前編

 熱い。
 新幹線から降りた途端、むわっとした熱気に包まれた。意識を持っていかれそうになり、俺は軽く目を閉じる。
 それでなくても乗り物には弱い。奈賀とおしゃべりすることで気を紛らわせてはいたが、席を立った途端、雲の上を歩くような心許なさに支配された。
 胃がむかむかする。
「阿井、大丈夫か?」
 立ちすくんでしまった俺の手を引き、奈賀が人の流れの邪魔にならない場所へ誘導してくれた。
 新大阪の駅は、混んでいた。密集した人々の間から、自分たちが乗ってきた新幹線が滑るように流れていくのが見える。
 なんだか現実感が乏しい。
 嘘みたいに、暑くて。
 上昇気流に煽られて、舞い上がった気持ちが降りてこられない。
「どうする、少し休んでいくか?」
 奈賀の気遣いに、俺は首を振った。
「いいよ、待っているだろうし。合流してから何か冷たい物飲みに行こう」

 彼に会うのは半年ぶりで、俺は少しどころではなく緊張していた。
 高校生時代は毎日のようにツルんでいたというのに、ほとんど連絡もしていない。
 何度か声が聞きたくて、衝動的に受話器を手に取ったこともあったが、繋がる前に切ってしまった。考えてみれば話すべき事など何もなかった。特に大きなニュースがあるわけではない。如何にも口実といった体で、下らない身の回りの雑事を話すのも白々しい気がした。
 あの頃も今も、本当に話したいのは世間話などではない。

 俺は、まだ、彼が好きだった。

 大学に入って交流関係も広がり、いろんな人に出会ったが、まだ彼以上に好きだと思える人を見つけられずにいた。
 そんな自分に焦って、奈賀の行きつけの店に連れて行って貰ったこともある。自分と同じ性癖をもつひとばかりが集う店。
 そこでの奈賀は人気者だった。店に来ている人の殆どが知り合いらしく、次々に声をかけてくる。その一人一人を奈賀が紹介してくれたが、付き合っても良いかもと思える人はいなかった。
 誰も彼以上に魅力的とは思えなかったのだ。
 そして俺はいまだ一人だった。
 どうしたら良いのか、さっぱり分からない。忘れようと思えば思うほど、爽やかな笑顔やしっかりした体つきが思い出されて、ますます気持ちは彼に向かってしまう。ぐるぐるぐるぐる、同じところで足踏みしている。
 半年も前から決めていたのに、俺は大阪に行くかどうか直前まで迷っていた。彼に会うのが怖かった。
 彼に会って、停滞したままの自分の感情がどうなってしまうのか予想も付かず、ただ恐れていた。


 指示された改札口を抜けると、彼が待っていた。全然変わらない、爽やかな笑顔で俺達を迎えてくれる。その隣に髪の長い女性がよりそっているのに気付き、俺は鼓動が早まるのを感じた。
 夏の眩しい日差しに耐えきれず、目を細める。
 足が止まってしまった俺を置いて、奈賀が彼の元に近づいた。軽く拳で肩をこづきあう。
「久しぶり」
「おう、元気だったか」
 半年という期間を経ても全く変わらない挨拶に、高校生の頃に戻ったような錯覚を覚える。俺達の年代になると、半年なんて肉体的には一瞬だ。もちろん体格も顔立ちも変わっていない。その上彼が身につけているジーンズもTシャツも見覚えのあるもので、俺はこの半年間が幻に過ぎなかったのではないかという疑念に囚われた。
 そんな訳はないのだけれど。
 奈賀が女の方に顎をしゃくる。
「そちらは。彼女?」
「そーですー。ユキですー。よろしくー」
 彼は、照れくさそうに頭を掻いた。
「悪い。来るなって言ったんだけどさ」
「えー、うち買い物に来ただけやんかー。会ってもうたのは、た・ま・た・ま。でも話には聞いとったけど、ホンマにカッコエエんやねー、奈賀さん。W大なんやてー?。友達もめっちゃ奈賀さんに興味持ってんねん。良かったら食事一緒させて欲しいなーって思てんねんけどー」
 彼女の視線の先に、笑いながら近づいてくる二人の女の子がいた。断られるなんて、微塵も思っていないのだろう、興味津々の眼差しが自分と奈賀にあてられている。
 悪夢だ。
 心臓ががんがん脈打っている。自分ではっきり分かる。血圧があがりすぎてクラクラする。
 俺は彼を見た。彼はすまなさそうに、でも笑っていた。
 同数の男女が集まっての食事。
 これはやっぱり、あれなのだろう。
 合コン。
 悪い、なんていってみせたけど、きっとそれは嘘だ。
 彼女でもできれば、俺が自分に邪な興味を向けることなど無くなるだろうと、そう、思ったのだろう。
 俺はものすごく悲しくなって鞄を持つ手に力を込めた。
 何のために大阪くんだりまでやってきたのだろう。少なくとも、彼女を見せびらかされる為ではない。
「奈賀」
 俺は掠れた声を絞り出した。帰る、と言うつもりだった。変な奴と思われても構わない。彼女を交えて歓談なんて冗談じゃなかった。
 だがそう切り出すよりも早く、奈賀が断固とした口調で言った。
「悪いけど、イヤ」
「えー」
 彼女が心底びっくりしたように高い声を上げる。
「ええやないですかー、食事くらいー」
 奈賀は彼女を無視して彼を見つめた。
「今まで黙っていたけど、俺、ホモなんだ。合コンなんてセッティングされても困る」
「え」
 彼と彼女の声がハモった。
 俺は自分のことのように狼狽えた。よりによってなんてことを言い出すのだろう。
 黙れというつもりで袖を掴むと、奈賀は俺を見下ろして柔らかい笑みを浮かべた。冗談でしょうと言わんばかりの笑みを浮かべていた彼女の顔が少しひきつる。
 奈賀がわざとらしく俺の肩を抱いた。唇の端をきゅっと引き上げ、淫靡に微笑んで見せる。だが、眼鏡の奥の瞳は氷のように冷たい。
「おまえ、無神経すぎ」
「あ……、すまん……」
 強い口調でなじられ、彼は決まり悪げに目を逸らした。
 女どもが路上でうっそー、いやーん、ホモなんーと大騒ぎを始める。慌てて宥め、追い返してしまおうと悪戦苦闘する彼を、俺は乾いた気持ちで眺めた。
 奈賀は本気で怒っていた。俺の肩を抱いたまま、大汗をかいている彼を茶化しもせず、むっつりと黙り込んでいる。
 恥ずかしいなと思いながら、俺はでも、その手を外す気にはならなかった。クソ暑かったけどその手の温かさが、その時の俺の心の拠り所だった。

