白く光を弾く校庭に小さな陰を落として動き回っている部活の運動部員の姿を視線で追っていた夏生は急に肌寒さを覚え、フェンスぎわの木陰から日差しの下に出た。
				閑散とした校舎の窓が鋭く日差しを弾いて目を射る。
				何故‥‥
				顔を背けるように校門に向かいながら、夏生は自問する。
				今日――バイトは休みだった。
				その暇つぶしだったら、何も母校にくることはなかった。
				戻りたい‥‥のだろうか‥‥
				自分の気持ちが、わからなかった。
				わからないまま、いつか通い慣れた通学路を歩いていた夏生は、前方を過った長身の人影に視線を奪われる。
				ルーズ・シルエットの地味な上下を着込んだその長身は見違えようもなかった。
				脚を早めた夏生が半ば駆けるように追いついたのは駐車場の前だった。
				「壱岐さん――」
				声に長身が振り返る。
				「君、か――」
				知的に整った冷たい顔を微かに歪めて、苦笑を含む、壱岐はだがそれ以上何も言おうとはしなかった。夏生は張りつめた表情でその顔を見上げる。
				「送って――もらえますか――」
				気後れを振り捨てるように、一歩を踏み出した。
				見上げてくる顔に、つかの間、穴を穿つように視線を据えた、壱岐が背を向けた。
				「来いよ――」
				はじめて壱岐に誘われた日に乗ったダークグレーのRV、今またその助手席に納まって、緊張を解くように夏生が小さく笑った。
				「逆――ですね――」
				「ん――?」
				「あの時と――」
				ちらりとミラーの中で一瞥した壱岐は何も言わずに車を出した。
				乾いた沈黙を乗せて市街を抜けた、車が高速に入る。待っていたように夏生が口を開いた。
				「今は中野にいます――壱岐さんも知っている、あのマンションです――」
				壱岐は応えなかった。片手で煙草を取り出して銜え、火をつける。
				「送って――くれますよね――」
				壱岐の吐き出す紫煙を目で追う、夏生の声には挑むような響きがあった。
				それを、どう思ったにせよ壱岐は何も言わなかった。夏生は無感動な横顔を眺める。
				「全然――驚かないんですね――」
				くわえ煙草で気怠げにハンドルを操作する壱岐から視線を外す。路面が眩しい。
				「何を――聞かれたい――」
				夏生は、わずかに身を強ばらせた。
				「岩間さんから――聞きましたか――」
				「いや――聞いたのは相良さんからだ――」
				「父さん?!――どうして――」
				「箱入息子の家出だ――会ったのは偶然だが、聞かれたのは家庭教師だったからだろうな」
				「父さんが――」
				夏生は、日頃ほとんど口もきかなかった父、修一郎の無表情な顔を思い浮べた。数日前にかけた電話には母親の麻子が出た。平日の昼間だったから修一郎が出るとは期待していなかったが、それでも裏切られたような喪失感を味わったことは確かだ。父には、自分より仕事が大切なのだ、と――
				その父がこの壱岐に、どんな顔をして、何を聞いたのか――知りたい、気がした。壱岐は何も言おうとはしない、聞けば、言うだろうか――
				「それは――いつ――」
				「もう四日、帰っていない――外泊するほど親しい相手を知らない――こうなって、どれ程、何もわかっていなかったか、思い知ったよ――」
				壱岐は修一郎が口にしたであろう言葉を、ずらずらと並べ立てた。
				「で――連絡は取ったのか」
				あの父が――壱岐に慨嘆した。探さないで欲しいと、わずか三行の葉書を出したのはその後だ。
				ああ‥‥
				不意に思い浮べた修一郎の姿に呼び覚まされた罪悪感に、夏生はうつむいた。
				「父さん――他に何か――」
				「存在を否定された父親は、子供にどう、接すればいいのか――」
				それきり会話は絶えた。
