎年繰り返されてきた卒業式の伝統だった。帰宅部だった俺には無縁な儀式である。
「阿井?」
 静かな問いかけに振り向くと、奈賀が戸口に立っていた。卒業証書の入った筒を軽く肩にあて、首を傾けている。
 俺はその第二ボタンが無くなっているのに気が付き、笑いたくなった。ちゃんと恋人がいるホモに、第二ボタンをねだるようなバカがいたのか、と。
「アイツは?」
「あそこにいるよ。部活の後輩に花を貰っている。サッカー部って、豊かなんだね。花束が豪華だ」
「そりゃ、マネージャーの家が花屋だからだろ」
 奈賀はゆっくり俺の横にやってきた。並んで窓の外を眺める。
 校庭は、賑やかで華やかだった。
「なんか、部活やってないと寂しいな。阿井はこの後の予定は?」
「帰るだけ」
「…アイツは?」
「部活で卒業パーティーだって」
「は、気取っているな。要はバカ騒ぎだろ」
 俺は硝子に額を押しつけた。これで全部が終わったのだ。そう思うと、感傷的な気分に陥らざるをえなかった。
「アイツの第二ボタン、貰った?」
「…女の子じゃあるまいし、そんなのねだれないよ」
「なんで。俺、阿井がきっと欲しがるからみだりにやるなって言っちゃったよ」
「ばか」
 奈賀の手が、俺の髪に触れる。くしゃくしゃと柔らかくかき混ぜられて、俺は大仰に顔を顰めて見せたが、止めることまではしなかった。
 奈賀の手は、気持ちが良かった。
「変な事言って、怒られなかった?」
「アホって言われたよ。なんか、びっくりしてたみたいだ。…結局、おまえら、何もないままだったんだな」
「友達だから」
 奈賀の手が、するりと降りて、首筋を滑った。俺は、以前電車の中で似たようなことをされたことを思い出した。羽毛で撫でられるような感触に、思わずふるりと体を震わせる。
「好き、って言ったこと、ある?」
「…ないよ。そんなの」
 多分、言葉で言うまでもなかった。些細な仕草や眼差しに、彼は確かに俺の熱情を感じていたと思う。でも、絶対にそれを認めようとはしなかった。俺の気持ちはいつも無かったことにされた。そうでもしないと友達ではいられなかったのは確かだ。
 でも。
 切なかった。
「バカだね」
 ぽつりと奈賀が零した言葉に心臓が締め付けられるように痛み、俺はぎりりと奥歯を噛みしめていた。
 自分が馬鹿なのはとっくに分かっている。
 マイナスの感情がぐうっと膨れあがった。胃がよじれるような感覚に思わず顔を顰める。同時に顔が熱くなった。
「奈賀に何が分かるって言うんだよ!」
 俺は込み上げてきた激情に負けて、声を張り上げた。
「奈賀はいいよな! ちゃんと恋人がいて! おまえに、俺の気持ちなんか分かるもんか…っ!」
 心臓が暴れまくって胸郭が破裂しそうだった。俺は興奮して、息を弾ませた。
 他人に、汚い感情を直接ぶつけたことなどなかった俺にとって、これはとんでもない暴挙だった。
 だが、奈賀は、眉毛一筋動かさなかった。静かに激昂している俺を見ていた。
 そんな奈賀の様子に、癇癪を起こしている自分の滑稽さを強く自覚させられ、俺は更に絶望的な気分に陥った。
 顔を背けて、上がった息を整える。
「…ごめん、八つ当たりだ。あは、みっともないね。何やってんだろ、俺」
「いいんだよ。いや、俺の方こそ、謝るべきだな。ごめん、立ち入ったことを聞いて。だけど、会えなくなる前に自分の気持ちを伝えた方がいいんじゃないかと思って」
 俺は奈賀の言葉尻を遮って言った。
「手遅れだよ。あいつ、明日の朝早くあっちに行ってしまうんだって。早く行って部屋探すんだってさ。今夜はサッカー部でよっぴて遊ぶんだろうし、もう会う機会なんてないんだ」
 ぎしりと床板が軋み、俺は奈賀が更に近づいたのを感じた。後ろから両肩を掴まれる。
「阿井、まだ一晩あるんだろう。サッカー部なんか」
「もう、いいんだ。これは、終わりにする良い機会なんだ。俺も、…疲れた」
「そうか」
 奈賀は静かに言った。
 肩を掴んでいた手が前に回り、後ろから抱きしめられる。
 慰めようとしてくれているのだろうか。気遣う動作に、じんと目の奥が熱くなった。
 俺は感謝の気持ちをこめて、奈賀の手を上から押さえた。
「ありがと。俺ね、ずっと奈賀のことが羨ましかった。ちゃんと恋人いるし、俺と全然違って、格好良くって大人だし」