「おまえ、女の趣味悪ィよ。いつから付き合ってんだ」
「五月から、かな。同じクラスでさ。すげ積極的にせまられちゃって、まーいーかなーなんて」
 グラスの中の氷が溶けてからりと崩れる。
 俺達は暑さから逃れ、小さな喫茶店に落ち着いていた。
 奈賀は『ミックスジュース』なるものを飲んでいる。牛乳に果物をぶち込んであるらしいそれは関東在住の俺には信じられないセンスで、不味そうにしか見えなかったが、一口貰ったらまろやかな甘みが広がって意外に美味しかった。
 俺は俯いて、溶け始めたかき氷をスプーンでかき回していた。酷く疲れてしまって会話に参加する気にもなれなかった。
「でもおまえのフォローだって悪趣味だったぜ。なによう、ホモだからって」
「ホモだからホモって言ったんだ。実際俺の付き合っている相手は男だからな」
「えー、またまたぁ……」
 げらげら笑って彼は俺と奈賀の顔を見比べた。
 奈賀は小馬鹿にした目つきで鼻を鳴らした。
 俺は黙っていた。折角隠し通してきた己の性癖を暴露しようとしている奈賀の真意が分からなかった。
 彼は不意に笑うのをやめて、身を乗り出した。
「……って、マジかよオイ。まさかおまえら付き合ってンの!?」
「とことんバカだな、おまえは!」
 がつんと鈍い音がして、彼が悲鳴を上げた。奈賀がテーブルの下で蹴ったのだろう。
「俺が付き合ってンのは社会人のおねーさんならぬおにーさんだよ! 高一の時から付き合ってて、今一緒に暮らしているンだ。俺が阿井と付き合うなんて、あるわけねーだろっ。馬鹿な上に無神経な男だな」
「あ〜〜」
 彼は涙目で俺をうかがうように見つめた。
「阿井は、知っていたのか」
 俺はこくりと頷いた。
 実際、俺はかなり早くに奈賀の性癖に気付いていた。一時期は奈賀も彼を好きなのではないかと疑っていたことさえある。女が男を見るときに似た、値踏みするような視線で、奈賀はフィールドを走る長身を追っていた。
 奈賀の視線の先が彼でなければ、俺も気付かなかったかもしれないが。
 彼はずずっと音を立ててアイスコーヒーを飲み干すと、急に怒り出した。
「なんだよ、それはよ。なんで俺だけ知らねぇんだよ。俺だけハブかよっ」
「別に教えた訳じゃねぇよ。阿井が勝手に気付いたんだ。同類って何となく分かるからな。俺だって分かったし。おまえらのこと」
「え……」
「ま、俺には関係ないから余程のことがなければほっといたがな」
 取りだした煙草をくわえながら奈賀は意味ありげな視線を投げた。彼は急に居心地悪そうに背もたれに寄りかかった。困惑しているようだった。


 海遊館を回り観覧車に乗って一日が終わり、俺達は彼の部屋に落ち着いた。ちっぽけなアパートの部屋には布団も人数分揃っておらず、布団とマットレスをひとつずつ並べて敷いた上に三人で雑魚寝した。
 彼は一日中無口だった。ぼおっとして心ここにあらずと言った体で、俺は今更ながらここに来たことを後悔した。
 俺は彼に迷惑をかけることしかできない。
 今更この恋心を彼に押しつけるつもりなどなかったのに、結局会ってしまえば以前と同じ。堂々巡りを繰り返す。
 小さくため息を吐いて、俺は枕変わりの丸めたバスタオルに顔を押しつけた。
 あと二日。
 明後日になれば、お別れだ。
 それまで、我慢して。
 ごめんね。
 そんなとりとめのないことを考えながら俺はじっと彼の寝顔を見ていた。眠りに囚われるまでずっと。これが最後になるかも知れないと思いながら。


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