				白っぽくうねるような空の下に陽光を弾いてビルが林立する。車窓に入りきらない高層の壁面をぼんやり視線で追いながら、やがて、夏生は微かに吐息した。自分が、両親の思いを裏切ったことは確かなのだ――それでも、何事もなかったように以前の生活に戻ることはできない。どうしたらいい‥‥
				とりとめもなく、思いを巡らせていた夏生は、ふと、顔を上げる。
				「でも――それで、どうして岩間さんの――ところにいたって――」
				夏生は思い出したように聞く。
				「あれは、ああ見えて、けっこう面倒見のいい奴だ――他にアテがあるとも思えなかったしな」
				何もかも見透かしているような壱岐に、唇を噛む、夏生の内に腹立たしさがこみ上げる。
				「で、壱岐さんは、人のこと置き去りにして――どこに‥‥行っていたんですか――」
				「海だ――」
				「海?――泳ぐんですか?――」
				「夏になればな――海ぐらい行く――」
				「いつから‥‥」
				「ガキの頃からな――」
				「でも――プールには‥‥なぜ――」
				思わず壱岐を見る、視線が壱岐の暗い双眸とかち合った。
				「奴は――そんなことまで話したのか――」
				苦々と、唇を歪める、壱岐が荒い動作でウインカーのレバーを弾いた。
				夏生は逃れるように視線を泳がせる。居心地の悪い沈黙を乗せ、車は高速を降り、市街に入っていった。
				窓外に町並みが流れる。
				やがて、車はなめらかに止まる。夏生はもうすっかり見慣れたマンションの外壁をぼんやりと見上げた。車を下りようとはしなかった。
				もっと――何か話したいことがあったのではないか――
				「何故――」
				「下りろよ――」
				その声の、切って捨てるような冷淡さに顔を歪めた、夏生はそれでも動こうとはしなかった。
				「寄って――いきませんか‥‥コーヒーぐらい入れます――」
				すがるような視線を向ける。
				「いや――けっこうだ――」
				突然干上がった喉を湿そうと唾を呑み込む。
				「して――欲しいんだ――壱岐さん‥‥」
				冷淡な視線は揺らぎもしなかった。
				「あの――ソファで――」
				言ってしまって、夏生は自分の言葉に驚く。考えもしなかったなりゆきに、だが、夏生の股間が熱く疼いた。いや、それとも秘かに思い続けて――期待し続けていたのか――
				「覚えているでしょ――手足を縛られて――あそこに、入れられて――あれを――」
				浮かされたように、言葉が口を滑る。
				初めて、壱岐の双眸が翳った。
				「いいだろう――」
				ギヤを入れ、車を歩道に乗り上げた壱岐がシートベルトを外した。
					
					
					
				重厚ではあったが、古びたマンションだった。空気までが別物のように、午後の熱気を締め出して冷ややかに澱む。その薄暗い廊下に、無言で従う壱岐の存在を背に痛いほどに感じる、エレベーターを待つ間ももどかしく階段を上がった、夏生の足が急き立つ。岩間の部屋は二階、廊下のつきあたりだった。
				気が変ることを怖れるように、先に壱岐を中に通した夏生がドアを閉め、ロックをかける。そして、向き直ろうとした、その股間に、背後に立っていた壱岐の腕が、差し込まれた。
				ズボンの上からそれを握り込まれて、夏生が上擦った声を上げる。
				「待って――壱岐さん――」
				だが、壱岐はさらに指に力を加え、揉みしだいた。
				「ああ――」
				突き刺すような快感に膝から力が抜ける。夏生はドアにすがっていた。
				股間を割った壱岐の腕にまたがったかたちで突出した尻を、その手の動きに合わせて振りはじめるのに時間はかからなかった。
				布地ごしの刺激のもどかしさに、駆られるようにせわしく、尻を振りたてる。
				せまい玄関の薄闇のなかで、ドアに頬を貼りつけるようにもたれかかり、淫らに腰をくねらせる不様さは、夏生の頭にはなかった。ただ、急激にうねり上がる官能の、どこか鈍い物足りなさに焦れ、悶えた。