「変なコト言うなァ。俺は全然大人なんかじゃないよ」
「だって、チュウマークつけてたじゃん」
 ふざけて言うと、奈賀は俺の首筋に顔を埋めて、ちゅっと音を立てて吸って見せた。俺はくすぐったくて、くすくす笑った。
 笑い出すと今度は止まらなくなった。体をふたつに折り窓枠に両手をついてゲラゲラ笑い転げる。
 おかしくておかしくて、涙が出てきた。
「阿井?」
 窓硝子に頭頂部を押しつけて、ひーひーいっている俺の目の下を、奈賀の人差し指が拭った。去っていく手を目で追うと、奈賀は濡れた指先をぺろりと舐めてみせた。ゆっくり見せつけるような動作が奇妙に淫靡に感じられて、俺は目を瞬いた。
 それから、奈賀を色っぽいと感じている自分に気が付いて、驚愕した。
 俺はホモだが、誰彼構わず発情したことなどない。触れたいと思うのはいつだってその時好きな相手だけだ。なのに、どうしてしまったというのだろう。
 戸惑う俺の耳元に、奈賀は唇を寄せて囁いた。
「オトナに、なってみる?」
 いつも、何気なく聞いていた声なのに、ぞくりとなにかが身の内を駆け抜けた。
 まだ、明確な形を持たない、曖昧な疼きのようなもの。
 俺にはおなじみの感覚だった。彼のことを考えていると時折襲ってくる。どうしようもない、醜い、衝動。押し殺せるときもあったが、我慢できず下腹部に手を伸ばしてしまうことの方が圧倒的に多かった。
 これは、それだ。
 奈賀の手が、体に巻き付いてくる。
 俺は、喉を反らせて奈賀の顔を見上げた。
 奈賀の整った顔がすぐ目の前にあり、更に近づいてきた。
 目を閉じたのとほぼ同時に、額に温かいものが触れ、俺は身震いした。
 どうしようと、惑う。
 いけないと思いつつ、抱きしめてくる腕が、頬や瞼をさまよう唇の感触が、気持ちよくて拒否できない。
 なんでだろう。
 どうしてこれだけのことが、こんなに気持ちが良いんだろう。
 どうして、泣きたいくらい、感情をかき乱されてしまうんだろう。




 奈賀の家は学校から遠かった。三十分電車に揺られ、商店街を抜けて行く。
 奈賀は道中ずっと俺の手を牽いていた。
 俺はそれを恥ずかしいと思う感覚さえ持ち合わせていなかった。逃げ出したい衝動と、泣き出したいような気持ちと、仄かな期待感がせめぎ合い、混乱した挙げ句朦朧としていた。
 俯いて、靴のつま先を見つめながら歩く。
 奈賀はずっと黙っていた。
 俺の手を握る掌には、ごく軽い力しかかかっていない。逃げたければ逃げろということなのだろう。
 多分、強く掴まれて、力づくで引きずっていこうとされたなら、俺は逃げられたかもしれない。でも、奈賀の弱い握力が、逆に俺を繋ぎとめていた。
 奈賀が俺にひどいことをするはずがないと思ったのだ。

 閑静な住宅街の一軒家が、奈賀の家だった。玄関の横には植木鉢が幾つも並んでいたが、どれも元気が無く、枯れているのもあった。しなびた赤い花が混じっているのが、かえってわびしさを強調する。
 招き入れられ、靴を脱ぐときにシューズボックスに手をつくと、薄く張った埃が付いた。
「奈賀、ご家族は…?」
「大丈夫、夜まで帰ってこない」
 それだけ言うと、奈賀はさっさと階段をあがっていく。俺は慌てて後についていった。
 まだ、三時だった。
 部屋に入るなり奈賀は卒業証書の入った筒を放り投げ、部屋の半分を占めるパイプベッドに腰を下ろした。両膝に肘を突き、前傾した姿勢で俺をじっと見つめる。
 俺は鞄を抱いたまま、入り口に立ちつくした。
 奈賀が、知らない人のように見えた。
 体の奥の密かな疼きは、まだゆるゆると俺を苛んでいる。
「さて、……しようか?」
「え、っと……」
 さくっと誘われ、予想していたことなのに俺は狼狽えた。
 奈賀はなんの迷いもなく上着を脱ぎ捨てた。ここに至ってようやく俺は奈賀の本気を実感し、頭に血が上るのを感じた。
 ヒーターを入れたわけでもないのに、部屋の気温が急上昇しているような気がする。
 続いてシャツのボタンを外しだした奈賀に、俺は慌てて飛びついた。両手を掴んで、ベッドに押さえつける。
 見ていられなかった。これ以上脱がれたら、どうなってしまうか分からなかった。なぜなら、俺の心拍数が急上昇している。信じられないことに、俺は奈賀に欲望を覚えていた。今奈賀の裸なんて見たら、大変なことになってしまいそうな気がする。
