後前編
何もかもが、嘘みたいだった。
最初から諦めていたから。そんなこと、絶対に無いと思っていたから。
だから、信じられなかった。どんな言葉も、中身のない幻のように思えた。
だって、『やった!』と思った後に、『冗談だ』とか言われたら耐えられない。『やっぱダメでした』、も。
己を守るために、俺は現実を認めなかった。
信じないぞ。絶対に信じない。
だけど、そうやって必死になって作り上げた壁は、あっさり粉砕された。
柔らかいものが唇にあたる感触に、俺は狂喜した。たっぷり三秒数える間、それは俺の唇の上に留まり、離れた。
ほう、と震えたため息が漏れる。
いま、死んでも良い。
ああ、いや、でも神様。どうか、彼に『合格』と言わせてください。
目を伏せ、俺は裁定を待った。でも彼はなかなか口を開こうとしない。焦れて、上目遣いに彼を窺うと、欲しかった玩具を与えられた子供のような、嬉しそうな笑顔があった。
「へへへ」
嫌悪感とか、後悔とか。恐れていたものは何も見あたらない。
あっけらかんとした態度になんだか腹が立って、俺は両手で目の前の肩を押した。不意をつかれ、ソファの上に仰向けになった彼の上にのしかかる。
ひとの気も知らないで。
俺はずっと悩んでいたのに。
なんでそんな簡単に好きとか言って、キスできるんだ!?
四つん這いになって顔を近づけると、彼はにやりと笑って、目を閉じた。
余裕綽々の態度が癪に障る。
犯すぞ、バカ。
口を、合わせようとする。
キスなんて簡単だと思っていたのに、がちんと前歯があたってしまい、俺は焦った。
あ、あれ?
どうしよう。
キスって、どうやったらいいんだろう?
頭の中が真っ白になる。
高揚していた気持ちがぺちゃんこになる。パニックに陥る。
笑ってくれるな。なにせ俺は経験が無いに等しい。
俺のキスの経験は、奈賀とのおふざけだけである。それも全部受け身で、奈賀がリードしてくれた。
あの時、奈賀はどうしてたっけ。
考えても、記憶はなかなか蘇ってこない。
固まっていると、力強い手が俺の両頬を掴んだ。
引き離されるかと身体を強張らせたが、手は、俺の顔の角度を変えさせ、ぐいと自分の方に引き下ろした。
なまあたたかく弾力のある感触が、再び俺の口を塞ぐ。ぬめる感触が口の中に侵入してくる。
さっきの、お行儀の良いキスとは全然違う。乱暴で容赦のない、奪うようなキス。
戸惑いもなくキスをこなす彼に、ほんの少し、胸が痛む。
上手なキスが、彼の場数をしめしているようで。
有り体に言えば、俺はカノジョとキスしている彼を思い浮かべて嫉妬した。そんな、余計なことを考えている余裕なんて、すぐになくなってしまったけど。
角度を変えて何度も何度も探られる。自分から仕掛けた癖に、俺は彼のなすがままだった。
頬を包んでいた手がゆっくりと下がり、耳の下を軽く擽って、喉元に降りていく。
肌の手触りを確かめるようにさまよう指先に、俺は眉根を寄せた。
くすぐったいのと少し違う、こそばゆさ。
さらに指先は下がり、シャツごしにぽつんと膨らんだ胸の突起をもてあそんだ。それからもっと下に。
ごく軽いタッチで動く彼の手が、気になって仕方がない。もやもやと変な気持ちが膨らんでいく。なにかが物足りないような、じっとしていられないような、そんな気持ち。
「んー…、ん」
音が止まってしまったカラオケボックスに、密やかに濡れた音が響く。時々漏れてしまう鼻声が恥ずかしい。うまく呼吸ができなくて、荒くなってしまう呼吸音も。
悪戯な手が、下腹部に向け降りていく。それにつれ、緊張感が高まる。お互いに意識している。行き着く先にあるのは、『性器』。トモダチ同士なら、決して触らない場所。
「んんっ!」
股間を掴まれて、思わず身体が跳ねた。
すばやく上半身を起こして後ずさろうとしたが、彼の腕の方が早かった。俺のを鷲掴みにしている手はそのまま、もう片方の腕がシャツを掴み、俺を引き寄せようとする。
「こら、逃げンなよ」
「バカっ!」
「いーじゃん。試させろよ」
ムードもくそもない言い様にまた腹が立つ。無遠慮な手に揉み上げられ、快感にまた身体がびくりとひきつった。悔しいけど、感じてしまう。
片手でぎっちり俺を抱え込むと、彼はやわやわと俺を嬲った。
「は…っ、や、ヤダって…っ」
絶妙な力加減で刺激され、あえぐ。
どうしようもなくて、俺はすっかり皺になってしまった彼のシャツをまた掴んだ。
まるで痴漢されているみたいだ。
俺独りだけ高ぶらされて、彼に観察されている。
すごく恥ずかしいのに、硬くなっていくのが分かる。止められない。
強く彼の肩に頭を押しつける。
声を抑えるのが難しい。
「な、気持ちいい?」
彼の声が耳元で聞こえる。そんな些細なことも今の俺を煽る材料になる。
「バ…カ……。それより、おまえはっ、どうなんだよ。俺の、そんなもの、触ってっ、気持ち悪くないのかよ」
「悪くねーんだな、これが。なぁ、直に触ってみてもいいか?」
何のためらいもなくベルトを外そうとするのに仰天し、俺はその手を押さえた。
「んだよ。いいじゃんか。抵抗すんなよ」
「バカっ!」
「おまえ、バカバカ煩い」
揉み合っていると、いきなり電話のベルが鳴った。
二人ともソファから飛び上がらんばかりに驚いた。
「くそ、もう時間か?」
彼が舌打ちして壁に取り付けられた受話器を取りに行く。その間に俺は引き抜かれかけたベルトを直した。
言葉短く電話を切った彼は、なんとも複雑な表情をしていた。
ぼそりと言う。
「部屋でえっちなことすんなってよ」
俺は発作的に笑いそうになり、それから青ざめた。
忘れていたが、ボックスには監視カメラが設置されているのだ。
「俺達、見られてたの……?」
「ムカつくな〜〜っ! 行こうぜ」
伝票を掴むと、彼はドアを蹴り開けようとした。だが、引き戸なので開かない。ますます癇癪を起こして、力任せにドアを開ける。
「落ち着けよ。ドア壊したらどうすんだ」
「しるか」
「俺は賠償金払うのヤだからな」
彼はぎっと俺を睨み付けた。
「おまえ、本当に俺のこと好きなのか?」
俺は、笑った。
まっすぐに立てなくて、壁に縋ってしまうほど笑い転げた。
そんなコトくらいで俺の愛を疑うとは!