				もっと‥‥
				何かが欲しかった。鋭く、灼き貫くような、何か――
				その動きが――止まった。
				「くうッ――ッ――」
				全身を張りつめさせて、うねり上がるその感覚を噛み締める。ドクリと、熱くあふれだしたものがズボンを濡らしていく。夏生の体から力が抜けた。
				股間から壱岐の手が引き抜かれる。
				あっけなくいかされ、ずるずるとドアの前にへたりこむ、夏生の背を壱岐の足音が離れていった。
				やがて、夏生はのろのろと立ち上がり後を追った。リビングにはだが、壱岐の姿がなかった。視線をめぐらせたキッチンに、壱岐は立っていた。白い窓ガラスを背に逆光の中で顔が暗い。口の辺りに赤く光がともり、紫煙が漂い昇る。
				「ズボン――下ろせよ――」
				言われるままにベルトを外しごわつく布を引き下ろす、剥き出され鎌首をもたげるものに夏生はうつむいた。そこに、壱岐の視線を感じる、それだけでたった今、果てたものが熱く疼きだす。どうして‥‥
				壱岐に、見られている――それだけでこうも、感じてしまうのか――
				「壱岐さん‥‥」
				レンジの上でケトルが微かな音を立てはじめていた。沸くのを待っているかのように、壱岐は動こうとはしない。
				足元にズボンを脱ぎ捨て、夏生は歩み寄った。シャツのボタンを外し、胸元を開く。
				「ここで、するつもりか?――」
				低い声が、薄く嗤いを含む。
				「待てなくさせたのは、壱岐さんだ‥‥」
				責める言葉とは裏腹に、見上げる目元は無意識の媚びにぬれと光る。
				ゆらりとガス台を離れた壱岐は、物憂げにその胸元に両手を差し入れた。
				冷ややかな手が、ゆっくりと肌をさすっていく――夏生は熱い息をすすり込んだ。
				手は圧し転がすように左右の乳首をすり回し‥‥かすめ過ぎる指に挾み、捻り上げる。鋭敏に尖り立つ乳首を、摘み切るように玩ばれ、鋭痛が頭の芯に突き抜ける。――背をしなわせる夏生の股間がいきり立ち頭を振った。早く――
				はやく‥‥いかせて、欲しい‥‥
				「壱岐さん‥‥」
				すがるように、夏生の両手が壱岐の肩をつかんだ。
				「して‥‥あれを‥‥ペニスを‥‥して‥‥」
				しかし、壱岐の手は執拗に、胸に吸い着いたように離れようとはしなかった。
				「どうした――奴は、して――くれないのか――」
				「彼は‥‥たまにしか、来ない‥‥こんなふうには‥‥しない‥‥」
				乳首をなぶられるだけなのに、それでも夏生のものは潤んだ先端から白濁を滴らせて、さそうように淫らにヒクついた。
				「いかせて‥‥」
				そこに、壱岐の手を感じたかった。思いっきり、扱き上げて欲しかった。思わず腰が引けるほどにきつく、揉みしだかれたい‥‥
				「壱岐‥‥さん‥‥」
				「ソファに、いけよ――」
				壱岐はだが、意地悪く押し離す。夏生は恨めしげに、視線を上げた。
				「待て‥‥ない‥‥」
				「好きにするんだな――」
				「何故‥‥」
				自ら握りしめ膝を落とした夏生が半ば咽ぶように問いかける。
				「いつでも‥‥そうだ‥‥焦らすだけ焦らして‥‥」
				「それが、いいんじゃないのか――」
				くわえ煙草でくぐもった声が突放す。壱岐は沸騰しはじめた音を背に、戸棚からカップとインスタント・コーヒーを取り出した。
				自分でいれたコーヒーを手に離れていく壱岐を、追う余裕は夏生にはなかった。
				キッチンの床にうずくまったまま、歯をくいしばるように自分の手で始末した、
				夏生がリビングにいくとソファでくつろいでいた壱岐が挑発するように唇を歪め、聞いた。
				「まだ――縛られたいか?――」
				‥‥たい、と、うなずくことはできなかった。壱岐なら、きっと焦らせるだけ焦らしぬくだろう、そのことへの怖じ気が喉を塞ぐ。夏生は、絶句した。
