中後編

 桑原さんに引きずられるようにして、奈賀は退場した。
 俺は腹に巻き付いていた腕をごそごそひっぺがすと、ソファにへたりこんだ。少し遅れて彼もどすんと腰を下ろす。
 横目で見ると、整った顔が不機嫌に歪んでいた。
「おまえさ、なんで抵抗しないわけ!?」
 いきなり怒鳴りつけられ、身が竦んだ。
 同時に肩を掴まれる。くいこむ爪に、怒りを感じる。
 怖くて、俺は思わず顔を背けた。
 どうしてこんなに怒るのか分からない。
 気持ちの悪いものを見せられたからか?
 それとも……。
 一瞬、夢のようなことを考え、俺は強く頭を振った。
 そんなこと、あるわけない。
「あんたに、関係ないだろ」
 動揺を押し隠して突き放すと、彼が眉をつりあげた。
「関係なくねーよっ。おまえ、俺のこと好きだっつったじゃねーか!」
 好きだって、言ったから、何?
 俺は、まじまじと目の前の男を見つめた。
 だから、あんたに操を立てろって? いつまでも傅いていろって??
 なに、それ。
 応えてなど、くれないくせに。三年も、無視してきた癖に。
 理不尽な言い様に、鬱屈していたモノが爆発した。
 俺は初めて恋する男に、思いの丈を吐き散らした。
「偉そーに言うなよ! 俺のことなんて、どうでもいいくせにッ!」
「ンなことあるわけねーだろっ! 俺はそのっ……お前のこと、すげ、大事に思って」
「そーゆーコトは、彼女に言えっ! 俺に言うなっ! どうせ、都合の良い友達程度にしか思ってないんだろ!」
「阿井っ!」
 ミラーボールが、くるくると回っている。激昂した俺を押しとどめようと腰を浮かせた彼から逃げるように立ち上がり、俺は怒鳴った。
「おためごかしの友情なんて、要らないっ! 俺が欲しいのは、そんなんじゃないんだっ! そうだよ、俺はあんたが好きだよ。あんたも知ってたよね?高校生の時からずっと。知ってて無視してきたんだよね? 別にいいよ。しょーがないもの。あんたは俺とは違うんだし? 好きになったのは俺の勝手だ。あんたには何の関係もない。でもさ、でも、あんまりじゃない? か、カノジョなんか連れてきてサ。俺のこと、好きになって欲しいだとか、言うつもりはないよ。でも、友達なら。俺のこと、多少は好きでいてくれているのなら、そういうことはしないんじゃないの……っ!?」
 不覚にも、声が震えた。
 視界が曇る。眼球が熱い。
 彼は、ふてくされていた。いかにも不満そうに口を尖らせ、俺を見ようともしない。俯いて、硝子テーブルの上の冊子を睨み付けている。
「俺は、来るなっつったの。でも、アイツが勝手に……」
「だから、自分は関係ないって? そんなの、知るかよっ。カノジョは、いたんだ……っ! 俺は、会いたくなかった。あんたが、カノジョといちゃいちゃしている姿なんて、死んでも見たくなかった! 酷いよ、おまけに、合コンだなんて……ッ。あんた、俺をなんだと思っているんだ……!」
 ひくっと呼吸が乱れる。しゃくりあげるのを止められない。
 頬が濡れるのを感じ、俺は慌てて袖口で顔を擦った。
 死にたいほど、悔しくて、恥ずかしかった。
 みっともない。彼に迷惑をかけないと、この感情を押しつけまいと、決めていたはずなのに。
 でも我慢できなかった。奈賀と同じだ。クラスメートという枷を外され、俺は暴走した。もう、何を知られても、嫌われても、構わない。毎日顔を合わせねばならない訳ではないのだ。
 俺が激した感情を律しきれず泣き出すと、彼は途端に叱られた子供のように落ち着かなくなった。俺を宥めようと、不器用に腰を浮かせる。
「悪かったよ……」
「いいよ、謝らなくて。分かってんだ。自分がオカシイってこと。やだったでしょ、俺みたいな奴に付きまとわれて。卒業してまでこんな、うざいこと言われて」
「泣くなよ」
 涙を拭かれて、俺は余計切なくなった。
 頬に残る指の感触が熱い。
 胸がきゅうっと苦しくなる。
 怒っているのに。
 ちょっと優しくされただけで、動揺してしまう。
 バカだ。
 どうしようもない、バカだ。
 俺も、あなたも。
「なあ、泣くなってば」
 衣擦れの音がし、俺は不意に彼が俺の肩を抱いていることに気が付いた。ぐっと引き寄せられて、ぺたりとソファに座り込む。額が彼の肩にあたる。
 心臓が、止まるかと思った。
 こんなことは初めてだった。俺達はいつも礼儀正しく距離を保っていたから。
 止まりかけた心臓が加速する。どくどくと、破裂するんじゃないかという勢いで走っていく。
