中前編

 朝飯を食べているとき携帯が鳴った。
 食べ物を頬張ったまま携帯を耳に当てた奈賀の眼差しが、柔らかく変化する。それだけで相手が誰だか分かる。
 奈賀の、大切な、誰か。
 電話の向こうの相手にもごもご返事をしながら、奈賀は腰を上げた。俺達の存在を完全に無視し玄関に向かうと、勝手にサンダルをつっかけ外に出て行ってしまう。
 後には俺と彼が残った。
 並んで黙って食事を続ける。
 箸と茶碗がぶつかる、小さな音がいやに耳についた。
 二人とも、そわそわしている。カレシとの内緒話の為に姿を消した奈賀のことが気になって仕方がないのだ。カレシと何の話をしているのだろうとか、男同士でどんなつき合い方をしているのだろうかとか、いやんな妄想が頭の中を飛び交っている。
 付き合っているんだから、えっちもしているんだろうな、とか。
 高校生の時目の当たりにした情熱的なキスマークは未だ脳裏に焼き付いて離れない。いつも冷ややかな奈賀が、アレをつけられたときどんな状態だったのだろうかなんてコトまでうっかり想像してしまい、俺は一人でトマトみたいに真っ赤になった。
 友達の性生活を想像するのって、すごーく後ろめたくて恥ずかしい。
 彼がずずっとマグカップに入ったみそ汁を飲み干す音が聞こえた。
 目を上げると、真剣な眼差しがまっすぐ俺に向けられていた。
「奈賀のカレシっつーのがどんな奴か、お前知ってる?」
 俺は茶碗をテーブルに置いた。
 なんとなく声を潜めて情報を交換する。
「知らないけど、奈賀より随分体格の良い人みたいだよね。年上の社会人なんだろ」
「え、そうなのか!?」
「そう言ってたじゃない。ホラ、昔三人で、保健室でお弁当食べたとき」
「そうだっけ」
 考え込む様子は、本当にあの時のことを覚えていないようだった。
 ちょっと、切ない。
 彼との思い出は宝物に等しく、俺はどれひとつとして忘れてなかった。何度も反芻して思い返しているから、細部まで鮮明に再生できるほどである。
「あのさ、おまえは?」
 言いにくそうに咳払いをしながら、彼が横顔を見せた。何か後ろ暗いことのある時見せる仕草だと気付いた俺は、用心深く身構えた。
「なに?」
「おまえは大学入って、その、誰か、良い人できたか?」
 ダレカヨイヒトガデキタカ?
 俺は決して鈍い人間ではないのだが、意味が脳味噌に浸透するまで時間がかかった。
 だって、普通聞くか、そんなことを。
 俺達は単なる友達じゃない。俺が恋情を抱いていたことを、彼が気付いていなかった訳はないのだ。
 腹が立つより先に呆れた。
「なんでそんなこと聞くの」
 淡々と言うと、彼は上半身を後ろに反らせ畳に手をついた。
「え、だって奈賀に聞いても教えてくんねーからさ。やっぱ、気になって」
 ああ、そうか。
 俺は気付いた。
 質問ではなくて、願望なのだ、これは。俺が彼を忘れて、誰か良い人を作ってくれたらいいなと言う。
 ふうっと身体の中が空虚になる。哀しいと思ったのは一瞬で、むらむらと怒りが込み上げてきた。身体が熱くなる。熱くて、居てもたってもいられない。
 そんなに俺はうざかったか。
 思いを寄せられるだけのことが、あなたにとってそんなに不愉快だったのか。
 絶望と背中合わせの憤激が俺の身を灼く。
 なんでこんな男を好きになってしまったのだろうと自問し、答えが見つからないことに愕然とした。格好良さも時々見せる優しさも、『好き』の根拠には脆弱な気がする。
 俺は唇を笑いの形に歪めた。やぶれかぶれだった。
 もう、クラスメートではないのだ。何もかもぶちまけても、後に引きずることはない。二度と会えなくなる程度だ。それにその方が良いのかもしれない。この無益な感情を後生大事に抱えているよりは。
 この人に縛られ続けるのは、もう、いやだ。
 沢山の醜い感情が爆発し、俺は我慢していた一言をついに吐き出した。
「残念ながらまだ、あなた以上に好きだと思える人はいない」
 歪んだ三年越しの告白を、彼は腑抜けた顔で受け止めた。ぎょっと身体を引き、ぽかんと口を開けて。
 なんて良い反応なんだろう。涙が出そうだ。