				恨めしげに押し黙る、夏生の応えを、壱岐は待とうとはしなかった。
				吸いさしの煙草を灰皿でもみ消し、ソファを立った。
				「あ‥‥」
				夏生の目のうちを狼狽がかすめる。
				かまわず帰りかける壱岐に、思わずその腕をつかんでいた。
				「してほしい――か?――」
				嘲るように細められた双眸を見上げる、夏生は、諦めたように、小さくうなずいた。
					
				あれ以来――
				――というのは、中野のマンションに住み着いてしまった夏生が男と二度目の夜を共にした――そのときを最後に、ということだが、
				岩間は、父親の形見だというあの遊具もソファも、二度と夏生に使おうとはしなかった。
				もっとも、あれからまだ二週間と経ってはいない。その間、男が来たのは一度でしかなかったが、そのとき、穏やかな、それでいて濃密な愛撫を加えられながら、ふと夏生の口をついて出た思い――
				いいんですか‥‥あれを‥‥
				使わなくても――と、かすかな期待さえがその声にはこもっていた。
				それには、ただ抱かれるのとは違う、異様な陶酔感があった。
				何かが、腐れ落ちていく‥‥怖れながらも抗しがたい、体の芯が爛れるほどの蠱惑を感じさせるそれに、惹かれていないといえば嘘だった。
				それは、毒――だと、夏生は思う。被虐という、麻薬のようなその毒を、意図せぬままに求める夏生の耳に、男はだが、
				癖になったら、困るんじゃないのか――
				例によって、冗談とも本気ともつかない語調で、熱い息を吹き込んだ。
				岩間さんは‥‥やさしい‥‥
				今――
				全裸でソファにはりつけられ、うねりあがる甘い疼きに腰を悶えさせながら、夏生は啜り泣く。淫らなまでに開かされ、曝け出された股間を、手は執拗に責め嬲っていた。
				壱岐は容赦がなかった。
				息苦しいほどの圧迫感が体腔を塞いでいる。壱岐が夏生のなかに入れたものはあのとき岩間が使ったものよりさらに一回り大きかった。身動ぐたびに押し広げられたそこに、刺すような痛みが走る。体の奥深く埋め込まれたそれが、激しくくねり振動しながら抉るように突き上げる、脳天まで貫かれるような重い衝撃に、切れ切れの悲鳴を上げ、夏生は全身を捩っていた。
				苦しい――
				吐息が喉につまる。快感――などというものではなかった。ただ、この苦痛から逃れたかった。
				それでも――だった。
				その、内臓を捏ね回されるようなバイブレーターの刺激は、だがそれでも確実に夏生を追い上げ――夏生のものは、いつか下腹を打つほどに堅く反り返ってヒクヒクと頭を振り、壱岐の手を誘っていた。
				「まったく――好きだな――」
				そろりと撫で上げ、そのくびれに指を絡めた壱岐が薄く嗤った。やわやわと揉みまさぐる指に、全身を瘧のように震わせて喘ぐ、夏生は、不意にそれをきつく扱き上げられ、上擦った悲鳴をはなった。握り込まれた双球をすり揉まれ、喉を震わせ仰反った。
				間断ない刺激は胸にもあった。小さな隆起を銜え込み揉み砕くローターに、膨れあがった疼痛が脈打つ。
				気が、狂いそうだった。
				いきたいッ――
				だが、疼きあがる奔流は露出した先端の割れ目から挿入された細い棒に塞き止められ、熱い痺れになってそこにわだかまる。
				鋭痛さえともなって夏生を打ちすえる、それは腰がとろけそうな灼熱感だった。
				無理な姿態に括られた四肢は張りつめ、小刻みな痙攣に震える。
				それが、どれくらい続いたか――もう、夏生にはわからなかった。
				いかせて――と、哀願する声はすでに嗄れていた。
				昼すぎに戻ったマンションの部屋に、夕闇が澱みはじめていた。
				ふと気づく、かすむ視界にとらえた壱岐の顔がいつのまにか夏生の上から離れ、冷笑を含んで見下ろしていた。
				不様に開かされた股間をねっとりとした視線でなめ上げる、壱岐の手のものを夏生はぼんやりと眺めた。