あんまり彼らしくて、安心する。
これは、現実なのだ。
告白も、キスも、何の躊躇もなく俺に触れたえっちな手も、全部、夢ではない。
さっさと会計を済ませる。顔だけは神妙な店員の、探るような視線に耐え、店を飛び出すと、彼が俺の手をぎゅっと握った。
「ウチ帰って続きやっぞ」
「えっ、まだヤんの!?」
俺は思わず立ち止まった。中途半端に終わった行為に、くすぶっているものはあるが、なんとなくこれで終わりかと思っていたのだ。
だって、告白(?)を受けたばかりである。
好きは好きだが、いきなり最後まで行っちゃうのは、俺的にはどうかと思うのだ。もうちょっと手順を踏んで欲しいというか。
お試しでセックスまで試されてはたまらないと言うか。
「何言ってんだよ! まだ、序の口じゃんか! メインディッシュはこれからだろ!」
引きずられるようにして駅に向かう。
強く握られた手が痛い。
奈賀の家に行ったときのことを思い出す。あのとき、奈賀はごく緩く俺の手を握っていた。でも彼は、逃がすまいとするかのように、きつく固く俺の手を捕らえている。
それが、嬉しい。
まぁ、いいか、と思ってしまう。
結局俺は彼には弱いのだ。
部屋に入るなり、抱きしめられた。
もう、我慢できないと言わんばかりに唇を貪られる。
少し、びっくりした。彼がこんなに積極的に求められるだなんて、思っていなかったのだ。
別に彼の気持ちを信用していないわけではなかったが、テストの続きのような、余裕のある流れを俺は想像していた。
壁に押しつけられ、乱暴に身体をまさぐられる。
おずおずと首に腕を回すと、いきなり抱き上げられた。
「え!?」
「狭い部屋って、こういうとき便利だな。すぐベッドだ」
抱えるようにしてベッドに運ばれる。
どきどきした。
お姫様だっこなんて、すごい展開だ。
「ダメ。ね、ちょっと待って。俺、風呂」
「えーっ!」
「お願い。汗だくだし、色々、準備が」
「……あ、そか」
納得すると言うことは、それなりの知識を持っているということだろうが、どこで知ったのだろう。
疑問に思いながら俺はベッドから滑り降りると、玄関に放り出されていた紙袋を拾いユニットバスに入った。
紙袋の中身は至れり尽くせりだった。必要なものが、全部揃っている。
準備の仕方は以前奈賀に教えて貰ったことがあった。あんまりやりたくないが、やらないと大変なことになるというから仕方がない。彼の前で粗相するのは死んでもイヤだ。
おぼつかない手つきで処置をする。
身体の中を洗浄しおわると、もう疲れてへろへろになった。朝早く起きてずっと観光していたのだ。疲れるに決まっている。
でも彼が待っている。身体のすみずみまで神経質なほど洗い上げて、俺はバスを出た。
入れ替わりに彼がバスルームに消える。俺はベッドの上に座り込んで、テレビをつけた。無音だと、緊張してしまって我慢できなかったのだ。ちらちら動く画面にぼんやり目を当てる。
なんだか、まだ、信じられなかった。
好き、なのだろうか、本当に。
何かの間違いではないだろうか。
さっきは平気だって言ってたけど、セックスなんて、できるのだろうか。
……俺の裸を見て、勃つのだろうか。
ぱちん、とつけたばかりのテレビが消された。
彼がバスタオルを腰に巻き付けただけの姿で立っていた。髪からはぽたぽたと雫が垂れている。
彼がバスルームに入ってから三分くらいしか経っていない。恐るべき早業だ。
これがいつもの入浴タイムなのだろうか。それとも俺が待っているから急いだのだろうか。
彼がじっと俺を見ている。
部屋の空気が密度を増したような気がする。うまく、呼吸ができない。
彼の裸の上半身は、美しい。びっしりと筋肉がついた、機能的な身体。きっちり胸筋が浮き上がり、腹だって割れている。サッカーで作り上げられた身体だ。運痴でひょろひょろした俺とは全然違う。
すごく、セクシーだ。
あの腕に、抱かれたい。触ってみたい。それからあの唇に。
唐突に彼が、動いた。
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