 『好き』
 その言葉は俺たちの間では禁句だった。口にすることすら憚られた。恋愛に関する話題は注意深く回避され、俺達は二人きりのときは実に清廉な聖人だった。
 その言葉を音にすることで、俺達の間の危ういバランスが崩れるのを恐れていた。
 ただ胸の中で、『好き』と繰り返し呟いて。俺はその言葉を、甘やかで濃密なもののように思っていた。
 でも実際に口にしてみると、そんな感傷とはほど遠い乾いた響きしか感じられず。俺は自分の幼さに、忸怩たる思いを噛みしめた。
 現実なんてそんなもの。
「あのーー、あのな、阿井ーーー」
 彼が唇を舐めた。閃く肉の赤に、訳もなく苛立つ。
 掠れた声を最後まで聞くことはできなかった。扉を蹴り開ける騒々しい音が俺達の間に割って入り、俺達は弾かれたように玄関に目をやった。
「うす」
 低い声に、ぴんと張りつめていた緊張の糸が弛む。
 奈賀が戻ってきた。他人の感情の機微に聡いタイプなのに俺達の緊迫した雰囲気に気付きもせず、携帯をぶらぶら振り回している。
 相も変わらず感情の乏しいポーカーフェイスを気取ってはいるが、機嫌がよいのは一目瞭然だ。
 それまでの重い雰囲気をふりきろうと、彼も軽口を叩く。
「おお、ラヴコールは終わったか」
「ああ、それで俺、USJに行くのやめることにした」
「えーっ、なんだよそれ」
 今日は、三人でUSJに行く予定だった。そのために早起きして、朝食を取っていたのだ。当然彼がブーイングをあげる。
「その、ほら、あれ。俺のハニーがさ、今仕事でこっちに来てるんだ。元々帰りには合流する予定だったんだけど、一日あいたっつーからさ。やっぱどーせ行くんなら、どーでもいい野郎どもよりラヴラヴなハニーと行きてーじゃん。……最近分かったんだけど、あいつあーゆーの好きらしくって」
 臆面もなく恋人を優先させる奈賀に唖然とする。
「じゃー今日、どーすんだよ」
「いいよ、好きにして。何なら二人で行けば。俺、どっちにしろ夜にはあいつのホテルに行くから」
「えっ」
 二泊する、予定だった。奈賀がカレシのもとへ行ってしまえば俺と彼の二人きりになってしまう。
 彼が目に見えて狼狽した。
 俺だってあんなやりとりをした後二人きりになるのは嫌だ。でもそんなことどうでもよかった。その時は狼狽した彼にやたらむかっぱらが立った。
 俺が襲うとでも思っているのだろうか。
「じゃあ、いい。俺も帰る」
 不機嫌さを、隠せない。尖った気持ちがそのまま声に出る。
 奈賀が眉をあげた。どうしたんだと目で問いかけてくる。彼も顔を強張らせた。その反応が、おかしかった。
 変な男である。邪魔者が自分から消えると言っているのだ。喜んでくれても、良いのに。
 それどころか
「なんでお前まで帰るんだよ。泊まっていけよ」
なんて。
 奈賀がいるから引き留めるポーズをとったのだろうか。
 洒落にならない社交辞令である。気があるわけではないと分かっているのに、嬉しいと思ってしまう。まだ胸の奥で怒りが炎を上げているのに。懲りない自分の頭の悪さに吐き気がする。
「帰るつったっておまえ、明日の指定席とっちまってるじゃねーか」
「変更すればいいだけのことだろ」
「お前夏休みの新幹線をなめてるな」
「自由席だってあるじゃん」
「いいから泊まっていけよ」
 よってたかって引き留められた。膨らませている頬を奈賀に引っ張られ、むっとして顔を背けると目の前に彼の顔があった。慌てて逃げようとする頬を両手で掴まれ間近に固定される。
 真剣な目で、なあいいだろなんて言われ、鼻の奥がつんと痛くなった。
 俺は、彼には弱いのだ。引き留められると、嬉しいような切ないような感情が胸の中でせめぎあい、何も言えなくなってしまう。
 くちごたえしないのは、このメンツにとっては了承の印である。二人は勝手に今日の予定を立て始めた。
「今日は京都行こうぜ。俺清水寺行ったことねーんだ」
「げぇ。寺めぐりする気か。年寄りくせぇ」
「おまえ他に行きたい場所あんのかよ。文句あるなら代案出せ」
「俺もう結構あちこちまわっちまったしなー」
 デートでか。
 心の中でひとりツッコミをいれ、自分のアホさにため息が出た。


 暑い上に混んでいて、俺達は早々に寺巡りを切り上げた。奈賀がたこ焼きが食べたいというので道頓堀に移動する。橋の上で立ったままたこ焼きを平らげ、またも奈賀のリクエストで書店に行くことにした。
 広い店内はうんざりするほど混んでいた。いくら夏休みとはいえこれは酷い。言い出しっぺの奈賀も自動ドアの前で二の足を踏んでいる。
 入り口脇にでかでかと貼られたポスターに気がついた彼が、奈賀を肘でつっついた。
「おい、サイン会やっているらしーぜ」
「だからってこんなに混むか?」
「混むんじゃねーの。このイラストレーター人気あるじゃん。俺も好きだし」
 奈賀が眉を上げた。ポスターに描かれたイラストは優しげな少女の笑顔で、確かに彼のキャラクターには合わない。
「ふーん。じゃあ、ついでに並んでサイン貰っていくか?」
 冗談めいた奈賀の提案に、意外にも彼は心奪われたようだった。すぐには返事をせず、店内の様子をうかがいながらじっと考え込んでいる。
「うーん……。いや、いいよ。時間かかりそうだし。待つの、イヤだろ」
 驚いたことに、俺達がいなければ本気で並びたかったくらい好きらしい。未練がましく伸び上がり、行列の末尾を目で追っている。
「そうだな。んなタルいの、確かに待ちたくねーな。じゃ、行くか」
「うあ」
 問答無用戸ばかりに肩を掴んで歩き出す奈賀に、彼があやふやな声を出した。
「ちょっと待て。こんな機会滅多にないんだし、やっぱり……」
「さー行くぞ。次は何処へ行こうかー。そーいや俺、ビルにめり込んだ観覧車乗ったことねーや。なんつったっけアレ」
「奈賀!てめぇムカつく!」
 じゃれあいながら二人が歩いていく。
 無邪気に、もつれ合いながら、半年前とおんなじに。