「さわんなよ」
 抗議は、蚊の泣くような弱々しさだった。
「しょーがねーだろ。触られたくなければそんな顔して泣かなきゃいーんだ」
「ばかっ!」
 たまらなくなって、俺は叫んだ。
「俺を好きでないなら、そんなことすんなっ! いっそ突き放された方がまだマシだ! あんたの、その中途半端な優しさに、俺がどれだけ苦しんできたかなんて、あんた、考えたこともないんだろ!」
 あの電車の中で俺を助けてくれなければ。
 泣き出した俺を背負って屋上なんかに行かなければ。
 このホモが、と罵ってくれれば。
 俺は。
「んなこと言われたって、俺だってどーしたらいいのかわかんねーんだよ。おまえを突き放すことなんてできねーんだもん。なんでか知らねーけど、俺、昔っからおまえの泣き顔には弱いんだよなー」
 宥めるような指が、俺の髪を弄ぶ。
 まるで拷問だ。
 逃げ出すことも出来ない。
 だって、俺を抱いてくれているのは、ずっと恋い焦がれていた男だ。
 軽い口調で、彼が囁く。
「なあ、教えてくれよ。俺のカノジョ、クラスの女の中では一番美人でさ。狙っている奴も多くて、付き合うことになった時にはすっげー羨ましがられたのにさ、うぜぇんだ」
 新しい涙の筋を、人差し指が辿る。力強く抱きしめられて、息も出来ない。目を伏せて、彼の声を音楽のように聞く。さらさらと耳に心地よく、意味を成さない音として。
「ぐずぐず駄々こねられて泣かれると、ひっぱたきたくなんだよ。なぁ、なんでだと思う? おまえにこんなにぎゃんぎゃん怒られても、ちっとも腹立たねーのにさ。めんどくさくて、なんで俺こんな奴と付き合ってンだろって、しょっちゅう思うんだ」
 それはちゃんと『好き』ではないからだ。
 ステイタスとセックスの為の関係だからだ。歪んでいるけれど、それは俺の求めているものより遙かに健全な関係だ。
 俺は未だかつて無いほど、カノジョに嫉妬した。同じ条件で競い合えたのなら、俺の方が絶対勝つのに。この人に不満など、感じさせないのに。
 それにしても何故この人は、俺のことを引き合いに出すのだろう。
「おまえとつるんでいるのは居心地良かったよな。すげー、気楽で。あの頃が一番楽しかった」
 当たり前だ。カノジョと友達では位相が異なるのだ。
 それに俺は死ぬほど気を使っていた。居心地が良いに決まっている。
 まるで分かっていない。
 でも間違いを指摘してあげるほど、俺は善人じゃない。
「俺、おまえがホモだって知っても、別にイヤだとか気持ち悪いとかって感じなかった。今思うと変だよな。俺に惚れてるって気付いていたのにさ、離れようとは思わなかったんだ」
 直接的な脅威を感じなかったからだ。俺に、あなたを押し倒せる訳がないから。どうでもいいと、放置したんだ。
 俺はようやく胸に手をつっぱると、彼の顔を見上げた。
「なんで、今更そう言うこと、言うの?」
「卒業してから、ずっと考えていたんだ。俺にとって、お前は何だったんだろうって」
 異郷で独りきり、ホームシックに駆られた時に、高校時代の美しい思い出を引っ張り出して眺めていたという訳だ。最も記憶が美化されやすい状況ではないだろうか。
 彼は、優しく目を細めて俺を見つめていた。
「お前って人間を否定はしないけど、俺はホモじゃないから。良い奴だけど、どうしたって付き合えないってずっと思っていた。ずっと良い親友でいようってさ。それが、結論だったんだけど、でも、なんか。奈賀見てたらさ。ホモだからって、別になんということも無いような気がしてきて。俺、阿井となら、セックスも出来るんじゃないかって思ったんだよな。……今更、だけど」
 俺は知らず知らずのうちに、彼のシャツの胸元を握りしめていた。汗でしっとり湿った白いTシャツが、伸びてしまっている。
「でも、そのハードルさえ無くなっちまえば、多分俺が一番好きなのは、阿井だから」
 それは、間違っている。
 間違っているよ、絶対。
 でも、唇を僅かに痙攣させただけで、俺は何も言わなかった。
 だって、言えるわけ、無いだろう?
「だから、試してみたいんだけど、いいかな?」
 彼の手が頬にかかる。
 俺は目を伏せた。
 ゆっくりと、彼の顔が近づいてくる。
 目を閉じ、顎を上げて、俺は彼のテストを受け入れた。


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