				「壱岐‥‥さん‥‥」
				それは夏生のよく知っている何か――何だったろう‥‥
				「俺だ――ああ。来いよ――中野だ――」
				醒めた壱岐の声が耳朶を打ち、夏生はようやくそれが携帯電話機だと思い出す。でも、誰と?‥‥
				「お前の坊やが、欲しがって泣いている――聞くか?――」
				口の前にさしだされたそれに、夏生は一瞬、息を呑む。
				「い‥‥いやだ‥‥やめて‥‥」
				『君か――何で奴がそこに――』
				岩間の声が驚愕に急き込む、それを断ち切って嗚咽が迸しった。
				「ヒ――ィあ〜〜〜〜〜〜〜ッ」
				壱岐の手が股間を捻り上げていた。
				「ひ――いや‥‥来ないで‥‥はうっ――だめ‥‥だ――」
				たまらなかった。泣きながら、それでも夏生はけんめいに声を絞る。見られたくない。岩間に、こんなふうに壱岐になぶられている自分を見られたくなかった。だが、
				「残念――切れている――」
				壱岐が、嗤った。
				「ひ‥‥どい‥‥何で‥‥」
				「奴に見られれば――もっと、感じる――違うか?――」
				「いや‥だ‥もう‥‥やめて‥‥お願い‥‥いかせて‥‥」
				「奴が来たら、いかせてやる――待つんだな――」
				つかの間、夏生は狂ったように身を悶えさせた。
				長くは続かなかった。荒い息に胸を喘がせ、ぐったりとソファにもたれ込んだ。
				あとは、ただ、壱岐の手に踊らされるままに、腰をくねらせる‥‥
				そして、岩間が来た。
				玄関ドアの開閉に続いた重い足音がリビングの入口で止まる。真正面に立つ男に、夏生は竦んだ視線を向けた。
				無表情な男の、いつになく唇を引き結んだ顔が、その内心を語っている。
				罪悪感がその頭を押さえ付けたように、夏生は、顔を伏せた。
				壱岐は、ソファの後ろに立っていた。背もたれごしに頭上にのしかかる壱岐の両手は股間のものを支え上げるように弄んでいる。さえぎるものもなく、男の前に欲望が曝け出されていた。
				何かが通い合った――と思った相手だった。つかのまでも、互いに満たし合った、その男のマンションに壱岐を引き込んだ――
				男が、あえて使おうとはしなかった遊具に身をまかせ、爛れた快感を貪ろうとしている――男のやさしさに対する、それは、裏切りだった。その疚しさに首を垂れた夏生の下腹は、だが壱岐の言葉のままに、さらに熱く、脈打っていた。
				壱岐の手に凌辱されることを秘かに喜ぶ自分がいる。それを、知られた――その、羞恥――それさえもが、夏生を、そそるのだった。
				男は無言だった。淫靡に澱んだ空気を押し切るように大股に歩み寄った男が夏生の前に立つ。
				羞恥に灼かれ疼きあがる分身に、たまらず夏生は咽び上げる。
				「もう‥‥たまらない‥‥いかせて‥‥」
				涙声で哀願する夏生を一瞥した、男は一歩を踏み出した。鋭く振りかぶった拳を叩きつける。空を裂く音が聞こえそうな一撃に、夏生の喉が鳴った。頭の横をかすめたそれはソファの後ろに抜ける。
				「ここで――やりあう気か――」
				素早く身を引いて拳をかわした壱岐が、嘲ら笑うように呟いた。
				「いい加減に、しろッ――」
				奥歯に軋るような声で男が吐き捨てる。
				「それを――俺に言うか?――」
				ゆっくりとソファの背をまわって前に出た壱岐は男を見ようともせずに、苦笑する。
				「それより、その坊や――なんとかしてやれよ――」
				これ見よがしに右手の匂いをかいだ。
				「克美ッ――」
				男の怒声を背に、リビングを出ていく。
				「岩間‥‥さん‥‥」
				追おうとして、男は声に振り返る。すがるように見上げてくる顔に、男の肩から力が抜けた。
				洗面室から聞こえていた水音が止み、玄関ドアの音が虚ろに響いた。
				いった‥‥
				岩間に、手足のストラップを外してもらいながら、ぼんやり思う。