 お好み焼きは、安っぽいカラオケボックスで出る食べ物としてはアタリだった。奈賀がもごもご食っている脇で彼がソファの上に立って熱唱している。片足でテンポを刻むたび、ソファがぎしぎし音を立てる。
 俺は氷が溶けて薄くなったウーロン茶を飲んでいた。視線は彼から離れない。
 ソファの上で振り真似までするなんてアホみたいだが、猫背気味にマイクを抱え込む彼の姿はちょっと格好良かった。半袖から伸びた腕に程良くついた筋肉の感じがすごく男っぽくて色っぽい。まぁ、彼が何をしている所を見ても俺はイイと思ってしまうのだが。
 お好み焼きが半分になったところで携帯のメロディが流れ、奈賀が立ち上がった。アンテナを伸ばしながら室外へ出ていく。
 俺達は目を見合わせた。
 彼氏からに違いない。
 程なく戻ってきた奈賀に、マイクを構えたまま彼が聞いた。エコーのかかった声が狭い部屋に響く。
「何、誰?」
「ん? 俺のハニーから。仕事終わったって連絡」
「なに、じゃこれから会うの? なぁ、俺お前のカレシ見てみてぇんだけど!」
「ーー…」
 ストレートな要求に、奈賀は目を細めた。どうしようかなと顔を顰め、室内を睥睨する。
 俺も勿論奈賀のカレシに興味があった。期待を込めてじっと奈賀を見上げる。目が合うと奈賀がふっと笑った。
「いいよ。つーか、ここへ来いっつっちまった。十五分くらいで来るぜ」
「ンだよ、焦らせんなよ!」
 彼がソファの上から飛び降りた。うきうきと奈賀の隣に座り込む。
「おまえよりでかいけど、カワイイ男なんだってェ?」
「なんだ、よく覚えていたな」
「散々考え込んで思い出したのヨ」
「俺もあの時のことはよっく覚えているぜ」
 奈賀が薄く笑った。
「彼女が欲しいなんて、阿井の前でほざいたんだよな」
 彼の顔が強張った。
 ミスチルの伴奏だけが背景に流れていく。曲に合わせて無意識に歌詞を頭の中で思い浮かべ、俺は苦笑した。
 君が好き 君が好き
 そういえばそんな事もあった。
「だって、俺はさ」
「まーべつに昔のことだし。俺には関係ないけど」
 どういうつもりなのか、奈賀はさらりとその話を流すとマイクを握った。モー娘のイントロが流れてくる。
 だが歌が始まる前にもう一度彼の顔を見て、奈賀は冷ややかに彼を睨み付けた。
「でも腹立ったぜ俺は」


 丁度十五分でカレシが現れた。
 扉をノックする音に目を上げると、縦に入ったスリットから覗き込む大柄な男の姿が見えた。引き戸がカラカラと滑り、暑いのにきちんとジャケットを着込んだ男がボックスの中に踏みこんでくる。
 本当にでかい。そんなに身長が高いわけではないが、厚い胸板や太い腕が圧巻だ。
 だが大男は、奈賀の姿を認めるとなんとも穏やかな笑顔を見せた。人なつこい表情に俺は一目で好感を抱いた。優しそうで大人で、包容力もありそうである。奈賀がメロメロなのも分かる気がする。
 これが奈賀のカレシか。
「こんにちは。すいません、お邪魔して」
 にこにこしながら小さく会釈する。
「あっ」
 彼が小さな声を漏らしたのに気付き、俺は顔を巡らせた。
 彼が食い入るような眼差しで、奈賀のカレシを見つめていた。
 奈賀は、カレシが来たというのにソファに座り込んだまま、お好み焼きに専念していた。面倒そうに目だけあげ、口に食べ物を含んだまま不明瞭な声をだす。
「まだ、食いかけなんだ」
「ああ、待っているよ。いいですか?」
「ええ……」
 俺が頷くのと同時に、彼が立ち上がった。
「あ、あのっ! もしかして、桑原さん、ですよね!?」
 うわずった声に俺は驚いた。何故、彼が奈賀のカレシを知っているのだろう。
 カレシは彼のことを知らないようだった。怪訝な顔をするが、ハズレでは無いらしい、頷いた。
「ーー…、ハァ……」
 間違いでは無いという確認を得て、彼が更に勢い込んで言った。
「あの! 俺、ずっと好きだったんです…っ!」
 頭の中が、まっしろになった。



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