 真っ赤になった俺を、奈賀は面白そうに眺めていた。
「どうした? そのつもりでついて来たんだろ」
「いや、その、心の準備が…ってゆか、奈賀、恋人いるんだろう!? こんなことしたらダメだよ」
「俺は悪い男だからな」
 しれっと言い放つと、奈賀はウィンクしてみせた。
 目眩がする。
「傷心の阿井を慰めてあげたくて」
 ひょいと顔を付きだした奈賀を、俺はすんでのところで避けた。危うくちゅーされそうだった。
「わっかんないよソレ。そんなことでエッチなんかフツーしないよ。奈賀、もっと自分を大事にしなきゃダメだよ」
 舌を縺れさせながら言うと、奈賀はふっと真面目な顔に戻った。目を細め、奇妙なものでも観察するかのように俺を眺めまわす。
「阿井って、時々凄く苛めてやりたくなるんだよな」
 ちょっと、びっくりした。
 どう答えたらいいか思いつかず黙っていると、淡々とした声が続いた。
「いい子ちゃんで、おきれいな顔して。ずっと鼻について仕方なかったよ」
 奈賀はよく、まじめな顔でとんでもない冗談を言う。だが、今のはそういうのとは違う気がした。声に苛立ちが混じっている。
 俺は瞬きをして奈賀を見返した。
 浮ついていた気持ちが冷たく凍り付く。
 俺は、奈賀が好きだった。
 奇麗で常に泰然とし、周囲に流されない強さを持っている。でも、人間的魅力以上に俺を惹きつけていたのは、同じ種類の人間であるという連帯感だった。
 同じ感情を、奈賀も持ってくれていると思っていた。特に奈賀と連んだりすることはなかったが、困ったときにさりげなくフォローして助けてくれたのはいつだって奈賀だった。
 頼りにしていたのだ。奈賀の存在が俺の密かな支えだった。
 その奈賀に嫌われていたかもしれないというのは、超弩級のショックだった。
 動けない。
 これ以上傷つく前に今すぐ逃げ帰れと、理性が喚いているのに動く気力もない。
 奈賀は無表情に俺を見ていたが、不意に相好を崩した。
「なーんてな。本気にした? 涙目になったいるぞ、阿井。かわいいなぁ」
 ふっふっふと不気味に笑い、奈賀はひょいと手を引きあっさり俺の拘束から逃れた。そのまま俺の腰を軽く抱く。引き寄せられそうになって俺は慌てた。奈賀の豹変ぶりに腑に落ちないものを感じながらも、奈賀の肩に手を突っ張り、距離を保とうと奮闘する。
「オトナに、なりたいんだろう?」
「ちょっと待って」
「もしかしてアレ? 初めては好きな男とじゃなきゃヤってタイプ? 今時女の子でもそーゆーの少ないらしいけど、なら」
「いや、そゆ訳じゃないけど。奈賀は…好きだし」
 わりと、だけど。
 しかし奈賀は俺の言葉に眼鏡の奥の目を見開いた。頬がほんのり赤くなる。
「まいっちゃうねぇ。阿井は可愛くて」
 思わぬ奈賀の初々しい仕草に、俺はどきんとした。
 大体、奈賀は奇麗なのだ。ちょっと表情が乏しくて冷たい印象を受けるけれども、慣れてしまえば顔立ちは整っているし、くっきり浮いた鎖骨はセクシーだし……って、何を考えているんだろう、俺は。
 とにかく、やばい。
「とにかく俺は、こーゆーの、お互いのために良くないんじゃないかって」
「つまり、コレは、阿井のためにはならないって訳だ。一言で言うと、イヤなんだな?」
「違う、俺じゃなくて奈賀にとってさ」
「ガタガタうるせーぞ。ヤりたいっつってんのは、俺だ。俺を言い訳にすんじゃねぇ」
「で・でもっ」
 不意に奈賀の表情が真剣味を帯びた。
「大人しくヤらせろよ。無理強いはしたくないんだ。おまえだってキョーミあるんだろ」
「ないとは言わないけど、でも」
「なら何が問題だ?」
 何がー問題なのだろう。不意をつかれて俺は考え込んだ。
 奈賀に恋してはいないからか? でも、恋しい彼が俺を抱いてくれることなど永遠にないのだ。だったらー、誰としても同じだ。
 それに
「阿井。お前を汚させろよ。アイツのことなんて、忘れさせてやるから」
 悪い男の声で囁かれ、俺はぼうっと奈賀の顔を見返した。
 なにもかも、忘れたかった。彼のことしか見えなかった高校生の俺と、決別したかった。
 ……オトナに、なりたかった。



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