				「立てよ――」
				荒々しく引き起こされた、夏生の脚が力なく震える。のめるように膝を突き、床にうずくまった。
				「岩‥‥間、さん‥‥」
				あきらめたように岩間が片膝を突き、背後から被いかぶさった。両手を、震える腰を抱えるように股間に差し込む。
				すぐに、夏生の口から啜り泣くような喘ぎが洩れはじめ、
				吐息が、甘く切なげに弾む。
				男の手は直截だった。手管も技巧もなく、夏生を追い上げる。
				熱くうねりあがる昂ぶりが上りつめる瞬間、前を塞いでいたものが引き抜かれた。
				呻きとともに、おびたたしい白濁を迸しらせて、夏生は、果てた。
				そのまま床に倒れこんだ夏生は、股間からズルリと引き出されていくものに、不意に、体の中を風が吹き抜けるような空虚感に襲われる。
				男は夏生の体を責めなぶっていた玩具をつぎつぎと足元の箱に放り込み、ソファに取り付けられていたストラップを引き剥がすように外した。
				それも箱に叩き込むと、蓋をして抱え上げる。
				無言のまま、男は出ていった。
				床に横たわったまま虚空に漂うように、夏生はその気配を聞いていた。
					
				いつのまに眠ったのか。リビングは闇に包まれていた。その闇に、うつうつと目を開いていた夏生はふと、視線をめぐらせる。
				仄明るい‥‥
				ベランダの窓だった。カーテンが街灯の光を吸って闇に仄かな矩形を形づくっている。夜になっていた。男は戻って来てはいなかった。
				のろのろと体を起こした夏生は全身にまつわりつく鈍い痛みを噛み締める。あたりには異臭がたちこめている。
				拭かなくては‥‥
				ぼんやりと思い、腰を上げた夏生はだが、浴室にはいかなかった。
				体腔を埋めていた異物が引き抜かれたとき体内の力もそこから流れ出してしまったようだった。もつれるような足取りで寝室にいき、寝台に倒れ込んでいた。
				また、眠ったらしい。気が付くと傍らに腰をかけた男の気配があった。片膝をベッドの上に立て頭板に背をもたせているらしい。闇に仄白くシャツが浮いている。
				戻ってきて‥‥くれた‥‥
				不意にこみあげてきたものに鼻の奥がツンと痛んだ。
				「岩間‥‥さん‥‥」
				両手をついて横座りに上体を起こす。
				「何か――食いに、いくか――」
				冷淡とも聞こえる声だった。だからだったか、一瞬の寒さが肌を走り抜ける。
				昼から何も食べていなかった、その空腹感で目覚めた夏生だったが、それを忘れた。
				「怒って‥‥ますよね‥‥」
				思わず、おもねるように言ってしまって、唇を噛む。
				「仕方が――あるまい――」
				男の声は低く沈み、夏生を脅かす。
				「何が‥‥ですか‥‥」
				見えない表情をうかがうように闇の中に目を凝らした。
				岩間が怒ることが、か――それとも、このなりゆき自体が、なのか――
				男は、答えなかった。
				息をつめるように待つ夏生の上に、沈黙が重くのしかかる。
				「逢ったのは‥‥偶然だった‥‥学校が見たくなって‥‥帰りに‥‥」
				くぐもった声が小さくかすれる。
				男は相づちさえうたなかった。声が途切れれば、夜が澱むばかりだった。
				「誘うつもりなんて‥‥なかった‥‥して欲しいと‥‥思ってた、わけじゃない‥‥
				どうして‥‥」
				ふくれあがる不安に追い立てられるように、言葉を継ぐ。男の手応えのなさが感情を昂ぶらせるのか、夏生はベッドのうえに丸く蹲り、嗚咽を噛み殺した。
				「もう‥‥どうしたらいいか‥‥わからない‥‥」
				抱かれたかった。締めつけるような男の腕を感じたい、その体温で全身を包まれたい。男の腕の中に、全てを委ねて忘れてしまいたかった。だが――
				「戻れよ――」
				重く、吐息するように、男は言った。
				一瞬、何を言われたか、わからなかった。次いで、その言葉が意識に落ちたとき、全身で音を立てて血がうねった。
				もう‥‥ここには、いるなと‥‥いうことなのか‥‥
				頭の芯が熱く、凍りつく。
				どこへ‥‥戻れというのか――
				「打算と、良識に生きる――それなりのメリットがある。疎外感がない。安心していられる。多少息がつまろうとな――」
				男が、低く嗤った。
				「それがいやなら――行き着くところまで、行くしか、ない――」
				「岩間‥‥さん‥‥」
				「俺には――できなかったがな――」
				ゆらりと薄い影が立ちあがった。寝室を出ていく微かな足音は、だが夏生の耳に聞こえてはいなかった。岩間に突きつけられた現実に凍りついていた、夏生が我に返り、声を絞る。
				「違う――」
				遅かった。応えるように玄関ドアが閉ざされた。喪然と、夏生はその音を聞いた。
				やがて、
				夏生の口から細く、笑声が紡ぎだされる。「違うんだよ‥‥岩間さん‥‥」
				笑声は、
				闇の中に、咽ぶように消えていった。
					
				・
					
				あと数日で、八月が終わろうとしていた。日中は相変わらずの暑さだったが、日が沈むと昼の熱気はない。夜が更ければ、風は肌寒さを覚えるほどだった。
				幹線道路沿いのバーガーショップでバイトしている夏生は、岩間のマンションまで三十分ほどの道を歩いて帰る。遅番の勤務明けは深夜近い。人影もなくなった街路を急ぐ、夏生のパーカーの裾がはためいた。一昨日、古着屋で買ったものだ。それで、岩間から借りた三万はおおかた使い果したが、今日は初めての給料日だった。借りを返してもまだ七万近く残る。
				もっとも、弾むような足取りはそのせいばかりでもなかった。
				微かな期待が、胸に疼いていた。今夜あたり、来るのではないか‥‥
				マンションのある街路に出た夏生の脚は、半ば駆けていた。
				暗い壁面に、いくつかの窓が点々と光る。その一つが二階の端の部屋だと見定めた夏生は、だが逆に立ち止まった。
				来てる‥‥
				浮き立つようだった気分が急激に萎えていく。戻れと言われていながら、かってに居据わっている自分に、岩間がどう思うか――
				怖れに――足が竦んでいた。
					
				重く感じられるドアを押して中に入った夏生を、明るいリビングが迎える。
				岩間は片方の肘掛を枕にソファに横になっていた。長々と伸ばした足をもう片方の肘掛の上で組み、腕で目を被っている。
				眠っている?‥‥
				リビングの入口に突っ立ち、夏生は気配をうかがった。
				「まだ――いたんだな――」
				不意に、岩間が、茫洋と表情のない顔を向けた。
				胸の奥で、鼓動が跳ねる。
				「気のすむまで、居ていいと言った‥‥出ていく前に、どうしても、会いたかった‥‥言いたいことが‥‥あった‥‥」
				夏生の声がかすれた。
				「俺に?――」
				わずかに眉をひそめる男に、挫けそうになる自分を奮い立たせて、夏生は前に出た。
				「岩間さんに――これで‥‥終わりに、したくないんだ――」
				一瞬、押し黙った、男がソファに起き直った。笑いもしない、驚きも見せない、男はただ、物憂げな視線を向ける。
				「俺は、ひょっとして、口説かれているわけか――」
				正面切って聞く男に、夏生は唇を噛む。
				「迷惑は、かけません。時々、逢ってくれるだけでいい――」
				「何故。俺なんだ――」
				「どう生きようと打算ってあるでしょ――オレって、打算的な人間なんです。それじゃ、いけませんか?――」
				居直った言葉は、本音でありながら、嘘だった。急に泣きたい気持ちになって夏生は顔を歪めた。
				「やりたくなった――」
				微かに吐息し、両手で顔を拭った男が言った。
				「来いよ――」
				その場にパーカーを脱ぎ落とし、夏生はその一歩を――踏み出した。